青い星のライン

幸せと寂しさの関係

1
 急性腸炎をやってから、ママは食べ物に触ることにものすごく神経質になった。こう言ってはママに悪いけど、実のところママってお世辞にも几帳面とは言いがたい人なのよ。外ではけっこうきちんとした印象を持たれることが多いんだけど、本当は、部屋の中は散らかしっぱなしだし、家事一切大の苦手なんだ。そんなママが、食べ物と食事をする場所にだけ、極端に気をつけるようになったんだ。その結果かどうかは分からないけど、ママの体調はとりあえず安定していたわ。私には、ママの身体がどうなっているのか見当もつかなかったけど、ママにはちゃんと分かってるみたいだった。  「元気な状態には戻れないけど、なるだけ今より悪くならないようにしないとね。」 と言っては、相変わらずときどき病院へ行って血を採られたり注射をうたれたりしていた。でもそのこと意外は特別トラブルもないようで、毎日きちんと仕事にも行ったし、短い旅行をしたりもしていたわ。

 秋はあっという間に過ぎた。クリスマスには教会の皆と、街の大通りで歌を歌った。1998年が終わって、宮崎へ来て2度目のお正月がやってきた。
 前の年と同じように、ママの家族は皆で杯を持って「あけましておめでとう」と挨拶し合っていたわ。私のためには、今度はお刺身じゃなくて、特別にボイルした魚を用意してくれた。これはとっても美味しかったわ。
 その年も、はるちゃんは元旦から仕事に出かけた。ほんとにたいへんだ。でも、はるちゃんのお正月出勤はこれが最後になったのよ。だって、3月にはお店を止めてお嫁さんになることになったんだもの。
 はるちゃんにとっては、すごく嬉しいことだったと思うわ。でもママたち家族には、ちょっとさびしかったはず。結婚したら、はるちゃんは、佐賀県の伊万里というところで暮らすことになってたから。はるちゃんの旦那さんになる人が、一足先に伊万里で暮らし初めていた。宮崎から転勤になったんだ。伊万里は、宮崎と同じ九州にあるけれど、ちょっとたずねて行ったり帰ってきたり気軽にできるような距離ではなかった。高速道路を何時間も何時間も走らなくちゃいけないんだからね。でもそんなこと、結婚を心待ちにしているはるちゃんには、大した問題ではなかったんだと思うわ。部屋を片付けたり、荷物をまとめたりしてその日を待っているはるちゃんは、本当に楽しそうだった。

2
 3月最後の土曜日、おじいちゃん、おばあちゃん、はるちゃん、そしてママと私、家族全員そろって花の祭典「フラワーフェスタ」を見に行ったの。皆で過ごす最後の記念にと、きれいなお花に囲まれてたくさん写真を撮ったわ。皆そろってのお出かけなんて、ずいぶん久しぶりだったんじゃないかな?私が来てからは初めてだったわ。
 そして、ついにその日になった。

 朝からトラックが来て、はるちゃんの荷物を次から次へと運び出し始めたの。皆忙しそうに動き回っている。その日は誰も私にかまってなんかいられないみたいだった。
 ついに寝室の大きなベッドが運び出された。以前はおじいちゃんとおばあちゃんのものだったって聞いたことあるけど、はるちゃんにあげることにしたみたい。
 いきなりガラ〜ンとしてしまった部屋を見ていると、私はだんだん怖くなってきた。胸の中にわけの分からない不安が広がって、心臓がドキドキする。
 (いったい何が起きているのかしら?)
 じっとしていられなくなって、ママのところへ擦り寄っていった。
 「大丈夫だよ。いい子ね。」
ママはしばらく頭を撫でていてくれたけど、やがてまた私一人を広々とした寝室に残して向こうへ行ってしまった。
 (本当に何も起きないかな?怖い!)
 どうにか落ち着こうとしても、胸のドキドキが止まらない。
 (そうだ!ここにあったハウスがないからいけないんだわ。)
 実は、つい昨夜まで、実家に帰ってくるとママはさっき運び出されたあのベッドを使っていたんだ。私はその横にバスマットを敷いてもらって休んでたの。そのバスマットが、この家では私の「ハウス」だったのよ。それが今は、引越し作業の邪魔になるので片付けられていた。見回しても、そのあたりにはおいてないみたいだった。
 (じゃぁ、何か代わりになるものを探さなくちゃ!)
 私はそっと寝室を出て、しばらく家の中をうろうろした。そしてお風呂の前で「ハウス」と似たようなマットを見つけたのでそれを咥えて寝室に戻った。
 マットを広げてその上にうずくまると、ふんわりとした感触に少し気持ちが楽になって、いつの間にかうとうとしてしまった。

3
 いよいよはるちゃんが出発するときがきた。おばあちゃんはそのときになって初めて私のことを思い出したみたいだった。
 「あら、ノエちゃん。それお風呂のマット?」
 (しまった!お風呂のマットなんか勝手に持ち出したから叱られるわ。)
 私が床に伏せたままじっと見上げると、おばあちゃんは笑った顔で言った。
 「ごめんねぇ。黙ってノエちゃんのハウスを片付けたから困ったんだね。自分で代わりを見つけたとね?すごいねぇ。さ、お姉ちゃんを見送りにいこ。」

 荷物を積んだトラックが先に出発。そしてはるちゃんも、自分で車を運転して佐賀へ旅立っていった。にっこり笑って、私たちに手を振って。
 「元気でやれよぉ〜っ!
」  おじいちゃんが少し潤んだ声で叫んだ。もし私が人間の言葉をしゃべれたら、きっと
 「お姉ちゃん、行かないで〜!」
って叫んだと思うわ。朝から続いた得たいの知れない不安とさびしさの訳、はるちゃんが走り去るその瞬間に分かったんだもの。今日こうしてはるちゃんが車に乗っていくのは、いつもみたいにちょっとお出かけしてくるためじゃないって。遠いところに行こうとしてるんだって。
 私はいつまでも、いつまでも車の走っていった方を見つめて立ってた。ママやおばあちゃんが
 「もうお家に入ろう」
って言っても動かなかった。遠くに、街を走る車の音が聞こえる。その音の流れの中に、はるちゃんの車の音を探した。坂道を上がってくるあのエンジンの音、ぜったい聞き間違えることはなかった私。その音が、今はもう聞こえない。
 諦めて家のほうに歩き出すと、おじいちゃんが言った。
 「ノエルにも、お姉ちゃんが遠くに行くのが分かったとか?おりこうやから、かえってさびしい思いするなぁ。」


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