『天使に愛された男』

1.仙水忍/十六歳

夜、何の前触れもなく、ヌウ、と部屋を訪ねるのは初めてだった。
「……仕事だよ」
と、すぐに言うつもりだった。
だが、言えなかった。
その日忍は、俺の顔を見た途端、ひどく嬉しそうに微笑んだのだ。
「樹か。……よかった」
「よかった?」
「ああ。ちょうどいい、時間だ」
そう言ってTVをつけた。
忘れていた。
『夜のヒットスタジオ』の時間だ。
でも忍、今日はTVを見にきた訳じゃないんだよ――そう言いかけて、俺はやめた。普段は感情をどこかへ置いてきたようなこの少年が、すっかり年相応の子供らしい微笑みを浮かべて、楽しそうにしているのだ。
そう、忍にとっては、これが週に一度のささやかな娯楽なのだ。黙って一緒に見てやるのが、なによりじゃないか。
「……本当だ。ちょうど間に合ったな」
そう言って、俺は忍の隣に座り、並んでTVを見始めた。
『夜ヒット』。
闇撫――異空間移動の力しか持たない、本当に弱い妖怪の俺が、超一流の暗殺者である忍に殺されずにすんだのは、実を言うとこの番組のおかげなのだった。忍が、狩った俺にとどめを刺す前に、《何か言い残す事があるか》と尋ねた時、俺はこう答えた――《できれば、もう一日生きたい。明日、ヒットスタジオに戸川純がでる》と。
次の瞬間、俺を殺そうとしていた少年は、頬を緩めた。
その口唇から、ひどく驚いたような声が、漏れた。
《……俺も、毎週、見てる》と。
その日から、俺達の心の交流が始まった。
いささか大げさな言葉だが、忍は俺の魂の存在を認めたらしい。妖怪はすべて悪であるとか、問答無用に殺していいものだ、と思えなくなったと言った。
それまでの忍は、妖怪を憎んでいた。
忍には、幼い頃から優れた霊能力があり、闇にひそむ妖怪変化の存在を見抜くだけでなく、それらを一撃で倒すだけの強い力があった。そのパワーに脅威を感じた妖魔達は、先手を打とうとしばしば彼を襲った。
忍は、自分が襲われる理由がわからなかった。何が悪い訳でもないのに、どうしてこんな目にあうのか理解できなかった。そして、自分の身を守るために、ひたすら彼らを殺さねばならなかった。
中学に入った頃、彼は連中をためらいもなく殺すようになっていた。これらはとにかく悪なのだと割り切って、視界に入ってくる魔をすべて即座に殺していた。
それなのに、俺だけは、助けた。
これはかなり特別な事だった。
霊界は、そこに目をつけ、この俺がなんと、霊界探偵を始めることになってしまったのだ。
俺は閻魔大王の息子のコエンマに呼ばれ、今まで人間界で行った犯罪を一切不問に付すから、忍と仕事をせよ、と命じられたのだ。パートナーとして、おまえなりに忍を助けろ、と。忍の力が暴走せんよう、よろしく見守ってやれ、と説かれた。
しかし、俺の罪はたいして重くはなかった。他の妖怪の移動を頼まれて請け負っていただけだ。そんな面倒な仕事をする義理はない。だが、不服が言いたくとも、逆らうだけの力は俺にはない。それで、それからの俺は、忍と度々一緒に行動することになったのだった。
忍は俺に出会う前に、コエンマに命じられたとおりの妖怪を捕らえ、殺す仕事を始めていた。また、人間界での妖怪関係のトラブルを解決させられていた。弱冠十四才の少年が、血なまぐさい殺戮者と化していたのだ。
思えば気の毒な話だ。
確かに忍は強かった。彼を見て、帰る事の出来た妖怪はいない、と噂されるくらい強かった。だが、そんな仕事を引き受ける必要はあるまい。自分にかかる火の粉を払うのはともかく、頼まれて殺しをやる事はない。
だが、おまえの他にこの仕事ができる人間はいないのだ、とコエンマは忍をときつけた。強者の義務、という奴だ。正義と信じられれば、忍がどんな辛い事でも耐えうるのを知っていて、そうやって押しかぶせたのだ。
《だが、いくら強いといったって、今でもたった十六才だ。霊界もむごい。こんな純粋な少年に、人には見えない魔物の返り血を浴びせ続けるなんて……》
目元に涙がにじみかけ、俺は慌てた。忍は安っぽい同情をなにより嫌う。こっそり目尻をぬぐうと、俺は忍の脇に座った。
肩を寄せあうようにして、俺達は歌番組の画面を眺めた。互いの顔が、同じ光に照らされて、同じように蒼白く光る。
CMになると、忍は立ち上がった。
「樹。……茶でも、飲むか?」
「あ? ああ」
忍は低いテーブルを出し、部屋の隅にあった電気ポットと小さな急須で、てきぱきと茶を煎れた。
熱くなった湯呑を受け取り、一口すすってみる。かなり濃いが、いい茶だ。茶筒の銘は、やぶきたの『蒸気船』。
忍は、静かな微笑みをたたえたまま、TVの画面を見つめている。
仕事の事を切り出すなら、本当は早めがいい。だが、今の彼に声をかけるのははばかられる。俺は、黙って茶を飲み続けた。
トン、と空の湯呑を置いた途端、ふいに忍の方から声をかけてきた。
「もう一杯、飲むか?」
「……ああ」
気付くと、忍ももう何度もおかわりをしているのだった。
俺は勧められるままに、緑茶を飲む。
やはり、濃い。
血が騒ぎだすほど、濃い。
番組は終わりに近づき、あまり忍の趣味でない、年配の歌手が歌い始めた。

