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 虹

 それからまた何日かが過ぎました。 オコジョの子供たちは毎日お母さんと一緒に狩りの練習をしてきたので、 今ではだいぶ上達しました。 ひとりで獲物を捕まえられることもありますが、 まだまだ失敗して逃げられてしまうことの方が多い毎日でした。
 狩りの腕前が上がっただけではありません。 森に住む動物たちが生きて行くために一番大切なこと、 外敵から身を守る知恵が少しずつ身に付いてきたのです。 タカやテン、そしてフクロウ。 ピョン吉は色々な動物が狩りをする場面を目撃しました。 ほかの動物の狩りを見ているうちに、多くの教訓が得られたのです。
 狙われる動物は、何かに夢中になっている場合が多いのです。 木の実を食べているリス、獲物を追いかけているオコジョ、 餌の取り合いをしているネズミ、等々。 ほんの一瞬でも周囲への警戒がおろそかになったとき、 小さな動物は大きくて強い動物に食べられてしまうのです。 だからどんなときでも、絶対に周囲に気を配っていなければならないのです。 それは何千年も続いている、誰にも変えることの出来ない自然の掟なのです。
 ピョン吉にもそういう自然の掟が分かるようになってきました。 獲物を見付けてもすぐには飛び掛からないで、 相手が油断するまで待つことを覚えたのです。 それでもまだ飛び掛かってはいけません。 自分がタカやテンに狙われていないか、 先に自分の安全を確認しなければならないのです。 安全の確認が出来ないうちは、うかつに動いてはいけないのです。
 ピョン吉は色々な動物に出会いましたが、人間にだけはまだ会ったことがありません。 お母さんもそのことを知っていたので、 子供たちに人間の姿を見せようと思っていました。 森の中では人間の通る道は限られています。 その道はけもの道よりもずっと広い道なので、 初めてのピョン吉たちにもすぐに分かるはずです。
 お母さんはどこへ行こうか迷いましたが、上の岩場に行くことにしました。 以前ピョン吉がタカに襲われそうになった岩場です。 そこまで行けば人間の登山道が近いので、 この時期ならいくらでも人間を見ることが出来るはずです。 子供たちもだいぶ成長してきたので、そう簡単にタカに襲われることは無いでしょう。
 お母さんはいつもの道を通らず、森の中の人間の登山道に沿って行くことにしました。 少し遠回りになるのですが、子供たちに人間の道を覚えさせようと思ったからです。 子供たちも大賛成です。 お母さんを先頭にどんどん進んで行きましたが、 人間の作った道はとても広く、体に当たるものが何も無いので快適です。 道の両側は大きな木で、上の方では木々の枝が重なっており、 空からタカに襲われる心配はありません。
 先頭を歩いていたお母さんが、何かを見付けたのでしょうか、急に立ち止まりました。 そして急いで木陰に隠れるよう、子供たちに指示しました。 ピョン吉には様子が分かりませんでしたが、言われたとおり急いで隠れました。
 ドスン、ドスン!
 やがて上の方から、地響きを立てて大きな音が聞こえてきました。 どんどん近付いてきます。 ピョン吉はちょっとだけ怖い気持ちもありましたが、 見付からないようにそっと音のする方向をのぞきました。 それは見たことも無い、見上げるように大きな生き物でした。 しかもその生き物は、二本の足だけで歩いているのです!
