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 バリトラじいさん

 暗闇に光る二つの目は、ピョン吉が今までに感じたことの無い迫力を持っていました。 それほど大きな体ではないようですが、油断は出来ません。 ピョン吉は正体不明の相手からの攻撃に備え、 腰を引いていつでも反撃出来るように身構えました。
「お前さん、見かけない顔だね。どこから来たんだい?」
 その鋭い目からは想像出来ない、物静かな声が話しかけてきました。 ピョン吉も暗がりに目が慣れ、その姿が見えるようになってきましたが、 それは見たことの無い生き物でした。
「もしかしたらオコジョかい?」
 相手はオコジョに会ったことがあるようです。
「そうだよ、ぼくはピョン吉と言うんだ」
 ピョン吉は少し安心しました。 どうやらピョン吉に危害を加える様子は無いからです。 最初は怖そうな目に見えたのですが、よく見るとそれは穏やかな目をした、 気の良さそうなおじいさんでした。
「そうかそうか、わしゃあてっきりゴロネズ一家の連中かと思ったんだ」
 ゴロネズ一家と言われても、ピョン吉には何が何だか分かりません。
「おじいさん、ここはどこなんですか?」
「なんだい、お前さん迷子かい」
 ピョン吉は迷子と言われるのは不満でしたが、 本当に迷子になってしまったのですから仕方ありません。 ピョン吉には現在おかれている状況が分からないので、 人間に出会ってからの色々な出来事を、すっかりこのおじいさんに話しました。 何としてでも、お母さんの所へ帰る方法を見付けなければなりません。
「はっはっは、分かった分かった」
 ピョン吉には不思議な出来事ばかりでしたが、 そのおじいさんには全てが分かっているようでした。 おじいさんは猫という生き物で、名前を『バリトラ』と言いました。 そしてピョン吉が何よりも驚いたのは、 バリトラじいさんは人間と一緒に暮らしているというのです。 最初のうちはピョン吉には信じられませんでしたが、 バリトラじいさんの話にうそは無いようです。
「まあ、こっちへ来いや」
 バリトラじいさんはピョン吉を連れて出口に向かいました。 外には大勢の人間と、丸い足を持った大きな生き物がいます。 その丸い足の生き物は、口を開けて人間を飲み込んだかと思うと、 ブルンブルンと大きな声を出してどこかへ行ってしまいました。 ピョン吉が前に聞いた恐ろしい音は、この生き物の声だったのです。
「あれは自動車って言うんだ」
 不審な顔をして見ているピョン吉の心を察して、バリトラじいさんが言いました。
「人間は食べられちゃったの?」
「そうじゃ無いんだ。人間は自動車の中へ入って動かしているのさ。 お前さんもあの中に入ってここまで来たんだよ」
「???」
 ピョン吉は詳しい説明を聞かされても、どうにも理解することが出来ません。
「ほら、あそこに止まっている自動車を見てみな。中から人間が出てきただろ」
 確かにバリトラじいさんの言う通りでした。 中から出てきた人間は元気に歩いています。 バリトラじいさんは自動車について、色々なことを教えてくれました。 止まっているときには襲ってはこないこと、 その代わり動いているときには絶対に近寄らないこと、 夜は目から強烈な光を放って走るのですぐ逃げること、等です。
「毛皮の色は、どうしてあんなに違うんですか?」
 ピョン吉は前から思っていた疑問をたずねてみました。
「はっはっは、あれは毛皮じゃ無いよ。服と言うんだ」
「服?ですか」
 そう言われても、ピョン吉にはさっぱり分かりません。
「まあいいさ、覚えなきゃならないことでも無いからな。 それよりわしの家に行って一休みしようぜ」
 バリトラじいさんはそう言うと、自分の家にピョン吉を案内しました。 バリトラじいさんの住まいは人間の家の中にありましたが、 それはピョン吉が池のそばで見た小屋よりも、ずっと大きな建物でした。
「お前さんは人間に見付かるとうるさいから、秘密の隠れ家に行こう。 そこなら人間は来ないから安心だ」
 ピョン吉は初めて見る人間の住まいにびっくりしました。 ピョン吉が暮らしていた巣穴よりずっと大きいのですが、 だだっ広いだけで住み心地が良いとは思えませんでした。 しかしバリトラじいさんの秘密の隠れ家は屋根裏の一角にあり、 天井が低くて落ち着いた雰囲気がします。 これならピョン吉も安心です。
「わしが思うにはだな、お前さんがいた所は遠い北の方だよ」
「遠い・・・んですか」
 ピョン吉は心配そうな顔をしています。
「心配するな。後で人間の持っている地図というものを見せてやる。 それを見ればお前さんの帰り道も分かるというものさ」
 地図なんて初めて聞く言葉ですから、一体どんなものなのか見当も付きません。 でもピョン吉ひとりだけでは、どうやって帰ったら良いのか分かりません。 やはりバリトラじいさんの力を借りるのが最善の方法のようです。
「はい、よろしくお願いします」
