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 処女航海

 学校も夏休みとなり、洋は伊豆半島の南端、下田市に向かっていた。 伯父が発注した海洋調査船『四万十』が竣工し、明朝処女航海に出るのだ。
 伯父は下田市郊外で暮らしている。 一人住まいなので大きな家ではないが、温泉も引いてあって優雅な毎日を過ごしている。 四万十は下田港に係留しているが、造船所のある清水市にも近いので何かと便利だ。
 下田駅に降り立った洋は、港に向かって歩き始めた。 以前一度来たことがあるので、おおよその見当はついている。 伯父は四万十で待っており、駅まで迎えに来るようなことはない。 一人で四万十まで歩いて来られないようなら、船に乗せるつもりはないのだ。
 港まで来ると、独特の船型をしている四万十はすぐに見つかった。 しかし船は目の前に見えても、歩いていくのは簡単ではない。 ぐるりと遠回りしなければならないからだ。
 ようやく洋が四万十にたどり着くと、 船橋からウイングに出てきた伯父が洋を見つけてからかった。
「はっはっは、迷子にならずに来られたか」
「一度来たことがありますからね」
 洋はちょっとばかりむっとして答えた。
「まあ上がってこいや」
 伯父に誘われて洋がウイングに上がると、船橋内から痩せた色白の男が出てきた。
「紹介しておこう、船長の荒川さんだ」
 伯父がその男を洋に紹介した。
「君が洋くんかね、よろしくな」
「は、はい。よろしくお願いします」
 洋はあわてて返事をした。 船長といえば、真っ黒に日焼けした男、というイメージがあったからだ。
「はっはっは、意外だったようだね。 でも今は船乗りといっても、殆ど船内で仕事をしているからね」
 荒川は洋の呆気に取られた顔を見て、心の中で思っていることを見抜いたのである。
「暑かったでしょ、アイス食べない?」
 船内からアイスクリームを持って上がってきたのは、従姉の奈美だった。 洋より一足早く来ていたのである。
「洋くん一人で来たの。偉いわねえ」
 奈美の後から上がってきたのは、奈美の母だった。
「あれえ、伯母さんも乗るんですか」
「ううん、私は見学だけよ。すぐに船酔いするから」
「でもこの船は揺れないって、この船を設計した片山さんが言ってましたよ」
 洋は、伯母も一緒に乗って行けばいいのに、と思ったのだ。 しかし伯母には伯母の、別の楽しみがあったのだ。
「私は船に乗るよりも、のんびりと温泉に浸かっていた方がいいわ。 そうね、折角だから2、3泊して行こうかしら」
「お母さんには温泉の方が似合うわね」
 奈美は母の性格を良く知っていた。
「甲板長が帰ってきましたよ」
 荒川が1台のトラックを指差して言った。航海に必要な食料等を買ってきたのである。
「後は船長に任せて、わしらは帰ろうか」
 伯父はそう言って船を降り、洋たちも後に続いた。 明日の出港は朝7時である。


「洋くん、おはよう」
 伯母に起こされて寝ぼけ眼の洋が食堂に行くと、伯父と向かい合って片山が朝食を取っていた。 昨晩遅く、清水からやってきたのである。
「あれえ、片山さんも乗るんですか」
「そうだよ。初めての航海には、造船所からも一人は乗るんだ。 言ってみればアフターサービスだね」
 久し振りの早起きで眠そうな目をしていた洋だが、 片山の姿を目にしたら一遍に目が覚めてしまった。
「ほらほら、早く食べて」
 伯母にせかされて、洋は急いで朝食を食べ始めた。
「用意できたわよお。あら、洋くん、まだ食べてるの。意外と大食漢なのね」
 奈美が大きなリュックを背負って入ってきた。
「おや、奈美さん、何が入ってるんだい」
 奈美のリュックを見つけた片山は、ちょっとからかうような調子で言った。
「もちろんお菓子よ。片山さんにも分けてあげるわ」
「この子ったら、まるで旅行気分なのよ」