《抱きあう筈のない人と
ただひととき 分かちあった喜び
あやまちじゃない、誰かの声が
聞こえるけど……》

そろそろ話を切り出す頃合いだろう。
忍は片頬だけをこちらに向けて、まだ画面をじっと眺めている。
「……忍」
「なんだ?」
「この茶、いつもおまえが飲んでるやつなのか?」
忍は、チラ、とこちらを見た。
その微笑みの質が、ガラリと変わった。
「……別に、おまえのために特別にあつらえたものじゃない。第一、買ってきたのは、マコトだ」
あまりにも冷たい、皮肉な笑み。
しまった、と思った。
マコトというのは、忍の日常生活の細かい雑用を分担する人格だ。
この頃、忍の心は、これ以上の崩壊を防ぐために、多重人格を宿し始めていた。別の人格を意識の面に浮上させ、どうしても出来ない仕事や避けたい体験を肩代りさせているのだ。それは、一般の人間が行う逃避や妄想とは違う。本当に、別の人間になるのだ。顔の表情、口のきき方、考え方、醸し出す雰囲気、すべてが変わる。人格の変化と同時に、身長が伸びたり縮んだりする時さえ、あった。
人間というのは本当によくできている。これ以上辛い事に出会ったら弱音を吐く前に精神が死ぬ、という瞬間、脳味噌が自動的に刺激をカットするらしい。忍の場合、防壁は、新しい人格のスイッチを入れる事だった。平穏な生活の時は俗な性格、殺戮をする時には過激な性格、と自分を壊さない程度に変えられるのだ。それでなんとか、自分の目の前で起こる全ての事件に馴染めるように、調整してしまえるのだ。
だが、忍は、自分が多重人格だという事実にも耐えられなかった。なにしろ、自分ではどうしようもない事なのだから。
《記憶にない時の仕事で、責任を取れないと思う事が、たまにある。俺は、こんなに浅ましい人間に、なりさがってしまったんだな……》
そう、ぽつりと漏らした事があった。その時、忍が見せた暗い瞳は、地獄の底より深く沈んだいろをして、死者のものより虚ろだった。
俺は忍の気分をひきたてようとして、なるべく明るい笑顔をつくり、アハハアと笑った。
「まあ、どちらにしてもごちそうさま。おいしかったよ。でも、忍、こんな濃い茶を何杯も飲んだら、これから眠れなくなっちゃうだろう。俺は、まあ、いいけどさ。飲ませていただく方だし、文句は言えないけど」
すると忍は、薄い口唇を少し歪めて、
「俺も、寝や、しないからな。……夜は、魑魅魍魎の時間だ」
「ああ、そうか。……すまない」
忍は、俺と霊界探偵の仕事をするようになってから、妖怪全部が悪、という訳ではないらしいな、と言って無闇な殺しをするのをやめた。やってくる妖魔をぎりぎりまで寄せ付け、善悪を充分見極め、その上で処理するようになった。
だがそれも、忍の精神にかなりの負担をかけた。時間がかかるだけではない、こんな所へやってくるのは所詮悪玉ばかりなので、結局まとめて殺さねばならなくなるからだ。
低い声で、忍は続けた。
「……そうだ。連中が溢れる日があるから、夜は誰も俺の部屋にこないんだ。親でさえも、な」
「忍」
嘘だ。
それは真実ではない。
そんな事がなくても、忍の両親は彼をとても恐れている。夜だけでなく、昼だって、忍の所へはこない。
忍の両親にも多少の霊能力があり、妖怪を感じたり、見ることくらいはできるらしい。しかし、ほとんど攻撃力がないため、忍を守ることができない。その上、忍の力が強すぎる、といって、力を押さえるピアスをつけさせている。
彼らには、そこまでの事しか出来なかった。
忍が成長するにつれ、彼らは仕事を増やし、あまり家に帰らなくなった。遠い任地を希望し、せいぜい週に一度しか帰ってこなくなった。
留守番の忍は、当然一人ぼっちだ。
高校に入った忍は、通学のためと称して、贅沢なマンションで一人暮しを始めた。
彼の親は、一度もここを訪ねていない。そりゃ、俺も見ていない時はあるが、ヒトシ、という植物の世話をする時の人格の忍がふと口を滑らせた事があるから、たぶん間違いない。
親に畏怖され、遠ざけられて、寂しくない子供はいない。
忍の瞳の色は、再び暗く沈んでいる。
俺はつとめて明るい声を出した。
「馬鹿だな、忍。いつでも俺がくるさ。眠れないなら、子守歌くらい歌ってやる」
そういって、裏の空間から、ポン、と一抱えもある大きな枕を取り出してみせた。
「……樹」
忍の顔に、先の明るい笑みが戻った。俺は、嬉しくなっておどけた。
「いつでもどこでも闇撫の樹、仙水忍のために参上致します。何でもお役にたちましょう」
「何でも、か。……本当か?」
忍が、俺の顔をじっと見つめる。
俺は胸を張って、
「もちろん。……なんなら、夜伽ぎの命も仰せつかりますが。お好きにしてくださって結構ですよ」
次の瞬間、俺はアッと悲鳴をあげていた。
忍の身体の、下敷きにされたのだ。
完璧に組み敷かれ、要所を押さえられて、逃げようのない状態になっていた。
ああ、この細い身体のどこに、ここまでの強靭な力と、バネのような瞬発力を秘めているのだろう。忍がその気なら、俺は本当に一息で殺されていた。霊力を使わなくとも、体術だけでだ。そういうスピードだった。さっき出した枕は、部屋の隅にはねとんでいた。
「冗談は、やめろ」
俺の瞳をのぞき込む忍の瞳は、炎のように燃えていた。真剣に怒っていた。忍の潔癖さは、夜伽ぎという言葉の汚らわしさを許さないらしかった。
「いいか。そういう冗談は、やめるんだ」
「……忍」
違う。
俺は、口唇を噛んだ。
今のは冗談じゃない、と言いたかった。軽口めかして言ったが、本気なんだ、と。
俺は、忍が、そういう意味で、好きだった。
出会ったその日から、この少年にひかれていた。
精神的な事だけでない、その滑らかな素肌を、誰にも見せない場所を、俺の愛撫で埋めつくしたい、と思っていた。
「ああ」
実際、こうして熱いしなやかな身体に触れると、服越しであるにも関わらず、痺れるような眩暈を感じる。欲望が全身を走り抜ける。もし許されるなら、今すぐにでも欲しい、身も心も全て――そう、思った。
だが、そんな事は、言えない。
まして、こんな時には。
第一、忍は、まだ怒っていた。
彼の直視に耐えられず、俺は目を閉じた。もう、どうにでもしてくれ、と思った。もし、俺の無礼を怒っているなら、その怒りにまかせて、この身体を千々に引き裂いてくれ。忍になら、殺されてもいい。むしろ俺などは、うっかり忍を傷つけてしまう前に、殺されてしまった方が、いいのかもしれない。
だが、俺が観念したその時、忍の身体からスッと力が抜けた。
「……もう、いい」
そのまま、俺の身体から離れていく。
「……忍?」
目を開けると、忍は再びいつもの無表情に戻っていた。茶の仕度を片付けながら、
「それに、樹は仕事の話があって、ここへ来たんだろう? 今度のコエンマの指令はなんなんだ」
信じられない程、平然と言いきる。
俺は、ようやく身を起こしたが、動揺を隠しきれなかった。
湧き起こった欲情が、まだおさまらない。抑えていた恋情が噴き出そうとするのを懸命にこらえつつ、俺は早口で呟いた。
「いや、別に急ぎの仕事じゃないんだ。だから、今夜は遅いから、もう……」
そういって、そのまま姿を消そうした。
だがすぐに、待て、と制された。
「でも、忍、本当に大した仕事じゃないから……」
「樹」
忍の瞳がきつくなった。
「霊界探偵の仕事は、どれも下らないものだ。どうせしなければいけない仕事なら、さっさと片付けた方がいい。大した仕事でないなら、なおさらだ。とにかく用件を言っていけ」
「でも」
「さあ」
忍ににらまれて、俺の心はようやく醒めた。
仕方なくその場へ座りなおし、コエンマの指令を伝え始めた。
そう。
忍の言うとおり、今回も下司な話だった。悪戯に妖怪を召還する人間をちょっと懲らしめにいく、というつまらない仕事だ。連中は、金儲けと趣味のために妖怪を呼び出しているという。確かにそいつらは、薄汚い、ロクでもない連中だ。
しかし、それを二人で取り締まってこい、という霊界やコエンマの無責任さもロクでもない。いくら忍が優れた能力の持ち主で、妖怪とのトラブルが多いとはいえ、こんな若者が霊界探偵などに任命され、霊関係の始末やダーティーワークを押し付けられなければならない理由があるか。
表向きはさして不服もなさそうに仕事をこなしているが、忍の繊細な心がどんなに苦しんでいるか知っているだけに、俺は不思議に思っていた。どうして彼は、黙って霊界に利用されているのか。文句も言わずに指令を受け、辛い素振りなど少しも見せまいとしているのか。何故だ。俺のような攻撃力の弱い妖怪が、霊界に仕置きされ、利用されるのは仕方がない事だが、何の非もない人間の彼が、どうしてだ。
「……よし。大体の段取りはわかった。そいつらの本部の襲撃は、明後日の午後だな。儀式の最中に踏み込んで、それで終わりだ。首謀者の名前は……左京か」
忍は額のチャクラを押さえて、瞑想するように目を閉じた。計画の復習をしているらしい。さっきの殺気などはすっかり忘れたように、ごく普通の顔をしている。
「忍は、何故……」
「ん?」
忍は、額から手を外した。何事か、と丸く目を見開いている。むしろあどけないくらいの表情だ。
なにげなく俺は、心の中の疑問を口にした。
「忍は、下らないと思いながら、何故、霊界探偵の仕事を続けているんだ? コエンマに顎で使われる事、ないじゃないか。自分の身を守るだけで充分だろう」
忍は、信じられない、という顔になった。
「樹……おまえ、わからない、のか?」
「忍?」
「まさか、俺が、これを続けたくてやっているとでも、思ってたのか?」
忍は、怒っていた。
だが、先の怒りと違ってそれは弱く、その頬には不思議な事に、かすかな羞恥の色が浮かんでいた。
「子供だと思って、馬鹿にしてるのか?」
馬鹿にしている?
何の話だ?
「どういう意味だ、忍?」
「……わからないならいい。帰れ」
「どうしたんだ、忍、何を怒ってるんだ?」
「もう、帰れ」
そう言って、くるりと背を向けてしまった。
その背中は、もうこれ以上踏み込むな、という拒絶を示していた。
こうなると、忍は全く口をきかなくなる。追求すればするほど意地になってこじれるので、俺は深追いをするのをやめた。
「わかった。……明後日、また逢おう」
そう言って、百目のついた影の手をつかって次元の扉を開き、俺はそのまま、裏の空間へ降りていった。……

「忍は、いったい何をあんなに怒って……」
俺は、薄暗い亜空間の中を墜ちていきながら、今日の訪問をずっと思い返していた。
「最初は、嬉しそうだった……」
俺は忍の、花のような微笑を思い返していた。普段は滅多にあんな笑い方をしない。礼儀を重んじる性格だから、それ相応の場面では笑顔を繕うが、それはお義理の笑いであって、あんな風に胸をうつような美しいものではない。
「一緒にTVを見るためだけにきた、と思ったのに、違ったから怒ったのかな……?」
忍は友人が少ない。その潔癖さゆえに、心を許せる相手はあまりいないようだった。だからこそ、俺の不意の訪問が嬉しかったのかもしれない。孤独を慰めにきてくれた、遊びにきてくれた、と思ったのかもしれない。それを裏切られてしまって、怒ったのだろうか。
「しかし忍は、今日の用件が霊界探偵の仕事だとわかってたみたいだった。なら、どうして、怒ったんだ?」
声がつい大きくなり、はっとまわりを見回したが、そこに、俺の独り言に返事をするものはなかった。
裏男や、その他亜空間に生きる下級妖怪達は、口もきけなければ、高等な事を考える知能も持たない。だから俺は、誰にも相談をもちかけることができなかった。どんな時も、一人で考えるしか、なかった。
「そういえば、忍が怒ったのは……夜伽ぎの相手になるって言った時と、どうして霊界探偵を続けてるんだ、と尋ねた時だったな。……あ」
まさか。
そんな。
もしかして、忍も、俺の事を、好き……?
そうか。
だからこそ、冗談ならやめろ、と怒ったのか。
この、真剣に好きだという気持ちを、もてあそぶな、と。
じゃあ、忍が霊界探偵を続けているのは、もしかして俺のためなのか? 罪の償いとして仕事を続けなければならない俺を助けるために、ずっとパートナーに選んでくれていたのか?
「ああ、忍!」
俺の全身は、カアッと熱を帯びた。
もし、愛されているのだとすれば。
「俺は、なんて鈍感なんだ」
そうだとしたら、俺はあの場で忍を抱きすくめるべきだったのだ。あの熱い身体を抱きしめて、《愛してる。このまま、俺の腕の中で眠ってくれ。俺のこの左胸には、どんなに甘えてくれてもいいんだ。どんなに弱味をさらけだしても、いいんだよ》と囁くべきだった。抱いて、抱かれて、それで忍が少しでも慰められるものなら、俺なんていくらでもくれてやる、何をされても構わない、そう思った。
そう。
俺は、忍が本当に好きだ。透明なガラスよりもろく壊れやすい心を持ちながら、鎧のように身体を鍛えて、どんなに酷い事にも耐えようとする、あの可憐な少年が。他人の醜さを決して責めようとせず、自分だけをひそかに責めて、安らぐ日々を求めず、遥かな高みを黙々と目指す、王者の魂を持つ彼が、好きだ。
ああ、俺は本当に彼が好きだ。優れた部分だけでない、生き様の哀れさを含めた忍という存在そのものが愛しい。この青年が俺だけのものであってくれたなら、と何度も願った。闇の空間に放り込んで、誰の目にもふれさせないようにしてやろう、と幾度も思った。
そう。
もし、忍が、少しでも俺を愛してくれているのなら。
すぐさま飛んでいって、俺の気持ちを伝えよう。そして今夜は眠らせない。心も身体もすべて、俺のものにする。彼の寂しさをすっかり埋めてやる。欲しいものはなんでも与えてやる――。
「……ふ、馬鹿馬鹿しい。実際に、そんな事ができるものか」
それは、夢物語にすぎなかった。
俺は、忍の前ではやりたい事などできない。言いなりに大人しくしている事しかできない。どんなに好きでも、とてもじゃないが、こちらから手なんて出せる訳がない。腕前の問題だけでなく、精神的にも全然かなわないのだ。それなのに、今からノコノコ現れて、まして押し倒す事なんて、絶対に出来やしない。
それにこれは、とんだ自惚れかもしれない。とりわけ、肉体的にも愛されている、などというのは。仲間の少ない忍にとって、俺は友人の一人として必要とされているだけだ。それ以上の感情は、忍は持っていないのではないのか。
「……だが、それならそれで、いいじゃないか。俺が忍にとって必要であるなら、それだけで充分だ」
そうだ。
忍がどうあれ、俺は、忍が好きだ。
だから、まずはそれだけでいい。
だが、もし、この恋を俺の望む形で成就させたいのなら、忍の口から言わせなければ、駄目だ――愛している、と。
「……そんな事は、百年たっても、無理だな」
肌身はいらない。無理強いならしたくない。心だけでいい、自分の力で手にいれたい。
それでも、無理だ。
絶対に、そんな事は無理だ。
「フ。ア、アハハハハハ……」
自嘲気味の俺の笑いを、裏男がいつまでも、不思議そうに眺めていた。
亜空間の闇の中を、錆びた銀色のスクラップが、幾つも幾つも流れ星のように流れていった。この、誰もいない、誰もこられない、寂しい墓場のような空間を……。

