恐怖の動物園 1
4月になった。南国の春は本当にあったかい。ぽかぽか陽気に、私の身体も自然に夏への準備を始める。冬の間全身を暖めるためにびっしりと生えていた綿毛が、どんどん抜けていく。それはママにとっても初めての経験だった。ブラシをかけるたびゴソッと取れる毛に驚いて 「こんなに抜けて、ノエちゃんよくはげないねぇ!」 なんて言っている。1回のブラッシングで、人間の頭ほどもある毛の塊ができる。 「もう、きりがないよ。や〜めたっ!」 そう言ってブラシを置くけれど、私の綿毛はどんどん抜け続けて、すぐに家中が毛まみれになった。 人間の世界では、春って特別な季節らしい。別れと出会いがたくさん巡ってくるんだ。 ママの学校はすごく小さいから、3月に卒業生を送り出すと本当に寂しくなってしまうの。なにしろ残りの生徒が30人くらいしかいなくなっちゃうんだからね やがて春休みになると、生徒たちのまったくいない学校で新年度への準備が始まる。 3月31日に何人かの先生が転勤していったと思ったら、翌日には同じくらいの数の先生が新しくやってきた。そこでまた私は注目の的になるのよ。 それぞれの先生に新年度の担任学級や、受け持つ仕事が発表されると、まるで民族大移動みたいに、皆があちらこちらへ動き回る。同じ学校にいながら、まったく別な場所に来ちゃったみたいなあわただしさだわ。 ママも点字印刷室っていうお部屋の担当になって、テープライブラリーを離れることになったの、もちろん私も一緒にね。同じ校舎の、同じ並びのお部屋だから大したことはないんだけどね。 それでも、お部屋の中の雰囲気はかなり違ってた。大きな机や棚、何だかごっつい機械類が置いてある。 ママは窓際の机の足元にマットを敷いて私のハウスを作った。なかなか居心地がいい。 2
1週間ほどすると、生徒たちが戻ってきて、翌日には新入生がやってきた。ようやく学校ににぎやかさが戻った。4月からは、ママのいるお部屋でも授業が行われることがあった。 私はママと学校に来るようになってからずっと、朝と帰りと昼休み以外はお部屋でステイをしていたから、ママが授業をしてるのを見たことがなかったの。だから、いきなりママが生徒に向かって分けの分からないことを言い出したときはびっくりしたわ。ママって、英語の先生だったんだ。何を教えているかなんて、それまで考えたこともなかったよ。 「そう!グッド!」 生徒が上手に質問に答えると、ママが嬉しそうに言った。 (ええ?なんでなの?なんで私以外の子に、そんな嬉しそうにグッドなんて言うのよ!) 私の心の中で、やきもちの虫が騒ぎ出した。ママに注目されたり、誉められたりするのはこの私だけだって信じてたのに! 私は伏せた姿勢のままでハウスから這い出して、少しずつママの足元に寄っていった。 (ママ、私にもグッドって言ってよ。頭なでなでしてよ。) しゃべり続けているママの足を前足でひっかいて、顔を見上げる。生徒が気づいて笑い出した。 「や〜、ノエルちゃん、やきもちや〜!」 「いい子にしてて。終わったら遊ぼうね。」 私のほうを見もしないで、そう言うとママは授業をやり続けた。 (つまんないっ) しぶしぶハウスに戻って横たわる。だんだん眠くなって、眼がとろ〜んとしてきた。 「今の何ですか〜・おもしろ〜い!」 生徒の声にはっとして目を覚ますと、彼女はまたまたこっちを見て笑いころげている。どうやら私、おもいっきり寝言を言ったらしかった。ああ、恥ずかしい! 3
新入生もだいぶ学校に慣れてきたころ、皆で動物園へ遠足に出かけることになったの。学校から3.5キロほどの道を、小学生から大人まで一緒に並んで歩いていく。 「AMI先生とノエルちゃん、こっちへ来て一緒に歩きませんか?」 女の子たちが呼んだ。実は、私たちだけ皆と反対側を歩いてたんだ。 アイメイト協会では、盲導犬は道路の左端に寄って歩くように教えられている。これは法律でも認められてることなんだ。場所によってどちらでもハーネスを持ち替えて歩くように教えている訓練所もあるらしいんだけど、私はそういう風には教わってないから、人専用の歩道がないところでは皆と反対側を歩いていくしかない。 事情を説明してそのまま進んでいくと、やがて歩道のある道に出たので、そこからは列に加わって、楽しくおしゃべりをしながら行った。 30分、40分と歩くと、さすがの散歩好きな私もちょっと飽きてきた。 (いったいどこまで歩くんだろう?) うんざりしてちょっと歩調が落ちてきた。 と、突然行列が止まった。そこが動物園の門の前だったんだ。 皆は小さい子から順に動物園の中へ入った。ママも担当のクラスの生徒と一緒に列に並んで進んでいったわ。 「ちょっと…」 門をくぐったところで呼び止められた。 