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 小笠原

「おはよう、洋くん。早起きだね」
 日が昇る前に、荒川は船橋に上がってきた。
「船長、洋くんは徹夜で当直していたんですよ」
「ほほう、それは感心感心。それじゃあ機関長はゆっくり眠れたかな」
 四万十の場合、夜間でも当直員として航海士と機関科員が1名ずつ起きている。 自動化されたエンジンは無人運転が可能だが、万一に備えて待機しているのだ。
「そう言えば、機関長は一度も見ませんでしたよ。寝てたんでしょうかねえ」
 一晩中エンジンを見張っている必要はないので、機関科の当直員も普段は船橋にいる。 必要に応じて後部の機関室や、船底へ行って異状がないか確認するのだ。
「わあ、間に合って良かった!」
 息を切らして奈美が上がってきた。日の出を見たくていつもより早起きしたのだ。
「あら、洋くんも早いのねえ」
 奈美にしても、洋が徹夜したとは思っていなかったのである。
「日が昇りますよ」
 黒部の声で一同はウイングに出て、水平線から顔を出し始めた太陽を見つめた。
「船長さん、鳥島は鳥が多いから鳥島という名前になったんですか」
 洋はまた素朴な質問をぶつけた。
「そうじゃないと思うよ。島の形が鳥に似ているからじゃないかな」
 荒川にそう言われても、洋には鳥島が鳥の形には見えなかった。
「でもあれは、猫が寝そべっているみたいですけど」
「なるほどねえ、猫の形で猫島か。でもね、島は見る方角によって形が違うんだ。 もう少したてぱ、鳥の形に見えてくるよ」
 荒川の言うように、やがて鳥島は大きな鳥が翼を広げたような形に変化した。
「さあ飯だ飯だ。洋くんも徹夜で腹が減っただろう」
「えーっ、洋くん徹夜したの!」
 荒川の言葉に、奈美はびっくりして大声を上げた。
「う、うん。何だか眠れなくて」
「ほらほら、何はともあれ飯だ飯だ」
 荒川は二人を急き立てて降りて行こうとしたが、その前に黒部に針路変更の指示を与えた。
「18ノットに増速、孀婦岩を過ぎたら針路を150度にしてくれ」
「了解。速力18ノット、ガスタービンに切換え。孀婦岩を過ぎたら150度に変針します」
 四万十は中・低速時にはディーゼル機関で発電機を回しているが、18ノットになると 出力が不足するので、ガスタービン機関を使うように計画されている。
 荒川を先頭に食堂兼用の休憩室に入って行くと、 片山は席についていたが、塩見の姿は見えなかった。
「おや、塩見さんは」
「どうやら徹夜のようですよ」
 実は、伯父は赤石と徹夜で将棋を指していたのだ。 朝食後は鳥島のアホウドリが話題となり、奈美が片山に尋ねた。
「鳥島のアホウドリは増えているの」
「絶滅の危機は去ったようだけと、安心はできないね。 でもリョコウバトのようにはならないと思うよ」
「リョコウバト?旅行する鳩ですか」
「北米に棲息していた鳩だよ。推定で50億羽もいたと言われるリョコウバトが、 僅か100年足らずの間に絶滅してしまったんだ」
「えーっ、50億!」
 洋は思わず大声を上げた。
「実際にはそれより多かったかもしれない。少なくとも50億羽のリョコウバトが食料として、 あるいはただ快楽のために殺戮され、短期間で絶滅してしまったんだ」
 片山は淡々と語った。
「塩見さんが探索を予定しているステラー海牛も、食べるため、 あるいは毛皮を取るために殺戮され、発見から短期間のうちに絶滅してしまったんだよ」
「でもステラー海牛が絶滅したのなら、伯父さんはどうするのかしら」
「絶滅というのは何十年も目撃されていないと言うことなんだ。 だから絶滅したと思われていた生物が再発見される可能性も、皆無ではないんだ」
「じゃあこの前見た写真は、やっぱりステラー海牛だったんですか」
 洋は試運転のときに見た写真を思い出した。
「いや、その可能性は低いと思う。ステラー海牛のような大きな動物が、 人目に付かないように暮らせるとは考えにくいからね」
「シーラカンスのようにはいかないのかしら」
 奈美もステラー海牛が気になるようだ。