★ ★ ★

「忍。……大丈夫か、忍」
左京襲撃の日から、二ヶ月が過ぎたその夜。
忍は、すっかり放心状態でいた。
「忍……どうしたんだ」
「……?」
ようやく振り返ったが、すくに言葉が出ないようだ。
俺は、ラベルのないビデオテープを、忍の前にすい、と差しだした。
「頼まれた『黒の章』、持ってきたよ」
「ああ」
忍はようやく目がさめた人のような顔をして、それを見た。
「信じられない。……もう、手に入ったのか? 無茶はするな、と言ったろう?」
「無茶はしてない。霊界資料館に押し入るだけなら、簡単な事だ。俺も、伊達で闇撫を名乗ってる訳じゃ、ないんだよ」
「そうか。……すまなかった」
忍は用意しておいたらしいデッキにテープを入れ、TVのスイッチを入れた。
『黒の章』。
霊界資料館の最奥に眠っていたそれは、人間の影の部分を示した犯罪録だ。今まで人間が行ってきた罪の中でも最も残酷で非道なものが、何万時間という量で記録されている――そういうふれこみで有名だが、それが実際どんなものか見たものはほとんどいない。
だが、忍はこれを、突然見たいと言い出した。
「樹。霊界巨大資料館にある『黒の章』っていうのを、知ってるか?」
「ああ。まあ、有名な資料だけど……」
俺は曖昧に言葉を濁した。一瞬、人間の忍が、何故そんなものの存在を知っているんだ、と思ったが、どうやら彼が生かしておいた妖怪連中が、ちょっと口を滑らせたらしい。
その頃の忍は、俺の知らないネットワークを闇の世界に築きつつあった。あちこちへスパイを放ち、自分の集めたいあらゆる情報を手に入れていた。
それは、俺にとってあまり面白い事ではなかった。
俺がそっぽを向いていると、忍は真剣な顔で、
「お前なら、それを手に入れられるか?」
と尋ねる。俺は少しとぼけて、
「どうかなあ。普通の人間や妖怪の閲覧は許されてないから、結局盗むしかないだろうな。取ってくるのは難しくないと思うが、万が一霊界の監視官に見つかったら、相当恐い目にあうだろうな。……まあ、どうしても忍が見たいなら、考えなくもないけど」
霊界の監視官、という所で、忍の頬がピクリとひきつれた。俺が脛に傷持つ身であることを思いだしたのか、すうっと視線をひいて、
「いや。……お前が無理なら、他の術者か妖怪にあたるから気にしなくていい」
あまりあっさりひきさがるので、俺の方が慌てた。
「無理とは言ってない。他の妖怪にあたるくらいなら、俺を使ってくれ」
「いや、いい」
「なんでだよ?」
忍は、半ばうつむいたまま、
「……俺の頼みだと、おまえ、無茶をするだろう」
と呟いた。俺はやれやれ、と肩をすくめた。
「無茶なんてしないさ。『黒の章』一本を盗ってくるだけなんだろう? おやすい御用だ。せいぜいヘマをしないようにするよ」
「すまない」
「いいよ、別に。たいした事じゃない」
実際は、結構大変な仕事だった。霊界の鬼達の目をくぐり抜けるのに、自分の異空間移動の力を最大限に利用しなければならなかった。
だがまあ、忍のたっての頼みである。俺は柄にもない努力をし、なんとかテープを手に入れた……が。
忍は、俺の努力の結晶が流す映像に黙って視線をあてていた。次々に流れる映像に、白い顔を照らされている。
それにしても忍は、なぜこんなものを欲しがったのだろう。
俺は人間の汚さなどに興味はないし、どんなに酷い人間が目の前で悪行三昧をしていようと平気のへいざだが、忍はそんなに図太い人間ではない。実際、忍の網膜は目の前に流れる映像を映していたが、思考回路のスイッチは切っていた。脳髄が、陰惨な殺戮のシーンを真実として受け取っていない。
第一、今の彼は、忍でなくミノルの顔になっている。最近、この冷血な理屈屋の人格が表にしょっちゅう現れているので、俺は気になっていた。あまりよくない傾向だ。
「……忍」
「ああ?」
「そろそろ、話してくれてもいいんじゃないか」
「何をだ?」
ミノルの顔で、振り返る。
おい。
俺といるのに、どうして忍に戻らないんだ。
おまえが眠れない夜には、いつも側にいたじゃないか。柔らかな手で眠らせてやりたいと願い、俺なりに尽くしてきたのに、それはないだろう。
かすかな悲しみをおぼえながら、なるべく静かな声で俺は尋ねた。
「いったい俺に何を隠してる。俺に内緒で、何を調べてるんだ」
「いや。……別に何も、調べてなどない」
ミノルの顔で平然と言いはなつ。
俺は少し怒りを感じた。
「嘘だろう。目的もないのに、そんなに妙なものを欲しがる訳がない」
「目的……か」
ミノルはまだ薄笑いを続けている。俺はこみ上げて来る怒りをなんとか抑えながら、
「もしかして、『黒の章』を取りにいかせたのは、本当の目的から俺の目をそらすためなのか?」
ミノルの表情が、ふと崩れた。
「それは……違う」
「じゃあ、なんなんだ?」
「……」
忍は、黙ってしまった。ミノルのままで、だ。
俺は、ため息をついた。
「忍が、俺に秘密を持つのは自由さ。俺は忍が踏み込まれたくないと思う事に、踏み込みたいとは思わない。でも、ミノルの顔で取り繕わないでくれ。さすがの俺も、腹が立つ」
忍は、あ、と視線を上げたが、再び口をつぐんでしまった。
口唇を噛み、秘密を押し隠そうとするように、背中を丸めて自分の細い肩を抱く。顔こそ、忍本来のものに戻ったが、かえってかたくなな様子になってしまった。
俺はやれやれ、と肩を落とした。冗談めかして、軽くほぐそうたした。
「……もしかして、左京への片恋か?」
「樹っ!」
しまった、と思った。
信じられない事に、忍の頬は赤く染まっていた。そのはじらいは、まさに恋する乙女の表情だった。
なんということだ。
忍は左京にそういう興味を持っている。
そう気付いた瞬間、俺は声をあらげていた。
「そんな! 今更左京の事を調べて、どうしようっていうんだ!」
「どうしようっていうんじゃない。ただ知りたいだけだ!」
そう言いきった忍は、しまった、という顔をして頬を覆った。
俺は愕然とした。
確かに、左京にあってから、忍はおかしくなった。左京にあってから、忍は隠し事をするようになった。
だが、それが、本当にそういう意味だなんて。
俺は言葉を失った。
そして、二カ月前のあの日を、ありありと思いだした。
左京。
あの、恐ろしくも美しい男。
俺達は、あの日の任務の途中、この男に出会ってしまった。
それが、何もかもを狂わせることになったのだ。

