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 人間の町へ

 暑かった夏も終りに近付き、少しずつ秋の気配が感じられるようになってきました。 人間の暦で言えば八月の下旬になります。 山へやってくる人間の数も目立って少なくなりました。 平野部ではまだまだ暑い日が続いていますが、 山の上では日中でも涼しくなってきました。
 そんなある日、ピョン吉とピコは巣穴の中で退屈していました。 お母さんはチョロ吉とチコを連れて狩りに行っています。 お母さんからは勝手に遠出をしないように言われていますが、 退屈で仕方の無いピョン吉は、ピコを誘って遊びに出ようと思いました。 遠くまで行かずに、近くで遊んでいれば危険は無いはずです。
 ピコも退屈していたので、喜んで付いてきました。 特に行く当てはなかったのですが、ふたりで遊んでいるうちにだんだんと巣穴から遠ざかり、 とうとう人間の登山道に出てしまいました。 少し疲れたので一休みしていると、上の方からドスンドスンという音が聞こえてきました。 久し振りに聞く人聞の足音です。 ふたりは木陰に入り、人間が来るのを待ちました。
 人間も二人連れでした。 一言もしゃべらずに、黙々と速足で下って行きます。 ピョン吉は後を付けてみようと思いました。 お母さんと一緒のときには許してもらえませんが、今日はお母さんはいません。 ピコは反対しましたが、ピョン吉がどんどん歩いて行ってしまうので、 仕方なく後を追いました。
 しばらく登山道を下って行くと、目の前に大きな池が現れました。 何と無く見覚えのある池です。 ピョン吉は用心しながら、ぐるりと辺りを見回しました。 池の反対側には人間の小屋があります。 やはり、以前一度だけお母さんと一緒に来たことがある池でした。 そのときは今日とは違い、自分たちのけもの道を使って別の場所に出たので、 池の感じが違っていたのです。
 安心したピョン吉は人間に目を向けましたが、 人間のしていることを見てびっくりしました。 人間は背中のコブを取り外し、それを地面に置いたのです。 しかも人間は、コブの中から色々な物を取り出しているではありませんか。 ピョン吉にはさっぱり訳が分かりません。 ピコも驚いて見入っています。
 人間はコブの中から取り出した物を手に持ち、 コブはそのままにして小屋の方へ歩いて行きました。 ピョン吉はコブの中が気になって仕方ありません。
『いったい、あの中はどうなっているんだろう?』
 人間は小屋のそばに座って何かしています。 上手く隠れながら接近すれば、人間に見付からずにコブの所まで行けそうです。 ピコは必死に止めましたが、ピョン吉の決心は変わりませんでした。 ピョン吉は草むらや切り株を上手に利用して接近し、 とうとう人間のコブにたどり着くことが出来ました。
 近くで見ると、思っていたよりもずっと大きなものでした。 それはピョン吉が思っていたようなコブでは無く、 縦長の登山ザックなのですが、ピョン吉はそんなことは知りません。 人間は上から何かを取り出していたので、思い切って上ってみることにしました。 コブの中は空洞になっており、中には見たことの無い物がたくさんあります。 ピョン吉はちらっと人間の方を見ましたが、 二人とも会話に夢中になっているので、ピョン吉には気が付いていないようです。
『よし、今のうちだ!』
 ピョン吉はコブの中へ入って行きました。 中には果物もありましたが、ピョン吉の好物ではありません。 ふわふわと柔らかい物もあります。 それを巣穴に持ち帰って敷物にすれば、 枯葉より快適に暮らせるような気がしました。
 ピョン吉は手で触ったり、においをかいだりして人間の持物を調べていきました。 時々上から顔を出し、人間の動きに注意すれば良かったのですが、 生れつき好奇心の強いピョン吉はもう夢中でした。 そのために人間の一人が帰ってきたことにも、全く気が付きませんでした。
 パサッ!