「海草を主食としていたようだから、近くに浅瀬がなければ暮らせなかったと思われる。 更に無人島で、周囲に漁場がないという好条件が揃わないと難しいね」
「その通り。だがわしは行くぞ」
 将棋を終えた伯父が、赤石と共に入ってきた。
「片山さんの見解は正しい。でもな、何だか会えそうな気がするんだ・・・」
 いつもはおどけている伯父だが、この時は深刻な顔をしていた。
「行ってみなけりゃ分からない。それより塩見さん、朝飯にしましょうや」
 赤石は伯父と同年代だが、徹夜をした割りには元気が良かった。 恐らく塩見との徹夜の勝負で、かなり勝ち越したのであろう。
「これから行く小笠原もね、固有種の宝庫なんだよ」
 食事をしながら、片山は洋と奈美に小笠原諸島のことを話し始めた。
「固有種って、離れ島に多いんでしょ」
「そう、外界の影響を受けないからね。 最も大きな影響を及ぼしているのは、何だか分かるかい」
「人間・・・かしら」
 奈美は自信なく答えたが、正しくその通りなのだ。
「そう、小笠原の場合も観光客が大挙してやってくれぱ、 たちまち滅びてしまう生物も多いだろうと思うよ」
 片山はその他にも、小笠原諸島の歴史的な説明や、 固有の動植物について色々な話をしてくれた。 3人が食事を終えて船橋に上がっていくと、退屈していた黒部が話しかけてきた。
「もう少し経てば、孀婦岩が見えてくると思いますよ」
「えっ、もう小笠原に着くんですか」
 伯父の話とは全然違っているので、洋はびっくりして大きな声で尋ねた。
「ははっ、孀婦岩は小笠原ではないよ」
 黒部は笑いながら答えた。
「さっき船長さんが言ってたでしょ。孀婦岩を過ぎたら変針だって」
 奈美は食事前に荒川が言ったことを、しっかりと覚えていたのだ。
「全く洋くんは忘れん坊なんだから」
 奈美からそう言われても、洋は反論することが出来なかった。 もっと何か言われるかと洋は心配していたが、黒部の声が洋の窮状を救った。
「孀婦岩が見えてきましたよ」
 黒部に教えられて右前方へ双眼鏡を向けると、そこには細長い岩が海中から突き出ていた。 それは島と言うよりも、正しく孀婦『岩』と言う名前にふさわしいものだった。
「どうしてあんな岩があるんですか」
 孀婦岩は洋にとって、不思議な存在以外の何者でもなかった。
「伊豆七島や鳥島も含めて富士火山帯に属しているんだけれど、 孀婦岩も海底火山の山頂が海面に飛び出していると考えれば良いだろうね」
 片山はあっさりと答えた。洋も、それはそうなんだけれど・・・と思いつつも、 やっぱり不思議な岩だなあ、と言う気持ちが消えることはなかった。
 孀婦岩を過ぎると予定通りに変針し、やがて孀婦岩も見えなくなると、 四万十の周囲には海が広がっているだけとなった。 行き交う船もなく、聞こえてくるのはガスタービン機関の回転音だけである。


「島影が見えます」
 双眼鏡で前方を見張っていた野口が叫んだ。最初に見えてきたのは聟島列島だ。 四万十は聟島列島を横目にして通り過ぎ、父島の二見港に向かった。
「わあ、きれいな海!」
 小笠原の海に奈美は思わず歓声を上げたが、後ろにいた機関長の赤石は、 思いもかけない言葉を発した。
「この海も汚くなったなあ」
「えっ、こんなに澄んでいるのに」
 奈美は赤石の言葉にびっくりして叫んだ。
「昔はもっときれいだったんだよ。 最近はレジャー客が押し寄せるようになったから、海が汚れる一方だ」
 赤石が初めて父島を訪れたのは30年前、アメリカから返還された翌年だった。 その当時は住民も少なく、観光客が来ることも無かったのだ。
「でも関東周辺の海よりずっときれいだわ」
「みんな本当にきれいな海を知らないんだ。 内地の汚れた海に慣れてしまっているので、 ここの海を汚しても気が付かないのかもしれないな」
 赤石は悲しそうな顔をして言った。
「投錨用意!」
 荒川の声が響いた。
「錨はどこにあるんですか」
 洋は片山に尋ねた。船首のどこを探しても、錨は見当たらなかったからだ。
「すぐに分かるよ」
 片山は笑いながら答えた。
「テェーッ」
 ガラガラガラガラーーーッ!
