工事現場の難関


1
 それは2月初めのこと。私はちょうどそのころお腹の具合が最悪だったし、ママは寒さが苦手なので、私たちはあまり出歩くこともなく、できるだけお家に閉じこもって過ごしてたの。とは言っても、ママはお仕事があるのだから、結局毎日外に出ないわけにはいかないんだけどね。
 私たちが住んでいたアパートからバス停に行くには、とても複雑な形の横断歩道を渡って国道に出なければならなかったの。
その朝、いつものように横断歩道まで行ってみると、いきなり工事中の柵が作られていた。柵はかなりでっかくて、横断歩道中央の島のようになった部分のほとんどを占領している。この島状の歩道は、横断歩道の途中からいろんな方向に渡れる分岐点みたいなもので、私たちはそこを北へ向かって直進するんだけど、工事の柵があんまり大きいから、私はすっかり困ってしまったの。いったいどこを通れば先へ進めるのかさっぱり分からない。ぐるぐる回っているうちに、ママも完全に方向を見失ってしまったらしく、もうすっかり私に頼りきってたわ。
 グルグル歩いているうちに、島から左へ渡れる道が見つかった。
 (よし、ここを渡ってお家に戻ってみよう。)
 それしか私には考えられなかった。すっかりパニックしてたんだもの。それでママを連れてアパートに帰ってきたんだけど、ママはまだ自分がどこにいるか分からないみたいだった。私はアパートの1階でやっている病院の看板に顔を寄せて「ほら」とママに見せた。
 「あら?ここお家?」
 「そう、お家だよ。」
って、私は尻尾で応えたわ。
 「そうか、そうか。難しかったもんね。よくお家に帰ること思いついたね。」
 ママが機嫌を悪くするんじゃないかと心配だったけど、それどころか、私の判断の良さを誉めてくれたわ。だって、これでようやく、ママも自分の居場所がはっきりしたんだものね。
 「じゃぁ、もう一度歩いてみようね。今度はきっと分かるよ。ノエちゃん偉いもんね。」
 私もそう言われたら俄然がんばる機になってきた。
 (任しといて!今度はうまくやるから。)
 再びアパートの前から横断歩道へ歩いていく。横断歩道の手前側の角で、小学生の登校の立ち番をしている女の人が、にっこり微笑みながらこちらを見ていた。

2

 任しといて!なんて張り切ってやってきたものの、いざ島のところへ出てみると、やっぱり分からない。まさか、もうお家に帰るわけにはいかないわね。一度なら誉められても、あんなこと2度もやるのはただの間抜けだわ。
 (でも、どうしよう?)
 キョロキョロと辺りを見回してみた。ときどきこのへんに立っているお巡りさん、こんなときに限っていないんだからしょうがない。
 (ママごめん。やっぱり私にはわかんないよ。)
 私は地面に座り込んで「ごめんなさい」のポーズをしてみせた。ママがしてほしいと思うことをきちんとできないのは、私にはとっても辛いことだわ。私の生きがいはママを喜ばせること、ママに誉められることなんだから。
 突然道端で座り込んで「ごめんなさい」を始めた私を、ママはしばらく困って見下ろしていた。
 「誰もいないのかしらねぇ?工事してんのにお巡りさんもいないなんて、ひどいよ。ノエルがこんなにがんばってるのにさ。」
 ママも座り込んで、私の背中に腕を回して言った。
 「ごめんなさいなんてしなくていいんだよ。ノエちゃんがんばってるもの。さぁ、体を起こしてごらん。前を見て、ゆっくりさがしてごらん。ノエちゃんならきっとできるよ!」
 道路を走っていく車の音に負けないように、ママは声に力を込めて私に話し掛けている。命令語じゃないから、私にはよく意味は分からなかった。でも、ママが一生懸命私を励ましてくれてることは感じられたわ。思わずシャキッと背中を伸ばして座りなおす。顔を上げたとたん、頭の中がパッ!と明るくなったような気がした。ゆっくりと工事の柵の向こうに目をやると、今までどう頑張っても見つけられなかった道が見えた。
 (分かった!行けるよ、ママ。)
 私はそれを知らせるためにパッとたち上がって、ちょっと体を揺すってみせた。
 「行ける?」
 ママも急いでハーネスを握る。
 「OK。ゴー」
 声と動じに私は勢いよく歩き出した。顔を上げて、柵の横の狭い隙間を抜けて、北方向へ渡っていった。
 「すごい!やったじゃない!」
 国道の歩道に上がると、ママが感激の声を上げた。
 (そうよ。だから任しといてって言ったでしょ?)
 私は得意げに尻尾を振って見せる。ほんと言うとさっきまで頭の中パニックしてたんだけどさ、終わりが良ければそれでいいのよね。
 ちらと今渡ってきた工事現場のほうを振り返ると、さっきにっこり笑いかけてくれた立ち番の女の人と目が合った。とても優しい顔だった。

3

 それから1ヶ月ほど過ぎたある日、朝学校に着くと、ママの同僚のK先生が
 「これ、ノエルちゃんのことだと思うんだけど…」
と言って、新聞記事のコピーを渡してくれた。それは、地元紙の投書欄に寄せられた、Oさんという主婦の方からのお便りだった。
 「その朝私は子供たちの集団登校の立ち番をしていました。ふと横断歩道に目を遣ると、盲導犬を連れた女性が歩いていました。」
 K先生が文章を読んでくれる。聞いているママの顔が驚きの表情に変わっていった。
 Oさんのお便りの内容はだいたい次のようなものだった。
 --注意深く、周りの安全を確かめながら、盲導犬は主人を誘導していく。ところが、その日から突然張り巡らされた工事現場の囲いに、犬はすっかり困惑してしまい、右往左往している。ついに突破口を見つけることができず、犬はうなだれて地面に伏せてしまった
主人である女性も、しばらくは困っていたが、やがて思い直したように犬を座らせ、その耳元に何か話し掛けた。すると、今までうなだれていた盲導犬が、急にしゃきっと顔を上げて胸をはり、少しの迷いも見せずに歩き始めたのだ。自信に満ちた歩みだった。--
 私にも、なぜあのとき急に道が開けたのか分からない。ママのかけてくれた言葉の意味だって、私には半分も理解できなかった。ただ、ママが勇気づけてくれてることだけは、痛いくらいに伝わってきたんだ。そして顔を上げた瞬間に、急にひらめいたんだわ。  --私は心の中で「どんな困難も二人で力を合わせて乗り越えていってね」と、その後ろ姿にエールを送ったのでした。--
 Oさんのお便りはそんな風に結ばれていた。そう、あのとき横断歩道を渡り終えて、チラと振り返った私に、向こう側の歩道に立ってにっこり微笑みかけてくれた女の人。彼女がOさんだったんだわ。
 盲導犬として毎日人間社会の中で働いていると、本当にいろいろな人がいることが見えてくる。中には、こちらがなんにも迷惑かけてないのに、私が「犬」だからというだけで嫌な顔をする人もいる。でもそれよりずっとずっと多くの人が理解を示してくれるし、Oさんみたいに心で応援しながら温かく見守ってくれてる人もいるんだよね。
 「嬉しいね。なんだか、幸せな気持ちになるね。」
 ママが言った。ママの気持ちが私にも伝わってきて、心が、外を吹き始めた春風みたいにほんわりとなった。

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