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 海上試運転

 バブルジェットは快調に作動していた。 真っ白な2条の航跡は長く延び、頬に当たる風は四万十が高速で航行していることを語っていた。
 洋が初めて経験するガスタービン機関は、 甲高い音を立ててはいるが振動は全く感じられなかった。 全力運転をしているディーゼル機関にしても、 緩衝装置がよく効いていて不快な振動は感じられない。 騒音も低く押さえられているので、話をするのに大声を出す必要もなかった。
「24ノットは確実ですね」
 ドック長はご機嫌である。普通の漁船や貨物船の速力試験では、 これほどの速力は経験出来ないからだ。
「24ノットと言うのは、最低限の目標ですからね」
 設計者である片山にしてみれば、24ノットの速力では満足出来ないのである。
「いやあ、私はほっとしているよ」
 建造主任の空木である。
「現場の工作が悪くてスピードが出なかった、と言われなくてすむからね」
「いやいや、空木さんの腕は天下一品、私は何にも心配していませんよ」
 船主である伯父も上機嫌だった。
「間もなく標柱間を出ます」
「計測用意」
 真顔に戻ったドック長は、再び双眼鏡を松原に向けた。
「30秒は切れますね」
 1海里を2分30秒で走れば24ノットである。建造主任はあくまでも慎重であった。
「やはり20秒は切れなかったか」
 片山は自分の腕時計を見ながら、ちょっと残念そうな顔をして言った。
「よおーーい」
 ドック長は双眼鏡から目を離さずに、大声で号令を発している。
「テェーッ」
「25秒7!」
 計測員はストップウオッチを見て所要時間を読み上げ、手にした表を見ながら言った。
「24.7ノットです」
「やったやった。塩見さん、如何ですか」
 空木が嬉しそうな顔で伯父に話しかけた。
「いや、ありがとう。十分満足しているよ。片山くん、これだけ出れば申し分ないよ」
「はい、確かに仕様は満たしています。 でも私としましては、何とか25ノットまで出て欲しかったのですが・・・」
 片山は相変わらず深刻な顔をしていた。
「おいおい、片山くん。そんなに欲を出すもんじゃない。 それに復路は幾分追い風になるから、もうちょっと出るはずだぞ」
 空木も片山を慰め、励ました。
「おもーーかーーじ」
 ドック長の号令で四万十はゆっくりと右旋回を始めた。 速力試験では風や潮流の影響を無くすため、同じコースを往復して平均値を取るのである。 通常は1往復だけなのだが、四万十では1往復半を予定していた。
「片山さん、質問していいですか」
 洋は恐る恐る片山に話しかけた。
「なんだい、洋くん」
 振り向いた片山はいつものような穏やかな顔に戻っていたので、洋は安心して質問をした。
「この船には、速度計は付いていないんですか」
 洋はこの速力試験のやり方を、何となく古臭いなあ、と感じていたのである。
「もちろん付いているさ。この試験はその速度計の作動を確認する試験でもあるんだよ」
 速度計のセンサーは船底についている。 実際に動いている船に装備してから、正常に作動するかどうかを確認しなければならないのだ。 このことは速度計だけでなく、その他の機器についても同様なのである。
「間もなく入ります」
 試験コースに乗った四万十の後方には富士山が見える。往路とは正反対の針路だ。
「よおーーい」
 先ほどと同じように、ドック長の声で計測員が身構える。
「テェーッ」
 復路の速力試験の開始だ。 船橋内では操舵員がジャイロレピーターを睨み、コースから外れないように舵輸を握っている。 2本の標柱を結んだ線と平行に走らなければ、1海里より長い距離を走ることになるからだ。
「速力試験はいつもこうするんですか」
 洋は再び片山に尋ねた。
「いや、電波ログを使う方法もあるんだよ」
「電波で計るんですか」
「そうだよ。陸上に設置した反射板に電波をぶつけるんだが、 天候の影響を受けない利点があるね。 それに試験海面を自由に設定できるのも、大きな利点だと言えるね」