 ピョン吉は丁寧に返事をしました。
「その代わりと言っちゃなんだが、お前さんの力も貸してくれねえか」
「ぼくの力をですか?」
「ああそうだ、頼むぜ、若いの」
「でもぼくは何も知りませんよ」
「はっはっは、いいんだいいんだ。知恵を借りるんじゃあねえ」
 バリトラじいさんの話は次のようなものでした。
 バリトラじいさんは子供の頃からこの家に住んでおり、 昔から良くネズミを捕ったのでかわいがられていました。 でも最近は高齢のためか体の動きが鈍くなり、 思うように捕れなくなってしまったのです。 最近はゴロネズ一家というネズミの集団が住み着いて悪いことばかりしているので、 家の持主の人間は困ってしまいました。 ゴロネズ一家の親分はジロチュウという大きなネズミで、 年老いたバリトラじいさんには捕まえることが出来ません。 そこで飼い主は若くて元気な猫を探し、バリトラじいさんを追い出そうとしているのです。 バリトラじいさんの頼みというのは、 そのジロチュウというネズミの親分を退治することでした。
「いいよ、おじいさん。ぼくに任せて!」
 ピョン吉は元気良く返事をしました。 もう何度もネズミを捕まえたことがあるし、追い払うだけならもっと簡単ですから。
「ぼくはまだ小さいけど、ネズミ捕りの名人なんだよ」
 ピョン吉は自信満々です。
「いやいや、そう簡単には行かないぞ。 お前さんが相手にしているのはヒメネズミかアカネズミだと思うが、 ここにいるのはもっと大きなドブネズミなんだ」
「やっぱりネズミなんでしょ」
「まあ、ネズミには違い無いがね・・・」
 バリトラじいさんは本当に物知りでした。 ネズミには山にいるネズミ以外にも多くの種類のネズミがいて、 それぞれ体の大きさや居住地域、 更にはその習性や食生活に至るまで異なっていることを教えてくれました。 ドブネズミというのはその中でも最大のネズミで、 今までピョン吉が捕まえていた山のネズミよりもずっと大きく、 特にジロチュウはピョン吉の二倍以上あるという話でした。
「どうだい、ジロチュウに勝てそうかね?」
 バリトラじいさんはピョン吉の狩猟経験が浅いことを見抜いていたので、 大きくてずる賢いジロチュウとその仲間に勝てるか、少し心配になったのです。
「あまり無理しなくてもいいんだよ。ちゃんと帰る道は教えてあげるから」
 正直言って、ピョン吉は不安でした。 そんな大きなネズミがいるなんて信じられませんが、 バリトラじいさんがうそを言っているとは思えません。 でも自分の倍もあるような大きなネズミと戦って、はたして勝てるだろうか・・・
 ピョン吉は迷いましたが、バリトラじいさんをこのままにして帰る訳には行きません。 それにいくら相手が大きくたって、 ネズミなんかに負けるものか、という気持ちもありました。
「大丈夫だよ、おじいさん。やっつけてみせるよ」
 ピョン吉は力強く答えました。 そしてバリトラじいさんと一緒に、ジロチュウを倒す作戦を練りました。 ピョン吉が今までに出会ったネズミは、 ピョン吉の姿を見ればたちどころに逃げて行きました。 ところがゴロネズ一家のネズミたちは、 相手が猫であっても逃げないで向かってくるというのです。 子分たちはそれほど強くは無いようですが、それでも集団で襲いかかるので、 その攻撃力はなかなか強力なものになるようです。
 ピョン吉とバリトラじいさんが考えた作戦は、大体次のようなものになります。
 ピョン吉は子分は相手にせず、一気にジロチュウを攻撃すること。 ジロチュウは力は強いが動きが鈍いので、後ろに回り込んで首筋を攻撃し、 うまくかみつく事が出来たら絶対に離さないこと。 バリトラじいさんは子分たちを引き付けておくこと。
 計画通りにジロチュウを攻撃することができれば、 いくらゴロネズ一家が強くてもやっつけることが出来るはずです。
「もう一つ頼みがあるんだがなあ」
 作戦会議が終わった後、バリトラじいさんは決まり悪そうな顔で言いました。
「出来たらジロチュウを生け捕りにしてもらいたいんだ」
 ピョン吉にとっては思いもかけない言葉でした。 ジロチュウは悪いネズミなのだから、許してやる必要は無いのに、 と思っていたからです。
「やってみますけど、どうしてですかあ?」
「実はな、わしがジロチュウをくわえて飼い主の前に行けば、 当分この家にいられるんじゃあねえかと思ってな」
 それはそうです。 いたずらネズミを捕まえた猫を追い出す人間は、絶対にいないでしょう。
「それは良い考えです!任せて下さい!」
 ピョン吉も大賛成です。
「そうかい、すまねえな。で、いつやる?」
「早い方が良いです」
「じゃあすぐ行くか?」
「はい!」
 ふたりはさっそく出発することにしました。 行き先は床下にあるゴロネズ一家の本部です。 バリトラじいさんが屋根裏の隠れ家から出ようとしたとき、 真っ黒な生き物が行く手をさえぎりました。 ピョン吉はすかさず身構え、正体不明の相手をにらみつけました。 ゴロネズ一家の先制攻撃でしょうか?
