(承前)

3.仙水忍/最後の夏

十年近く留守をしていた日本は、だいぶん様変わりしていた。
忍の表情は暗くなり、外へ出たがらなくなった。久しぶりだからそうとう騒々しいだろう、と覚悟はしていたようだが、ゴミゴミした街を歩くのは予想以上の苦痛らしかった。
俺は、忍のためにマンションの高い階を新しく借り、日常の雑用をこなしはじめた。マコトやヒトシといった日常人格がなりをひそめ、理屈屋のミノルあたりがでてくる事が増えたからだった。
よくない、傾向だ。
仕方なく留守にする時、俺は忍を、流行のTVゲームの前に座らせることにした。
「こういうのは下らないものだけど、多少の気晴らしにはなるよ」
「……そうだな」
子供の頃にも少しやったさ、と忍は笑った。
しかし、彼の上達の仕方はすさまじかった。どんなに難しいゲームでも、機械の反応速度さえ許せば、一日以内に終わらせてしまう。
「本当は、もっとゆっくり楽しむべきものなんだろうな」
そう忍は笑ったが、初めてのゲームで、全ての枝葉に寄り道をしても、二時間以内に主人公のヒットポイントを最高値まであげてしまったりするだけの能力があるのだから、まあ仕方の無いようなものだ。
その日の忍は、ゲームボーイを手にしていた。薄紫の小さな機械を、大きな掌の中でもてあそびながら、うっすらと微笑んでいる。
「これはどういうゲームなんだい?」
話しかけると、忍は軽く首を傾げて、
「ああ。人間界を混乱に陥れる堕天使を倒すんだ。主人公は徒党を組んで、パワードリンクと、クリスタルと、サタンの輪を使って進む。途中のゲームに勝って経験値を上げると、早くすすめるらしい」
「ふうん。……面白いかい?」
「ああ。面白い」
ピキィン、という電子音をしばらく鳴らしていたが、どうやらこれもすぐに終わってしまったらしい。忍はスク、と立ち上がった。
「出かけるぞ」
「えっ? 出かけるって、どこへ?」
「そろそろ昼だ。たまには外でメシを喰っても、いいだろう」
「ああ、そうだね」
うなずいて、俺はエプロンを外した。忍は俺の脇を通り抜け、こう囁いた。
「おまえにばかりつくらせて、悪いな」
「忍……」
俺は、戸惑った。
言葉のやさしさとは裏腹に、忍の口元に浮かんでいるのは皮肉な微笑だったからだ。
「どうした。行くぞ」
先にたって、忍が案内してくれたのは、皿屋敷市の町中にある小さなメシ屋だった。安い丼物や定食の名前が書かれた小さな木札がメニューがわりの、典型的な下町のメシ屋である。
忍にしては意外な場所選択だと思ったが、見かけより質をとったらしい。味はまあまあだった。休日でもないのに混んでいるのは、値段と味が折り合っているからだろう。一番うまかったのは最後の緑茶で、この店の娘らしい少女がニコリと笑いながら煎れてくれたそれには、幾つも茶柱がたっていた。人間はこれを、縁起がいい、と喜ぶらしい。
「おいしいな、このお茶。……おかわり」
娘はイヤそうな顔もせず、もう一度熱い茶をついでくれた。忍がそれを、面白そうに眺めている。
カウンターの奥から、店主が怒鳴った。
「おい、螢子、こっちも手伝え!」
「はあい、ちょっと待って頂戴」
「一週間も留守にしてたんだ。もうちょっとキビキビやれ」
「あら。悪いと思ってるから、早く帰ってきて手伝ってるんじゃないの」
「馬鹿野郎。新学期の初日から遅く帰ってくるような不良娘に育てちゃいねえや」
「もう」
娘はスカートの裾をひるがえすと、カウンターの方へ小走りに戻った。
ほほえましい光景だ、とその後ろ姿に見とれていると、忍はガタ、と立ち上がり、勘定をすませにいった。
俺も慌てて立ち上がった。
ゆきむら、と平仮名で書かれたのれんをくぐって、外へ出る。
「うーん、たまにはこういうのもいいな」
「そうだろう」
忍は先に立って歩きながら、
「あの娘、どう思う」
と呟いた。俺は何の気なしに、
「可愛いと思うよ……ちょっと若すぎるが、俺が人間ならほっとかないな」
と答えた。
すると忍は立ち止まって、ふむ、と顎に手をやった。
「それなら……あの娘を巻き込むのは、やめておこう」
くるりと振り返り、
「樹。……俺はちょっと、留守をする」
「え?」
「すまないが、一人で行かせてくれ」
「一人って、何処へ行くんだ」
「後で話す。すぐに戻るから、マンションで待っていろ」
「忍」
だが、忍は、俺の一切の言葉を遮った。
「……いいか、ついてくるなよ」
そして、そのまま、去ってしまった。
後を追うことは、できなかった……。

忍が出ていって、二日目の夜。
ジリジリと焦れながら一人で待っていると、扉が開いた。
そこに立っていたのは、黒衣の少女だった。
「……樹」
「ナル」
ナルの頬は涙で濡れていた。
そして、俺の胸に、どっとその身を投げかけてきた。
「……ああ」
「どうしたんだ、ナル」
「平気。ちょっと疲れているだけなの。疲れてると、訳もなく泣きたくなるでしょう。それだけなの。だから、平気よ……」
そう言いながら、さめざめと泣く。
「ナル……」
俺は、泣きやまない彼女をベッドへ連れていって、休ませようとした。
「待って。この顔のままじゃ、眠れないわ。お願い、シャワーを使わせて」
ナルはやっと涙をおさめた。俺は、彼女の頬をそっとぬぐってやった。
「ああ……そうだね」
俺は、彼女の身体を半ば抱きかかえるようにして、シャワー室まで運んでいった。それほどまでに彼女は疲れきり、ぐったりと力をなくしていた。
