賢い不服従

写真: ハーネスをつけて座っているノエル
1

 学校での毎日は、相変わらずつまらないものだったわ。どうせ学校に行っても、到着したとたんに男子更衣室直行で、延々とステイをさせられるんだから、バス停から学校へ向かう私の足取りは重くなる。
 それでも4時間目が終わると、私は決まってソワソワし始めた。生徒たちが更衣室の前の廊下を通ってランチルームへ給食を食べにいく。放送部の生徒が
 「お昼の放送を始めます。」
と言うと、スピーカーから楽しい音楽が流れてくる。私がソワソワしてたのは、別に音楽が好きだったからじゃないのよ。もちろん給食の時間なんて私には関係ないし。私が朝から待っていたのは、給食の後の昼休みなの。
 お昼の音楽が終わって、生徒たちがペチャクチャしゃべりながら廊下を教室へ帰っていくと、やがてママがやってくる。
 「いい子で待ってたね。さぁ行こう。」
って、ハーネスをつけて更衣室から連れ出してくれるんだ。ずっとステイばかりしている私が運動不足にならないように、いろんな経験ができるようにって、ママは昼休みはいつも私と歩いてくれた。「ポスト」って言葉を教えられて私が塀に飛び乗った事件も、この昼休みの散歩中の出来事だったんだ。
 お散歩コースは、始めは運動場や中庭だけだった。でもすぐにそれでは面白くなくなったので、学校の周囲をグルッと1周することにしたの。1周すると丁度1キロ位になる。15分もかからずに歩いてこられたわ。
 あるときは、学校の隣にある寄宿舎(家の遠い生徒はそこから学校へ来てるのよ)の前で寄宿舎指導員の先生に出会ってママとおしゃべりが始まったこともあった。あるときは、ちょっと横道に入ってみたら、牛を飼ってる家があったの。びっくりしたわ。牛なんて、都会育ちの私、見たことなかったもの。私が近づいたら、牛さんが大きな声で「も〜〜お」と鳴いたから、私夢中で向きを換えて逃げ出しちゃった。
 昼休みが終わると、またまたつまらないステイの時間が続く。次に私が待ちわびるのは、5時のチャイムだったわ。学校のチャイムの他に、隣町の役場のチャイムも鳴るから、私にもそれが5時だってことが分かる。
 「帰ろう!」
ママが入ってくると、私はもうじっとしていられない。はしゃぎ過ぎだって叱られても、どうしても我慢できなくて、尻尾を力いっぱい振って、ママをグイグイ引っ張って外へ出ていった。
 「なんか、この犬は盲導犬らしくないよねぇ」
 なんて失礼なことを言う先生がいた。盲導犬らしいって、いったいどういうのを言うのかな?
 「まだ仕事初めて1ヶ月そこそこですからねぇ。」
ママが答えていた。半年、1年と過ぎれば私が落ち着いて堂々とした盲導犬になるって、ママは本気で信じていたみたい。でもあいにく私はそんな風にはならなかった。今でも嬉しいときは感情が押さえきれなくてうひょうひょ状態になっちゃうし、怖いものもいっぱいある。おまけに身体が小さいから、「堂々」には程遠い。人から盲導犬らしくないと言われても、今ではママは
 「盲導犬にもいろんな個性がありますからねぇ」
って、さらりと交わしているわ。

