心配事

1
 私は順調に仕事をしていた。みんなからも
 「このごろ落ち着きが出てきたよねぇ。これなら充分盲導犬らしいよ。」
なんて言われて、誉められてるんだか、からかわれてるんだか分からない。
 学校の雰囲気も、ほんの少しずつだけど変わってきてるみたいだった。動物好きの一部の先生がママの診方になっていた.
 「ここの学校厳しすぎるよ。盲学校なのに職員室にも入れないなんておかしいよ。」
って、まるで自分のことみたいにプンプンしている。
 その人は家庭科の先生だった。
 「昼休みには家庭科室にノエルちゃんも連れておいでよ。」
そこでママは、私をそっと連れ出したの。始めは何だか悪いことを見つからないようにしてるみたいなこそこそ歩きで家庭科室まで行ったの。
 「わぁ珍しい子が来てるねぇ!」
通りかかった他の先生も入ってきて一緒に遊んでいった。
 そのうちに、ママも堂々と歩いて家庭科室へ行くようになった。私は家庭科の先生が大好きになって、お部屋に入るとすぐに足元にひっくり返る癖がついてしまった。
 毎日が平和で、今までよりもず〜っと楽しく思えるようになってきたわ。

2
 そんな穏やかな毎日の中で、ふとママのことが気になるときがあったの。なんだか1年前に比べて疲れ易くなったみたい。5月以来お昼休みに散歩をすることは無くなっていた。
 確かにママは出会ったころから、それほど頑丈にはできてないのかな?と思うことはあった。どこかが悪いというよりは、元気が続かないんだ。勢い良く歩き出しても、私がまだ物足りないくらいしか歩いてないうちからぐったりしてしまうんだ。それが、このごろ前よりさらにひどくなったような気がした。
 それから、ママはときどき病院へ行った。その日特別具合が悪いってわけでもなさそうなのに、なぜしょっちゅう病院に行くのか私には分からなかった。行く度に針で血を吸い取られていたわ。ただ、私ちょっと楽しみにしてたんだ、ママの担当のドクターに会うのをね。
 診察室に入っていくと、先生は満面の笑顔で迎えてくれる。
 「は〜いノエルちゃん、いらっしゃい。」
 嬉しさに尻尾をビュンビュン振ると、先生も喜んで私を撫で回した。
 「ノー」
ママがすぐに叱って私を静かにさせようとするんだけど、先生は笑った顔のままで言うのよ、
 「ノエルのお母さん怖いねぇ。あんまり厳しくするんだったら仕事しないよって言ってやりな。」
 それから先生は真面目な顔になって書類を覗き込むの。そして、ふ〜っとか、う〜んとか言いながら少し考えて、ママのほうに向き直るんだ。
 「少し数値が悪くなってるね。ご飯は食べられてる?貧血もけっこうきついから、注射始めるか?」
 ママは右肩に注射をしてもらって、ひどく痛そうな顔をして病院を出た。病院に来る度に注射二つなんて、考えただけでぞっとするわね。
 「あ〜あ、どうなるのかな、私…」
 私に聞かせるつもりか、それとも独り言か、ママは歩きながらつぶやいた。
 (ママ、元気出して。)
ママの沈んだ気分がハーネスから伝染して、私も心が重くなった。なんとかしてママに元気をあげたい。でもどうしたらいいか、犬の私に分かるわけないし、それどころかママがどんな病気に苦しんでいるのかさえ知らないんだ。ただただ得たいの知れない不安が私の中で膨れ上がっていくようで、私は歩きながらママの脚を鼻でつっついたり、横断歩道ではぴったりとママに体をくっつけていたりした。

3
 それでもママは元気だった。私に見せたような弱弱しい表情を他の人の前で見せることはなかった。だから私もだんだん心配な気持ちを忘れていったの。ほんとに私って何でもすぐに忘れちゃうんだよ。
 ついにママは、学校の廊下を私と堂々と歩くようになった。小学生が遊んでいる大きな部屋へ行ってみたこともあった。犬が怖いと泣いていた勇君も、いつの間にか私と仲良しになったわ。
 「ノエちゃんのお行儀いいのを見たら、もう誰も文句言わないはずだよ。」
と自信たっぷりなママ。でもさすがにまだ私を授業に連れていくことはなかったね。