「天候の影響って?」
「この方法だと、視界が悪くて標柱が見えなかったら計測出来ないからね。 電波ログだと雨や霧の日でも大丈夫なんだよ」
「ふーん。色々と進歩しているんですね」
 洋は、そんな便利な機械があるのなら使えばいいのに、と思ったが、 昔からのやり方に愛着を持っている人もいた。
「わしはこのやり方が好きだよ」
 ドック長の声である。
「速力試験をやっている実感が湧くからね」
「それはそうですね。特に今日みたいに天気の良い日だったら、 試験をやるのも楽しいですよね」
「ああ、機械とにらめっこするのは嫌いだよ」
 ドック長は片山と話をしながらも、双眼鏡で標柱をにらんでいる。
「もうすぐ出ます。若干早いようですね」
 計測員は肉眼で標柱を観測し、おおよその所要時間を予測している。
「よおーーい」
 ドック長は一段と張り切っている。
「テェーッ」
「24秒6!」
 僅か1.1秒だが、予想通り往路よりも早かった。
「24.9ノット、平均で24.8ノットです」
 計測員は素早く速力を割り出した。 伯父とドック長は満足しているし、片山も今度は冷静に聞いている。 洋は計測員が持っているケースを指差して尋ねた。
「あの表にはスピードが書いてあるんですか」
「そうだよ、所要時間に対応させて書いてある。電卓があれば計算しても簡単だけどね」
「どうやるんですか」
「3600を、1海里を走った秒数、今の場合なら144.6で割れぱいいのさ」
「えっ、24秒じゃあ・・・」
 計測員の言った秒数とは違っていたので、洋は驚いて聞き返した。
「ふふっ、いくらこの船でもそんなに早くは走れないよ。 2分台で走ることは予測できるので、2分は省略して読み上げたのさ」
 洋は2分を省略することについてはなるほどと思ったが、 どうして3600を所要秒数で割れば良いのか、すぐには理解出来なかった。
「では塩見さん、お約束通りもう1航過します」
 空木が伯父に向かって言ったが、伯父は腕組をしながら答えた。
「うーん、予定より出ているから、どうしようかなあ」
 契約上はもう一度往路を走って計測することになっているのだが、 伯父はそんな細かいことに拘るような人間ではなかった。 予定よりスピードが出ていたので、もう止めても良いと思っていたのである。
「いいや、絶対にやるべきです」
 強い口調で言ったのは、ドック長だった。 もう計画以上のスピードが出ることが分かっていたので、 ドック長は四万十のスピードを楽しみたかったのである。
「ドック長がその気なら、是非お願いしますよ」
 伯父は笑いながらドック長を見て言った。
「了解!これよりコースに戻ります。とーーりかじ」
 ドック長の号令で、四万十は今度は左に旋回し、再びコースを富士山に向けた。
「もう1回、行ったり来たりするんですか」
 洋はまた片山に尋ねた。
「いや、今度は片道だけだよ」
「えっ、往復して平均値を取るんじゃあないんですか」
「ふふっ、この方が航走回数は少ないのに、結果は正確なんだよ」
 片山の答は意外なものだったので、当然洋は聞きかえした。
「1回しか走らないのに・・・どうしてですか」
「それはだね・・・」
 片山が洋に説明しようとした時、会社から片山に電話がかかってきたので、 洋は片山の説明を聞くことは出来なかった。
 今回も北上するコースでは前回と同じ25秒7、速力は24.7ノットであった。 四万十の速力試験は予定通り終了し、船上では次の試験に移る準備が進められていた。

「続いて後進試験を行います」
 空木が次に行う試験を伯父に説明し、予定表に従って色々な試験が進められていった。 洋は片山と共に船室に入って休憩し、もう一度先ほどの疑問を聞いてみた。
「風も潮の流れも頻繁に変化する訳ではないから、そうは違わないんだけれどね。 でも理論的に説明するとね・・・」
 片山の話は、次のようなものだった。