こんな状態で湯につけるのは、いいことでない。だが、忍という奴は、一度言い出した事はてこでも曲げない男だ。それは、ナルの時も同様だ。だから止めると一人でこっそりシャワーを浴びて、そこで倒れたりする危険性もでてくる。それは困る。だから俺は、シャワー室まで彼女を連れていった。
だが、案の定、服を脱ぐのもまともにできない。俺はバスタブに湯をはりながら、彼女の仕度を手伝ってやった。下着までとり、濡れたタオルで軽く肌をぬぐってやり、それから、石鹸を溶かした湯の中におろしてやる。
「平気かい……」
「ええ……」
しかし、彼女の身体はグラリと傾いた。そのまま、泡立つ湯の中に沈みそうになった。
「ああ、駄目だよ」
俺はバスタブの中に入り、服を濡らしながら彼女を助け起こした。
「さあ、起きて」
「ええ……」
そう言いながら伸ばした彼女の腕が、低い所にかけてあったシャワーの管に触れた。
次の瞬間、俺は熱湯を顔面に浴びていた。
「アツッ……」
「樹……ひっかかったわね」
ナルは、突然元気を取り戻していた。シャワーの蛇口をひねって締めると、俺の首にかじりついた。
「疲れてる、なんて嘘よ。あなたと、こうして二人でお風呂に入りたかったの」
「ナル……」
彼女の小さい歯が、俺の耳たぶを軽く噛んだ。
「いいでしょう、樹……洗ってよ。身体の隅々まで、触れて頂戴……ねえ」
そう耳元で囁き、俺の腕の中で、悩ましげに身体をくねらせる。
俺は低く囁きかえした。
「悪い娘だ……そんな誘い方、いったいどこでおぼえてきたんだ?」
「あら、私が悪いんじゃないわ。だって、樹ったら、待ってたらいつまでたってもしてくれないんですもの……私、寂しくて……」
そんな大胆な事を言いつつも、ナルの頬は恥じらいに強張っていた。
俺はそっと彼女の頬を挟んだ。
「ごめん。ナルが、ベッドよりシャワールームがいいなんて、知らなかったんだ……」
「……意地悪」
そういう意味じゃないのよ、とにらむナルの声が、すぐに甘く掠れた。
潤んだ瞳が俺を見上げ、細い腕が俺の腰に回った。
「お願いだから、やさしくしないでね。滅茶苦茶に、して……」
「ああ……うんときつく、してやる……」
本当は、ナルは少しも元気ではなかった。疲れているのに、そうでないふりをしていたのだ。だから、おそろしく乱れた。どんなに小さな刺激にも、鋭い声を上げた。俺は、何度も襲って来る眩暈に耐えながら、彼女を姦し続けた……。

風呂から上がり、着替えをつけ、ぴったりと髪を撫で上げた忍は、すでにミノルの顔になっていた。
すでに、初夏の夜は明け始めていた。
俺は忍のベッドの上に座った。
「眠るか? それとも、二日間、何処へ行ってたのか聞かせてもらっていいか?」
俺の質問に、忍はうっすらと笑った。NO、と軽く首を振る。
「忍……!」
抗議しようとする俺を遮って、
「昨日、蟲寄市にマンションを借りた。今日から、そこに移る」
俺は驚いた。
「蟲寄だって? 皿屋敷市の目と鼻の先じゃないか。そんな所に急いで引っ越して、一体何をするつもりだ?」
忍は軽く肩をすくめ、俺の脇に座った。
「ああ。……樹には、穴を開けて欲しい」
「穴?」
忍は真面目な顔でうなずいた。
「そうだ。人間界と魔界をつなぐ、界境トンネルだ。半径一キロメートル以上の穴を、蟲寄市に作りたい。A級、いや、S級クラスの妖怪でも通れるような、大きな穴だ……それが、おまえにできるか?」
「半径、一キロメートル以上だって……!」
無茶だ。
俺が一度に開けられる空間は、裏男を使ってもせいぜい数十メートルだ。一旦開いた空間を維持することにかけては、闇撫として自信もあるが、直径二キロメートルもある大きい球を切り抜く作業は、かなり難しい。
「無理か?」
忍の瞳は真剣だ。俺はため息をついた。
「いや、無理じゃないが、それだけの大きさのものだと、すぐには開けられない。三ヶ月……いや、それだけに集中してかかっても、最低でも二ヶ月はみないといけない。それでも、いいか?」
忍は、ふむ、と考え込んで、
「二ヶ月……か。それならなんとかできるんだな? なら、いい」
まるで確定した計画のように呟く。俺は心の中で舌打ちしながら、
「それは、俺の全力でやって、邪魔が入らなければ、の話だ。だいたい、そんな大きな穴を開ければ、その上にどんなに強力な結界を張っておいても、霊界が気付くだろう。絶対に妨害されるぞ」
しかし忍は諦めない。
「蟲寄市は、深い所を地下水脈が走っている。そこに、入魔洞窟といって、いりくんだ迷路になっている部分がある。入口は街外れで、自殺の名所だから、地元の人間は滅多に近づかない。あそこでトンネルを開けば、簡単には見つからない筈だ」
俺は首を振った。
「それでも、少しでも穴が開けば、魔界の瘴気が洩れ出して、人間界に影響を及ぼす。小さい穴を徐々に広げていって、その影響を最小限に押さえたとしても、かなりの人間を巻き込む筈だ。そうとう乱暴な計画だぞ?」
だが、忍はなおも食い下がる。
「それでも構わない。犠牲はなるべく最小限にするから、霊界が気づく前にできるだけ広げてくれ。もし、途中でバレたら、バレたでいい。コエンマの奴をひっぱり出してやるのも、俺の目的のうちだからな」
「コエンマ……?」
ああ。
ということは、いよいよ霊界の悪事を暴露しようというのか。
あれから、もう十年もたっているのにか。
まだ、そんな正義の炎が、忍の中で燃えていたとは。
しかし、それだけの理由でか?
「でも、どうしてトンネルを開けなけきゃいけないんだ? 『黒の章』をエサに使えば、コエンマをおびきだすことぐらい、なんとかできるだろう?」
忍はすぐに首を振った。
「それだけじゃ、駄目だ。これは、左京への手向けだからな」
左京……!