 船尾の中央付近から、大きな音を立てて錨鎖が滑り落ちて行った。
「驚いたかい」
「はい、あんな所から錨を落とすなんて、思ってもみませんでした」
「四万十は双胴船だし、ジェット推進なのでプロペラがない。そこで船尾中央に決めたんだよ」
 洋は片山の柔軟な発想に感心させられた。
「ゴムボートを出すが、上陸するかね」
 錨を入れ終わった荒川が、洋たちに尋ねた。
「いえ、私は結構です」
 片山が断ったので、洋も上陸しないことに決めた。
「私は行くわ。お土産買わなくっちゃ」
 奈美は言うが早いか、さっさとボートに乗り込んだ。
「洋くんも行けばいいのに」
 片山にも勧められたが洋は船に残り、タ食を食べるとすぐに寝てしまった。 昨夜は一睡もしていなかったので、疲れがたまっていたのだ。
 翌日は早朝に二見港を出て父島列島を一周し、母島に向かった。
「ねえ伯父さん。泳ぐ時間はないの」
「泳いだっていいが、シャワーは使わせないぞ。真水がもったいないからな」
「んもう、せっかく水着持ってきたのに」
 奈美は不満だったが、伯父が言うように船にとって真水は貴重品なのである。
「海水から真水を造る機械はないんですか」
「もちろん造水装置はあるが、大量には造れないし、燃料も消費するからね。 特に小さな船では、真水は大切に使わないとね」
 洋は片山の説明に納得したが、奈美は依然として不満な様子である。
「大丈夫ですよ、私に任せなさい」
 赤石は小声で奈美に囁いたが、伯父にはしっかりと聞こえていた。
「3時間だけだぞ」
 伯父の許可を得て奈美は大喜びし、四万十はやがて母島に到着した。
 父島では船に残った洋も、母島では片山と一緒に上陸し、赤石の案内で山の中に入って行った。 観光客も来ない山中には道らしいものは無かったが、それでも赤石はどんどん進んで行った。
「すっかりボロボロになっちまったなあ」
 赤石の案内で一行がたどり着いた所は戦争中に造られた陣地跡で、 赤錆た機関砲の残骸が空をにらんでいた。 赤石は返還直後の小笠原を訪れた時、母島の山中に入ったことがあったのだ。
 奈美は乗組員と一緒に泳いでいた。 本土の海水浴場に比べれば、信じられないくらい水もきれいで静かな海である。 目的が達せられた奈美は、すっかりご機嫌だった。
 今回の目的は小笠原の観光ではなく、 ステラー海牛を求めてべーリング海へ行くための予行運転である。 母島滞在も4時間程で切り上げ、四万十は帰路についた。
「15ノットで行けぱ嬬婦岩で夜明けとなります。 以後は予定通り全速で北上すれぱ、5時には下田に入港できます」
 荒川が航海予定を伯父に説明する。
「西之島には寄れるかな」
「20ノットで行けぱ日没前に到着します。以後は15ノットで、 嬬婦岩到着はほぼ同じ時刻となります」
「勿論燃料は大丈夫ですよ」
 赤石が燃料消費量を素早く計算し、伯父も了解して西之島に立ち寄ることに決定した。 四万十はゆっくりと左旋回し、西北西に針路を取った。

「なーんだ、ちっぽけな島ですね」
 西之島を見た洋は、なぜ伯父がこの島に寄り道したのか分からなかった。
「この島があるお陰で、半径二百海里の排他的経済水域が得られるんだ。 漁業や海底資源の優先権があり、小さくても大切な日本の一部なんだよ」
「はいたてき・・・?」
 片山の話はちょっと難しく、洋には理解できなかった。
「全く役人と言う馬鹿者共は、訳の分からん名前を付けやがる。 漁業専管水域の方がまだましと言うものだ」
 赤石が憤慨しながら言った。
「でも機関長。今では海底資源の存在も重要ですからね」
「まあ、それも分からんことはないですけどね・・・」
 赤石はいかにも役人的で、野暮ったい名前が大嫌いなのだ。
「役人のセンスはその程度のものさ。片山さん、何か良い名前は無いかね」
 伯父も役所的なその名前は嫌いなようで、片山に話を振った。
「えっ?名前ですか・・・」
 いつも冷静な片山も、今回はちょっと面食らったようである。
「準領海・・・なんてのは如何です?」
「流石は片山さんだ。その方が分り易くって良いわい」
 赤石は大賛成である。洋には難しいことは分からなかったが、 小さな西之島が大切な島であることを知り、伯父がこの島へ寄った目的も分かった。
「速力15ノット、針路350度」
 この日は若干の雲があり、きれいな夕焼けが見られた。 洋が船橋に残っていると、航海士の中で一番若い薬師が、海図を広げて説明してくれた。
「ほら、これを見てご覧」