「すみませんが、動物がびっくりすると危険ですので、盲導犬は中央の広場以外にはつれていかないでくださいね。」 「…?」 ママは何を言ったらいいか分からない感じで、結局そのまま中に入った。どちらにせよ最初に皆の集合場所になってるのは中央広場だったからね。 それにしてもおかしな話だわ。この遠足の前の年、つまり私がママのパートナーになる少し前なんだけど、ママは、とある雑誌の特集記事で「盲導犬と一緒に利用できる娯楽施設」というリストを見ていたんだ。その中に、今私たちが訪れている動物園の名前があったんだよ。だからママも何の不安もなく私を連れてやってきたのよ。中央広場だけでも盲導犬と入れたら「一緒に利用できる」っていうことになるのかしら?動物園で、動物のコーナーに行けなくても? 確かに動物の中には、犬を見てすごく興奮するものもいるには違いないし、そういう理由で危険だと言われたら、盲導犬使用者はそれ以上どうすることもできないよね。でもね、跡で調べて分かったことなんだけど、全国には盲導犬と一緒に園内を回れる動物園がたくさんあるんだ。興奮し易い動物には、その動物のお部屋の構造を工夫したりして、危険なことが起きないようにしてくださってるんだと思うわ。これを知って以来ママは宮崎の動物園もできるだけ盲導犬と回れるように少しずつ改善してくださいって要望してきたの。でも、あれから7年、状況はまるで変わっていない。 「それにワンちゃんだっていろんな動物のところを歩くのはいやだと思いますよ。」 って、園の人は言うの。そりゃぁ私だって犬だし、初めて見る動物に出会ったら少しぐらいそわそわするかも知れないわ。だけどそんなこと、広場でじっとステイさせられる苦痛に比べたら何でもないわ。私についての判断は、動物園の人に言われなくても、ママが一番できるはずだわ。 4 広場で新入生を歓迎する出し物が行われる間、私はママの横でじっと伏せていたの。どこからか 「あお〜ん。あお〜ん。」 って何かの鳴き声が聞こえてきたけど、私はときどき耳を膨らませてみるだけで、あとは動かずにいた。 お弁当の時間も私はそのまま動かずにいたの。そしていよいよ皆が自由に園内で遊ぶ時間になった。 「先生、ちっちゃい動物を抱っこできるコーナー見にいこうよ。」 女の子たちがママを誘った。 「行ってきてくださいよ。ノエルはここで見ててあげるから。」 2,3人の先生たちが口々に言ったのでママも 「じゃぁちょっとだけ行ってこようかな」 って立ち上がってしまった。いよいよ私は一人でステイだ。ついにそのときが来ちゃったんだ! ママが行ってしまって3分もすると私は心細くなってきた。 「あお〜ん。あお〜ん。」 あの変な鳴き声が一段と近くに聴こえる。何だか知らない動物の匂いも漂ってきて、私はブルブル振るえ出した。 「ノエルちゃん。大丈夫だよ〜。お母さんすぐに戻ってくるからねぇ。」 K先生が頭を撫でてくれた。でも私には、その声もほとんど耳に入っていなかった。 「おおおお〜ん!」 変な鳴き声の動物に負けないように、私も声を出してみた。一度叫んだら止まらない。先生たちにどんなになだめられても、静かにしなさいと言われても止めなかった。 「困りましたねぇ。AMI先生、早く戻ってくるといいのに。もうすぐ1時間ですよ!」 K先生が、もうたくさんって感じで言った。 そのとき生徒たちとおしゃべりしながらこちらへ歩いてくるママの姿が見えた。思わず立ち上がってピョンピョン跳ねた。ステイと命令されたら最後まで伏せて待っていないとママに叱られる。でも今日の私には、そんなことどうだって良かったの。とにかくママが戻ってきてさえくれれば、どなられようがお尻をパチンされようがかまわないって思った。それくらいママに会いたかったんだもの。不安で不安でたまらなかったんだもの! 「ただいま〜」 ママが目の前にやってくるなり、私はおもいっきり体当たりしてママに抱きついてた。 (も〜お!遅いじゃない。どうしてこんなに長く一人にしたのよ!どうしてこんな怖いところにおいてったのよ!) ママに会えて嬉しい気持ちと、ママを攻めたい気持ちとが、どっと胸に突き上げてきて、私は何度も何度もママに飛びついた。 「たいへんだったんですよ〜。もう、鳴いて鳴いて、止まらないんですから。」 先生たちが代わる代わる報告した。 「分かった分かった。悪かったよ、ごめん。怖かったんだね。うん、うん。」 私の飛びつく力に、後ろへ倒れそうになりながらママが言った。「ステイができなくて悪い子だ!」とは言わなかった。 帰る時間になった。私たちはまた列になって、来たときと同じ道を、学校に向かって歩き出した。私はママをぐいぐい引っ張って歩いたの。動物園っていう、嫌な場所から一国も早く離れるために。 次へ 「ノエルの足跡」のトップへ トップページへ |