出会い

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 暑さの苦手な私にとって、その夏は本当にぐったりするような毎日だったわ。
 8月も終わりに近づいて、ようやく少しだけ爽やかな風が吹き始めたので、このごろは朝のお出かけが楽しい。
 早く迎えにきてくれないかなぁ。
 そう思って、私は小さなケージの中でぐ〜んと伸びをした。
 1頭分ずつ区切られたケージが並ぶ犬舎には、50頭近い仲間たちがいて、それぞれに担当の指導員さんが来て外へ連れ出してくれるのを、今か今かと待ってるみたいだ。
 パタ、パタ、パタ。
 待ちわびた足音が近づいてく。。ぜったい間違いないわ!私の担当指導員Sさんだ。
 ケージの扉が開かれる。
嬉しくて嬉しくて、尻尾をおもいっきり振りながら飛び出した。
 Sさんに目で尋ねた。
 「ねぇ、今日はどんなお勉強をするの?どこへつれてってくれるの?」
 私がこのアイメイト協会に来たのは半年前。

 Sさんは私にすごくいろいろなことを教えてくれた。 Sさんの横にぴたっとついて歩くこと。
 座る、伏せる、じっと待っているなど、命令には素早く、正しく従うこと。

 そして、ハーネスっていうのをつけて、Sさんを安全に誘導すること。

 こんなお勉強に、いったいどんな意味があるのか、私にはまったく分からなかったわ。
 でも、意味なんてどうだっていい。Sさんに誉められることが、私の一番の喜びなんだもの。
 「グッド!ノエ、すごいぞ!」
 嬉しそうなその声の響き、頭や背中を撫でてくれる手の暖かさに、私はすっかり夢中になったわ。
 もっと誉められたい!もっと撫でてほしい!
  そればかりを考えて、私は今日まで頑張ってきたんだわ。

 Sさんは私にリード(引き紐)をつけて、アイメイト協会の廊下を歩いていく。
 私はちょっとがっかりしたわ。だって、こんなにお天気が良くて、風も爽やかなんだから、本当はお外に行きたかったんだ。
 階段を上がって、3階のミーティングルームの前へやってきた。
 いやだわ。ステイの練習かしら?
 ステイというのは、主人がいなくてもじっと動かずに待っていなさいという命令のこと。
 さびしがりの私にとって、これは一番苦手なお勉強なのよ。
 いくら後で誉めてもらえるって分かっていても、一人ぼっちで20分も30分も待たされると、ものすごく不安になっちゃう。  普段がらんとしているミーティングルームは、この練習をするには、ほんとにもってこいのお部屋なんだから。
 でも、ステイの練習ではなかった。
 びっくりしたわ。お部屋の中には、たくさんの人がいたんだもの。
 中央の二つの椅子には、それぞれ男の人と女の人が座ってて、男の人は足元に伏せた犬に、何かせっせと話し掛けてた。
 その犬を見ると、私のライバルのアリスだった。
 アリスと私は同い年で、同じSさんから訓練を受けていたの。
 アリスもやっぱりSさんに夢中だったから、私も負けないようにいつも頑張ってたんだ。
 そんなアリスが、いったい、あの知らない男の人の足元で何やってるんだろう?
 なんて考えていたら、突然理事長先生の声が聞こえた。
 「AMIさん、あなたのアイメイトの名前はノエルです。呼んでください。」

 すると、中央の椅子の女の人が
 「ノエル、カム(おいで)」
 って、私の名前を呼んだのよ。
 私はSさんといっしょに部屋の中へ進んで、AMIさんと呼ばれた女の人の足元へ行って、差し出された手の匂いを嗅いだ。
 「ノエルちゃん?よろしくね。」

 AMIさんの全身から、抑えきれない喜びが溢れ出しているみたい。
 私の頭から首、そして背中へと撫でてくれる手の動きは、犬という生き物をよく知っている人みたい。
 私もなんだか嬉しくなったので、ご挨拶代わりにAMIさんのひざに飛び上がって顔をぺろぺろしようとしたんだけど、すぐにSさんにしかられてしまった。
 しかたがないので、床にごろんとあお向けにひっくりかえって、尻尾をばたばたさせて、「私あなたが大好き!」ってことをアピールしてみせた。
 ふと、真新しい皮の匂いがした。
 いつの間に取り替えたのか、今まで訓練に使っていたのとは違う、新品のリードが私の首のカラーにつけられて、その端をAMIさんが握っている。
 私がひっくり返っているので、AMIさんも床に座り込んで撫でてくれる。
 「ノエルちゃん。待ってたんだ。ずっと待ってたのよ」
そう言うと、いきなりポロリと涙をこぼした。
 えっ?どうしたの?なぜ泣いているの?
 訳が分からなくなって、私はまた尻尾を振ってしまった。


 ミーティングルームで行われたセレモニーは「結婚式」と呼ばれているらしい。
 盲導犬としての訓練を受けた犬が、目の不自由な人とパートナーになる儀式。

 バージンロードを歩く花嫁みたいに、私はSさんに連れられてAMIさんの前に進んだ。
 そしてAMIさんがSさんのリードから、自分の新しいリードに付け替えて、私たちペアが生まれたわけね。
 っていうことも、そのときの私にはぜんぜん分からなかったんだけど。

 セレモニーが終わると、私はAMIさんにリードを握られたままで、彼女の部屋へ入った。
 そこで私とAMIさんとで、4週間の共同生活をすることになるんだけど、もちろんそんなことも、そのときの私には分かるはずなかったわ。

 廊下に足音がして、再びSさんがやってきたのは、1時間くらい経ってからだったかしら。
 私は嬉しさを抑えきれずにピョンピョン跳ねたの。でもSさんは、私には声もかけないでAMIさんに
 「はしゃぎ過ぎだから、叱ってください。」
なんて言ったのよ!がっかりしたわ。
 結局その後も私は1階の犬舎に戻されることはなかった。ワンツー(トイレ)に行くのも、ご飯を食べるのも、みんなAMIさんの指示でさせられた。
 本当に、どうして私にはときどきこんなことが起こるのかなぁ・・・
 部屋の隅のハウスにうずくまって、私は考えたわ。
 だって、あの日もそうだったんだもの。生後2ヶ月から1年間私を可愛がって育ててくれたMさんのところに、突然アイメイト協会の車がやってきたの。
 やんちゃし放題、自由気ままに暮らした今までの生活と、まるで違う毎日が始まった。

 なぜだか分からないけど、私の身の上には、こんな突然の変化が何度も起きることになってるのかも知れない。
 いったい今度はどんなことが・・・?
 考えてみたけど、そんなこと、犬の私に分かるはずないわ。
 人間が与えてくれる生活を受け入れて、楽しく暮らしていけたらそれでいいんだ。
 1日中不思議なことばかり起きたので、私はすごく疲れていた。
 「おやすみ、ノエルちゃん。」
 AMIさんがそう言って背中を撫でてくれた。



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