あの死神の名を、こんな所で聞く羽目になるとは。
俺は低くうめいた。
「手向けって、左京の奴、死んだのか……!」
忍はピク、と片眉を上げた。皮肉な微笑を浮かべながら、
「ああ。首縊島で爆死したらしい。暗黒武術会で、コエンマと、命をチップに賭をして、負けたんだそうだ。ドームごと自爆したらしい。四日前だ」
「本当か」
「ああ……生き残った連中から、聞いた」
なるほど、忍はその情報を手に入れたために、黙って首縊島まで出かけていったのか。
「ネットワークを、復活させたな」
「ふ。……そのくらいの情報は、黙っていても入ってくるさ」
まあ、確かに妖怪にとっては十年などまたたきの間だ。忍の留守も、たいした長さに感じなかったに違いない。情報網を復活させたというより、健在だったというほうが正しいのだろう。それで、俺の留守中にいろいろやっていたのだ。
それにしても、うかつだった。
忍は、たとえ閉じ込もっていたとしても、決して大人しくしている男ではない。俺はそれを、充分知っていた筈なのに。
「……しかし、わからない。結局どういう事なんだ?」
左京のような周到な男が、大人しく自爆などするだろうか。
コエンマは何故、生きている人間とそんな危険な賭をしたのか。いくら相手が犯罪者とはいえ、霊界の責任者がみだりに人殺しをしてもいいのか。
忍はすっと立ち上がった。
「どうも、こうも、ない。左京も、結局、コエンマに殺されたということさ。だから、最終的には、奴も霊界に縛られる事になるんだ」
そう言い捨てて、ドアへ向かって歩き出した。俺は慌てて後を追いながら、
「どこへ行くんだ、忍。少し、休まなくていいのか」
「今は眠っている暇なんかない。さあ、行くぞ」

それから、一ヶ月程が過ぎた。
俺はもう十数日を、入魔洞窟の中の一番深い場所で暮していた。およそ地下五五○メートルの所にある広場の中央、涌き水が溢れて湖になっている所に、俺は底の浅い、ゴンドラ型の小舟を浮かべ、その上に座していた。
白魔装束をまとって力を高め、ほとんど休む事なく、意識をトンネルに集中する。ほとんど食事の時にしか休まないでいた。俺は食べなくても平気だ、と言ったが、忍が必ず差し入れにくるので、一日一食をとる事にしたのだった。
忍は薄く笑いながら、
「力を、できるだけ高めていて欲しいからな」
「わかったよ、忍」
「じゃあ、よろしく頼む」
そう言って、帰っていく。
忍は、蟲寄市に借りたマンションとここを、毎日行き来していた。入口から徒歩二時間弱の道のりを、飽きず黙々とやってくる。しかも時々、TVだのビデオデッキだのソファだの、妙に日常雑貨を持ち込む。俺は忍のやる事にはあまり口出しをしたくないが、昨日の夜はさすがにたまりかねた。大きなバッテリーと自家発電機を、いっぺんにしょってきたのだ。
小舟の上で差し向いになった時、俺はついに文句を言った。
「忍……ああいうものは言ってくれれば、すぐに俺がとってくるよ」
忍は半眼で俺をにらんだ。
「これは俺の仕事だ。おまえは界境トンネルの事だけ考えていればいい」
「でも」
「雑念が入れば、それだけ仕事が遅れる。できるだけ早い方がいいんだ。二ヶ月の期限を越えられると、困る」
食事の後片付けを素早くすませると、忍は立ち上がった。
「なに、人手が足りなければ、いくらでも連れてこられる。気にするな」
そう言って、小舟からトン、と飛び上がった。向こう岸に降り立ってクル、と振り返ると、
「いいか。界境トンネルだけに集中してくれ。何が起こっても、何を見ても、その事だけを念じてくれ」
指を立てて念を押す。俺は苦笑いした。
「わかったよ。死ぬ気で頑張るよ」
「ああ。その調子だ」
いい事ではないが、久しぶりに何かに熱中している忍の姿は、俺には心地良く感じられた。忍が本当に望んでいる事なら、俺は命をかけても手伝うぞ、とも思った。
しかし、忍はこう続けた。
「……ただし、霊界が気付いて、万が一、おまえの命を狙いにきたりしたら、その時は逃げろよ。いいな」
至極真面目な顔で言うので、俺は軽くかえした。
「いや、そしたら、この穴を守って戦うさ。みすみすやられたりするもんか」
忍はム、と口唇を曲げた。
「馬鹿を言うな。そんな事をして、おまえが死んだらどうする。トンネルを開ける奴がいなくなったら、俺が困るんだ。いいか。本当の仕事を、忘れるなよ」
言い捨てて、忍は去った。
その背にむかって、俺はひそかに呟いた。
「ちぇ。忍の情報網をもってすれば、闇撫の一人や二人、手に入るくせに……」
もちろん、闇撫の個体数が多くないのは事実だ。亜空間に逃げるのが主な力であるため、俺達の防御力そのものは、あまり強くない。また、力の性質上、群れる事もない。長命ではあるが、弱い妖怪の部類に入るから、俺のかわりをすぐに見つけるのは、難しいかもしれない。
しかし、ただ界境トンネルを開けるだけなら、闇撫でなくともいい筈だ。忍が俺をここに釘づけにしているのは、実は別な理由があるんじゃ、と疑う事もしばしばあった。一体俺に、何を隠してるんだ、と尋ねたくなる瞬間があった。
しかし、その日の夜、俺のそんなささやかな疑問が、ふっとんでしまった。
忍が、人間を、ここへ連れてきたのだ。

忍が、抱きかかえるようにして水辺に連れてきたのは、まだ十三、四の少年だった。服は泥と血にまみれ、顔は涙で汚れている。
しかし、よく見ると、その少年はかなり整った顔立ちをしていた。黒々とした大きな瞳。薄い色の髪がゆるやかに縮れて、卵型の顔をふちどっている。しかも、それに加えて、その少年には、弱者の持つ被虐の美があった。
そそる――という奴だ。この童顔の少年を見たら、心歪んだ者は、舌なめずりをして寄ってくるだろう。快感に震えながら、少女のように細い身体を、いじめて、いじめて、いじめ抜くだろう。暴力をふるわれたらしいその姿が、俺の想像をはっきり裏付けている。
「……大丈夫だ、御手洗。ここなら、もう、大丈夫だ」
忍は親切そうな声を出して、少年をソファに座らせた。ミノルの薄笑いを浮かべて、ビデオデッキのスイッチを入れる。テープが回る音がしはじめた。
「そうだよ、御手洗……君が正しい……君は、人間全てを、呪っていい……ほら、ごらん、あれを」
御手洗と呼ばれた少年は、大きな瞳をさらに見開いて、TVの画面を見つめた。
デッキには、『黒の章』が入っていた。
少年はある程度の霊能力を持っているらしく、人間の限りない悪行を見て、すぐに反応した。
「信じ、られない……こんな、酷いこと……」
再び涙を流し始め、喉をつまらせる。
忍は少年の背後から腕を回し、その耳元に囁いた。
「だが、この映像は嘘じゃない。信じたくないかもしれないが、君は、人の本性の醜さを、充分に知っている筈だ」
「でも……この人達、笑いながら人を殺してる……楽しんでる……こんな事って……」
ついに、少年は固く目をつぶってしまった。忍は少年の肩を、首を抱き、さらに低い声で囁きかける。
「だが、君だって、うんと酷い目にあってきただろう。この、平和といわれる国で、理不尽な、まるで理由のない暴力に、どれだけ苦しめられてきた?」
「でも……でも……」
少年は胸を震わせて泣いている。
頃合いとみたか、忍はデッキのスイッチを切り、少年の前にかがみこんだ。
「御手洗。……俺も、そうだったんだ。理由もなく疎外され、謂れのない暴力に脅されて、ずっと耐えてきたんだ」
少年は、ようやく目を開いた。
「……仙水さんも、そうだったの」
「ああ」
少年は頬の涙をこすりながら、
「でも、あんなに強いのに。僕を、一瞬で助けてくれたのに」
忍はソファに座り、少年の乱れた巻毛を、ゆっくりとかきあげてやりながら、
「俺だって、強くなりたくてなった訳じゃない。それに、強ければ酷い目に逢わないという事でもないんだ。少しだけ異質というだけだ。それなのに……それでも、間違ってるのは、俺達の方だけ、なのか……?」
「仙水さん……」
少年は、忍の空いている手をとった。
「仙水さんも、辛かったんだね……」
「御手洗」
「可哀相だ……」
少年は、忍の胸に頬を寄せ、再び泣きだした。
「どうして、人間って、こんなにどうしようもない、どうしようもない、どうしようもない、生き物なんだろう……」
「御手洗」
忍は、しっかりと少年を抱き寄せた。その背をやさしく撫でてやりながら、
「泣きたいだけ、泣くといい。今までこらえてきた分、ここで泣いていくといい……」
甘い低音で、そう、囁き続ける。
ああ……!
