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 希望を持って

「さあ、起きた起きた」
 バリトラじいさんの声です。何か見慣れないものを広げています。 ピョン吉は何だろうと思って近寄って行きました。
「これが人間の地図というものさ」
 バリトラじいさんはじっと見ていますが、 ピョン吉には何が書いてあるのかさっぱり分かりません。 クーロンも初めて見るようで、盛んに首をかしげています。
「ほれ、ここがわしらのいる所で、清里という町だ」
 バリトラじいさんはそう言って地図を押えましたが、 ピョン吉にはやっぱりどういうことなのか分かりません。
「お前さんが住んでいたのは、多分この辺りだろう」
 今度は別の場所を押えました。
「途中には山や谷があるから真っ直ぐには行けねえ。 少し遠回りになるが、こちらを通って行くしかねえだろうなあ」
 バリトラじいさんはひとりで話を進めて行きます。
「ちょっと待ってよ。ぼくには全然分からないや」
 ピョン吉はあわててバリトラじいさんの話をさえぎりました。
「そっか、分からねえか。うーん、惜しいなあ」
 バリトラじいさんは残念そうな顔をして、目をつむってじっと考え込みました。
「そうだよなあ。わしだって初めてこれを見たときは、 何が何だかさっぱり分からなかったからなあ。 地図が分かれば簡単に帰れるんだが、ちょっと無理だったか」
 ピョン吉も残念でした。 でも少しくらい勉強したところで、 地図というものが分かるようになるとは思えませんでした。 ピョン吉は大体の方角を教えてもらい、 すぐにでも出発しようと思いましたが、バリトラじいさんは反対しました。 途中にはいくつもの山や谷があって真っ直ぐには行けないし、 危険な動物も数多くいるので、 今のピョン吉の実力では無事に帰れるかどうか分からないと言うのです。
「どうだ、もうちょっとここにいないか? わしが知っている事を、色々と教えてやるから」
 地図は読めないにしても、年寄りの知恵は役に立つはずです。
「その方がいいぞ。ゆっくりしていけや」
 クーロンも、もうちょっとここに留まることを勧めました。 冷静に考えればその通りです。経験の浅いオコジョの子供が、 見知らぬ土地からひとりで帰れるはずがありません。 安全な所で修行してから出発するのが賢明です。
「うん。分かった・・・」
 ピョン吉は力無く答えました。
「そうがっかりするなって。男はな、我慢するときにゃあ我慢しなきゃあいかんのだ」
 クーロンの声は、励ましているようにも、しかり付けているようにも聞こえました。
 結局、ピョン吉はここに二週間ほど滞在することになりました。 その間にバリトラじいさんからは、人間や山麓に住む動物たちのこと、 そして帰るための道の探し方を教わり、 クーロンからは、大型の動物や猛禽類との戦い方や逃げ方を教わりました。 ピョン吉は熱心に教えを受け、日増しにたくましくなって行きました。

 予定していた二週間はあっと言う間に過ぎ、いよいよ出発の日になりました。 バリトラじいさんとしてはまだまだ教えたいことは山ほどあったのですが、 あまり出発が遅くなると、ピョン吉が帰り着く前に雪が降る可能性があります。 ピョン吉はまだ雪山を知りませんから、そうなればお母さんを見付けるどころか、 雪に埋もれて動けなくなってしまうかもしれません。
 出発の朝、バリトラじいさんはもう一度帰り道について念を押しました。 太陽を背にして進んで行き、 日が昇る方の山に見覚えがある所まで行ったら、今度は日が沈む方の山に入る。 これが基本的な方針でした。そして最後に、絶対に忘れてはいけないよ、 と言って大事なことを教えてくれました。

もし山の中を横切っている広い道に出たら、土の匂いがするか確かめる。 それが土の匂いのしない道だったら行き過ぎである。 半日戻れば大きな池、二日戻れば小さな池に出られる。