 突然頭の上で何か音がしました。 ピョン吉が上を見上げると、出口は何かで蓋をされ、 それと同時にふわあっと体が持ち上げられるような感じがしました。 あせったピョン吉は何とか出口に向かおうとしましたが、 足元が揺れて思うように行きません。 揺れが止まり、ピョン吉がそっと外をのぞいてみると、目の前には人間がいます。 これでは外には出られません。
「荷物をまとめてそろそろ出発しようぜ」
「えーっ、もうかい」
 どうやら人間の休憩時間が終わったようです。 ピョン吉が入っているザックの蓋が開き、光が差し込んできました。 ピョン吉は見付からないように荷物の間に隠れましたが、 その頭の上から次々と色々な物が詰め込まれてきました。
「おっかしいなあ、荷物が増えたのかなあ」
 ザックの持主は不思議そうな顔をしています。
「そんなはず無いだろ。パッキングが下手なんじゃないの」
 本当はピョン吉が中にいるために荷物が入り切らないのですが、 人間たちはそんなことは知りません。 それでも力任せにぎゅうぎゅう押し込み、強引に蓋をしてしまいました。 ピョン吉は苦しくて仕方ありませんが、声を出す訳にはいきません。 それでも何とか体の向きを変え、少しでも楽な状態にしようと努めました。
「あとどれくらいかなあ」
「一時間も歩けば駐車場に着くさ」
「一時間で着くかなあ。俺は登りは得意だけど、下りは苦手なんだ」
「やっぱりな。足の短い奴は大体そうなんだ」
「何言いやがる、胴長男めが。俺はこの長い足が自慢なんだぞ」
「ハハッ、何でもいいや。とにかく出発するぜ」
 ピョン吉の体はまたふわっと持ち上げられました。 そして今度は規則正しく上下に揺れるようになりました。 ピョン吉は何とか姿勢を整えることが出来たので、体は大分楽になりました。 しかしこの揺れは、あまり気持ちの良いものではありません。 窮屈なザックの中で、ピョン吉は人間の会話を思い出しました。
『やっぱり人間って変な生き物だなあ』
 ピョン吉はスラッとした長い胴と、四本の短い足が自慢です。 それなのに人間は長い胴を嫌い、足が長い方が良いと言っているのです。 それにしっぽが全然無いことも、人間のおかしなところです。
 ピコは心配そうに一部始終を見ていましたが、助けに行くことは出来ませんでした。 ピョン吉はコブの中に入ったきり出てきません。 もしかしたら食べられちゃったのかも知れません。 ピコは二人の人間が消え去るまで見届け、急いで巣穴に戻りました。 早くお母さんに知らせなければなりません。

 揺られに揺られ、うんざりした頃どこかに着いたようです。
「ふうっ、着いた着いた、何時だい?」
「三時ちょっと前くらいだ。予定より時間かかっちゃったな」
「そっか、少し急ぐか。後は車だから俺に任せとけ」
 ピョン吉の入っているザックは地面に降ろされ、 また荷物の入れ換えが始まりました。 人間はピョン吉には気付かないようで、 今度は軽く蓋をしただけでザックを自動車の中に入れました。 ザックの中の荷物は前よりも少なくなり、ピョン吉は楽に動けるようになりました。 人間は汗をかいたシャツを着替え、脱いだシャツはザックの外に置いたからです。
 ブルンブルン、ブルルルルルン!
 突然、聞いたことの無い大きな音がしました。 雷の音とは違った、恐ろしげな音です。 もしかしたらこれが人聞のほえ声なのかも知れません。 それにしても大きなほえ声です。
 ルルルルルルルーッ
 少し静かな音に変わりましたが、どうも地面が揺れているような気がしてなりません。 先程の揺れとは感じが違います。 それに時々横方向にも大きく揺れることがあります。 ピョン吉は外の様子を探ろうと思い、 背伸びをしてザックの蓋を少しずつ押し上げていきました。
 人間は二人共背中を向けており、ピョン吉には気付いていないようです。 人間だって、まさかザックの中にオコジョが入っているなんて、思ってもみないでしょう。 二人の人間の間からは外の景色が見えますが、それは今までに見たことのない景色でした。 ピョン吉はザックの中で座り込み、頭をひねって考えました。 一体ここはどこなんだろう?
 今のところ、ここにいても危険は無いようです。 でも前にいる人間がピョン吉に気付いたら、はたしてどうなるのか分かりません。 ピョン吉は逃げ出す機会を見付けるため、 再び背伸びをしてザックの蓋を押し上げ、その隙間から外の様子を探りました。 人間がいない方には出口らしいものがあり、そこからは山が見えますが、 ピョン吉には見覚えの無い山です。 ピョン吉は心細くなってぼんやりとながめていましたが、 その目の中に信じられない光景が飛び込んできました。 大きな木が目の前を通り過ぎて行ったのです!