「だって旅行じゃないの。小笠原なんてそう簡単に行ける所じゃないから、 思いっ切り楽しまなくっちゃ」
 奈美にとっては四万十に乗ることよりも、小笠原まで行けることが楽しみだったのだ。
「えっ、小笠原まで行くんですか」
 洋は四万十に乗れることが嬉しくて、行き先は聞いていなかったのだ。
「やーね、洋くんはどこへ行くのか知らなかったの?」
 今度は奈美が、洋をからかうように言った。
「洋くんは誰かさんと違って、旅行に行くのが目的じゃないものね」
 伯母は洋を励ますように言ったが、伯父は厳しい口調で洋に質問した。
「ところで洋は、小笠原諸島がどこにあるかは知ってるんだろうな」
「東京の南・・・ずっと南の方・・・」
 突然の質問だったので、洋は答に詰まってしまった。 漠然と知ってはいるが、詳しく返答出来るほどの知識は無い。
「満点の答ではないな。奈美はどうだ」
「詳しいことは知らなくってもいいの。 旅行は知らない所へ行く方が楽しいんだから」
 奈美はけろっとした顔で答えたが、伯母はそんな奈美が心配な様子だった。
「全く困った子なんだから。伯父さんの言うこときかなきゃだめよ。 片山さんにも迷惑かけないでね」
「ん、もう。お母さんは心配症なんだから」
 奈美は伯母を煙たがるように言った。
「いやいや、ご心配なく。私は奈美さんのお菓子に期待していますよ。 それより迎えが来たようですね」
 窓の外を見ていた片山は、軽く笑いながら言った。
「では行ってくるか。わしらが帰ってくるまで、ずっと泊まっていてもいいぞ」
 伯父は伯母に留守番を頼み、玄関に向かった。
「それじゃ伯母さん、行ってきます」
「気をつけてね。私は食事の後片付けがあるから、見送りには行けないわ」
 伯母はそのまま食堂で見送り、3人は伯父の後に続いて出ていった。


「出港用意!」
 洋たちが乗り込むのを待ち兼ねたように、船長である荒川の声が轟いた。 甲板員は岸壁からもやい綱を外すと、素早く四万十に飛び移った。
「右舷横噴射」
 四万十はジェット水流の向きを変えることにより、真横に進むことも出来る。 スピードは大したことはないが、出入港の際には便利な機能である。
「横噴射止め、両舷前進微速」
 ウイングに出て離岸状況を監視していた荒川は、 十分に離れたことを確認してから前進命令を下した。
「おもーーかーーじ」
 防波堤の先端、犬走島を過ぎると荒川は面舵を発令し、四万十はゆっくりと右側に旋回した。 朝早く起こされ、早朝の出港に不満を持っていた洋だが、 気持ち良い出港でその不満は吹き飛んでしまった。
「とーーりかじ。180度ようそろー」
 四万十は今度は左側に変針し、針路を真南に取った。 下田港を出て少し行けば、そこはもう太平洋なのである。
「間もなく変針し、式根島と神津島の間を通過して、御蔵島の西方まで直進します」
 荒川が伯父に説明している。
「御蔵島から八丈島に向かい、八丈からは島伝いに南下して父島に向かいます」
 荒川の説明を聞いていて、洋は『はてな?』と思った。 八丈島から島伝いに・・・小笠原までの間に、そんなに島があるのだろうか。
「船速は15ノットだったね」
 伯父には何の疑問もないようである。
「はい。15ノットで行くと日没はベヨネース列岩の少し先、 明朝の日出は嬬婦岩の南方となります」
「そうか、鳥島は暗いうちに通過してしまうのか」
 伯父はちょっと考え込んだ。
「鳥島で夜明けを迎えても、その後18ノットで行けば父島には5時に到着出来ますが」
 荒川は電卓を使って素早く計算した。
「18ノットで5時か、ふーむ」
 伯父は再び考え込んだ。
「船長、間もなく変針点です」
 航海士の黒部が荒川に報告した。
「ご苦労さん、針路を150度に変えてくれ」
「150度ようそろー」
 正面に見えていた神子元島灯台がゆっくりと右に流れて行き、 四万十は針路を南々東に向けた。