 薬師が海図上に定規を当てると、針路350度の直線上には、 西之島から伊豆大島まで点々と島が連なっていた。
「さあ、今夜はもう休みなさい」
 薬師に言われるままに、洋は船室に降りていった。


 翌朝目覚めたときには、もう嬬婦岩が見えていた。
「速力20ノット、バブル噴射用意!」
 荒川は張り切って号令を下し、四万十は急速に速度を上げていった。 バブルジェットを使用するのは、通常は速力が20ノット以上のときだけである。
「一体何があったの」
 奈美が船橋に上がってきた。 奈美にとっては初めての、バブルジェットによる急加速で驚いたのだ。 四万十は鳥島を過ぎ、海に飛び出た岩や八丈島を過ぎ、 やがて御蔵島沖に達すると左寄りに針路を変えた。
「あと2時間半で下田です」
 荒川が伯父に報告した。
「予定通りだね、ご苦労さん。奈美も洋も満足したかな」
「バッチリ楽しんだわ。また誘ってね」
 奈美はご機嫌だったが、洋は何故か深刻だった。
「僕も楽しかったけど、伯父さんはあまり楽しそうじゃなかったみたいですね」
「危険な場面が全然無かったからね」
 赤石が茶化すように口を出した。
「危険な場面って、例えばどんな場合ですか」
 洋の質問に、伯父は珍しく真剣な顔をして答えた。
「死ぬ思いをしたことがある。それはだな・・・」
 塩見が遭遇した危険な場面とは、一体どんな状況だったのであろうか。 洋はもちろん、全員が固唾を呑んで次の言葉を待った。
「横断歩道を渡っていた時だ。 俺の方は青信号だったのに、あの馬鹿野郎め、死ぬ思いをしたぞ。 ぶち殺してやろうかい」
 一同は塩見の言葉を聞いて呆気に取られたが、赤石だけは大笑いしながら言った。
「わっはっは、そりゃあそうだ、全くその通りだ。 日本の道路ほど危険な場所は無いわい」
「さすがは我が棋友だ、分かってくれたか」
 伯父の顔は、いつもの塩見の顔に戻っていた。
「その通りですぞ、塩見さん。だから私は海が好きなんだ。 海の上までは、どんな暴走車だって追いかけて来ませんからな。そうでしょう、船長」
 赤石は荒川にも同意を求めた。
「ええ、まあ、否定はできませんな。 しかし海の上でも、特に東京湾辺りでは暴走船が多いですよ。 最近は海衝法も全然守らない輩が増えましたからなあ」
 船長も機関長も、もう30年以上船に乗っているのだ。
「カイショウホウって何ですか」
「海上衝突予防法の略で、海の上の道路交通法みたいなものだと思っていいね」
 洋の質問には、横にいた片山が答えた。 四万十は来た時と同じ様に神津島と式根島の間を通り抜け、 程なく神子元島灯台を通過した。
「バブル噴射止め、速力10ノット」
 半日にわたって噴射され続けていた気泡が消え、 速度を落とした四万十はゆっくりと下田港に入っていった。
「ところで片山さん、ものは相談なんだが・・・」
 赤石が片山に話しかけた。
「私の部屋に畳を入れてもらえないだろうか」
「えっ、畳ですか」
 赤石の提案に、片山はちょっと驚いた。
「塩見さんとも相談したんだが、この船にも保安要員は必要だし、 ずっとこの船で暮らそうと思うんだ」
「機関長のベッドには無理ですね。 でも次は奈美さんがいた部屋が空きますから、そこへ入れましょうか」
 赤石の部屋は二人部屋で、ベッドの幅も狭いのだ。
「どこでもいいよ。長いこと船に乗ってはいるが、やっぱり畳の方が落ち着くんだ」
「それでは次の出港までに用意しておきましょう。 なあに、特別な工事はありませんから簡単ですよ」
「機関長、これからはあの部屋の名称を予備室ではなく、 特別対局室と変えましょう」
 伯父も畳に賛成したのだが、理由は将棋の対局だった。
「それは良い考えですな。やはり将棋は畳の上で指すのが一番ですからな」
「そうです。今回は椅子だったので負けましたが、畳の上なら負けませんぞ」
 伯父と赤石の対局は、今後も続きそうだ。実を言えば、 伯父の機嫌がちょっと悪かったのは、赤石に負け越していたからだったのだ。
「入港用意」
 四万十は犬走島を回り、静かに岸壁に近付いて行った。 岸壁では連絡を受けた伯母が待っていた。 自宅には帰らず、ずっと伯父の家に泊まり込んでいたのだ。
「片山さんは帰っちゃうの」
「残念だけど、明日は会社に行かなくちゃね」
 ステラー海牛を求めてのベーリング海への航海は、長期の日数が必要となる。 洋は、次の航海にも片山が乗ってくればいいのに、と思っていたのだ。

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