息が、できない。
目の前で展開される、この情痴の光景。
ミノルの茶番でも、それでも耐えられない、と思った。
どうしようもない嫉妬の炎。心が焼けつくような気持ちに、すぐにも叫び出しそうになった。やめるんだ、その男は俺のものだ、触るな、その胸に抱かれていいのは俺だけだ、と。
しかし、俺は叫べなかった。
少しも、動けなかった。
自分の妄想に、ゾッとしていたのだ。
俺は、あの少年のように、忍に抱かれたい、と思っていた。うんと甘やかされ、愛していると囁かれ、グズグズにされたいと思った。何も考えられないくらい、最後まで追いつめられたい、と思った。
もちろん、妄想だけではない。生理的な反応も、俺を襲っていた。
「駄目、だ……」
苦しい。
なにしろナルを抱いている時でさえ、その乱れ方を見るたび、その肌に触れるたびに気が狂う、と思うのだ。触れられる方でなく、触れる方がこんなに痺れるような思いをするとは、自分でも到底信じられない。どうしてこんなに愛しいのか。普段の自分がなくなって、深い所から感情が揺れ動く。どうして、この男だけがそんなに特別なのか。自分の魂も身体も損なっていい、とまで思わせるのか――そんな愚問を何度も自分に問わないと、気を失いかねないのだ。
それなのに、この俺が、忍自身に、抱かれる……なんて。
想像だけでも恐ろしかった。なんて浅ましいんだ、と口唇を噛みしめた。
しかし、その思いはすぐに途切れた。
少年が、いち早く理性を取り戻したのだ。
「仙水さん……あの、湖の上にいる人は、一体誰?」
グスン、と鼻をすすりあげながら、少年は俺を見た。
忍は、振り返りもせずに、こう言った。
「あれは、樹だ」
「樹?」
「樹には、特殊な力がある。それで、俺の仕事を手伝ってくれているんだ」
「……そう、なんだ」
少年はようやく落ち着いたらしく、ほうっと身体の力を抜いた。
すると忍は、少年の頭にポン、と手をのせ、
「出来れば、君にも、手伝ってもらいたいんだ」
「……え?」
「君には、不思議な力がある」
「不思議な力?」
「ああ」
忍は、少年の頬に触れ、まだ柔らかいかさぶたを少し削った。
少年は、かすかにうめいた。
「仙水さん……痛い……」
「すまない。だが、この君の血が、水を生き物に変えるんだ。……見ていてごらん」
忍は、少年の血の一垂らしを指にすくい、膝を折って水面に落とした。
次の瞬間、水が立ち上がった。
目鼻口のついた、水で出来た巨大な人間が、ブヨブヨと奇妙なシルエットを描いている。
忍は満足そうにそれを眺めながら、
「これは、ただの水で出来た怪物じゃない。君の意のままに、動かせる。そして、この液体生物に飲み込まれたら、誰でも二度と外へ出ることはできない。確実に溺れて、死ぬ。これは君の作った異空間だから、この中での君は無敵なんだ。次元を切るような力をもつ者が、いない限り」
液体生物は水辺に上がり、ヨタヨタと少年の方へ近づいていく。
忍もゆっくりとソファへ戻りながら、自信たっぷりな魔術師のように、大きく手を広げた。
「どうだい。……これが、君の力だ」
「そんな。僕に、なぜ、こんな力が……」
自分に寄ってくる生き物を、少年はじっと見つめた。形こそはグロテスクだが、動きはむしろ単純で、愛らしいくらいだ。
「おそらく、間違っているのが、俺達の方じゃないからだ」
少年は、まだおびえていた。
「仙水さん……でも……」
「弱い者でも、自衛のためなら、暴力は許されるんだ。むざむざと、黙って強者にやられる必要はないだろう。違うか? 君は、正しいから、この特殊な力が与えられたんだよ」
「超……能力?」
「ああ、そんなようなものだ。ただ、超能力といっても、何もかもが可能という訳じゃないがね。正しい者には、それぞれの資質にあわせて、特別な力が宿るんだ」
忍は再び少年の脇に寄り添った。
「俺は、この能力を、テリトリー、と呼んでいる。自分を守る領域、という意味だ。君のテリトリーは、どうやら液体のようだ。水、それも、できるだけ人の手を経ていない清らかな水が、君の力を一番引き出すだろう。そして、君が流す血が多ければ多いほど、大きくて、力の強い生き物が生まれる」
「テリトリー……?」
少年の瞳が、とろんと濁ってきた。忍の瞳に見つめられて、うっとり言葉を繰り返す。
「ああ。テリトリーを持った人間は、君だけじゃない。そして、テリトリーを持った人間は、その力を自覚した時、新しい名前を持つ。それが、能力名だ。御手洗、今、君の心の中に、一つの言葉が浮かんでいる筈だ。それを、言って、ごらん」
少年の口唇が、操られたように動いた。
「……僕の名は、シーマン」
「シーマン……水兵、か」
忍は、満足そうにうなずいた。
「今日から、君は俺の仲間だ。俺の仕事のために、協力して欲しい」
「でも、何をすれば……」
「毎日、できるだけここに来てくれ。なに、無茶はさせない。一番大事な時、君の力を最大限に活かせる仕事を、してもらう」
「でも、仙水さんの仕事って……?」
忍は、すうっと少年の顔に自分の顔を近づけた。うんと声をひそめて、
「俺の計画は、極秘にしなければならないんだ。そのうち、少しずつ教えてやる。だから今日は、ここまでだ」
「……はい。わかりました」
少年は、すうっと立ち上がった。どうやら、半分催眠状態にあるようだ。忍が暗示をかけているのだ。
「……じゃあ、今日は、帰ります」
「そうか。気をつけて、帰れ」
「入口まで、送ってくれないんですか」
少年は少し心細そうな顔をした。忍はうむ、と顎を押さえ、
「ああ。この生き物に送らせる。万が一の時は、こいつが守ってくれる筈だ。ただし、あんまりみだりに力を使わない方がいい。ずる賢い連中が、どこで君を見ているかわからないからな」
「はい……気をつけます」
「そうだ。気をつけて、帰れよ」
少年はおぼつかない足取りで、広場を出ていった。液体生物がその先に立って、のそのそと歩いて行った。
その姿がすっかり闇にのまれてしまった後、俺はようやく、忍に声をかける事が出来た。
「忍……あの少年に、ずいぶんと強力な暗示をかけたな」
「少年? ……ああ、御手洗か」
忍は、ふわ、と浮かびあがると、俺の小舟の上にやってきた。
「ああいう子供を騙すのは簡単だ。脆弱なくせに、正義感だけは持ってるから、哀れっぽい話をすれば簡単に共感して、こっちの話にのってくる。意のままに動く、いい兵になる。……逆に、翻心もしやすいがな」
忍は何もかも見透かしたような厭な微笑を浮かべた。俺は軽く舌打ちした。
「兵だって? あんな子供、何に使うんだ。大した力を持ってる訳でもないのに」
忍は、トン、と舟の上に降りてきた。
「いや。大した力がないから、かえって使えるんだ」