★ ★ ★

ただでさえ、その日の忍の精神は、崩壊寸前の状態だった。
コエンマの指令で向かった山深い別荘では、確かに妖怪達の取り引きが行われていた。弱い妖怪達が召還円で人間界に引きずり出され、密売組織に売買されているのを止めるのが、俺達の仕事だった。
いや、正しくは、召還円をふさげ、という事だけが指令だった。
B・B・クラブという密売組織は、妖怪を見せ物にするために呼び出しているだけで、本当に悪いのは、弱いものを呼び出すのに協力している妖怪だと聞かされていたからだ。魔界へのトンネルである召還円をふさいだら、B・B・クラブはちょっと脅かしてやるだけでいい、という話だった。
しかし、俺達が見たのは、そんな生やさしい光景ではなかった。
弱い妖怪達が、肥え太った人間共になぶり殺しにされていたのだ。串刺しになったもの、吊されたもの、バラバラになって血の池に浸かっていたものもいた。
忍は、辛酸を極めた情景に耐えられなかった。
パチッ、と別の人格のスイッチが入り……再び気付いた時、忍はそこにいた人間すべてを殺していた。
「忍……」
「ここには、人間はいなかった……一人もな。そうだな、樹」
人の返り血を全身に浴びた忍は、それをぬぐおうともせずに俺を見た。
「そうだろう? あんなものが、人間である訳がない」
「忍」
そういう忍の顔はだが、自分の言葉を信じていなかった。
忍は人間の悪の部分をよく知っていた。醜いものを何も見ないで育ってきた訳ではなかった。潔癖である分、むしろ人より多く、そういうものを見てきた筈だ。
だが、親に見捨てられ、その上頻繁に妖怪に襲われて暮らしていた忍は、あまりに孤独だった。だから、人間の温もりを信じたい、と願っていた。人間は、本来は善であると思い込みたかった。本当はそうではない、と諦めたくなかったのだ。
俺は、忍の頬の血をぬぐってやりたかった。
そう、あんな連中は、忍と同じ人間じゃない、と慰めてやりたかった。
だが、あまりにも痛々しいその顔に、俺はついに触れることができなかった。頬をそむけ、小さな声で呟くことしかできなかった。
「そろそろ、召還円をふさがなきゃ」
「ああ。そうだったな」
忍は小さくうなずいた。
小ぶりの界境トンネル、とでも言うべき直径十メートル程の円が、この奥にある筈だった。呪文とかがり火と術者の力で、人為的に空間を歪めた場所が。
俺達は再び、別荘の中を移動し始めた。
忍はだんだん平穏な顔に戻ってきていた。張りつめた糸がいつしか緩み始めるように、少しずつ。
「……樹」
「うん?」
「まだ首謀者が残っているかもしれない。気をつけろよ。ボディガードもつけているだろうしな」
「うん」
よかった。
自分の保身に目が向き始めているのなら大丈夫だ。俺はほっとして歩き続けた。
幾つもの部屋を覗き、ついに、最後の部屋まで来た。
おそらく、ここに召還円がある。
首謀者は、たぶんもう逃げてしまっただろう。相当頭の悪い人間か、用心の悪い奴でない限り、俺達の襲撃に気付いている筈だ。それなのに、特に攻撃されることもない。ということは、もうこの別荘には誰もいないのだ。第一、それらしい気配が、ない。
そう思いながらも俺達は、そろそろと最後の扉を開けた。
「あっ……!」
確かに、その部屋に召還円はあった。
だが、その向こうに、もう一つ結界があった。
蔓を縄のように綯った服をまとった女の妖怪が、細い腕を大きく広げて、物の気配などすべてシャットアウトしてしまうほどの、強力な結界を張っていたのだ。
そして、一人の人間が、その中にいた。
「そんな……馬鹿な」
その男は、絹のような細い黒髪をなびかせて、輝く結界の中央に立っていた。
開かれた薄い口唇から、低く、柔らかな声が響いた。
「君達が、霊界探偵の仙水忍君と、樹君か」
忍の声が、掠れた。
「おまえは……おまえ、なのか」
「そう、私が左京だ」
黒のスーツに気障な細いネクタイをしめた姿は、どうみてもカタギの人間ではない。だが、ヤクザと言いきるには、あまりに静かな気迫の持ち主だった。どういう生き方をしてきたのだろう、膚の様子といい、その美貌といい、まだ二十代半ばと思われるのに、すべての欲望を削ぎ落としたような老成した落ち着きに満ちている。繊細な面ざしなのだが、瞳の底の光が内面の剛胆さを強く示し、右目から右頬にかけて走っている大きな刀傷が、更にその凄味を増している。妖かしの力はほとんどないが、全てをはねかえしてしまうような、不思議な力を持ちあわせているようだ。
左京は、不敵ともいえる微笑を浮かべ、片手をあげて俺達を制した。
「それ以上近づかない方がいい。結界師・瑠架の作った結界だ。触れるだけでも危険だよ。もっとも樹君ならば、闇撫の力でこの中に入ってこられるかもしれないがね」
やはりこいつは一般人じゃない。結界師を操り、俺達の力まで把握している。俺は怒鳴った。
「どうして俺の事を知ってる!」
「蛇の道は蛇、さ」
左京は懐から細い紙巻を出し、漆黒のライターで火をつけた。
「君達と、少し話がしたいと思って、ここで待っていた。できれば、私と一緒に行ってくれないか、と思っていたのでね」
うまそうに煙を吐き出しながら、
「だが、君達は美しい一対だ。引き離すには忍びない。まして、私の野望に巻きこむのは、気の毒だ。……特に忍君、君には荷が重すぎるだろう」
忍は、キッと左京をにらみすえた。
「おまえの野望とは、なんだ」
左京の瞳が、すうっと細くなった。
「醜いこの世の中を、混沌の渦に巻き込む。人間界は地獄と化すだろう。だが、その混沌がもたらすものは、すっかり澄んだ世界だ。霊界などに支配されない、強い人間のみが残る世界だ」
「……それが、おまえの考える正義か」
忍の掌から、霊力の紅い光球が浮かびあがった。結界が破れるだけのパワーが、少しずつそこに込められていく。
だが、左京は煙草の灰を落しながら平然と、
「おっと。それはやめた方がいいな。この防呪壁、一旦崩れたら、相当の破壊力を持つ。忍君だけじゃない、樹君がまきぞえになるかもしれないよ。それに瑠架も、私とは今回だけの契約だ。殺すのは気の毒だろう」
ハッとした忍の掌の上で、光球の輝きが弱まる。
左京はごく真面目な顔になって、
「私は自分が正義であるつもりはないよ。自身の欲望に忠実でいたいだけだ。それに、だいそれたことは望んでいないつもりだよ。本当にささやかな事が、私の願いだ。ちっぽけで、他人が聞いたら笑ってしまうような、事なんだよ」
そういって、煙草を足元に落とした。爪先で踏み消して、
「瑠架。そろそろこの場を離れたい。逃げられるのなら逃げたいし、おまえもまだ、死にたくはないだろう?」
「わかりました」
瑠架は額の前で指をつきあわせる。すると、結界の質が変化した。黄金色の光が強くなり、中にいるものを、他へ移動させる準備が、すみやかに始まっていた。
結界師の技術は闇撫のものとは違う。逃げられたら、追いかける事は難しい。
「どうする、忍」
「……」
忍はぐっと口唇を噛んで、左京を見つめていた。小さい紅球はまだ、構えた手の上で躍っている。
左京の姿はもうすでに、まぶしい光の中に消えかけていた。
「忍君。君は賢い青年だ。だから、そろそろ霊界のやり口に気付いているんじゃないのかね。どうして、自分達がやるべき仕事を、人間や弱い妖怪達にさせているのかわかりかけてるんじゃないかね。……だからおそらく、君も私と同じ願いを持っている筈だ。私に近い魂を、持っている筈だ」
「……言うな」
紅球がグン、と大きくなった。結界どころか、あたり一面の森も焼き払いかねないほどの大きさに成長した。
「私達は心の底に秘密の願望を持っていて、それに罪悪感を感じているんだ。いつかそれに喰いつぶされるのを知っていながら、恋のような甘い陶酔をおぼえている……違うかね」
「それ以上、言うな」
忍の声は、すっかり掠れていた。紅球は、ついに彼の手を離れ始めた。
「気の毒だが、君は一生、楽にはなれないよ。私と、同じにね」
「言うなァァッ!」
「やめろ、忍!」
その瞬間、忍の絶叫と共に、彼の手から離れた紅球が結界をつき破った。
……と思った瞬間、結界は消えていた。
「それでもマズイぞ!」
俺はとっさに忍の襟首を掴み、亜空間に放り込んだ。俺もすぐに裏男の中にもぐり込んだ。
次の瞬間、別荘は跡形もなく壊れた。
それどころか、半径一キロメートルの森が蒸発していた。
「大丈夫か。忍」
「……平気だ」
忍の口唇は、平気だ、という言葉を何度も繰り返していたが、その顔はほとんど死人のようだった。
左京の言葉の矢は、忍の胸の真ん中を深く貫いた。そのささって抜けない矢は、エロスの神の使うもののように、毒性の強い矢だった。
その日から、忍は変わった。
コエンマへの事後報告にも、忍は嘘をついた。
携帯の霊界TVに向かって、彼は淡々と報告した。
「……あと一歩で、B・B・クラブの首謀者を捕まえられた筈なんですが、左京以下はみな逃げた後でした」
スクリーンの中で、コエンマは苦笑いした。彼らは霊界にある巨大TVで、ある程度監視をしていた筈だ。おそらく、左京と忍が逢って話をしたのにも気付いている筈だ。
だが、コエンマは知らんふりをした。
「それは、まあ仕方が無い。今回の目的は、左京を捕まえる事ではないからな。……それにしても、だ」
「なんですか?」
「今回のおまえの不始末については、大目に見てやらん事もないが、やりすぎには気をつけろよ。やむをえない事であっても、度重なると、こちらも処罰を考えねばならん」
コエンマは遠回しに、忍の大量殺人をあげつらった。
だが、忍はその時、ミノルの顔で薄ら笑った。
「やりすぎ? 不始末? 何が、です?」
驚いたコエンマは、言葉を濁しながら通信を切った。
忍はチ、と舌打ちした。
「ふん、妖怪なら殺してもよくて、人間なら悪人でも殺しちゃいかん、か。ふざけた奴だ。左京の言うとおりだ」
「忍……」
俺には、忍の秘密がなんなのか、よくわからなかった。忍が左京に近い人間だとはとても思えなかった。
しかし、忍は左京のイメージに完全にのめりこんでいた。左京の残した言葉を、時々舌の上にそっとのせるようにして、呟いていた。
「……心の底に、秘密の願望を持っていて、それに罪悪感を感じている。いつかそれに喰いつぶされるのを知っていながら、恋のような甘い陶酔をおぼえている。だから、一生楽にはなれない……ずっと、苦しみ続けるんだ」
よくない傾向だ、とは思ったが、この手の自己暗示を止める術はない。俺はただ傍らにいて、忍を見つめている事しかできないでいた。言われるままに、ビデオをとってくる事しかできなかった。それでも、誰よりも側にいれば、最悪の結果だけは免れるだろう――そう思っていた。
だから思いもよらなかった。
忍の企みが、俺が思うより単純だったとは。しかも、忍の中の左京が、こんな崇拝じみた、熱烈な恋に成長しているとは。
「左京は……知るだけの価値のある、男だ……」
「忍……」
ショックと共に、目の前が暗くなる。
激しい嫉妬が湧き起こって、俺はビデオデッキのスイッチを切り、忍の胸ぐらを掴む。
「待て。……霊界からの通信だ」
気が付くと、言われた通り、携帯TVが鳴っていた。
忍は俺の腕をいとも簡単に払いのけると、小さなスーツケース型のTVを開けた。
コエンマは、童顔の額に深い皺を刻んでいた。
「忍か。……おお、樹も一緒か。実は、困った事があってな。霊界の巨大資料館から、一本のビデオテープが盗まれた」
「ビデオテープ?」
忍は微塵も表情を変えなかった。
「ああ。『黒の章』といってな。万が一、あれが人間界に流れるような事があったら大変なんじゃ」
「そんなに恐ろしいビデオなんですか。大変だ」
忍は目を丸くして驚いてみせた。本当に何もしらない、としか思えない顔だ。だが、ふっと首を傾げて、
「でも、あなたは、霊界のビデオは一般の人間には見られない、と以前言ったじゃありませんか。ビデオ一本で、人間界に災いを招くような事ができるんですか?」
コエンマは、うむとうなずいて、
「ああ。一般人はまだいい。だが、霊能力が少しでもある人間なら、あれを見ることができる。悪意のある人間の使い方次第では、とんでもないことがおきる。そんな事は、絶対に避けなければならん。……絶対にな」
クドクドとコエンマが念を押すと、忍の口唇の端に奇妙な笑みが浮かび始めた。
「……それで、俺達の仕事はなんです」
「『黒の章』を取り戻し、人間界に起こる混乱を、できるだけ未然に防ぐことだ」
「ほう」
忍は含むように笑って、いきなり口調を変えた。忍の顔のままで低く鋭く、
「コエンマ。人間には、生きる価値があるのか? 本当に、霊界がそんなに親切に守るほどの価値が、あるのか?」
それは、忍には珍しい、ひどく青臭い台詞だった。そういう事を考えても、決して口にはしないのが忍だ。しかも、ミノルの性格が表に出ていないにも関わらず、こんな風にぶしつけにいきなり言うとは。
コエンマも、さすがにイヤな顔をした。
「どうした、忍?」
「いいんだ。どうせ、親にいいなりのおまえには、俺の問いの答は出せまい」
「おい、何を言っとるんだ、忍」
忍は、ふ、と鼻で笑った。
「ああ、指令の内容は、よくわかった。オマエの希望に、できるだけ添うようにしてやるよ」
言い捨てると、忍は一方的に通信を切ってしまった。
それだけではない、彼の手の中で、TVはボンと爆発した。
「忍、いったいどうしたんだ?」
忍は力なく笑った。
「ふふ、霊界探偵なんて、もう止めてやるんだよ」
「忍」
「霊界は、俺達を騙してたんだ」
「騙してた?」
忍は肩をそびやかした。
「ああ。奴らは、捕まえた妖怪を洗脳して、わざと人間界で悪事を起こさせて犯罪件数を増やしていたんだ。悪事の報告書をでっちあげて、罪のない妖怪に濡れ衣を着せてもいたらしい」
なんだって?
「そんな。なんのためにそんな事を?」
驚く俺を見ながら、忍は続けた。
「魔界を悪役にしておけば、霊界は人間界を守る大義名分がたつ。結界を張って極悪妖怪を排除したからこそ、平和を保たれているんだと。俺達のおかげで、騒動が少ないんだと主張することができる。だが、本当は霊界は、人間界の資源を自分達の使い放題にしたいだけなんだ。文字どおりの領土維持が目的……ふふ、人間界を混乱から救え、とはよく言ったもんだ」
そう言う忍の目尻には、うっすらと涙が浮かんでいた。それはそうだろう。本当に、霊界の汚い手口に、知らず躍らされていたのなら。だとすると、指令のままに捕まえ、殺した妖怪達も、もしかしたら無実だったかもしれない。必要悪だろうと我慢していたのに、自分の流した血の方が、本当の犯罪だったとしたら。そう考えただけでも、忍の胸は張り裂けてしまうだろう。
俺は思わず声を荒げた。
「コエンマの奴、そんなとんでもない事をしてたのか! 許せない!」
「いや」
忍はすぐに首を振った。
「この事件の首謀者は閻魔大王だ。おそらく、コエンマさえも実態は知らされてないだろう。薄々は気付いているかもしれないが、力の差が絶対的すぎる。告発など出来はしない。まあ、それも気の毒な話だがな。なまじ血がつながっているからというだけでこき使われているんだからな」
驚いた事に、この後に及んでコエンマをかばうような事を言う。
「でも……」
俺は闇撫の手を呼びながら、忍の耳に口唇を寄せた。
「それで、忍は、これからどうするつもりなんだ? 霊界の指示に従わないのはいいが、そんな秘密を知って、俺達は無事でいられるのか?」
「もちろん、ここはひきはらうさ。行方をくらますんだ」
「何処へ?」
「そうだな。どうするか。……つては、なくもないが」
デッキからテープを取り出し、忍は意味ありげに笑った。
俺は顔をしかめた。
「まさか、左京を追うのか。あいつと一緒に、仕事をするつもりか」
すると、忍の瞳の色が変わった。うっとりとした声で、
「左京という男は、面白い男だ。俺は――奴が気に入っている。あいつのやっている事は、おそらく、霊界へのささやかな反逆だ。応援してやりたい。できる事なら、あの男の孤独を、俺が癒してやりたいよ」
俺の核の中で、炎が閃いた。
呼吸がとまるくらい激しい嫉妬が、燃え上がっていた。
駄目だ。
忍のこれは、一時的な気の迷いでも、単なる同胞への同情でもない。遠い憧れというのも違う。深い共感……そう、死神との、恋だ。
馬鹿な。
あんな、ぽっと出の人間に、忍の寵を奪われるなんて。
痛む胸を押さえながら、俺は言葉を失っていた。
すると忍は、意外な事を言い出した。
「だが、俺は左京にはなれない。なりたくはない。あいつの苦しみを味わいたくはない。俺は俺の正義を生きたい。……だから、もう妖怪達には関わりたくない。俺は左京ほど、割り切れないからな」
「忍」
「とりあえず、おまえにまかせる。どこか遠い場所に連れていってくれ。できるだけ遠い場所に。なんにしろ、もうここには居たくないんだ」
「……わかった」
俺は百目の影の手を呼んだ。
ぱっくりと裂けた空間の穴に、俺達は二人でもぐり込んだ。
そして、どこまでも、堕ちていった。……