 バリトラじいさんはピョン吉の話から、ピョン吉が人間と出会った池というのは、 『白駒池』か『ミドリ池』のどちらかに違いないと判断したのです。 ピョン吉には池の名前は分かりませんが、 バリトラじいさんの言葉に従うのが最善のようです。
 ピョン吉は出発のときになって、急に寂しくなってきました。 もうバリトラじいさんやクーロンには、二度と会うことは出来ないからです。 ピョン吉は町外れまで送ってくれたふたりにお礼を言い、 思いっきり駆け出しました。 元気良く出発したピョン吉は、一度も振り返ることなくふたりの視界から消えました。 バリトラじいさんもクーロンも、 ピョン吉が無事にお母さんの元へ帰れることを信じていました。 一度も振り返らずに去って行ったピョン吉の後ろ姿に、 見違えるような成長の跡を見たからです。
 ピョン吉は息の続く限り走り続けました。 本当は振り返ってバリトラじいさんとクーロンにお礼を言いたかったのですが、 かえって辛くなると思ったのです。 そして思い切り走り続けることによって、辛さを紛らせようとしたのです。
 ピョン吉が初めて立ち止まったのは、見渡す限り続く野菜畑の中でした。 所々に人間の小屋が見えますが、他には野菜しか見えません。 ピョン吉は上空の安全を確認し、一休みしてこれからのことを考えることにしました。
 バリトラじいさんからは、 山麓の林と畑の境界付近を行くのが良いだろうと教えられました。 深い森に入ってしまっては方角が分かりにくいし、時間もかかります。 人間の道路に沿って行くのは、時間的には早いけれども危険が多過ぎす。 適当に走りやすい地形で、容易に食べ物を手に入れることが出来、 それでいて危険の少ない所が最善のコースとなるのです。
 ピョン吉が再び出発しようと思ったときです。 少し離れた前方の地面がモコモコッと盛り上がり、土の中からネズミが顔を出しました。 用心深く顔だけ出して周囲の様子をうかがっていますが、 ピョン吉には全然気が付かない様子です。 それは初めて見るネズミでしたが、 恐らくバリトラじいさんの言っていたハタネズミに違いありません。 ピョン吉は走り続けて空腹だったので、一気に飛び掛かって平らげてしまいました。 今のピョン吉にとっては、小さなハタネズミを捕まえるのは簡単なことでした。
 ハタネズミは畑の至る所にいたので、 ピョン吉は食事に関しては不自由しませんでした。 夜は林の中に入り、柔らかそうな落ち葉や枯草を集めて仮のねぐらを作ります。 最初は寂しい気もしましたが、何回か繰り返すうちに憤れてきました。

 ピョン吉がバリトラじいさんとクーロンの指導でたくましく成長したように、 チョロ吉、そしてチコとピコも、見違えるようにたくましくなっていました。 ピョン吉がいなくなってから、お母さんの教育が一層厳しくなったからです。 まだまだ一人前とは言えませんが、お母さんも少しは安心出来るようになりました。
 お母さんはピョン吉がいなくなってから、毎日何回も池に来ていました。 チョロ吉は池には行かないように言われていたのですが、 お母さんには内緒で池に来ることがありました。 チョロ吉が来られないときには、チコとピコがふたり揃って池にやって来ました。 みんなピョン吉のことが心配だったのです。
 お母さんは登山道を歩いている人間を見付けると、 気付かれないように後を付けていき、 背中から降ろされたコブの中にピョン吉がいないか確かめてみました。 時には人間に見付かってしまうこともありますが、 追いかけられることはありませんでした。 お母さんは長年の経験から、この季節にやって来る人間は、 山の動物に危害を加えないことを知っていたのです。
 オコジョには縄張りと言うものがあります。 普段は自分の縄張りの中で獲物を探し、隣の縄張りに入り込むことはありません。 下手をすると、そこに住んでいるオコジョとけんかになるからです。 でもお母さんは、もしかしたらピョン吉が紛れこんでいるのではないかと思い、 縄張りを犯すこともありました。 そんなお母さんの努力にもかかわらず、ピョン吉の行方は分かりませんでした。
 お母さんは考えました。 今までにも、全ての子供が無事に育ったことはありません。 どんなにお母さんが注意していても、 ひとりかふたりはタカやテンにさらわれてしまいました。 最もひどいときには、たったひとりしか育たなかったこともあるのです。 今年はまだチョロ吉にチコ、そしてピコが残っているので、 この子供たちは無事に育てなければなりません。
 あと二ヶ月もしないうちに、子供たちは独立して自分の縄張りを持たなければなりません。 お母さんは子供たちがひとりでも生きて行けるように、 さらに熱心な教育を続けるとともに、子供たちの縄張りに適当な場所を探しました。 でもそんなときでも、お母さんはピョン吉のことを忘れたことはありませんでした。