「八丈沖で10ノットに減速すれば、日没はベヨネース列岩の手前となり、 そして鳥島での夜明けとなります」
 素早く計算してしまう荒川を見て、洋は感心すると共に、不思議にも思えた。
「ではそうしてくれたまえ。海しか見えないのでは、あいつらも退屈するだろうから」
「了解しました。帰路はバブルジェットの全速ですから、殆どが昼間の航海となります」
 打ち合わせを終えた伯父は船内に降りて行き、荒川は左ウイングに出た。 左前方には尖がった利島が見えている。 洋は荒川がどうして簡単に航海時間を計算できるのか、思い切って聞いてみることにした。
「船長、質問があるのですが・・・」
 洋は荒川の側に行き、恐る恐る声をかけた。
「えーっ、俺に質問だってえ」
 荒川は本当にびっくりしたようで、目を真ん丸にして大声を上げた。
「難しい事を聞いても、俺には答えられないぞ」
「いえ、あのう、さっきの伯父さんとの話なんですが、 島へ着く時間は、どうしてあんな簡単に分かるんですか」
「何だ、そんなことか」
 荒川は安心したようで、いつもの表情に戻った。
「船の針路は殆ど真南だから、島の緯度が分かっていれば簡単に計算できるのさ」
「どうやるんですか」
「だから、ほれ、60倍して、ほれ・・・」
 荒川は自分では熟知しているのだが、他人に説明するのは苦手な様子だった。
「緯度1分が1海里なのは知っているよね」
 焦る荒川に代わって、片山が説明を始めた。
「下田の緯度は34度40分、父島は27度5分だからその差は7度35分、 換算すれば緯度差は455分となる。 真南なら455海里になるが、若干東寄りなので少しばかり遠くなるね」
 洋は黙って聞いている。
「15ノットなら1時間に15海里進むから、直行すれば30数時間という計算になるね」
 片山の説明で洋は納得し、船の速力が時速何qかではなく、 ノットで表されている理由も理解出来た。
「いやあ、さすがに片山さんは説明が上手ですね」
 荒川はほっとした様子だった。
「いえ、私のは単なる雑学に過ぎません。 船長のように素早く航路計画を変更することは出来ませんよ」
 片山は専門の造船学以外にも広い知識を有していたが、 決してそれをひけらかすようなことはなかった。
「では洋くん、東西に進むときはどうなると思う」
「経線は北へ行くほど狭くなるから、同じ1分でも場所によって距離は違うはずです」
「その通り!よく気が付いたね。 ロサンゼルスは下田とほぼ同じ緯度だけど、距離はすぐに出せるかい」
 片山は軽くほほ笑みながら質問した。
「あっ、それは確か・・・真っ直ぐ東に行くんじゃなくて、大圏航路を使うんですよね」
「そう、東へ直進するのは遠回りになってしまう。 経度が分かっても距離はすぐには出て来ないのさ」
 片山はちょっと洋を試してみたのだ。
「式根島がよく見えるよ」
 双眼鏡を覗いていた荒川が言った。
「大勢泳いでる?」
 いつの間にか奈美がウイングに来ていた。
「シーズンだからね。ほら、見てご覧」
 荒川は双眼鏡を首から外して奈美に渡した。
「洋くんは伊豆七島は全部言えるかい」
 また片山の質問だ。
「簡単ですよ。大島・利島・新島・式根島・神津島・三宅島・御蔵島、 そして八丈島の7つでしょ」
 洋は自信たっぷりに答えたが、奈美は洋が名前を挙げた島の数を数えていた。
「おかしいわねえ、8つあるじゃないの」
「おやおや、伊豆八島になってしまったね」
 片山も洋が言った島の数を数えていたのだ。
「そんなはずは・・・」
 念のために洋はもう一度数えてみたが、やはり島の数は8つになってしまった。
「不勉強ねえ、式根島が余分なのよ」
「おや、奈美さん、良くご存じですね」
 奈美は片山に誉められてご機嫌だったが、伯父はその理由を知っていた。
「奈美は旅行ガイドばかり見ていたからなあ」
「なーんだ、そうだったのか。でもどうして式根島は仲間外れなんですか」
 洋はちょっと安心して片山に尋ねた。