「あれが人間だよ」
 お母さんは小さな声で子供たちに言いました。 人間は三人連れで、前と後ろの二人は背中に大きなコブがありますが、 真ん中の人間にはコブはありません。 人間はピョン吉たちには気が付かない様子で、そのまま下って行きました。
 ピョン吉は不思議に思いました。
『どうして二本の足だけで歩けるんだろう?』
 ピョン吉だって二本の足で立つことは出来ます。 後ろ足だけで立ち上がり、背伸びをすれば遠くの方まで見渡すことが出来るので、 何回も練習をしました。 最初は転んでばかりいましたが、 猛練習の成果が現れ、今では上手に立つことが出来るようになりました。 でも歩くことは出来ません。
 お母さんは人間の姿が見えなくなってから安全を確認し、 子供たちを道に出して再び岩場に向かいました。 ピョン吉は初めて見た人間を不思議に思いながらも、 お母さんたちに遅れないように付いて行きました。 その途中でも、何度も後ろ足だけで歩くことを試してみたのですが、 一度もうまく行きませんでした。
 人間の登山道に沿って登って行くと、 またドスンドスンという足音が聞こえてきました。 お母さんは登山道から外れ、森の中を通って岩場の上部にたどり着きました。 この岩場なら邪魔になる木が無いので、じっくりと人間を観察することが出来ます。
 お母さんは子供たちに余り近付かないように注意を与え、 自分では上空にタカやワシが現れないか監視することにしました。 普段は注意深くなった子供たちも、初めて見る人問に気を取られて、 空に対する警戒心が緩むに違い無いと思ったからです。
 ピョン吉も人間に見付からないように岩陰に隠れ、 じっくりと人間を観察しました。 よく見ると、人間というのは変わった生き物です。 背中のコブの大きな人、小さな人、そして全然無い人と、実に様々です。 ドスンドスンと地響きを立てて歩いている人もいれば、 せわしく駆け抜けて行く人もいます。 ピョン吉は人間の毛皮にも驚きました。色とりどりの毛皮を着けているからです。 森の中では、これほど派手な色の毛皮を持った動物は見かけません。
 お母さんは向かい側の山に入道雲が発生したのを見付け、 子供たちを呼び寄せました。 青く澄み渡った空に、真っ白な入道雲がもくもくと大きくなって行きます。 森の中では入道雲を見ることは出来なかったので、初めて見る光景です。 お母さんはその雲が出ると雨になることを教えようとしたのですが、 子供たちは誰も信用しません。 だって頭の上には、まだ青空が広がっているのですから。
 こうなれば実際に経験させるしかありません。 幸い、この辺りには雨宿り出来る岩陰がたくさんあります。 子供たちにも良い勉強になるでしよう。
 真っ白な入道雲は、まだまだ大きくなっています。 それと共に、ピョン吉たちの周りにも少しずつ霧がかかってきました。 そして遠くの方からはゴロゴロッ、ゴロゴロッ、 という音が聞こえてくるようになりました。 お母さんは子供たちに、適当な岩の下に隠れるように指示しました。 上空の青空はいつの間にか消え、頭上には黒い雲が広がってきました。
 ピョン吉は不思議そうに空を見上げました。 さっきまで向こうの山に見えていた入道雲も、今は全然見えません。 ピョン吉は広い空の変わり身の早さに驚きましたが、 感心しているうちに大粒の雨が落ちてきました。 ピョン吉はチコと一緒に岩陰に入りました。
 初めはポツンポツンと落ちていた雨ですが、 いきなり音を立てて土砂降りの大雨になりました。 それはピョン吉が今までに出会ったことの無い、ものすごい雨でした。 激しい雨のため、すぐ近くにいるはずのお母さんの姿も見えません。 岩や草に当たる雨の音も激しく、隣にいるチコの声も聞き取れないくらいです。
 大粒の雨は岩に当たってしぶきとなり、風に吹かれて流されて行きます。 風は上の方から吹いているので、ピョン吉たちはそれほど濡れずにすみました。 もし下から風が吹き上げていたとしたら、 雨宿りしていてもずぶ濡れになっていたでしょう。 やはりお母さんの言った通りになったのです。
 ガラガラドッカァーン!
 一瞬空が光ったと思ったら、 辺りの空気を震わせて耳をつんざく轟音が響きわたりました。 雷です。雷ですが、こんなに大きな音は初めてです。 ピョン吉もチコも、思わず身を縮めました。 まだ昼間だというのに、激しく降り続く雨のために辺りは薄暗くなっています。 時々目もくらむような閃光で明るくなったかと思うと、 間髪を容れずに恐ろしい雷鳴が轟きます。 それは森の中で出会う雷と比べ、何倍も恐ろしい雷でした。
 お母さんはこの場所で雷に会うのは初めてではありませんが、 これほど激しい雷には出会ったことがありません。 ピコは怖がりで森の中でも雷は嫌いだったのですが、 今日はお母さんと一緒にいるので安心しています。 お母さんは他の子供たちのことが気になりましたが、 こう激しい雨では外に出ても探すことは出来ません。