「力が、ないから?」
「ああ、そうだ」
意味ありげな笑みがいやらしい。俺は視線をそらして、
「……それにしても、あんな人間、いったいどこで、拾ってきたんだ?」
忍は、スウ、と腰を降ろした。
「ふふ。近所でなら、どこでだって拾えるさ。蟲寄市内には、もう、このトンネルの影響が出始めている」
「もう、か……?」
魔界の瘴気が少しずつ漏れ出しているのは感じていたが、人間をあんな力を与えるだけの濃さになっているとは、思っていなかった。これだけに集中しているせいか、闇撫の力が加速度的にアップしているらしい。
忍は、楽しくてたまらないような声で答える。
「ああ。あの程度の能力を持った連中が、何十人も出ている。まだ、霊界が動きださないのが、不思議なくらいだ。素質がある人間は、これからどんどん力を発現させていく筈だ。面白そうな奴には、目をつけてあるが、まだまだ遊べるだろう」
「なるほど」
俺は、怒りを押し隠した低い声で、
「それで、そのテリトリーを持った奴を、ああいう風にてなづけて、仲間にしていく訳か」
「そうさ」
忍は平然とうなずき、そして、はて、と考え込んだ。
「そうか。俺にも能力名が必要だな。連中の仲間のふりをするなら、コードネームがわりにくだらない名でもつけておいた方がいい。……樹、おまえは、どんな名がいいと思う?」
「そうだな」
忍にふさわしい、名前。
俺は、南米の山中で見た、忍の光の羽根を思いだした。
この世のものとは思えない、美しいオーラ。霊界魔界を通じても、あんなにきれいな光は、ない筈だ。それは、人間の言う、天使のような、清らかさだった。どんなに黒衣を重ねて着ても、その色がしみつくことのない、汚れない魂をあらわしていた。
俺はわざと軽口めかして、提案した。
「ダーク・エンジェルっていうのは、どうだい? ふざけてて、いいと思うが」
「……堕天使、か」
忍は目を細めて、
「陳腐だな。通俗小説に出てくる、魔性の女のような名だ」
「そうか。……そうだな」
だが、俺が笑うと、忍はふむ、と考え込み、
「だが、それも似合いかもしれない。こんなに無謀で、絶望的な計画には、な」
「……忍?」
忍は、スウと立ち上がり、
「樹。まだ、霊界は気付いていないようだが、作業の方は急いでくれ。できるだけ早いに越した事はない。手足には、あと何人か連れて来るが、構わないな」
「わかった」
「じゃあ、頼む」
そう言って、舟を離れた。
すぐに闇に溶けていくその背中を、俺はじっとにらんだ。
「……本気か。これ以上、人間を、俺達の計画に加えるなんて」
おさまっていた筈の嫉妬の炎が、再びチロチロとはいだしてきた。
「忍……俺がどんなに頼りない存在か、俺は知ってる。おまえが、俺がいるだけでは、生きていけない事も知ってる。でも、あれはないだろう……」
何故だ。
どうして俺は、忍をいつも、自分に縛り付けておかないんだ。いつでも側にいられるものを、離れていようとするんだ。
ああ。
本当に亜空間に閉じ込めて、忍を完全に俺だけのものにしたい。
地上の花の美しさからも、猥雑な空気からも、辛い物事からも、いや、五感のすべてから隔離して、何もない場所に浮かんで、二人きりでいつまでもまどろんでいられたら!
忍が望むなら、どんな贅沢だってさせてやる。どんなに凄い事でもやってやる。
それなのに。
わかっている。それは夢想だ。
馬鹿げた、空想だ。
「もし、忍がそれを望むなら、俺はすぐにでもそうするさ……しかし、あいつは望まない。息の止まる最後の瞬間まで、逃げる事を望まない。安らぐことを求めない。だから、俺ができるのは、忍に頼まれた仕事だけ、だ……」
釣りあいのとれない相手との、恋。
決して秘密を打ち明けてくれない相手との、恋。
それは、甘美な思いである分、辛い。
時限爆弾のように、危険だ。
「いいんだ。忍と一緒なら、俺は滅びてもいい……忍のためになるなら、どんなに間違っている事でも、やるんだ……」
熱に浮かされたたわ言を呟きながら、俺は自分の二の腕をきつく掴んだ。
「……そう。界境トンネルを、一刻も早く開こう。この仕事が終われば、きっと忍は話してくれる。本当の目的は、いったい何なのか」
俺は再び、トンネルに意識を集中しはじめた。
俺は、その時の自分がどんなに愚かしかったか、まだ、気付いていなかった。

忍がさらうようにして連れて来る人間達は、胸が痛くなるほど美しいのばかりだった。
勉強もでき、心根も優しいのに、なまじ繊細なだけにイジメの標的にされて、反撃もできずに苦しんでいる、御手洗清志。
他の小学生よりいささか賢く、手先も器用で愛らしい子供なのに、親に完全にほったらかしにされたために、他人の愛を信じられなくなってしまった、天沼月人。
優秀な医師であるにも関わらず、腐敗した総合病院で飼い殺しにされ、自分のやりたい良心的な医療ができず、すっかり心を病んでしまった、神谷実。
細腕一本で自分を育ててくれた母を慕う気持ちはあるが、世間の偏見に対して暗い衝動が湧き起こるのをとめられず、武器や兵器への愛しか感じられない高校生、刃霧要。
彼らの整った面ざしは、それぞれ憂愁の影を帯びて、更に美しかった。
特に、破壊衝動をぬぐえず、将来殺し屋になるしかないような破滅的な資質をもった刃霧は、忍のお気に入りだった。彼の相手をするのは、銃器を扱う時の人格、ジョージだった。よく連れ歩いて、なにくれとなく教えてやっているようだった。
それぞれの資質にあったささやかなテリトリーの能力を、忍はやさしく誉めてやった。そして、いざという時以外は、使わないように、とくれぐれも念を押した。事を起こす前に計画が漏れては困る、と繰り返した。
そのくせ、具体的な計画は口にしなかった。
忍はいつも曖昧な話をした。このトンネルが開いたら、魔界から妖怪が溢れ出し、人間界を地獄絵図に変える。俺達はその歴史的な瞬間を楽しむんだ、といったような、子供騙しな想像ばかりを語った。
だが、実際、トンネルを開けるだけでは、そんな事にはならない。魔界と人間界の間には強力な結界が張られている。通路を開けた上で、その結界を切らなければ、魔界との行き来はできない。忍はその事を知っている筈だった。
しかし忍は、テリトリー能力者達の前では、それを知らないふりをした。
俺は、それとなく水を向けてみた。
「私の能力なら、次元の扉を開けることはできる。だが、扉の間にはってある結界は、私にははずせない」
忍はふむ、とうなずいて、
「結界破りを技とする呪術者は、何人も知っている。問題はない」
「……そいつらは、使えないな」
俺はできるだけ尊大な口調で言った。忍の人間達の前では、俺はできるだけ気障な言葉遣いをした。俺だけは違う、特別だ、というふりをしていたかったのだ。