「300年くらい前までは、式根島は新島と陸続きだったらしいんだよ」
「じゃあどうして島になったんですか」
「大地震が原因だと言われているんだが・・・」
「物凄い地震だったんですね」
「伊豆諸島は富士火山帯に沿って存在するから、地震の可能性は高い。 しかし島をちぎってしまうためには、膨大なエネルギーが必要だと思うよ」
 四万十は式根島を通過し、右手からは神津島がぐんぐん近付いてきた。 その神津島も後方に去り、今度は左手に三宅島の山頂が迫ってきた。 洋は右に左に行ったり来たりしながら、快適な航海を楽しんでいた。
「山が海に浮かんでいるような島なんですね」
「そうだね。雲海から頭を出している富士山も、 山と言うよりはまるで島みたいな感じがするものね」
 片山にとって、登山も趣味の一つであった。
「次の御蔵島の方が山は高いぞ」
 声の主は機関長の赤石だった。
「この島で取れる柘植材は、将棋の駒に向いているんだ。 しかし山頂まで登ったときは、流石に疲れたなあ」
 赤石は将棋が好きで、趣味が高じて目分でも駒を作っているのである。 伯父も将棋が好きなので、長い航海でも退屈しないように赤石を招いたのである。
「島の周りは絶壁なんですね」
「そう、一口に伊豆諸島といっても、それぞれの島に特長があって面白いだろう」
 片山もこの航路を通ったのは一度だけなので、航海を楽しんでいるようだった。
「塩見さん、昼飯を食ったら1局如何です。八丈までは時間がありますからね」
「機関長が忙しくなけれぱ、是非お願いしますよ」
 伯父はいつになく嬉しそうであった。
「食事の用意ができました」
 御蔵島も後方に去り、料理長の鷲羽が昼食を告げた。 四万十の乗組員は13名、今回は伯父、洋、奈美、片山の4名が加わって総勢17名である。
 昼食を終えて一休みし、洋が再び船橋に上がると、前方には八丈富士がくっきりと見えていた。 名前の通り、海上に浮かぶ富士山のようである。
「こいつらにも何かやらせるかなあ」
 不機嫌な顔付きで上がってきた伯父は、洋と奈美の顔を見て言った。 どうやら赤石との勝負に負けたようである。
「よし、決めた。天測をやらせよう」
「天測をやるって、星を測るんですか」
 洋も天測の概念は知っていたが、もちろん実際にやったことはない。
「ああそうだ。天測は船乗りの基本だからな」
「僕は船は好きだけど、船員になる気はありません」
「うるさい!つべこべ言うと、父島に置いてくるぞ」
 伯父は圧倒的に優勢な将棋を逆転されたので、余計に機嫌が悪かったのだ。
「良い機会だから、やってみたらいいよ」
 片山は伯父の意見に賛成だった。
「私もやるのお」
 奈美も気乗りがしないようだった。
「天測はね、星の高さを測る人と、その時の時刻を計る人と、ペアになってやるといいんだ。 やってみると案外面白いものだよ」
「でも片山さん、今では人工衛星で船の位置が分かるんでしょう」
「確かに現在では衛星航法を始め、色々な電波航法が発達している。 でもね、塩見さんの言うように、天測は最も基本的な航法なんだよ」
 片山の説明を聞いて、洋も奈美も納得し、 天測をやってみようかな、と思うようになってきた。
「島の間を抜けよう。180度に変針」
 荒川は八丈富士と八丈小島の間を通り抜けようと言うのだが、 これは洋と奈美へのサービスだと言って良い。
「本当に富士山みたいですね」
 四万十は両島の中間を通過し、荒川は予定通り次の指示を下した。
「10ノットに減速」
「了解。10ノットに減速します」
 航海士は黒部から野口に代わっていた。
「いやあ塩見さん、あの勝負は私の負けでしたよ」
 機関長の赤石が上がってきた。
「全くだ、優勢な将棋を、あの一手で負けにしてしまった」
 伯父はまだ負けになった指し手を悔やんでいた。
「陸の上では塩見さんにかないませんが、船に乗ったら負けませんからね」
 赤石は自信満々だ。