 ピョン吉がバリトラじいさんやクーロンと別れてから数日が過ぎました。 今まではずっと同じような野菜畑が続いていたのですが、 突然野菜畑が途切れて広い草原に出ました。 草原は果てしなく続いているようなので、迂回しても回避出来るかどうか分かりません。 ピョン吉はそのまま進むことにしましたが、空からの見通しの良いこのような地形においては、 タカやワシの襲撃に注意する必要があります。 幸い、所々に大きな木や岩が見えたので、 それらを利用しながら進んで行けば危険は無いと判断したのです。
 心地よい風を受け、柔らかい日差しを浴びながら草原を走るのは、 なかなか気持ちの良いものです。 自然の中で生まれ育ったピョン吉にとっては、人間や自動車の多い清里の町での生活よりも、 自由に走り回れる山野が向いているのです。 バリトラじいさんとクーロンに見送られて走り出したときには不安もありましたが、 今では希望の方が大きくなっていました。 絶対にお母さんに会える、そう信じながら走っていました。
 ピョン吉はただ真っ直ぐに走るのではなく、 適当な場所で曲がってジグザグに走って行きました。 万一上空からタカに見付かっても、 ジグザグに走ることによって襲われにくいということをクーロンから教わっていたのです。 もちろん走る距離は曲がった分だけ長くなりますが、そんなことは全く苦になりません。
 ピョン吉がいくら走っても、その草原は終わりそうにありませんでした。 ピョン吉は、草原がどこまで続いているのか調べようと思い、 近くにあった岩に駆け上がりました。 そして背伸びをして遠くの様子を見ようとした瞬間、いきなり足元の岩が動き出しました。 ピョン吉はあわてて飛び降りましたが、何が起こったのか見当が付きません。
「ンモオオオオオーッ」
 大きな声がしたかと思うと、その大岩は四本の足で立ち上がりました。 どうやら動物のようですが、それは見たことが無い程大きなものでした。 ピョン吉に気が付いたのか、ジロリとにらんでいます。 でもその目付きは、何故かとても穏やかなものでした。
 『牧場には牛という大きな動物がいる』
 ピョン吉はバリトラじいさんの言葉を思い出しました。 きっとこの大きな動物が、その牛と言う動物に違いありません。 ピョン吉はバリトラじいさんから、牧場は草地だと聞いていましたから、 ここは牧場に間違い無いと確信しました。 出発後数日で牧場に到達する、と言うバリトラじいさんの予測も、 ぴったり当たることになります。 それはまた、ピョン吉のコースが正しいことをも証明しているのです。
「おじさんは、牛さんですかあ」
 牛はおとなしい動物だと聞いていたので、ピョン吉は思い切って話しかけてみました。
「ああそうだよ、名前はドン助と言うんだが、この牧場では有名なんだぜ。 ところでお前さんはオコジョかい」
 大きな声ですが、落ち着いていて優しそうな声です。
「うん、ぼくはピョン吉って言うんだ」
「やっぱりそうかい。でもオコジョが来るなんて珍しいなあ」
 ドン助はオコジョを知っているようなので、ピョン吉は今までの出来事を話しました。
「うーん、わしはこの牧場のことなら誰よりも詳しく知っているんだが、 外の世界についてはさっぱり分からんなあ」
 ドン助は牧場の外には出たことが無いのです。
「この草原はずっと続いているんですか?」
 ピョン吉は気になっていたことをたずねました。
「そうだなあ、結構広いぞ。わしが案内してやろう」
 ドン助はそう言って腰を下ろし、ピョン吉を背中に乗せてゆっくりと歩き出しました。 牧場ではあちこちで牛が寝そべっていたり、のんびりと草を食べたりしていました。
「おや、ドン助どん。どうしたんだね」
「なあに、迷子のオコジョの道案内でさあ」
 ドン助は顔見知りの牛と話し込んでしまいました。 ピョン吉はこれなら自分で走った方が早いと思いましたが、 せっかくのドン助の親切を無視することも出来ません。 牧場は思ったより広いものでしたが、なんとか柵のある所までたどり着きました。
「さあ着いたぞ。わしが案内出来るのはここまでだ。 きっと帰れるから、最後まで希望を持って行くんだぞ」
 ドン助は柵の外を見ながら、背中のピョン吉に話しかけました。 柵の外には、懐かしい匂いのする森が広がっています。
 ピョン吉はドン助の背中で立ち上がり、柵の外に広がる森をながめました。 その森はピョン吉が暮らしていた森とは感じが違いますが、自然の香りは同じです。 ピョン吉は地上に飛び下りると、ドン助を見上げてお礼を言いました。
「おじさん、ありがとう。あとはひとりで行けるよ」
 ドン助は大きな顔を近付け、優しい目付きで言いました。
「気を付けてな、頑張れよ」
「うん、大丈夫。おじさんも元気でね」
 ピョン吉はドン助に別れを告げると、柵の間から勢い良く飛び出しました。 牛が逃げ出さないように作られた柵ですが、 小さなピョン吉にとっては何の障害にもなりません。 ピョン吉は、牧場でののどかな牛の生活がうらやましい気もしましたが、 柵で囲まれて自由を奪われての生活は耐えられないとも思いました。
 ピョン吉が牧場を離れたときには既に日が傾いており、 森の中に入るとすぐ暗くなってしまいました。 ここの森には、山の森のように大きな木はなく、梢の間からは星が見えました。 ピョン吉は適当な場所を見付け、その晩のねぐらとしました。 フクロウの襲撃を避けるために小枝の張った場所を選び、 枯葉を集めて簡単なねぐらが出来ました。 今回は臨時のねぐらとしては上等なものが出来たので、早々に休むことにしました。

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