2.仙水忍/二六歳

「こんな所にいたのか、忍」
「ああ。……ここは、パラダイスだな」
穏やかな日が、続いていた。
南米の小さな村で、俺達はもう半年を過ごしていた。
その日はかなり暑かった。
木翳に座った忍は半ば目を閉じて、太い幹に寄りかかって小さな本を読んでいた。木漏れ陽を受けた額が、汗で光っている。忍は上下をいつも黒で揃えるので、こういう時は必要以上に暑い筈だ。
「ここが、パラダイスだって?」
「ああ、パラダイスだ。ここには、何もないからな」
忍は本を開いたまま、前へかがむ。乱れて一筋額に垂れた髪が、ふ、と風に流れる。
俺は忍の脇に、す、と腰を降ろした。
「ふうん。何もないのが、パラダイスかい?」
「ああ。……ここには、大きな争いがない。飢えて死ぬ人間もいない。気候も過酷じゃない。若者は、政治の話で熱い血をたぎらせるが、それ以上の悪さはしない。社会体制には問題があるが、特別悪いことも起こらない。何もかもに活気がありながら、平和でのどかで美しい。だから、ここはパラダイスだ。いつまでも、ここにいたいと思わせる」
「……忍」
いつまでも、パラダイスにいたい、なんて。
そんな事を言う忍は、はじめてだ。
俺は思わず、忍の背に手を触れた。
「本当に、いつまでも、ここに居たいかい?」
「ああ」
忍の表情は平穏そのものだった。俺は忍の背に寄り添い、低い声で囁いた。
「……それじゃあさ、いつまでもここに居ようよ。いつまでも……さ」
「おい、くっつくな。暑いじゃないか」
忍は、俺の手をピシャリと払った。俺は、アハハと笑って身を交わし、
「暑いのは、午後三時に外にいて日にあたってる忍が悪いんだよ。みんな家の中の涼しい場所で、昼寝をしてる時間なんだから」
忍は、俺との距離をとったままニコリともせずに、
「俺には、ここの方が涼しい。それに、悪いが、少し一人でいたいんだ」
「忍」
俺はふと、さっき触った背中の感触を思いだした。
「もしかして……」
古傷が痛むのか、といいかけてやめ、俺は明るい声を出した。
「そうだな、確かに、こんな風に、どこもかしこも平和だと、いいな」
「ああ」
忍は静かに、幸せそうに呟いた。
だが、俺の口の中には苦いものが広がった。
確かに、今の忍は静かな生活を楽しんでいる。そして、いつまでも、このぬるま湯に浸かっていたい、と思っているだろう。
しかし、それはおそらく、長くは続かない決心だ。
彼は、激しい場所に身を置かないと、いられないのだ。自分の身も心も極限までさいなまれるような場所でこそ、忍の魂は生き返る。因果な性分だ。修業をして、地獄を見て、自分の身体を必要以上に傷つけなければ生きていけない、というのは……。