「じいさん、話は聞いたぜ」
 全身真っ黒な姿をしていますが、どうやら猫のようです。
「なんだい、お前さんかい。何か用かな?」
 どうやら、バリトラじいさんとは顔見知りのようです。
「ジロチュウをやっつけるんだってな。俺も加勢するぜ」
 黒猫はそれほど大柄ではありませんが、 無駄の無い、引き締まった体をしています。 自信ある口調からも、かなりの腕前であることが推測出来ます。
「ジロチュウにうらみでもあるのかい」
「別にうらみは無いが、あの野郎生意気だから気にいらねえんだ。 それにそっちのちび助の根性が気に入ったのさ」
 黒猫はそう言って、鋭い目付きでピョン吉を見ました。
「そうかい、じゃあよろしく頼むぜ」
「任せときな。おい、坊主、 おめえは何も考えずにジロチュウにかかって行けばいいからな。 子分共は俺が片付ける」
 ピョン吉は黙ってうなずきました。
 その黒猫は名前をクーロンと言い、人間には飼われていない野良猫でした。 毎日ネズミを追いかけたり、人間の食べ物を盗んで追いかけられたりしているので、 このようにたくましい体をしているのだそうです。

 一行はバリトラじいさんを先頭にして、 床下にあるゴロネズ一家の本部に近付きました。 見張りのネズミもいましたが、一行の姿を見るとたちまち逃げ去ってしまいました。 急いで知らせに戻ったようです。
「老いぼれ、良く来たな。歓迎するぜ」
 ピョン吉たちの目の前に、ネズミの大集団が現れました。 全部で二十匹以上いるようですが、 ピョン吉はこれほど大勢のネズミの集団を見たのは初めてです。 バリトラじいさんが言ったように、 ドブネズミというのは森のネズミよりかなり大きいようです。 中でも真ん中にいるネズミは際立って大きく見えますが、 こいつがジロチュウに違いありません。
「ふん、役立たずの助っ人なんか連れてきやがって」
 ジロチュウはピョン吉を馬鹿にしたような目付きで、ジロリとにらみました。 周りの子分たちもすぐにピョン吉たちが逃げ出すと思っていたようで、 思い思いの格好で見ています。 ピョン吉は一言も答えずに、いきなりジロチュウ目掛けて飛び掛かりました。 これにはジロチュウも驚いたようです。 いや、驚いたのはジロチュウだけではありません。 ジロチュウの子分はもちろん、 味方のバリトラじいさんとクーロンでさえ面食らうほどの早業だったのです。
 思いもかけぬ攻撃を受けたジロチュウは、 防御体制を整える間もなくピョン吉に食いつかれてしまいました。 ジロチュウはいつも子分たちに戦わせるだけで、 自分自身は長い間実戦から遠ざかっていました。 だから狩りで鍛えたピョン吉のスピードは、予想以上のものだったのです。 バリトラじいさんとクーロンは、計画通り子分たちを追い払っています。
 ジロチュウはなんとかピョン吉を振り落とそうと、大声を出しながら暴れました。 さすがにジロチュウは怪力の持主でしたが、 ピョン吉は必死に食いついたまま力を緩めません。 子分たちはジロチュウとピョン吉の戦いを気にしていましたが、 親分の不利をさとって逃げ出すものが出始めました。 残っている者にしても、 ジロチュウを助けに行こうとすればバリトラじいさんかクーロンにやられてしまいます。 だんだんと逃げ出す子分の数が増え、 とうとうジロチュウひとりだけになってしまいました。
「坊主、子分共は片付けた。安心して戦えや」
 クーロンは万一に備えて待機していますが、 バリトラじいさんはやはり歳のせいでしょうか、疲れたようで休んでいます。 ジロチュウは自分を見捨てて逃げて行く子分をののしっていましたが、 その声はだんだんと弱々しいものになっていきました。 もう勝利は目前です。 それでもピョン吉はカを緩めることなく食いついています。 命を懸けた戦いでは、最後の一瞬まで油断は出来ないのです。
「坊主、大丈夫か?」
 ジロチュウがなかなか倒れないので、クーロンが心配して声をかけました。 ピョン吉はジロチュウに食いついたまま、元気にしっぽを振って返事をしました。 ピョン吉がいつまでも力を緩めないので、さすがのジロチュウもようやく力が尽き、 ピョン吉を背中に乗せたままバッタリと倒れました。 まだ死んではいませんが、もはや戦う力も逃げる力もありません。 バリトラじいさんにとっては理想的な結果となりました。
