犬1匹が騒ぎの元

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 デパートの洋服売り場を歩いていたら、いきなり目の前に犬が現れた。びっくりして後ろに飛びのいたら、店員さんに笑われてしまった。
 「ここに大きな鏡があるんですけど、それに自分が写ってるんですよ。」
それを聞くとママも笑い出して
 「何やってんのよ。自分の姿見てびっくりするなんて、間抜けじゃん!」
って言った。  ショックだわ!私がこんな犬の姿してるだなんて。私、犬ってなんだか苦手なのよね。ずうずうしく私の臭いを嗅ぎにきたり、しつこくまとわりついたり、ひどいのになると私の耳に噛み付いてそのままぶら下がったりするんだから!そんなやつらと私が同じだなんて、赦せないわ。ときにはね、たとえば盲導犬のルビーちゃんみたいに、私が仲良くできる犬もいるの。ルビーちゃんとだったら私一つのハウスで並んで眠れるくらいなんだ。でもそんな犬はめったにいるものじゃない。ルビーちゃんと兄弟のベルちゃんとも会ったことがあるけど、私はぜんぜんだめだった。私と性格が似てるからきっと仲良くなれるとママが思ったファニーちゃんとも、まるでうまくいかなかったの。私にもうまく説明できないんだけど、犬の直感っていうのかな?この子とならうまくいく、この子はだめって、会った瞬間に分かっちゃうものなのよ
 ママたち盲導犬使用者が何人も集まって集団行動をすることがある。これは私にとってはものすごく辛い。それぞれのペアが縦に並んで歩くんだけど、私は、前にも犬、後ろにも犬でひどく緊張しちゃう。だからそっと群れから外れて歩こうとすると、
 「ノー!迷子になっちゃうでしょ。ちゃんと皆についていきなさい。」
って、ママに叱られる。しぶしぶ列に戻ると、後から追いついてきた犬がお尻をクンクンしたりする。もちろん仕事中の盲導犬がこんなことしてはいけないんだけど、皆好奇心に負けちゃうんだね。私がびっくりして座り込むと、またママに叱られる。
 盲導犬ではない、普通のお家の犬になるともっとたいへんよ。ちろん、中にはものすごくお行儀のいい子もいて、そういう子たちは私のことなんか見もしないで静かにお散歩してるけど、ほとんどの犬はそんな風じゃないものね。道路脇の家の垣根越に身を乗り出して、すごい顔して牙をむき出してガウガウ唸っている。お散歩中の犬たちは主人を引きずり倒しそうな勢いでリードを引っ張って私のほうへ寄ってこようとする。そんなとき、盲導犬だったら本当は完全に無視をしてペースをくずさずに通り過ぎればいいんだけど、私にはとてもできない。向こうから犬が来るのが見えたら、まずはどんな相手か近づいてみる。こういうの、怖いもの見たさって言うのかな?自分から近づいてみても、いざすぐそこまでの距離になるとたちまち怖くなって、足早に通り過ぎる。それでも相手がついてくるようなときには、いよいよ足がすくんで動けなくなってしまうの。
 ある日、リリーちゃんっていうゴールデン・レトリーバーに会ったの。飼い主のおばさんとお散歩していたリリーちゃんは、私を見つけるとやっぱり引き綱をグイグイ引っ張って私に近づいてきた。私は反射的にママの後ろに隠れようとしたけど、リリーちゃんはしっかりついてきて、私のお尻をクンクンやり出したの。私は何とかリリーちゃんから逃げようとしたわ。おばさんもそれを見ていたけど、リリーちゃんの「ご挨拶」を止めさせようとしなかったんだ。それでママが言ったの。
 「この子、犬が苦手なんです。それに今仕事中だし、リリーちゃんをそちらに呼んでいただけませんか?」
 「あら、リリーなら大丈夫よ。乱暴なことはしないし、犬どうし挨拶させてあげましょうよ。盲導犬ってこういうことがあっても平気なように訓練されてるんでしょう?」
 ママは唖然として次の言葉が出なかった。
 確かに私たちは他の犬に対して興奮したり、向かっていったりはしないわ。歩いていて他の犬から吼えかかられても無視してそっと通り過ぎるように教えられてもいる。でもね、いくら訓練をされていても、好き嫌いまではコントロールできないよ。盲導犬っていっても、いろんな個性がある。犬なんてちっとも怖くない子もいるし、犬を見たら一緒になって遊びたがる子もいる。私のような犬嫌いもいる。訓練されてるから、おとなしいからって、私の怖いもの、嫌いなものをわざわざ近づけないでいただきたいわ。

2
 それでも、今までお話してきたのは皆繋がれていたり、飼い主と一緒に歩いてたりする犬たちだからまだいい。一番困るのは放し飼いの犬だわ。放し飼いではなくても、飼い主が紐をつけずに勝手に歩かせているのもいるね。飼い主さんたちは、うちの子に限って、悪戯をしたり迷惑かけたりするはずがないって思ってるのかも知れないけど、とんでもないわ。それに、犬を勝手に一人歩きさせること自体、日本の法律では違反行為なんだから。