「一般の結界とはレベルが違う。亜空間にはられた結界には、私と違うタイプの、次元をつかさどる能力者が必要だ」
「次元を切る能力者か。……よかろう。俺が必ず、見つけ出す。邪魔者を始末する、ついでにな」
その後、忍の指令で、能力者達はそれぞれ散っていった。彼らは本当に、忠実な手足のように的確に動く。完全に、忍に操られているのだった。
連中がすっかり消えたのを見届けると、俺はぽつりと呟いた。
「忍の好みは、充分知ってるつもりだったが」
「……うむ?」
忍がこちらを振り返る。
「巻原だけは意外な趣味だったな」
たっぷり皮肉をこめた口調で、言ってやる。
そう、俺達七人の仲間の内、巻原定男という男だけは、ごく平凡な、むしろ冴えない風貌の男だった。奴は体内にテリトリーがあり、能力のある人間を喰う事で、相手の力を取り込めるという、カニバリズムを極めた男だった。例えば、奴は今、身体が伸縮自在になる能力を持っている。忍が首縊島で拾ってきた弱い妖怪の頭部を喰い、その力を得たからだ。
そんなグロテスクな男が、忍の仲間に、いる。
「意外な趣味?」
「ああ。俺は忍は、純粋な苦悩に悶えるきれいどころが好きなんだとばかり思ってたが、ゲテモノも平気なんだな」
ふん、と鼻で笑ってやる。
我ながら醜い焼き餅だ、と思う。
だが、嫉妬の気持ちは抑えようがなかった。
他のメンバーがいる前で、いきなり忍を抱きすくめたい衝動にかられる時がある。忍は俺のものだ、と叫びたくなる時がある。
秘密の恋は甘いが、爆発的な発作を呼びやすい。普段これだけ押え込んでいる分、それがはじける時が自分でも恐ろしい。
しかし忍は、平然とこう返した。
「ああ。確かに奴はつまらない人間だ。突然人肉喰らいになった苦悩はあるが、それだけだ。俺は奴には興味がない。あれは、本当に、ただの駒にしか過ぎない」
俺は思わず苦笑した。
「それは酷いな。あいつはあいつなりに、仙水忍を慕ってるんだろうに」
忍は肩をすくめた。
「構うものか。コエンマのやっている事にくらべて、どれだけ酷い? あいつをひっぱりだすには、惨さが足りないくらいだ。あいつ一人くらいなら、犠牲にしても仕方あるまい」
「……忍」
やはりミノルの顔になっている。
ここの所、人間達の前では、ずっとそうだ。
だが、ミノルの意識の時と、忍の意識の時では、計画への熱意がまるで違う。質も、方向もだ。二人の間では目的も違うんだろうとしか思えない程、矛盾している。
だから俺は、いまだに忍の真意をはかりかねていた。
「忍。……俺の力は、かなり高まっている。あと一週間もしない内に、界境トンネルそのものは、完成するだろう」
「そうか。予定より半月も早まるか」
ミノルの顔のまま、呟く。
「ああ、おそらくな。……だが、その後、俺達はどうするんだ?」
「そうだな」
その一瞬だけ、忍が、忍本人の顔に戻った。
「……死んでも、霊界だけには行きたくない。それだけ、だ」
その声は、穏やかでありながら、ひどく切実な響きを持っていた。
「忍?」
「いや、なんでもない。忘れてくれ……」
忍は再びミノルの仮面をつけて、その場を去った。
俺は、深く首をかしげた。
「……なんだ、今のは?」
俺は、本当に、馬鹿だった。
まだ、その時でさえ、忍の苦しみを理解していなかったなんて。
本当に、馬鹿だったのだ。

トンネルが広がりきるまで、あと三日と思われた日の夜、いきなり、刃霧が一人で俺の所にやってきた。
「樹」
「ああ。……刃霧か」
刃霧要。
こいつは、本当に小綺麗な顔をしている。
短く切り揃えた、艶のある黒髪。尖った鼻、鋭い瞳、薄い口唇。
乾いた表情の持ち主のくせに、どこかにかすかな甘さを漂わせている。それが、忍の若い頃になんとなく似ていて、胸が痛む。本来はロマンティックな気質を持っているのだが、口数が少ないので、それを滅多にあらわさない。
俺は、この青年が嫌いではなかった。しかし、個人的に話をした事はない。忍がさせないのもあるが、刃霧自身に、妖怪も含めて生きているものに対しての興味がないからだ。
しかし、この日は違った。
「敵が、仕掛けてくるのを決めたらしい。明日、こっちも動く事になった」
ぶっきら棒ないつもの口調で、そう刃霧は呟いた。
俺は目を閉じたままうなずいた。
「そうか。……それなら、私は、できるだけ早く、このトンネルを開かなければならないな」
「……」
刃霧は、無言のまま岸辺に立っている。
やはり、忍の指令で来たのではないらしい。
俺は、仕方なく目を開いた。
「刃霧、いったい、何の用だ?」
「……一つだけ、聞きたい」
刃霧の瞳は、俺をじっと見つめている。まるで心を射ぬくような、まっすぐな視線で。
「何をだ?」
「樹。……おまえは、仙水さんの、なんなんだ」
驚いた。
よりによって、刃霧からこの手の質問がくるとは。
他人に一番執着心のないようなこの青年が、こんな類の好奇心を示すとは。
しかし、考えてみれば不思議でもなかった。このところの忍が、一番身近に連れ歩いているのがこの青年だ。そういう事を考える時間は、あったろう。
だが、この質問に、俺はすぐに答える事が出来なかった。
答えたくなかったのではない。
正直、どう答えていいか、わからなかったのだ。
だいたい、俺と忍の関係というのは、いったいなんだ。
まさか、恋人同士とは言えまい。そう名乗るには、俺達の力関係は対等でなさすぎるように思う。
しかし、身体の関係がない訳でもない。少なくとも、俺は、忍に対して、そういう欲望を抱いている。だから、友人というには、あまりに微妙な立場だ。
そういう状態を、いったい何と呼ぶのだ?
俺は、そういうニュアンスの説明は諦めた。むしろ、真実に近い事実を延べた方がいいと思い、短く答えることにした。
「……俺は、仙水の単なる仲間だ。七人の能力者の中の、一人に過ぎない」
だが、刃霧は首を振った。
「いや。……単なる仲間なんかじゃない。仙水さんは、樹だけは特別扱いしている」
俺は苦笑した。
当たり前だ。昨日今日知り合ったおまえ達と、十数年を一緒に暮らしてきた俺とが、全く同じ扱いを受ける訳がない。それはごく自然な事で、やっかみを受けるような事ではない。しかし、刃霧にはそれがわからないのだろう。俺は、重々しい口調を繕った。
「それは私が、能力の性質上、ここを動けないからだ。界境トンネルを開けるのは、他の能力者には難しいからだ」
「そうじゃない」
刃霧は納得しない。さらに言葉を重ねる。
「心の結び付きが、他の仲間よりも、深い筈だ」
「心の、結び付き……」
俺は思わず笑いだした。
心の結び付きだって?