  そんなある日、、たいへんなことが起きて、私はまたしても不安の海の中へ投げ込まれたの。
 夕食をすませて、パソコンで誰かにメールを書いていたママが突然
 「お腹痛いなぁ」
って言い出したの。それでもしばらくはあんまり気にしないでキーをたたき続けていたけど、そのうちに椅子から降りて床に寝転んだ。
 「ノエちゃん、お腹痛いよ〜。」
 私は走り寄ってママの隣に座った。それ以上何もできないから、手をペロペロしてあげてみた。
 「うんうん、ありがと。」
 力のない声で言うと、ママは私の飲み水を汲んでハウスの前に置いてくれてから、自分はベッドに入ってしまった。
 「ごめんね。今日は遊べないよ。お水おいておくからね。おやすみ。」
 お水なんか飲みたくなかった。1秒でもママの傍を離れたら大変なことが起きるような気がして、私はベッドの脇に座って、ぐったりしたママを見ていたの。
 1時間ほどそうしていたかしら?ママは何も言わない。
 (眠っているのかな?気を失ってたらどうしよう?!)
恐ろしくなって、立ち上がってベッドに顎を乗せて様子をうかがった。起こさないように、そ〜っと顔を近づけてみる。ママの呼吸を感じてほっとする。
 (そうだわ。ずっとこうしていよう。こうやって見ていてあげよう。)
 しばらくそうしていると、ママがふいにこちらを向いた。
 「あ、ノエちゃん?いつからそうしててくれたの?」
 驚いたママの顔。ちょっと嬉しかった。

4

 結局ママはお腹の痛みに耐え切れなくなっておばあちゃんに電話をしたの。おばあちゃんが車でやってきて、私に洋服を着せてくれた。そしてママを真夜中に病院へ連れていったのよ。
 ママの病気、急性腸炎だったの。
 「腎臓の病気を持っているから、抵抗力がないですね。他の人と同じものを食べても、あなただけお腹痛くなったりするんですね。それから疲れてますね。病気があると知らずに無理してしまうんですよ。」
 人間のドクターが何を言ってるのか私にはさっぱり分からない。でも、これはどうやら、あまり良いことではなさそう
 (やっぱりママは病気持ちだったんだな。)
 実のところ、ママは他のみんなと違う臭いを持っている。もちろんその臭いは人間には分からないよ。でも私は、その臭いをすぐに憶えたし、ママがどこにいてもその臭いを頼りに簡単に探し出すことができた。そう、あれは病気の人の臭いだったんだ!

翌日ママは仕事を休んだ。熱も出て苦しそうだった。ご飯も食べず、眠ってばかりいる。
 「ノエル、ワンツー行くよ。」
おじいちゃんが庭から呼んでいる。私はママの傍からしぶしぶ離れて外に出た。おじいちゃんは車椅子のブレーキに私のリードをひっかけて動き出した。
 「ほら、ここでしなさい。」
 リードをブレーキからはずして手に握るけど、車椅子は大きすぎて、周りをうまく走れなかった。困って座り込むと、おばあちゃんが出てきて手を貸してくれた。
 慣れない人にワンツーさせられるのっていやだけど、ぐずぐずしてはいられない。早いとこワンツーをすませてママのところに戻らなくちゃ!
 スピーディーにワンツーができたので、おばあちゃんが「よしよし」と誉めてくれて、玄関で足を拭いてくれた。四つの足のうち三つふいたところでもう我慢できなくなっちゃった。
 私は勢い良く床を蹴って家の中へ走りこむと、閉まっているガラスしょうじのほんのちょっとした隙間に鼻を突っ込んでこじ開けた。
 (ママ!ママ!大丈夫?さびしかったでしょう?!)
 「大丈夫だよ。そんなに急がなくてもいいのに。」
 ママは少し笑ってから私を抱き寄せて
 「心配してくれてるんだよね?ごめんね。」
と言った。
 ママは三日かかってようやく仕事に行けるようになった。前とちっとも変わらない、明るく元気なママが、生徒たちと楽しそうに笑っていた。でも、私の心から「心配な気持ち」が消えることは無くなった。いくら忘れん坊の私でも、あんな苦しそうなママを見たら忘れることできないよ。
 (もう病気にならないで。私いい子にしてるからさ。)
 ハーネスを握ったママの足を鼻でつっついた。


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