「それならもう一番!」
 伯父の申し出に、当然のごとく赤石は同意した。
「伯父さん、天測は」
「船長、後は頼んだよ」
 伯父は荒川に天測の指導を依頼すると、赤石と共に船室へ降りていった。
「170度に変針」
 次の針路は、鳥島へのコースだ。 青ヶ島を右手に見て通過し、辺りはだんだんと薄暗くなってきた。
「ロマンチックな夕日が見られるんでしょ」
 奈美は片山の側に来て、楽しそうに話しかけた。
「そうだね。今日はきれいに見られると思うよ。 でも本当はちょっと雲があった方が、夕焼けは見応えがあるんだけどね」
 洋も奈美も、広大な水平線に落ちる夕日を見るのは初めてだった。 しかしその余韻に浸る間もなく、荒川が六分儀を取り出して言った。
「さあさあお二人さん、天測の時間ですよ」
 六分儀を洋に渡した荒川は、突然大声を出した。
「しまった!天測暦がない!」
 船長の驚きようから判断して、天測暦というのは余程大事なものに違いない。 洋は早速船長に天測歴のことを尋ねた。
「天測暦って何ですか」
「天測暦というのはね、星の高度と測定時刻から自分の位置を求めるための表が載っているんだ。 星を測定しただけでは駄目なんだよ」
 あわてて天測暦を探し直している荒川に代わって、片山が冷静に答えた。
「それじゃあ昔の人はどうしてたのかしら。 だって正確な時計なんてないし、天測暦もなかったんでしょ」
 奈美も疑問に感じたことを片山に尋ねた。
「その頃の人にとっては、東経何度何分何秒などという正確な位置は必要なかったのさ。 目測で星を観測して、大まかな位置が分かれば良かったんだよ」
 荒川は念入りに調べたが、やはり天測暦は見つからなかった。
「しょうがない。星の観測だけでもしておこうか」
 4人はウイングに出て、明るい星を探し始めた。 雲は全く無いので、どの星でも測定可能である。 荒川は天測で良く用いられる星に六分儀を向け、測定を始めた。
「奈美さんは星には詳しいの」
「星座なら分かるけど、まだ見える星が少ないから、どれがどの星か分からないわ」
「でも天測は今頃でないと駄目なんだよ。 観測する星がすぐに見つかり、水平線が見える時間帯でないとね」
 奈美と片山が話しているうちに、洋は荒川から星の測り方を教わっていた。
「案外簡単ですね」
「でも船が揺れていると大変なんだぞ」
「次はどの星を測りますか」
 洋にとって、天測は思ったより面白いものだったようだ。
「洋くん、交替する?」
「ううん、もっとやるよ」
 洋は六分儀から目を離さず、別の星を測り始めた。
「すっかり天測が気に入ったようだね。それじゃあ私達は、 もっと暗くなって星が沢山見えるようになるまで休んでこようか」
 片山は奈美を連れて船内に入っていった。 夜間航海に備えて船橋の照明は消され、航海計器の小さな明かりだけが光っていた。
「そろそろお仕舞いにしようか。暗くなってきたから水平線も見にくいだろうし、 星の数が多いので、六分儀に星を捕らえるのが難しいだろう」
「はい。どうもありがとうございました」
 荒川は洋から六分儀を受け取り、丁寧に箱に収めて船橋に戻った。
「わあ、すっごーい」
 荒川と入れ替わりにウイングに出てきた奈美が叫んだ。 快晴の星空を見てびっくりしたのである。
「何だか怖いくらいだわ」
「ちょうど新月だから、今夜は星が主役だね」
 洋は初めて『星明り』というものを実感し、奈美と片山が帰った後も船橋に残った。
「眠くないかい」
 当直の航海士、薬師が洋に尋ねた。
「ずっとここにいていいですか」
 星明りの海に魅せられた洋は、とても眠る気にはなれなかったのだ。 航海士が黒部に代わっても、洋はずっと船橋で海を見つめていた。 やがて東の空が白み始め、前方には鳥島の姿が見えてきた。

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