俺は、日本を離れた時、忍を静かな場所に連れて行きたいと思っていた。忍の心がどうあれ、どこかでゆっくり休ませてやりたいと思っていた。
だが、忍は、それは嫌だ、と言った。俺は常に闘いのある場所に行きたい、そこで強い人間に逢いたい、と。広い世界には、自分の力が及ばないような、特別な強さを持つ人間がいる筈だ。しなやかに優れた、弱者を痛める事のない強さを持つ人間がいてくれる筈だ、と。そこで俺は、正しく武術を学び、ありうべき自分になるんだ、と。
それで俺達は、あらゆる気候とあらゆる人種を体験することになった。
香港でカンフーを学び、タイでムエタイを学び、インドでヨガとカラリパヤットを学び、メキシコでルチャリブレ、大陸でコマンドサンボ、ブラジルでカポエラ……いろんな武術家に逢い、忍はそれらをすべて吸収し、独自の拳法をつくりあげていった。
その頃、忍の口癖は、強くなりたい、だった。
「今より、か?」
「ああ」
そう言って、血の汗を流した。
強く、なりたい。
恐ろしい言葉だ。
なにしろ忍は、元々とんでもなく強いのだ。武術の腕も霊力も低級妖怪を蹴散らす程だったのだから、普通の人間などかなう訳がない。時々、本当に、これ以上強くなってどうするんだと思った。
だが、忍は、刻苦して自分を鍛え続けた。自分の身体に好んで傷をつけているのではないかと思うくらい、厳しい修業をしていた。
だが、その精神は少しも鍛えられていかなかった。そして、確実に病んでいった。正義の人間が敗北していく様や、悪い人間の哄笑を、その都度見せられてしまったからだ。
「香港には麻薬は一ミリグラムも入れさせん」と叫んでいた警部は、マフィアにさらわれて、挙げ句、情報部あがりのスナイパーにムザムザ殺されてしまった。俺達はその娘が仇うちをしたいと泣くのを慰める事しかできなかった。「俺は八百長試合はしない」と笑って土地の大ボスを無視した単純明朗なキックボクサーは、冤罪で牢獄に入れられ、そこで警察官にリンチされ、殺された。インドで世話をしてくれた僧侶は酷かった。善人面をしていたが、腕っぷしが自慢で、廃寺にくる墓泥棒を惨殺しては、こいつらは幸せ者だ、カーリー女神の贄になれたんだからな、と笑った。
いや、そんな事件はまだまだなまぬるい。血に飢えた人間共の、飽くことのない残虐さ――人権運動だ、腐敗した政権を倒すのだ、正義の戦争だ、反乱者は粛正すべきだ、乾いた国では力が正義だ、などと、それぞれもっともらしい旗を掲げて、どの国の人々も、個人的欲望による殺戮を延々繰り返していた。
忍は激戦地の影の部分で暗躍し、ありとあらゆる現実の人間の辛酸を見た。殺しのための殺しを、ビデオの映像などでなく実際に目の当たりにしてしまった忍は、自分の中のかすかな希望が曇っていくのをどうしようもなかった。相変わらず血の飛沫を浴びながら、次々と居場所を変えて行く羽目に陥った。……
彼の本当の興味は、もちろん自分を虐める事ではなかった。苦行は本当は喜びではなかった。彼の望みは、いつも自分が最善の存在になるように努力すること、そして周囲が良くあることだった。口には出さないが、何にも負けない程強くなること、そして、それによる弱者の救済が、彼の変わらぬ崇高な目的だった。
それなのに、忍がはまっていくのは、深い泥沼だった。
どんなに強い人間にも限界がある。自分を守る事で精一杯で、最後には醜さをさらけだす。結局、弱い者は淘汰され、滅びていくばかりだ。忍は、そういう絶望的な実感を深めて行くばかりだった。
そんな事を何年も繰り返すうち、彼の心は再び限界に達していた。
その証拠に、彼の中に、最終的な殺人者の人格、カズヤが生まれていた。ギリギリまで追いつめられて、もう相手を殺すしかない時、彼の右腕は銃になり、激しい火を吹くようになった。ジョージの人格が発生した頃から、銃器にはかなり興味があったらしいが、身体を改造して、まさか自身が武器になってしまうとは。
初めて気功銃を使った後、忍は放心していた。
「忍……おまえ、いったい……」
「俺には、気功銃は使えない。使えるのは、カズヤだけだ。だから、カズヤが出てこなければ平気だ」
忍はようやくそれだけ言った。
もう、駄目だ。
忍には、すぐにもしばらくの休養が必要だった。
何もかも忘れ、静穏な生活に入って、痛んだ心を癒す時間が。
だが、そんな状態でも、忍は平和な場所に行くことを拒んだ。観光に行くんじゃない、俺は限界の状況で、自分が何を出来るか知りたいんだ、と言い続けた。
しかし、あらゆる暗殺や謀殺からなるべく遠く離れて、なおかつ忍の要求するような場所をさがすのは、なかなか難しかった。
俺達が南米の小さな田舎町にやってきたのは、そんな時だった。
その町では、宗教的な対立と、時の政府による人権弾圧があったが、それはかなりのんびりとしたもので、時々おこる小さな争いも陰湿な種類のものではなかった。
「忍……ここは、どうだ?」
「ああ。……しばらくなら、こんな場所も、いいかもしれない」
珍しく忍は、微笑みながらそんな事を言った。
いい、傾向だ。
「でも、忍好みの、戦場、じゃないよ?」
「ああ」
忍は道端にかがみ、乾いた大地に手を触れた。そして、逞しい大木を見上げた。
「……なにか、新しい感覚を掴みかけているんだ。今まで修めてきた格闘技が、一つになりかかっているような気がする。それは、荒々しい場所でなくて、こういう静かな所にいてこそ、花開くような気がするんだ」
「それは、よかった」
忍の笑みが本当に嬉しそうだったので、俺もつられて微笑みながら、
「次に逢える人間は、本当に強いといいな」
「ああ」
そんな会話を交わしてから、もう二ヶ月が過ぎた。
南半球の夏が、俺達を照らしている。
長い夏休みを、与えてくれている。
「……さても、さても、平和だ」
そんな事を呟くと、忍は手にしていた本をパタンと閉じた。俺はようやく、彼が何を読んでいたか気付いた。黒い表紙に押された金色の文字は、BIBLE、の五文字だった。
「なんだ。聖書じゃないか」
「ああ」
聖書、という妙な本の事は、妖怪の俺でも知っていた。何故かはしらないが、ホテルの部屋に一冊づつ備えつけてある家具で、キリストを崇める人間が読むありがたい本だという。なんでも、それによって、魂が少しでも救われるという話だ。だから、大勢の人間が神を信じているのだという。そんなものは、霊界にも魔界にも、いはしないのに。
「もしかして、忍、クリスチャンになるつもりなのか?」
「まさか!」
忍は鼻で笑った。
「じゃあ、どうして、そんなもの……」
「これには、古代からの、世界中の罪悪が書かれているからな。理不尽な暴力や汚辱、戦争に強奪に姦淫、下手なゴシップ週刊誌よりずっと俗悪だから、たまに読むと面白いんだ」
「俗悪……?」
「ああ。そうさ」
忍は軽く肩をすくめて、
「さもなきゃ、こんなちっぽけな本をどうして大勢の人間が読む? 自分より悪いことをしている人間はどこにでもいる。間違った裁きはいつでも起こりうると知って、みんな安心したいのさ。醜いのは自分だけじゃないってな」
「ふうん」
それじゃあ『黒の章』とたいして変わらないじゃないか、と口にしかけて、俺は慌てて話題をかえた。
「それにしても、眠れる時は眠れよ。この暑いのに、昼間も起きてて、夜は夜であの連中と騒いでるんじゃ身体がもたないよ」
「ああ。……わかっている」
実を言うとこのところ、忍は毎晩町の酒場に繰り出していた。
酒を飲むのが目的ではない。アルコールに弱いというのではないが、忍はあまり酒が好きではない。
では何故夜な夜な、酒場に出没するか。
それは、青年達の政治論議に耳を傾けるためなのだ。
平和な場所といっても一応は社会主義国家だ。言論の自由の厳しい国ほど、討論は盛んだ。血の気の多い連中もいる。もう少し山奥では、ゲリラのドンパチもあるらしい。秘密裡に反政府活動をやっている連中もいるらしい。
そんな連中を含む町酒場はいつも集会めいて、時に激しく、時に陽気に盛り上がる。
忍は、自分の国の将来を熱っぽく語る青年達を見るのが好きらしかった。そういうストレートな情熱が、自分の過去と重なって懐かしく思えるようだった。俺は異邦人だから、と会話に深入りはしなかったが、楽しそうに話を聞いていた。
なんにせよ、彼らは明るかった。
彼らの政治的リーダーとよべる存在は、ミゼルといってごく平凡な小柄な男だった。彼のイデオロギーは、《俺は、愛しいものを守るためだけに戦う》という実にシンプルなもので、そのわかりやすさから、運動家でない連中からも広く支持されていた。ミゼルという男は、頼まれればなんでも手伝ってやる親切心ときさくさがあって、それも慕われる理由らしかった。年は三十を越えていたが、子供っぽい笑顔でよく笑う。忍は時々、ミゼルを横目で見ながら、
「俺にもあんな単純さがあったらな」
と呟く事があった。
陽性の正義にひかれるのは、いい傾向だ。俺も黙ってうなずき、毎夜の酒場のお供も苦痛でない、と思うのだった。
それにしても、まったく飲まない訳ではないのだ。なんにせよ、過ぎれば身体に毒なのはわかりきっている。
「とにかく、今日も出かけるなら、夕方少しは寝た方がいい」
「……ああ」
もう忍からは、生返事しかかえってこなかった。
「じゃあ、俺は先に帰るから」
「ああ」
曖昧にうなずきながら、忍は再び聖書のページを開いた。
俺はため息を一つつくと、木の裏の空間を裂き、そのままねぐらにしている小さな小屋へ帰った。

