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ヨアヒム・パイパー
Joachim Peiper
(1915〜1976)


 率先して最前線に立ち、部下から絶大な信頼を寄せられた歴戦の指揮官。通称“ヨッヘン”
 陸軍将校の子として生まれたパイパーは、1934年、SS執行部隊〈SS−VT〉に入隊。SS士官学校を卒業後、SSが唱える理想的人物像とされ、SS長官ヒムラーの副官を務めます。
 第二次世界大戦が勃発すると、『親衛旗“アドルフ・ヒトラー”(LAH)』の中隊長として従軍し、二級・一級鉄十字章を拝受。フランス戦後、『LAH』旅団長ゼップ・ディートリヒの副官を務めます。
 1943年、第三次ハリコフ攻防戦で活躍し、騎士鉄十字章を拝受。続くクルスク会戦においても、遥かに優勢の敵部隊を相手に奮戦・撃破したパイパーは柏葉騎士鉄十字章を拝受。
 クルスク戦後、LAHはイタリアへと送られ、連合軍に降伏したイタリア軍を武装解除。この際、後の軍事法廷において、訴因のひとつとなる『ボヴェス』事件が起こります。
 1944年12月16日。アルデンヌ攻勢作戦『ヴァハト・アム・ライン(ラインの護り作戦)』において、第6SS装甲軍の先鋒である“パイパー戦闘団”は快進撃を続けますが、やがて燃料不足に陥り、パイパーは撤退を決断する事になります。
 
 この作戦中、米軍の第285野砲観測大隊の一部隊と会敵。不意を衝かれる形となった米軍側はその殆どが降伏しますが、その米軍捕虜71名(84名の説有り)が次々と銃殺される『マルメディの虐殺』事件が発生します。
 戦後の裁判で米軍側は、これは計画的虐殺であるとして、パイパーは死刑を宣告(彼は有罪を認め、軍人として銃殺を希望し了承)されますが、主席弁護人である米軍のエバレットJr.大佐は、裁判は報復の意図があるとし、パイパーを弁護。裁判の不公平さが明らかになると、減刑された後、1957年に釈放されました。パイパーはこの事件に対し、あくまでも指揮官としての立場から罪を認めましたが、彼自身が銃殺命令を出した事実は一切ありませんでした。
 その後、フランスのトラーヴに移住しますが、彼が元SSである事が知られると、連日脅迫状が送られるようになり、家族を避難させたパイパーは一人残り、フランス革命記念日の夜、自宅を襲撃したテロリストを迎え撃ち、武装SS最後の“戦死者”となりました。