「坊主、頑張ったな」
 クーロンがピョン吉の勝利を祝福してくれました。
「うん、ありがとう。おじいさん大丈夫?」
「ああ、これくらい平気さ。御苦労さん、ありがとよ」
 バリトラじいさんはゆっくりと起き上がると、 息絶え絶えで倒れているジロチュウの所へ行きました。
「それじゃあ予定通り、わしはこいつを連れて人間の所へ行ってくる。 お前たちは上で待っててくれ」
「いや、俺は用が済んだから帰らせてもらうぜ」
 クーロンはどうしたというのでしょう。
「そう言うなよ、御馳走持ってすぐ戻るから」
 バリトラじいさんはクーロンを引き留めようとしています。
「そうだよおじさん。話を聞かせてよ」
 ピョン吉も応援しました。
「はっはっは、それじゃあ坊主の顔を立てるとするか。じいさん、上で待ってるぜ」
 クーロンは最初は怖そうな感じがしましたが、さっぱりとした性格のようです。 ピョン吉はだんだんクーロンが好きになってきました。 ふたりは屋根裏へ、 バリトラじいさんはジロチュウを重そうに引きずって人間の所へと向かいました。
「おじさんは人間と一緒じゃ無いんですか?」
 ピョン吉はクーロンにたずねました。
「俺は真っ黒な猫だから、人間には好かれないのさ」
 クーロンはあっさりと答えました。 そして同じ猫の仲間でも、猫の毛には様々な模様があることを教えてくれました。 バリトラじいさんのように灰色と白の縞模様は虎毛と呼ばれ、 バリトラじいさんは小さい頃にバリバリ爪を研ぐのが好きだったので、 『バリトラ』という名前を付けられたのだそうです。 でも、どうして猫だけ毛の色が豊富なのか、 ピョン吉は不思議に思ってたずねました。
「そんなこと俺にも分からねえや」
 クーロンにとっては、毛の色なんてどうでも良いようです。 ピョン吉は、毛の色だけで好かれたり、嫌われたりする猫のことを気の毒に思いました。 だって生まれてくる子猫は毛の色を選ぶことは出来ないのだし、 それはお母さんにだって無理でしょうから。
「気にしたって仕方ねえさ」
 クーロンは今度もあっさりと答えました。 ピョン吉はクーロンのたくましさに感心してしまいました。 クーロンは自分の運命をうらむ事なく、 現在置かれている境遇の中で最善を尽くして生きているのです。
「待たせたなあ」
 バリトラじいさんが、見たことも無い御馳走をかかえて上がってきました。 バリトラじいさんが巨大なネズミを捕えたので、 人間は大喜びをして御馳走をくれたのです。 もちろん、バリトラじいさんは引き続きこの家で飼われることになりました。
「おっ、アジの干物か、肉も付いてるのは久し振りだなあ」
 クーロンは初めて笑顔を見せ、おいしそうに食べ始めました。 どうやらアジの干物は大好物のようです。
「ほら、お前さんも遠慮しないでどんどん食えよ。 森の中じゃあ手に入らない物ばかりだぜ」
 バリトラじいさんも色々とすすめてくれました。 ピョン吉は目移りして困りましたが、どれも少しずつ味見することにしました。 初めて口にする食物は、おいしい物もあれば、変わった味の物もありました。 ピョン吉は御馳走を食べながらたずねました。
「ねえ、おじいさん。下はどうして昼間なの?」
 いつしか夜になって外は暗くなったのに、 下の部屋はあまりにも明るいので不思議に思っていたのです。
「はっはっは、明るくても昼間じゃ無いのさ。人間が電気を点けているから明るいんだ」
 バリトラじいさんは笑いながら詳しく教えてくれまレた。 家の外の様子も同じで、人間の建物がある所は明るく、 遠くの山は真っ暗でした。 夜には動かないはずの人間も、ここでは明るい所を集団で歩いています。 このように人間が大勢集まっている所は町と言い、夜でも明るいのだそうです。 でもピョン吉は、やっぱり山や森が良いなあ、と思いました。
 御馳走はまだ残っていますが、満腹になったので今夜は寝ることにしました。 クーロンも泊まって行くことにしたので、ピョン吉は大喜びです。 見知らぬ土地に来てしまった不安も消え、 疲れの出たピョン吉はいつしか深い眠りにつきました。

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