《……恋は夜に連れ、夜は恋に連れ、夜中のラジオは僕を連れ……》
「おかしい」
つけっぱなしのラジオのお定まりのDJが、もう夜更けを告げていた。
「どうして帰ってこないんだ、忍」
普段の忍なら、もうとっくにこの家に戻ってきている時間だった。もしかして、そのまま酒場へ行ってしまったのかと思い、一度覗きにいったが、そこにもいなかった。
「……おかしいぞ」
自分自身や物は瞬時に動かせる俺でも、居場所のわからない人間をさがすのはいささか辛い。いや、忍の行き場所に心あたりはないでもないのだが、そこへ行っている間に入れ違いで帰ってくる可能性もある。忍は、自分はふらりと出かけてふらりと戻ってくるくせに、帰ってきた時俺が待っていないと不機嫌になるのだった。まったく難しい奴だ。
「しかたない、さがしに行こう」
簡単な書き置きをしたためて、俺は外へ出た。裏手の山にのぼる。
「しのぶーーぅ」
声をあげながら歩いていると、木々の奥に光が見えた。
「忍……か?」
そこを分けいっていくと、光は強くなった。
その金色の光は、人工的な照明ではなかった。恐ろしいエネルギーを秘めた、不思議な力だった。
「……止まれ」
「忍」
ぽっかりとまるく開けたその場所の中央に、忍が立っていた。
いや、立っている、というのは正確ではない。忍の身体は、宙に浮いていた。燃え上がる黄金のオーラを大きな羽根のように広げて、夜闇にうかびあがっていた。
俺は思わず、二、三歩よろめいた。
「……凄いな、これは」
「樹。それ以上、下手に近づくな。怪我をする」
その、神々しいほどに輝くオーラは、確かに闘気に間違いなかった。
しかし、今までの忍の霊力とはくらべものにならない程、出力が桁外れに大きい、また純度の高い霊気だった。
「……これが、聖光気って奴か」
「ああ」
聖光気――究極の闘気と呼ばれる、その力。
忍はついに、自分の望んだ最高級のパワーを手に入れたのだった。今までずっと苦しんだが、苦しみぬいた甲斐が、あったのだ。
「おめでとう。……ついに、手にいれたんだな」
しかし、忍は首を振った。
「いや、まだだ。完全に制御しきれないからな。気合いをいれて抑えておかないと、この山全体を一瞬でふっとばしかねないような力では、困る」
そう言ってオーラを弱め、地面に降りてきた。
「気の究極は、自然との融合だ。自然を破壊する力は、聖光気であってはならないだろう」
降り立っても、忍はまだ、かすかな余波できんいろに輝いていた。その姿、その微笑みは自信と力に溢れて、たとえようもなく美しかった。
だが、それを見たとたん、俺の頭を嫌な記憶がかすめた。
「……左京……」
なぜか、その時の黒衣の忍が十年前の左京の姿を思わせて、俺は震えた。
そんな筈は、ない。
そんなことは、あってはならない。
忍は、忍だけは、あんな風にはならない。何もかも必要悪だと割り切って、いっそ凶事に手を染めようとしたりは、しない。
「……どうした、樹」
「なんでもない」
俺は微笑をつくろった。まだぼうっと光っている忍の肩をポン、と叩き、
「さ、帰ろう。今夜はもう、寝るんだろう?」
だが、忍は首を振った。
「帰りは、しない」
「えっ」
忍は薄く笑った。
「まだ、宵の口だ。酒場へ行くさ」
「おい、待ってくれ!」

しかし、さすがに南国の酒場も、真夜中をまわった頃にはその盛り上がりを過ぎていた。残っていたのはほんのわずかな連中で、それもだいぶ酒が入っていて、思考回路が麻痺しているようなのしかいない。いわゆるただの酔っぱらい、という類である。
「しかしよぉ、ミゼーェル」
酔っぱらいの一人が、ミゼルにからんでいた。
「おまえはぁ、どうしてぇ、集会にぃ、恋人をよぉ、連れてこないんだ」
ミゼルは軽く受け流すように、
「だってアルは、こういう場所に向いてないだろう。だからだよ、モト」
しかし、モトと呼ばれたやや年かさの酔っぱらいは、懲りもせず、
「だってよぉ、アルだって男だろうよ。男ならよぅ、俺達と一緒に、闘うべきじゃあねぇのかぁ?」
ミゼルはウンウンとうなずきながらきいていたが、その後の答はきっぱりしていた。
「アルにはアルの仕事がある。そして、俺達と同じ目的のために働いている。それで、いいだろう?」
「でもよぉ……」
モトは口唇を尖らせて、いつまでもゴネ続けていた。
それは珍しい光景ではなかった。
ミゼルの政治的な仲間達は、彼の恋人に二つの不満があった。
まず、彼の恋人が男であること。
それから、集会や酒場や人が多く集まる場所に、決して連れてこないこと。
それが、運動家連中にとってはかなり不満らしかった。
愛するものが男でも女でも、そんなことはどうでもいいようなことだが、社会主義の国やキリスト教の影響の強い国では、男同士の夫婦生活をかなり嫌うらしい。どうしておまえたちは自分達の絆を友情と呼ばないのだ、なぜそれでは悪いのだ、と責められる事が度々あるようだった。
そのせいかミゼルは、恋人のアルボを、決して表向きの活動に連れてこない。アルも、新聞をこしらえたり、通信関係の仕事をしたりしてミゼル達の人権運動を支えているらしいが、あくまでミゼルが表に出そうとしない。具体的に、誰かをかくまうとか、非合法新聞を配るとか、軍の施設を壊したり武器を流したりというような仕事を、させないのだ。
理由は他にもない訳ではない。
アルはあまり健康でないので、激しい運動の場に出すべきではないんだ、とミゼルが口を滑らせたのを聞いた事がある。なんでも心臓病の疾患があるらしい。表向きは元気であっても、心臓は甘く見られない所だ。発作でも起こしたら、確かに足手まといになる。そこで相手も、渋々からむのをやめるのだった。ミゼルの人柄の良さもあって、彼をしつこくいじめる人間はいなかった。逆にそいつが顰蹙を買うからだ。
しかし、この夜は、また別方向からの声がかかった。
「でも、いったい、ミゼルはアルのどこがいいんだ?」
「……マキ」
「どこがよくて、アルが好きなんだよ。どこがさ。どういうとこがよくて、恋人にしたんだよ」
マキと呼ばれた男は、まだ若かった。
「なにがさ、好きなんだよ」
あまり酔っている風でもなかったが、顔を赤らめて、上目づかいにミゼルを見つめている。
ハハァン、と俺はすぐに気付いた。マキはミゼルが好きなのだ。あれは、崇拝と恋の境目で、相当もがいている瞳だ。だが、まだまだ純情だ。この質問、アルへの焼き餅もあるが、ミゼルの好みを少しでも聞き出したい算段らしい。顔か、性格か、それとも身体か、などと下品な事を尋ねず、《どんな風だから好きなんだよ?》と繰り返すばかりだ。仕草や言葉の端でもいい、教えろと言わんばかりで、傍目からは可愛らしいほどだ。
ミゼルはやれやれ、とため息をついた。
「俺が、アルのどこを気に入っているかだって? そんな事、言えないよ」
「どうして?」
「だってさ……」
そこで、ミゼルは急に頬を染めた。マキが追い打ちをかける。
「どうして、言えないんだよ」
「だってさ……こんな所でノロけるなんて、ちょっと、恥ずかしいじゃないか」
そう言ってミゼルは、うつむいてモジモジとしはじめた。本当に照れて、真っ赤になっている。
モトを始め、そこにいた連中がどっと笑い出した。
「もう、よせよせ。とにかくミゼルはよぉ、アルにベタ惚れなんだぁ。本当にノロけはじめはじめたら、夜が明けちまわぁ」
「そうだそうだ」
「これ以上あてられたら毒だ、そろそろお開きにしようぜ」
「そうだな、帰ろうや」
連中はどうやらそれで、ようやく気がすんだらしい。アスタ・マナーニャ、また明日、と、ゾロゾロ帰っていった。
「忍。……俺達も帰ろう」
「ああ」
だいぶ間を置いてから、忍は立ち上がった。
連れだって店を出ると、忍の口唇から低い呟きがもれた。
「ミゼルは……なかなか賢いな」
「え、何が?」
「下司な興味を、うまくそらした」
忍は、ひどく真面目な顔で呟き続けた。
「何にも知らない連中に、恋人のどこが好きだ、と具体的に言えば、そこをまた根掘り葉掘りつつかれる。個人的な趣味の問題を話せば、そんなのは愛じゃない、と罵られるかもしれない。自分一人ならそれでもいいが、愛する者がいるなら、さらし者になるのはよくない。パートナーも傷つける可能性がある。せっかく大切にしている絆を、何も知らない連中に揶揄される必要は、ない」
「忍……?」
忍は、夏の星空を見上げた。
「ミゼルのような人間が、本当に強いんだ。誰も傷つけず、そして、闘いぬく、人間が」
その瞳には、限りない健やかさへの憧れが宿っていた。俺はなんだか、少しケチをつけたくなった。
「そうかな。ミゼルだって、口先だけのきれいごと野郎かもしれない。愛する者を守るなんてちょっと格好良く聞こえるけど、家の中では何してるかわかったもんじゃないさ」
「本当に、そう、思うか?」
「外でいい顔してる分、意外に暴君かもしれないぜ。恋人を家の中に閉じ込めて、好きなようにしてさ」
「勝手な憶測で、物を言うな」
忍はムッとしていた。しかし俺も、長いつきあいの俺よりミゼルを信用している忍に、なんだか腹がたってきた。
「じゃ、本当はどうか、覗いて見るかい?」
「樹!」
忍が止める間もなく、俺は裏男を呼んでいた。裏男は俺達二人を亜空間に落とし込み、そして、ミゼルの家の中を覗けるように、覗き窓を開けた。
「あっ……」
俺は、絶句した。
部屋の中では、ミゼルが恋人と抱擁を交わしている最中だったのだ。細い灯の下、腰掛けたミゼルの膝の上にアルがのり、言葉もなく、そっと胸にもたれかかって甘えている。
それは、一幅の絵のように、あまりに穏やかな情景だった。背後に暖かい光が満ちているような、慎ましい幸せの風景だった。
「……忍」
俺は忍を振り返った。
しかし、忍の瞳は、二人に吸い付けられていた。見てはならない他人の濡れ場ながら、それは、目が離せなくなるほど美しいものだったのだ。
二人は抱擁をとくと、軽く菓子をつまみ、それを片付けると、二人でベッドへ入った。そして、愛情深く静かにむつみあう。しばらくして、互いの身体を拭いてきれいにすると、また、甘いものをつまんで、微笑みあう。
言葉や技巧があるのではない。陶酔や激情があるのでもない。しかし、これを見て、二人が心底愛しあっているのを疑える者はいないだろう。そこには、信頼しあった者の睦まじさがあった。理想的な夫婦はかくや、と思わせる愛情があった。黒々とした大きな瞳が交わす視線に、永遠の時間が見えた。……
二人が眠ってしまってから、俺達はやっと覗き窓を閉じる事が出来た。
忍は、俺の顔を見ると、なじる風でもなく呟いた。
「アスタ・マナーニャ、という言葉は、本来は、神の思召しがあったらまた明日逢える、という意味なんだ。彼らの上には、確かに何かの加護がある」
「忍」
「彼らは、だが、神の名を呼ぶ必要がないだろう。俺よりも、神を必要としないだろう。祝福の天使もいらないだろう」
忍はひどく寂しそうな顔になった。
そんなことはない、と思った。どんなに幸せな人間だって、天使の祝福を拒みはしない。あればきっと喜ぶだろう。しかし、今の忍には、そうは思えないらしかった。愛する人がいたら、実は他には何もいらないのではないか、と考えているようだった。
ああ。
俺が、ここにいるのに。
こうして、いつも側にいるのに。
どうしておまえは救われてくれない。
俺は、瞳を閉じて、呟いた。
「……帰ろう、忍」
「ああ」
連れ帰って、忍を寝かせた。
彼は、俺をチラ、と見てから、すぐに眠りに落ちた。
俺はその晩、なかなか眠れなかった。