別人の人格にうつりかわらないと、抱き合う事もできない俺達の間に、心の結び付きなんてあるもんか。土壇場まで、秘密をわけてももらえない俺が、特別扱いされているとなじられるのは、まさしく笑止だ。
「そんなものは、ない」
「ない?」
いぶかしげな刃霧。
俺は、自嘲の笑いが止まらなかった。
「そうだ。……仙水は、いつでも私を殺す事ができる。ふふ、それだけの、事だ」
そう。
これだけが本当だ。
俺を殺したければ、そうできるだけの腕が、忍にはある。そして、忍が俺の死を望んだだけで、俺は死ねる。忍のために命を絶つ事ができる。
これだけが、本当だ。
だが、刃霧は再び首を振った。
「違う。仙水さんは、おまえを殺したりしない。……それから、おまえだって、仙水さんを殺せる筈だ」
一瞬、耳を疑った。
俺が、忍を、殺せる?
何を言ってるんだ、こいつは?
だが、次の瞬間、俺はもっと驚いた。
「刃霧」
「仙水さん……」
「忍!」
いつの間にか、忍が広場に姿をあらわしていた。
今まで気配を隠して、物影にいたらしい。あまりにそっと現れた忍の姿に、俺は言葉を失ってしまった。
忍は平然と歩みだし、刃霧の肩に手を置いた。
「刃霧……明日からが正念場だ。今日はもう、帰れ」
「仙水さん」
刃霧がまだなにか言いかけようとすると、忍は首を振った。
「樹は樹、おまえはおまえだ。今の俺には、どちらも必要な存在だ。……言っている事が、わかるか?」
「それは……わかっています」
「それで、いいだろう。……さあ、帰れ」
「はい。わかりました」
不本意そうにうなずきながら、刃霧はそのまま、振り返らずに、去った。
忍だけが、残った。
「樹」
「……忍?」
「俺も、おまえに、一つだけ尋ねていいか」
表情は静穏だが、瞳が鋭くなっている。
刃霧との問答を、完全に聞かれていたらしい。
いけない。
いささかマズい事を言っている。俺は内心、相当焦っていたが、軽くうなずいてみせた。
「ああ。……いったい何をだ?」
忍は、ふわ、と宙に浮かんだ。黄金の気が、かすかに後をひく。
舟の上に降り立つと、忍は俺を見おろした。
「……おまえは、俺に何を望む。いったい俺から、何が欲しいんだ」
うわっ。
眩暈に襲われて、俺はうめいた。
今日の忍は、いつもと違う。
怒りの気迫が、全身にみなぎっている。質問の答を少し間違ったら、本当に殺されそうだ。
俺は言葉を考えながら、できるだけゆっくり、一言一句を区切って答えた。
「俺は、忍から、これ以上、何もいらない。こうして、忍の側にいられるのが、俺には嬉しい」
「……それだけ、か」
忍の瞳は、なお一層鋭くなった。
「じゃあ、おまえ本人は、いったい何がしたいんだ」
怖かった。
視線をそらしたかった。しかし、今そらしたら、本当に忍の逆鱗に触れて、跡形もなく蒸発させられそうだった。
俺は忍の表情を見守りながら、さらにゆっくり、返事をした。
「俺は、おまえの望むように、したい。おまえが選ぶ場所、おまえのすること、どこへでもついていく。おまえの考える事に逆らわない。意見も挟まない。ただ、ついていく。そして、できることには手を貸す。おまえが許す、範囲で。今までどおり。……それが、俺のしたい事だ」
忍の表情は変わらない。
しかし、瞳の底の怒りは、増していく。声の凄味も増してくる。
「……俺が、何を企んでいても、か」
ああ。
俺の答は正答にはほど遠いらしい。だが、どう答えればいいんだ。第一、これが俺の本音なのだ。
「俺は、忍に騙されても、構わない。死んでもいい、と思う。おまえの手にかけられるなら、むしろ嬉しいくらいだ」
「樹」
急に、忍の瞳の光が弱くなった。
「……おまえは、そんなに俺が嫌いか」
「えっ」
思いもよらない言葉だった。
しかも、忍の瞳には、涙が浮かんでいた。
「そんなに、俺が、嫌いか。俺をどれだけ苦しめたら、気がすむ……」
「忍……」
「おまえは非道い奴だ。俺を何だと思ってる。いつも涼しい顔をして、他の誰といても、目の前で何をしてみせても、焼き餅の一つも焼かないくせに。何が、側にいられて、嬉しい、だ!」
忍の声は、興奮で震えていた。
こんな忍は初めてだった。今までの忍なら、とうに別の人格のスイッチが入っている筈なのに、忍のまま、俺の前で、泣いている。
「忍……それは……」
「おまえ、心底俺を軽蔑してるんだろう。いつも、義務みたいに仕方なく俺を抱いて、自分からは決して誘わない。ナルにならなければ、触れもしない。しかも、俺が乱れるのを見て、悲しそうな顔をする。……そんなに俺が面倒なら、さっさと捨てればよかったんだ。おもりをしてもらう必要なんか、なかった。期待だけさせてほっておかれる方が、よっぽど……辛い……」
忍はそこで喉を詰まらせた。
俺は驚いて立ち上がった。
「面倒なんかじゃない。軽蔑なんてとんでもない。俺は、ただ……」
しかし、忍の声は、さらに悲鳴じみた。
「まだ、わからないのか。刃霧にさえわかることが、なぜわからない。俺がおまえを殺せるんじゃない。……おまえが、俺を、殺せるんだ。もしおまえがいなかったら、俺は、無事では、いられない」
ああ。
忍が何を望んでいたのか、やっとわかった。
俺は忍を真っすぐ見つめた。
「……俺はずっと、忍に、愛している、と言われたかった。だから、気づかなかったんだ」
そう。
自分の願いばかりが強すぎて、俺から忍に愛している、と囁いた事は、なかったのだ。何かしてやった事は、なかったのだ。
たったの、一度も。
俺はすっかり目がさめた。どんなに自分が鈍感だったか、やっとわかった。どうして忍が俺だけを側に置いていたのか気付かなかった自分が、不思議ぐらいだった。
俺は、精一杯の思いを込めて囁いた。
「忍……おまえ以上に愛しいものは、他にない。おまえだけが、好きだ……愛している」
しっかりと抱きしめる。
忍の口唇から、熱いため息が洩れた。
「……樹。俺もだ」
その夜、俺達は舟の上で愛し合った。
忍は、決してナルにならなかった。
俺は忍を抱き、忍も俺を抱いた。
俺達は、初めて平等に、何もかもをわかちあったのだ……。

「忍……」
俺の左半身の上で、忍がまどろんでいる。身体をほんの少しだけずらして重なっている。
忍の肌のぬくもり。
心臓の鼓動。
充実した身体の重さ。
俺は、かつてない深い満足感に浸りながら、忍の背中を抱いていた。傷の感触が贅沢で、そろそろと指をはわせたくなる。汗で湿った皮膚との境目を、なぞりたくなる。
「樹……」
ふと、忍が上半身を起こした。
見交わす瞳に、微笑みがぶつかりあう。
「なんだ。……もう、目をさましたのか」
俺は、忍の頬に手を伸ばした。
乱れた髪に、触れる。
忍が、俺を見つめたまま、呟く。
「ああ。眠っているのは、もったいないからな」
忍は目を細め、俺の手を押さえた。
ああ。
美しい。
なんて満ち足りた、穏やかな微笑みなんだろう。
忍のこんな瞬間が手に入るなんて、夢にも思わなかった。
俺は、限りなく幸福だった。忍の手の下で、さらにその頬をまさぐりながら、
「永遠を願う、というのは、こういう時なんだろうな」
と呟いた。
しかし、その言葉を聞いた瞬間、忍の瞳が曇った。すっと俺から離れ、背を向けて座ってしまった。
「……樹」
「なんだい?」
「一つだけ、話しておかなければいけない、事がある」
「うん?」
俺は身体を起こすと、忍の背中に寄り添った。忍の声の振動が伝わって来る。
「界境トンネルの完成は、コエンマをひきずりだすためのものだ。魔界の妖魔達への一種のサービスみたいなものだ。急がせて悪かったが、本当は急ぎの仕事じゃなかった」
俺は忍の背中でクスクスと笑った。
「忍の頼みなら、なんだって急ぎでやるさ。それに、急ぎでなくても、もうすぐ開くよ。俺の力は、驚くほど高まっている。もしかすると、明日にも広がりきるかもしれない」
「そうか」
忍は少しうつむいた。
「……だが、俺の本当の目的は、魔界で死ぬ事だ。だから、急いだんだ」
「死ぬ?」
妙な事を言う。
変な事の一つめ、界境トンネルをつくり、結界を破らなくとも、忍は魔界へ行ける。彼は魔物ではないからだ。二つめ、忍は強い。ほとんどの魔界の生き物より、はるかに強い。だから、滅多な事で死んだりはしない筈だ。
「死ぬって、どういう意味だ?」
「俺の命は、もってあと半月、という事だ」
「なんだって?」
あと半月?