 チョロ吉はひとりぼっちでしたが、雨宿りには持って来いの場所を見付けました。 そこは三方を岩で囲まれ、岩の隙間に生えている草は雨しぶきをさえぎってくれます。 のんびり屋のチョロ吉は、雨が止むまで一眠りすることにしました。
 やがて激しく降っていた雨も小降りになってきました。 空が光ってから音が聞こえるまでの時間がだんだん長くなり、 それに連れて雷の音は小さくなってきました。 ピョン吉にはどうしてそうなるのか分かりませんでしたが、 あのいやな雷が遠くに行ってしまったことを感じ取り、一安心しました。 お母さんからは、じっと静かにしていれば雷に襲われることは無いよ、 と言われていましたが、こんなに恐ろしい思いをしたのは初めてです。
 遠くの方からはまだゴロゴロという音が聞こえてきますが、 すっかり雨は止んで、空も明るくなってきました。 隠れていた岩の上に上がってみると、雲が消えて太陽が顔を出していました。 ピョン吉にはとても長い時間に感じられましたが、 実際にはそれほど時間はたっていなかったのです。
 お母さんは子供たちを集めました。 別々に避難した子供たちが雨に打たれなかったか心配していたのですが、 全員元気なので安心しました。 子供たちの体も立派になってきましたが、冷たい雨にに打たれて強い風に吹かれると、 体温を奪われて死んでしまう場合があるからです。 これからは子供たちも、 あの真っ白な入道雲を見たら雨に用心するようになるでしょう。
 人間の観察も十分に出来たことだし、お母さんは巣穴に帰ることにしました。 雨が上がって安心していると、その隙をついてタカが襲ってくることがあるからです。 雨を避けるために狭いところに押し込められていた反動なのか、 雨上がりにはひょいっと岩の上で背伸びをしてみたい気分になるのですが、 タカはそんなオコジョの心の中を知っているのかも知れません。
「お母さん、あれなあに?」
 ピョン吉が大きな声を出しました。
 それは不思議なものでした。 さっきまで入道雲があった空に、丸くきれいな色が並んでいるのです。 それは山よりも高く、ぽっかりと空に浮かんでいるようでした。
「あれは虹というものだよ」
 お母さんはちゃんと知っていました。 ピョン吉も兄妹たちも虹を見るのは初めてなので、しばらく一緒にながめていました。 子供たちは虹を見るのに夢中で全く無警戒になっていますが、 その間にもお母さんは子供たちに危険が無いように、空に気を配って見張っています。 ピョン吉はもっと近くで見ようとひとりで岩場を下って行きましたが、 どこまで行っても虹は同じようにしか見えません。
「ピョン吉、家に帰るよぉ」
 お母さんは下にいるピョン吉に声をかけ、子供たちを連れて家路につきました。 ピョン吉は返事だけはしましたが、相変わらず虹を見詰めています。
『きれいだなあ、でも・・・』
 ピョン吉は虹を見上げながら思いました。
『不思議だなあ』
 本当に不思議です。 だって鳥のように翼がある訳でも無いのに、落ちもせずに空に浮かんでいるのですから。 もしかしたら雲の親類なのかも知れません。 それとも、先程の雷が忘れていった子供なのでしょうか。
 ピョン吉はなおも虹を見続けていましたが、 虹の色はだんだんと薄くなり、最後には音も無く消えてしまいました。 虹がすっかり消えて何も見えなくなってからも、 ピョン吉はしばらくの間その空を見詰めていました。 ピョン吉は生まれて初めて見た虹を、一遍に好きになってしまったのです。
 ふと我に帰ったピョン吉が横を見ると、右手の森に近い岩場で、 親子らしいふたり連れのオコジョがこちらを見ていました。 いつかピョン吉の目の前で、子供をタカにさらわれてしまったお母さんに間違いありません。 ひとりだけ残った女の子と一緒に、ピョン吉と同じように虹を見ていたのでしょう。
 女の子も大きく成長しており、ふたりとも元気な様子でした。 ピョン吉はその親子と会うのは岩場での事件以来初めてだし、 もちろん一度も話をしたことはありません。 それなのにピョン吉は、なんとなくうれしくなってきました。 あの時の悲しそうなお母さんの顔が、ずっと頭の奥にあったからです。
 やがてその親子も森の中に消えて行き、ピョン吉はそれを見届けてから家路につきました。 もうこの道は何度も通った事があるので、ひとりでも心配無く帰ることが出来ます。
 ピョン吉にとって、初めて見た虹は不思議な存在でした。 でも、もっと不思議なことがあります。 ピョン吉は虹を見るのに夢中になり、長時間に渡って空の警戒を忘れていました。 岩の上に立ったままでしたから、空から見たら絶好の目標になったはずです。 でも不思議なことに、タカは一度も襲ってきませんでした。
 ピョン吉が虹を好きになったように、 ひょっとしたら虹もピョン吉を好きになったのかも知れません。 そしてタカが近付かないように、 虹がピョン吉を守ってくれたのかも知れません。

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