『そんな馬鹿な!』
 ピョン吉の驚きは大変なものでした。 だって木が動くなんて、お母さんから聞いたことは無いし、 もちろん見たことだってありません。 気が動転したピョン吉は、思わずザックの中で座り込んでしまいました。
『いや待てよ』
 ピョン吉は気を取り直して考えました。
『ぼくの見間違いだったのかな?』
 そうです。木が動けるはずはありません。 ひとりぼっちで心細くなり、心が動揺していたのに違いありません。 ピョン吉は深呼吸して心を落ち着かせ、またザックから頭を出して外を見ました。 遠くに見える山は、先程とは違った形をしています。 ピョン吉は不思議に思いながらじっと山を見ていましたが、 どうもその山も動いているような気がします。 すると今度は、山の手前を人間の小屋が走って行きました。 あれれ、と思う間もなく別の小屋が現れ、 手前を数本の木が小屋よりも早いスピードで走り去りました。 間違いありません。山や木や、人間の小屋が動いているのです。
『人間は恐ろしい生き物だよ』
 ピョン吉はお母さんの言葉を思い出しました。 でも今までは、人間がそれほど恐ろしい生き物だとは思っていませんでした。 今までに森の中で出会った人間は、 体は大きいけれどその動きは緩慢であり、襲われても逃げ切れる自信があったからです。 でも今回は違います。 この二人の人間の後を付けてから、不思議なことばかり起こっているからです。 やはりお母さんの言うことは正しいのだと、ピョン吉は改めて思いました。
『早く逃げなければ・・・』
 ピョン吉はあせりましたが、心を落ち着かせて考え直しました。 人間の隙をついてここから逃げ出せても、外にはあの『動く木』がいます。 木と戦っても勝てそうにはありませんし、 逃げそこなえば食べられてしまうかもしれません。
『あの木は夜も動くのだろうか・・・』
 お母さんからは、人間は夜は動かないと聞かされていました。 もしそうだとしたら、あの木や人間の小屋も、夜は動かないのかもしれません。 まだ夜までは時間があるので、 ピョン吉は更にもう少し様子を見ることにしました。
 その後もピョン吉は時々外の様子を探りましたが、状況は同じでした。 時には轟音を発して猛スピードで通り過ぎる物もありますが、 短時間なので正体を見届けることは出来ませんでした。 しかし森の中にはそんな物はいませんから、人間の仲間の怪獣に違いありません。
 ピョン吉は脱出の方法や、逃げ出した後のことを考えていましたが、 適当な結論が出ないうちに揺れが止まりました。 どうやら人間の巣に着いたようです。
 バタァーン!
 大きな音がして空気が震えました。 恐る恐るピョン吉が顔を出してみると、前にいた人間の姿が見えません。
 チャンスです!
 ピョン吉は急いでザックから飛び出しました。 出口らしいものはたくさんありますが、 その中から安全な出口を探さなければなりません。 とりあえず一番近い出口へ行き、背伸びをしてそっと外の様子を探りました。 遠くの方には何人もの人間の姿が見えますが、近くには見えません。 ピョン吉は思い切り良く決心し、一気に外へ出ようとジャンプしました。
 ゴツン!
 外へ出られると思ったのに、ピョン吉は鼻の頭を何かにぶつけてしまいました。 もちろん外には出られません。 びっくりしたピョン吉は目を凝らして出口を見ましたが、 何も変わったところはありません。 ピョン吉は更にもう一度試してみましたが、今度も結果は同じでした。 目には見えませんが、どうも出口には何かがあるようです。 きっと人間が何か細工をしているのに違いありません。
 ピョン吉は身をひるがえし、反対側の出口へ行きました。 見たところは同じような感じです。 ピョン吉は今度はいきなり飛び出さずに、壁に前足をかけて様子を探りました。 背伸びをして頭を出そうとすると、やはり何かにぶつかってしまいます。 どうしてそうなるのかピョン吉には分かりませんが、 そこからは外へは出られないということを認めざるを得ません。
 ピョン吉は人間がいた所へ移動し、出口という出口を調べてみましたが、 どこからも外へは出られませんでした。 がっかりしたピョン吉は、座席の上に座り込んでしまいました。
 ピョン吉はしばらくの間座席に座ったまま、 これからどうしたら良いのか考えていました。 ふと外を見ると、人間が二人こちらに向かってきます。 毛皮の色が違っていますが、何と無く池で見た人間と同じような気がします。 ピョン吉は後ろの座席に戻ろうとしましたが、間に合いそうもありません。 仕方が無いので急いで座席の下に隠れました。
 ピョン吉が隠れると同時に頭の上で軽い音がして、 出口だと思っていたところの壁が少し動きました。 ピョン吉が緊張して身構えると、壁は更に大きく開き、何とか外に出られそうです。 目の前には人間の足がありますが、この際そんなことは気にしていられません。 このチャンスを逃したらまた閉じ込められてしまいます。 ピョン吉は夢中で飛び出しました。
「うひゃあー」
 誰もいないはずの車の中から得体の知れない物が飛び出してきたので、 その人間はびっくり仰天、大声を上げて後ろ向きに倒れてしまいました。
『なんだ、人間なんて大きいだけで弱虫なんだ』
 ピョン吉はちょっと自信を取り戻しました。 どうにか外には出られましたが、ここがどこなのかさっぱり分かりません。 でも今はそんなことを考えている余裕はありません。 ピョン吉の周囲には、至る所に人間がいるのですから。
「キャー、なあに、あれ」
「野良犬だ、追っ払え」
「いや、あれはキツネだろう」
「違う違う、イタチだよ、イタチ!」
 人間たちはピョン吉を見付けて大騒ぎをしています。 ピョン吉は人間のいる方向を避け、 小さな洞穴のような所を見付けて急いで飛び込みました。 この狭い所なら、体の大きな人間は追ってこられません。 ピョン吉は一安心して呼吸を整え、 外の人間の様子を探るために体の向きを変えました。
 ピョン吉が出口に向かって一歩踏み出したその時です。 ピョン吉は背後に何者かの気配を感じました。 一瞬体が硬直しましたが、勇気を出して後ろを振り返りました。 そこには暗がりに鋭く光る、二つの目がありました。

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