なんの冗談だ。
しかし、俺が自分の耳を疑うより早く、忍はこう続けていた。
「ドクター神谷のお墨つきだ。病巣が全身に広がっていて、手術も無理らしい。普通の人間なら、とっくに墓の中だ、とあきれていた」
「……そんな」
信じられなかった。
思わず、忍の背から離れた。
忍は首を回して、じっとこちらを見ている。
「そんな……」
忍は一度も、病気らしい苦痛を訴えた事はない。
悪性の病気を持っていながら、忍耐力だけで、ずっと我慢していたというのか。
俺の声は、震えた。
「……どうして、今まで、教えてくれなかった。神谷なんかが知ってるのに、どうして俺には……」
忍は視線を動かさず、全身をこちらに向けた。そして、ゆっくり、こう呟いた。
「……そうしたら、おまえ、ひどく苦しんだろう」
ああ。
その瞬間、はっきりとわかった。
本当なのだ。
忍は、本当に、死ぬのだ。
俺は完全にとり乱した。
自分でも何を口走っているのかわからなくなっていた。
「死んじゃ、いやだ」
「樹」
「嘘だ! 忍が死ぬなんて、ありえない……忍が死ぬんなら、俺も死ぬ……そう、かわりに俺が死ねばいいんだ。生き死にの数なんて、霊界の帳尻さえあってればいい筈だ。俺が死ねば、忍は死ななくてすむ。それでいい。忍だけは、死んじゃいけないんだ。第一、忍が死んで、俺だけが生きてられる訳がない。苦しくて、すぐに、死んでしまう……」
パーン、と俺の頬が音高く鳴った。
「しっかりしろ!」
「……忍」
忍は憤怒の形相で、俺をにらんだ。
「ふざけるな。死ぬのは俺だ。病気で苦しいのも俺だ。おまえじゃない」
「……あ」
「まだわからないか。おまえが苦しいと、俺はもっと辛くなるんだ。最後の瞬間まで、俺を支えてるのは、おまえなんだぞ。我が儘だと言われようがなんだろうが、俺は、おまえを選んだんだ。おまえでなければ、いやなんだ」
忍の強い視線が、俺の核をギュッと握りしめた。
そうか。
俺は、こんなにも愛されていたのか。
忍は俺の肩を掴み、抑えられない怒りを示すように揺さぶりはじめた。
「いいか。わざと危ない真似をして、後追いしようなんて考えるな。そんな風におまえが死ぬと思ったら、俺は死にきれないんだからな」
「うん……」
俺は、ガクガクと揺すられながら、忍の怒りの表情に見とれた。
その顔の、美しさに、見惚れていた。
感情の爆発した忍は全身から淡い光を放ちながら、
「俺だって、おまえを置いていきたくなんかない。地獄の底でだって、おまえといたい。だがもし、霊界へ行ったなら、俺達は別々に裁かれるだろう。六道の辻で逢える確率はゼロパーセントだ。……わかるか。俺が、おまえを、失いたく、ないんだ」
「……うん。わかった」
俺は、阿呆のように、コクンとうなずいた。
「俺は死なない。それから、忍の魂は、誰にも渡さない。霊界の物差しで、忍を裁かせたりさせない。……それで、いいか」
「樹」
忍は、目を丸くした。
少年の時の純粋な瞳が、そこにあった。
「……それで、いい」
そう言って、忍は俺を、抱きしめた。
それが、最後の抱擁だった……。

★ ★ ★

そして、忍は、死んだ。
少々予定より早い死だったが、忍の望む方法で、忍が死にたい場所で、死んだ。
俺は最後まで忍の戦いを見守り、コエンマを、そして霊界を退けることに成功した。
俺は忍の亡骸を背負い、二人で亜空間へ落ちた。
「……忍」
忍の身体を自分にもたせかけ、亜空間をどこまでも落ちていく。
「おまえが納得して逝ったのなら、俺は満足だ……ただ」
涙が溢れそうになるのを、じっとこらえる。
「おまえの思いやりは嬉しかったが、もっと苦しみをわかちあいたかった。一緒の辛さに耐えられると、信じてもらいたかった。それだけが、少し、悔しかった」
亡骸は、やはりつめたい。
ボロボロになった黒衣が、あまりにも哀れだ。
「……でも、しかたがない。俺には、忍を守りきるだけの力が、なかった」
忍は、答えない。
彼の魂は、長い戦いに疲れて眠っている。
転生のためのエネルギーをためるまでには、余程の時間がかかる。
それまで、俺が、忍を守る。
「今度こそ、守れるようになる。汚れない天使に生まれ変わる、おまえを」
ふと、忍の頬が緩んだような気がした。
俺は、天使なんかじゃない。あんまりかいかぶるな、と。
「ふふ。……かいかぶっていたのはおまえの方だ。最後まで、俺が言うことを聞くと信じやがって。自信たっぷりに、おまえの死に俺が苦しむなんて、断言しやがって」
こみ上げてくる思いに、俺は目を閉じた。
そして、そのまま、俺は永遠に忍の揺り籠になった。
魔界に、天使の、目醒める日まで。

(1995.8脱稿/初出・恋人と時限爆弾『天使に愛された男』1995.9発行)

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Written by Narihara Akira
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