2

 南国宮崎にも、ついに秋がやってきた。そして10月末に、私は2歳になった。そんなある日のこと。
 待ちに待った5時のチャイムが鳴って、お仕事を終わったママが更衣室へやってきた。ハーネスを付けて、さぁ帰りましょう。
 「ちょっと遅くなったから、バスに間に合わないかもよ」
とママが言うので、けっこう急いで歩いたんだけど、結局むだだった。バス停のある国道まで5分以上かかるし、お家に帰るほうのバスは、国道を横断した側に停まるんだ。今は横断歩道ができてるんだけど、そのころは歩道橋を渡っていたのよ。
 私たちが早足で歩道橋の階段を上がって反対側へ向かっているところへバスがやってきた。下り階段を急ぐ私たちに気づいていないのか、バスはさっさと通り過ぎて行ってしまった。次のバスまでは30分もある。
 「もうちょっとで乗れたのにねぇ。」
と、ひどくがっかりしていたママが、気を取り直して言った。
 「そうだ、この先のバス停まで歩いてみようか?」
 もちろん、歩くことなら私は大賛成だ。そうしよう、そうしよう。ちょっと飛び跳ねて喜んでみせる。どうせ30分待つなら、じっとしてるより歩いたほうが楽しい。私たちは国道に沿って進み始めた。
 駅前のバス停まで来たところでママが時計を見る。まだ、ただの5分も歩いていない。すごい速足だな。ここまでは前にも来たことがあるから楽勝だったわ。
 「どうする?ここでバスを待つ?」
 ママがそうしたいなら待つけど、正直言うとわたしはちょっとこれくらい歩いただけじゃ物足りない。じっとママの顔を見る。
 「分かった、もう少し先まで歩こう。」
 どうやらわたしの気持ちが通じたらしい。再び出発。駅まではこれまでにも何度か来たことがある。でもそこから先はこれが初めてだったわ。私が盲導犬デビューして1ヶ月、ママは私との歩行にだいぶ自信がついてきたみたいだった。ときどきこんな風に、初めての道でも突然「歩いてみよう」って言うことが増えてきた。うまく歩けたときはすごく誉めてくれたし、それはママにとっても大きな喜びだったと思うわ。
 駅から先は、歩道が狭くて、二人で並んで安全に歩くのは、けっこう難しい。
「ノエちゃん、いいよ、上手だ。グッドだよ」
ママに誉められ、励まされて、なんとか切り抜ける。足元はボコボコだし、自転車が走ってきたりするし、障害物もちらほら。でもわたしは、一度もママを痛い目に合わせなかった。我ながらなかなかの出来ばえじゃないか!ママが「グッドグッド」と言うたび、私は得意になって尻尾を振った。
 歩いていくうちに、歩道が少し広くなったので、ほっと一安心。二人分の安全を確保しながら歩くのって、けっこう神経使うのよ。もちろんママのためだったら喜んでやるけどね。
 右側の車道は、ラッシュアワーで車がいっぱい。左側は少し空間があって、その向こうに畑や空き地や人の家なんかが見えた。初めての道って、緊張するけど、なんだかわくわくしちゃうんだなぁ。
 「寄って」
突然ママが言った。これは道路の左端に寄りなさいという意味。アイメイト協会では、私たちは、いつも道路の左端を歩くように訓練されている。でもときどきうっかりしてそのルールを忘れて、道路の真ん中を歩いてしまうことがある。そんなときはママが「寄って」と言ってくれるんだけど、ママは目が悪いからたまに勘違いもするのよね。つまり、本当はきちんと寄っているのに(または障害物を避けたりするために仕方なく右に寄っているのに)ママは私が不注意で真ん中に出てきちゃってると思ってこの命令を出してしまうわけ。このときも、実際はわたしはきちんと歩道の左端に寄っていたのよ。でも歩道とその向こうの畑やなんかとの間にちょっと空間があったものだから、ママはその空間も歩道の一部と思ったみたい。まぁ、その空間歩いたところで危険や不都合はないので、わたしは自分が間違ってるわけじゃないんだけどママの命令に従うことにした。
 「ずいぶん道が広くなったね。」
 自分の判断ミスにまるで気づいていないママは、不思議そうに呟きながらも「寄って」がきちんとできたと言ってわたしを誉めてくれた。なんだか変な気持ち。
3

 10分ほど歩いたところで、わたしは立ち止まった。どうしよう?目の前に、いきなり川が現れたじゃないの。ママはぜんぜん気がついてない様子。
 「どうしたの?ゴー。」
 (…)
 右斜め前に橋がある。歩道をまっすぐ歩いてくればそのまま橋を渡れたはずなんだけど、さっきママが「寄って」と言ったときに、わたしたちの進路は1メートルくらい左へずれてしまったんだ。このまま進んだら、二人とも川に落ちてしまうわ。そんな危険なことできるわけがない。第一私自身が川に入るなんてまっぴらだ。「それでもラブラドールか?」って皆に笑われるけど、私は水が大嫌いなんだ。それはともかく、この命令には従うわけにいかないわ。私たちは、主人の命令であっても、主人の身に危険が及ぶような指示には従わないように教えられているのよ。たとえば信号。前にもお話したかしら?犬の目は色の判断には向いていないから、ママが車の流れの音を聞いて渡れるかどうか判断するんだ。でもその判断だって毎回正しいとは限らない。ママが安全だと思って「ゴー」とか「ストレート」とか言っても、もし向こうから車が走ってくるのが見えたなら、私はその命令には従わない。賢い不服従っていって、私がアイメイト協会で教えられたことの中で一番難しい訓練だった。
 それにしても、川を目の前にして「ゴー」って言われたときにどうするかなんて訓練は受けたことないよ。ママったら、とんでもないことを言うなぁ。でも、こういう突然のアクシデントにもさっと頭を働かせなくちゃ、プロの盲導犬とは言えないわね。
 私は何とかしてママに危険を知らせようと、足を踏ん張ってじっとママの顔を見詰めた。ママは少し足を前に出して地面を調べている。あたりはもう暗くなっている。ママは昼間は少しだけ回りの様子が目で見えるんだけど、暗くなるとまったく何も分からないんだ。もしママがもう少し前へ行ったらたいへんだ。不安だったので、その場にぺったり座り込んだ。
 (お願い、気づいて!)
 そのとき、川の向こうから少し冷たい風が吹いてきた。その風の感触に何か感じたらしいママが
 「あれっ」
と言ってそっと右手を前へ延ばした。そして橋の欄干に触れると、小さく「あっ」と叫んで立ち尽くす。
 「ノエちゃん、ここ川?」
 (そうよ、そうなのよ!ママ、そのまま「ゴー」したら落っこちちゃうんだよ。)
 やっと通じた!ほっとして、今までぶるぶる震えるくらいふんばっていた足の力を緩める。
 「ありがとう!ありがとね、ノエちゃん偉いよ!」
 ママも地面に座り込んでわたしを抱きしめる。
 「大丈夫〜?!」
 突然声がして、通り掛かりのおばさんが飛んできた。本当に私たちが川へはまるとでも思ったらしい。
 (大丈夫よ、私がいるんだから。)
 風がますます冷たくなってきた。私たちは橋を渡って次のバス停へ急いだ。


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