 風が徐々に弱くなっている状況下で速力試験を実施した場合を考えてみる。 分かり易いように最初の風速を5m/s、1回航走する度に1m/s低下すると仮定する。 2往復した場合には往路では5m/sと3m/s、 復路では逆向きに4m/sと2m/sの風を受けることになり、 風向きがどちらであれ、往路で受ける風速の方が大きくなってしまう。 しかし1往復半の場合には、最初の往路と復路の平均、 次に最初の復路と2度目の往路の平均を出し、両者の平均値を船の速力とする。 すると往路に受ける風は5m/sと3m/sで変りはないが、 復路に受ける風は4m/sと4m/sになるので、風の影響は往路も復路も同じことになる。 実際に計算する場合は復路の速力を2倍し、 それに2回の往路の速力を足して4で割れば、簡単に求めることが出来る。


「ふーん、でもどうして3600を計った時間で割れば、船のスピードが分かるのですか」
 洋はもう一つの疑問についても尋ねた。
「1時間は60分、つまり3600秒になるね。 標柱間を走るのに要した秒数で3600を割れば、1時間に何回標柱間を走れるか、 つまり何海里走れるかが分かるだろ」
「あっ、そうか。1ノットと言うのは、1時間に1海里走るスピードでしたよね」
 言われてみれば簡単なことだった。 海里とかノットとか、普段使わない単位が多用されていたので、 洋は少しばかり面食らっていたのである。
「船酔いは大丈夫かい」
「ええ、本当にこの船は揺れないんですね」
「今日の海面は平穏だけれど、多少の波やうねりがあってもこの程度だよ」
 片山の目信作である四万十は、予想通りの性能を発揮しているのだ。
「さあ、飯だ飯だ」
 伯父が空木と共に入ってきた。
「午前中の試験は予定通り終了しました。後は緊急後進試験と、 緊急操舵試験を残すだけです」
 空木は試験方法の詳細を伯父に説明しているが、何かしら不安げな様子である。 伯父もいつになく真剣な顔をしている。
「いやあ、その2つが問題の試験ですね。 私も長いこと船に乗っていますが、こんな試験は初めてですからね」
 操船を部下に任せて降りてきたドック長も、残された試験には自信がないようだった。
「心配はいりませんよ。2倍の負荷をかけた陸上試験でも異状は無かったし、 船体強度に関しては自信がありますから」
 片山は皆の不安を打ち消すように、自信を持って言った。
「しかし船に装備してからトラブルが発生することもあるからね」
 空木はそれでも心配そうだったが、洋は片山を信頼していた。 ドック長は心配そうな顔もしていたが、船乗りとしての興味もあるようだった。
「貴重な経験とも言えるから、思い切ってやるか」
 伯父も片山の言葉で元気になったようだが、試験内容の分からない洋は片山に尋ねた。
「どんな試験をやるのですか」
「全力航走中に、バブルを逆噴射させるのさ」
 片山があっさりと答えたので、洋は騒ぎ立てるほどの試験でもないのに、 と思ってそれ以上詳しくは聞かなかった。


「時間になりました」
「ヘリは飛んできたか」
「はい、既に視界に入っています」
 試験の状況を把握するため、ヘリコプターに上空からの撮影を依頼しておいたのだ。 船舶の就役前の写真は、通常は速力試験の時に固定翼の軽飛行機で撮るのだが、 今回は特別な2つの試験の様子を、写真とビデオの両方で撮る予定なのである。
「露天部に出ている人間はいないな」
 船橋に上がったドック長は、各部の配置完了を確認して前進全速を命じた。
「逆噴射30秒前、各人衝撃に備え」
「洋くん、急ブレーキがかかるからね。前にある手摺りにしっかりとつかまっていてね」
 片山の言葉で緊張した洋は、言われるままに手摺りを握り締めた。
「10秒前・・・よおーーい」
 今回はドック長の声も緊張している。
「テェーッ」
 グオオオオオーーッ!!
 船体を震わす大きな振動と同時に、洋は思わずつんのめりそうになった。 船側の海面は真っ白に泡立っていたが、洋には見ている余裕はなかった。
「主弁閉鎖!」
 船橋の後部で計器を監視していた工員が、緊張した声で報告した。
 グォワワワワーーッ!!