 それはママと私が一緒に歩き出してそろそろ1年になろうとする、ある夏の夕方のことだったわ。
 私たちはおじいちゃんの家に行くことになっていたの。アパートからは、バスで街の中心まで出て、それから別なバスに乗り換えて行けばいいんだけど、まだ時間も早かったから、街までは歩いていくことにしたの。
 スムーズに歩けば20分くらいで行ける距離だった。ただ、途中にとても大きな横断歩道があることだけが、ママはちょっと心配だったの。
 「でも大丈夫だよね。私一人じゃ、ぜったい迷子になるけど、ノエちゃんは間違えずにこのまえも歩けたもんね。頼むよ!」
 (はいはい。任せてくだされ!)
 私は元気良くハーネスを引いて歩き始めたわ。
 いい調子でバス通りを進んで、すぐに問題の横断歩道に出た。5差路になってて、まっすぐに行けば目的の繁華街に出る。わずかに左へ入る形でもう一本、わりと大きな道があって、これは宮崎駅の方向へ延びている。その手前にもう一本、ぐっと左へ入り込む細い道があった。
 横断歩道の音響信号機が「ピヨ、ピヨ」と泣き出したら直進方向が青だ。
 「ストレート(まっすぐに)」
 ママが言ったので、私は渡り始めた。
 突然左後ろに「キャン!キャン!」と声がして、一番手前の細い道から小型の犬が走り出してきた。
 犬はたちまち近づいてきて、私の周りをグルグル走り回ったの。
 (どうしよう!?)
 こんなちっぽけな相手を怖がるなんて、しょうもない意気地なしって言われるかも知れないけど、私本気で怖かったの。前にもこういう犬に追いかけられて、耳を噛まれたんだもの。生きた心地もしなくて、仕事のこともすっかり忘れて、パニックに陥ってしまった。
 「大丈夫だから。ゴー、ストレート!」
ママが大きな声で私を仕事に戻らせようとしたけど、もう、どうする こともできなかった。私は犬に追いかけられて、あっちへこっちへと逃げ惑った。ママはハーネスを握ったまま私の動きについてくるよりしかたがない。
 「ポンちゃ〜ん!だめよ〜。こっちへおいで〜!」
 道の向こうで女の人の声がした。でもこちらへ来る様子はない。どうやらお家の入り口あたりで犬を呼んでいるみたいなんだ。
 ついにママが怒りを爆発させてしまった。
 「いいかげんにしなさい!あっち行け!!」
 そう叫んで犬をグイと捕まえ、お尻を一発ベシッとひっぱたいて、女の人の声のした方向へ力任せに押しやった。それから私にも
 「あんなちっちゃい犬くらいでびびるんじゃないよ!さっさと行くよ。」
と不機嫌な調子で言うと、再び「ストレート」と言って歩き出した。
 大嫌いな犬に付きまとわれた挙句に、ママにまで叱られて、私はしょんぼりとしていたわ。顔をうなだれて、歩道をとぼとぼと進んだ。
3
 例の5差路から繁華街までは、やく10分で行けるはずだった。
 「おかしいなぁ。」
ママが立ち止まって時計を見た。15分過ぎている。でもぜんぜん繁華街に出る気配がなかったの。どうやら道を間違えてるみたいだった。犬に驚いてグルグル走り回ったとき、私の動きにつられてママが方向を見失ったんだ。頭の中の地図と、実際に歩いている道がずれてしまったんだね。あの事件から3年後に、私たちは引越しをした。新しい家は偶然にも、例の5さ路のすぐ近くにある。だから今なら、たとえ横断歩道の真ん中でグルグル回ったとしても軌道修正ができるほど、ママは慣れてしまっている。でも当時は、まったくハプニングがない状態でさえ、そこをきちんと渡りきれる自信がないくらいだったんだもの、バス通りと駅への通りの違いさえ、視力にほとんど頼らないママには分からなかったんだ。さらに悪いことには、いつの間にかどこかで道を曲がっていたらしい。今来た道をどれだけ戻っても、もとの横断歩道にたどりつけなかった。<BR>  次第に辺りが暗くなっていく。ママのあせりが私に伝わってきて、私の体も小刻みに震えた。人通りも少なく、なかなか道を尋ねることもできない。ひたすら歩き回る私たち。悪いことは重なるもので、形態電話の電池もなくなっていた。
 どこをどう歩いたのか、気がつくとアーケードに出た。それがどこのアーケードなのか、どちらの方角に歩いているのか、まったく分からない。高校生みたいな男の子たちがたむろしているところがあった。何かいやな雰囲気。ささっと通り過ぎた。
 ようやく怖くなさそうなおばさん二人組を見つけたので道を尋ねると、
 「大きな通りまでは、もうちょっと歩かないといけないねぇ。でもここをまっすぐ行けば出られるよ。」
と教えてくれた。
 「良かったね。やっと道が分かったよ。」
 さらに20分ほど歩いて、ようやくおじいちゃんの家のほうへ向かうバスの止まる停留所にたどり着いた。

 「ただいま〜」
 ドアを開けると、おじいちゃんとおばあちゃんが飛び出してきた。
 「どうした?さっき、おまわりさんに捜索願いを出したっちゃが(出したんだよ)」
 「ええ?そんなおおげさな!」
と言いながらも、ママは時計を見てびっくり。もう8時になろうとしていたんだもの。アパートを出てから3時間も過ぎていた。3時間のうち2時間半はさまよってたことになる。たった1匹の、ちっこい犬のおかげで、なんということかしら!二度とこんな目には合いたくないわ。パニックしちゃった私も悪いけどね。


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