『下級生を教えた苦労話』   9期 鈴木


 1977年5月8日、私はこの日を忘れることができません。

この日がなんの日だったかと申しますと、1年生達(第11期)にとって、第1回目のクラブ活動でありました。

私は、この日まで泳げない人間が、この世に多数存在することを知ってはいましたが、

まさかそのような人間が、うちのようなクラブに入って来るとは夢にも思いませんでした。

だいたい勧誘の際、面接にあたった者どもがどのような口をきいたか知りませんが、

一応、泳ぐことができるという大前提のもとに入部を許したのでありましょうし、試験的に千駄ヶ谷のプールで泳がせてもみたのです。

が、しかし、その網の目をかいくぐって、敢然と、海に、自己に、挑戦した男、その男こそ○○でありました。


 その日、準備体操の後、バディの発表があり、私の受持ちは○○と決まりました。

繰り返しますが、海に潜りたくてこのクラブに入って来たのだから、当然泳げるだろうと思いこんでいましたし、

プールにも行ったということから何の心配もせず、「オイ、行くぞ」と声をかけ海に入りました。

フィンをはくのにかなり手間取っていましたが、はきなれないところへもってきて、スーツやウエイトをつけるのは初めてのことなのだから、

幾分とまどっているのだろうくらいの調子で、腰ぐらいの深さの所から泳ぎはじめました。

他の1年生は、それぞれのバディに連れられて沖のブイに向っております。

振り返ると、○○はマスクをつけ、シュノーケルをくわえていながらも一生懸命顔を水面に出そうとして、

なにやらガボガボともがいているではありませんか。

「ハテ、こいつはいったい何をやっとるんじゃろう」とながめておりますと、少し先にいた米田さんが「ウエイトはずせ!」と、怒鳴りました。

とっさにウエイトをはずしにかかると、○○は私に抱きついて来ました。何と彼は、おぼれかけていたのです。

「この野郎、どういうつもりだ、殺しちまうところだったじゃねえか。泳げもしねえで潜ろうだなんて、ふてえ野郎だ!」と思ってもはじまりませんし、

いつまでも抱いているわけにもいかず、岸近くで水泳練習をはじめました。

まず、人間の身体は浮くことを教え、シュノーケルで息をすることを教えました。

次にフィンをはいた足の動かし方(フィンの使い方以前の問題)。

彼は、フィンをはいて地面に立っている状態、つまり90度に曲ったままの足首にフィンをつけて上下に動かしているだけだったのです。

これを水平にもってこさせるまでには、かなりの時間を要しました。

さらに、両手を水平につっぱり、顔といえば真下を向きっぱなしで、身体中カチンカチンになっている彼をリラックスさせ顔を前方に向けるために、

水面近くを泳ぐイワシや、海底を泳ぐハコフグ等を見せたりしました。

帰りの電車で、○○もそうとう疲れた様子でしたが、こっちもドッと疲れ、正直なところ、ただただあきれはて、これでつづくのだろうかと心配になり、

同時にどうやって教えつづけていったらいいのかと不安になりました。

東京校舎のミーティングでも、毎回彼を教えるにあたっての話し合いがもたれ、

とにかく潜りたくて入部したのは、他の1年生と同じなのだから、なんとか潜れるようにしてやろうということになりました。

上級生が心配したことは、彼だけおくれることによりコンプレックスをいだくのではないかということと、海をこわがらせてはいけない、

また、教える側が短気をおこしてはいけないということでした。

一方、○○は上級生達の心配を知ってか知らずか、休まず海に来つづけました。

その点、根性があると言えば、そう言えなくもないのですが、いざ海に出ると身体はあいかわらずカチンカチンで、練習はなかなか進まず、

短気な私が今にも怒鳴りつけそうなのを見て、吉川さんや永井が猫なで声で、だましだまし教えたこともありました。


 一番みんなを心配させたことは、エントリーのたびに大量の水を飲んでくることで、シュノーケルを変えたことにより多少は良くなりましたが、

陸にあがったとたん、しゃがみこんで、これでもかっていうくらい大量に水を吐きました。

前期最後の海では、血ヘドまで吐きまして、クラブ員一同、大心配大会をやらかしました。


 その○○も、それこそ文字通りの血を吐くような努力のかいあって、現在ではボンベを背負えるようになっています。

まだまだ、素潜りにしても、ボンベにしても上の者がついていないと危ない状態ですが、

もうすぐ新1年生も入って来ることですし、頑張ってもらいたいものだと思っております。



          


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