 振動は更に一段と大きくなり、船の速力は急激に落ちていった。
「船体停止!」
「後進を始めました」
 不快な振動も治まり、洋もようやく落着きを取り戻した。 後進を始めた四万十の両側からは、白い泡が幅広い航跡となって前方に延びていた。
「各部異状の有無を調査せよ」
 ドック長は慎重な姿勢を崩さずに号令を発し、何人かの工員が船底に降りていった。 試験中は万一の事故に備え、全員が上部の船内に集まっていたのだ。
「停止までの時間は5秒です。一応計画通りですが、まあ上出来ですね」
 冷静な片山も、さすがにほっとしたようである。
「右舷推進室異状無し」
「左舷推進室異状無し」
 慎重だった空木も、各部から異状無しの報告を受けてようやく安心したようだ。
「25ノットからたった5秒で停止か、いやあ、実にすばらしい。 この船の船長になる人がうらやましいですなあ」
 試験前には少し不安もあったドック長だったが、 試験の結果に満足して上機嫌で伯父に話しかけた。もちろん伯父も大満足である。
「各部の振動解析は入港してから行います。 数日で詳細が分かると思いますので、結果が出たらまたご連絡します」
 技術者である片山にとっては、今後の設計に役立てるためにも、 視認による異状の有無だけではなく、詳しく解析したデータが必要なのだ。
「では前進に切換え、最後の試験に移ります」
 緊急操舵試験を行うためにはもう一度前進全速とする必要があり、若干時間がかかる。 試験が進むに連れて洋は四万十が好きになり、 この風変わりな船を建造した目的を伯父に尋ねた。
「思ったより凄い船ですね。でも伯父さんは、どうしてこの船を造ったんですか」
「目的か、目的はこれだよ」
 伯父は1枚の写真を取り出して洋に見せた。 水面上に何か動物のようなものが写っていたが、ぼけているので良くは分からなかった。
「何ですか、これは」
 洋が聞き返すと、伯父は写真を裏返した。 写真の裏には次のように書かれていた。
 『ステラー海牛』
「ステラーウミウシ?」
 ウミウシなら海底に棲んでいるはずだし、大きさも全然違うようである。 ステラー海牛とは、一体どんな動物なのだろうか。
「馬鹿者!ウミウシじゃない、カイギュウだ。ステラー大海牛だ」
「カイギュウ・・・ですか」
 カイギュウ?カイギュウなんて、洋にとっては聞いたことの無い名前である。 やはり海に棲んでいる、牛のような動物なのだろうか。
「ジュゴンは知ってるかい」
 片山が後ろから声をかけた。
「えっ、ジュゴンと言えば、人魚のモデルになったという海に棲む動物でしょう」
 洋は振り向いて答えた。
「そう、そのジュゴンも海牛の仲間で、 学問的には哺乳綱海牛目ジュゴン科に分類されているんだよ。 でもステラー海牛については、私も詳しくは知らないよ」
 片山は技術者としても一流であったが、専門以外にも幅広い知識を持っていた。 洋はステラー海牛について伯父に聞こうと思ったが、その前にドック長の声が轟いた。
「全速になりました」
 今まで以上に気合が入っている。
「いよいよ最後の試験、緊急操舵試験です。気を引き締めていきましょう」
 前の試験では落ち着かなかった空木も、今回は安心しているようである。
「面舵から行きます。よおーーい」
 四万十は普通の船とは異なり、後部からのジェット噴流の噴出方向を変えて針路を変更する。 しかし緊急の場合には片側だけ、 例えば面舵の場合には右側だけを逆噴射させ、急速に変針することが出来るのだ。 左右のジェット噴流が反対方向となるので、戦車のように小回りが出来るのである。
「テェーッ」
 ドック長の号令によって右舷だけが逆噴射され、 真っ白な泡を中心として四万十はくるりと旋回した。 一般の船では考えられない程の急施回だったので、伯父もドック長も大満足である。 引き続き取舵の試験も同様に行われ、全ての試験が無事に終了した。
「本日の試験は予定通り終了しました。これから帰港します」
 空木が嬉しそうな顔で伯父に報告した。
「ヘリからの撮影も良好との連絡が入りました。帰してもよろしいですか」
「ご苦労さん、帰ってもらいなさい」
「空から見たら、どんな感じになるんだろうなあ」
 伯父が独り言のようにつぶやいた。
「塩見さん、それならご心配なく。 ビデオは直接工場に届けて貰うことになっていますから、 入港したら直ぐに見られると思いますよ」
 空木の説明を聞いて、ドック長も張り切って号令をかけた。
「そいつは楽しみだ。早く帰らないといけませんな。とーーりかじ」
 ドック長は四万十を旋回させ、帰路についた四万十は船首を富士山に向けた。
「針路は富士山」
「富士山ようそろーー」
 『ようそろ』と言うのは船ではよく使われる言葉で、 この場合には『このまま富士山目がけて直進します』という意味になる。 最初は変な言葉だと思っていた洋も、今ではこの言葉が好きになっていた。
 今回は梅雨の晴れ間にも恵まれて快適な航海となり、 洋にとっては最良の一日だった。 学校を休むことに反対した父には、伯父が話をつけてくれるだろう。 学校では絶対に得られることのない、貴重な経験をしたのだから。

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