翌朝。
朝食のBGMにつけたラジオがちょうど、軍の放送を流していた。若いDJが冗談めかした口調で、
《さあ諸君、今日もはりきって、戦争に殺戮に励みましょう!》
まったく冗談じゃない。前線の兵隊がきいたらゾッとするだろうに、同胞の苦労を何だと思ってるんだコイツは、と俺はラジオのスイッチを切った。
忍は黙って食事を終え、立ち上がった。
「……ちょっと、出かけてくる」
「どこへ?」
「気付かないか。町全体の様子が、おかしいだろう」
「え」
言われてみると、確かに妙な雰囲気は感じていた。いつもより、なんとなく静かなのだ。
「……俺も、行くよ」
俺達は揃って町場へ出た。
確かに、その日の町の雰囲気はおかしかった。屋台の類の数も少ないし、扉と窓を閉ざした家も多い。
「いったい、何があったんです」
忍は、町はずれまで歩いて行くと、占い師の老婆に小さな声で囁いた。
占い師は、深くかぶった黒い被衣の下で、キラリと瞳を光らせた。
「他所者には関係ないことだよ」
「じゃあ、この町の人が、どうかしたんですね。いったい、誰がどうしたんです」
「……」
老婆は忍の顔をじっと見つめた。話していいものかどうか、考え込んでいるようだったが、ようやくポツリとこう漏らした。
「ミゼルとアルが、散歩に行ったんじゃ」
「えっ」
忍の顔色が変わった。
「そんな。……いったいどうしてなんです」
老婆は大きな目を伏せて、
「どうして、なんて理由はないよ。散歩だからね。どこへ行ったのかも、わからないよ。誰にもね」
「そんな……」
「おまえさんも、家に帰って戸を閉めておいた方がいい。散歩は、誰にも避けられない」
「……そうですか」
忍はフラフラとその場を離れた。まるで力ない人のような、おぼつかない足取りで、家路を辿り始める。なんだか背が低くなり、肩も華奢に痩せたように見える。俺は物影を見つけると忍をひっぱりこみ、亜空間に落としこんた。
「……忍」
「ひどい……」
忍の声が、変わっていた。
それは少女の声だった。
「君は、ナルちゃん……か」
「ひどいわ……」
忍の人格の中に、一つだけ女性の人格がある。
ナルという名の、少女人格だ。
彼女は、忍がどうしても泣きたい時だけ出てくる。俺の前でだけ、忍は泣いた。しかし、泣くのは女々しい事だと忍は固く信じ込んでいた。そして、人格を豹変させてしまうのだ。ナルの時は、身体付きだけでなく、顔も、なんとなく丸い、少女めいた風貌に変わる。
「どうしたんだ、ナルちゃん」
「どうして……どうして、あの二人が……」
「あの二人って、ミゼルとアルの事かい?」
「そうよ……」
ナルの瞳から、もう涙が溢れ出していた。
「ナルちゃん。《散歩》って、何なんだい?」
「樹……」
ナルは、俺の胸に身をもたせかけて、泣きじゃくった。
「どうして、あの二人が死ななきゃいけないの? どうして? どうしてなの? 運命だったんだ、なんて言葉、もう聞きたくない。あの人達は、何にも悪くないのに。わかりたく、ない」
ああ。
やっぱり、そうだ。
ミゼルとアルが消えたのは、《死の散歩》のせいなのだ。
死の散歩――平和な町に、ある日突然、政府筋の人間がやってくる。それらは訓練された兵士で、時も選ばずやってきて、うむをいわさず標的になった人物を家の外へ出す。兵士達は、狙った人間に銃をつきつけ、「少し歩け」と命令する。それは、誰にも止める事は出来ない。止めようとした人間は、その場で殺されるからだ。
散歩に連れていかれた人間は、表向きは、政府の人間から事情聴取を受けるとされている。しかし、彼らのほとんどは、十数分もしない内に、目立たない場所で射殺される。その遺体は無雑作に放置されることもあるし、埋められる事もある。まれに、血の跡だけ残して、持っていかれたりすることもある。
この強制散歩については、全ての人間が、見ざる聞かざる言わざるでなければならない。もし、この事でちょっとでも政府の批判でもしようものなら、次に散歩させられるのは、そいつだ。
そして、ミゼルとアルは、この散歩で、二人とも、死んだのだ。……
彼らはこの町の活動の長だった。狙われても仕方がなかったのかしれない。しかし、ナル、いや、忍にとっては、その死が耐え難かったらしい。昨晩の幸福の情景を見た直後のせいもあって、それはひとしお胸にくるのだろう。あれが、善良な彼らの最後の晩餐だったのだと思えば、泣きたい気持ちもわからなくない。
「ナル……うんと泣くといい……泣きなさい……泣いて、いいんだよ……大丈夫、あの二人は、きっと最後まで幸せだったよ、ね……」
「樹……」
俺はナルを抱き寄せて、泣かせるままにした。
ナルは、俺の胸にしがみついた。
「樹……もっと……もっと、強く抱いて」
「ナル」
「お願い……お願い」
熱に浮かされたように、ナルは同じ言葉を囁き続けた。
いけない、もう少し落ち着けさせてやらないと。俺はナルの顔を上向けて、涙をぬぐってやった。
「大丈夫だよ、ナルちゃん。大丈夫だからね」
「……樹」
ナルの瞳が、俺を見つめた。
薄い口唇が、幼い子供のように開いて、赤い舌が少しだけのぞいている。熱い息がなまめかしく、俺の喉をくすぐった。
「樹……抱いて……」
「ナルちゃん」
「お願い。抱いて……」
今まで頼りなく垂れていた腕が、俺の首に巻き付いて、ぐっと俺を引き寄せた。
「お願い……今すぐ、抱いて……」
「ナル……」
しかたがない。
彼女の口唇に、自分の口唇を重ねた。俺の体重を支えて、彼女は甘い吐息を漏らす。俺の下で掠れた声が、俺の愛撫を求めている。
「何もかも、忘れさせて……」
しかたない。
俺はそのまま、彼女を押し伏せた……。

翌朝。
忍はまだ、ベッドで眠っていた。
彼の裸の上半身に、そっと手を触れる。
大きな傷が幾つも走る、逞しい男の身体。
「忍……」
まだ、彼は目覚めない。
「……俺は、傷一つない清らかな乙女を、抱きたかったんじゃない……」
昨夜の彼は、忍じゃない。
俺の下にいたのは、ただの我が儘な少女だった。他人に慰めを強要する、世間知らずのお嬢さんだった。内気で傷つきやすいふりをしながら、忍の中で一番貪欲な存在がナルだ。俺の腕の中で乱れ、しきりに誘う仕草は、初めて他人に抱かれたとは思えないほど淫猥だった。
「忍……俺は確かにナルが好きだよ。忍には、こういう部分が、もっとあっていいと思うからね。それに……」
俺は、忍の傷をゆっくりとなぞった。
「たとえナルの時でも、忍の方から、抱いて欲しいと言われて、嬉しかった……たとえ一時の慰めでも、肌身を許してもらえるなんて、今まで思ってもみなかったんだから……俺は、許された自分を、誇りに思うべきなんだろう……でも」
心の中を吹きぬけるのは、あまりに寂しい感情だった。
初めて知った。
愛する者を、腕の中に確かに捕らえ、その肌の感触をどれだけ知ったとしても、それだけでは決して満足感などないのだ、と。
長い渇きの始まりの予感に、俺は震えた。
よく、思いを遂げてしまうとかえって空しさが襲ってくる、などというが、そういう感情ではない。むしろ、ああもしたかった、こうもしたかった、と思う。いや、どんなにしても物足りないくらいだった。やさしくしたい、などという普段の気持ちは、忘れた。そして知った。俺の本当の望みが、何かと言うことを。
「俺は忍を、壊したい……」
そう。
俺は、忍の心にズカズカと踏み込んで、思う様汚してやりたい。この、傷つきやすい心を俺の与えた傷で埋めて、他の痛みなど感じない人間にすっかり変えてしまいたい。他人に身体を投げ出す時、女に変わらざるを得ないような繊細な人間であるなら、いっそ殺してしまいたい。すぐに死にたくなるくらい、うんと酷い事を、してやりたい。
「……ああ!」
狂ってる。
自分の考えのあまりな忌まわしさに、俺はうめいた。
「……樹?」
俺は、驚いてとびのいた。
忍が目を覚ましていたのだった。
昨日の夜の淫らさなど、微塵も残さぬ清らかな瞳で、俺を見た。
「忍。……今の、聞いてたのか」
「何かいってたのか? 何だ?」
無表情のまますうっと身を起こすと、いつもの黒いシャツを被り、立ち上がった。
それはすっかり、普段の忍だった。
どんな妖怪よりも強く、聖光気を極めた、すぐれた格闘家としての忍が、そこにいた。
「いや」
俺は、もう忍に手は出せない、と思った。
だいたい、ナルにならない忍など、押し倒す事はできない。
これでは圧倒的すぎる。
「……なんでもないよ」
忍はふむ、とうなずいて、
「そうか。……いや、俺の方は話があるんだが」
「話?」
「ああ」
忍はベッドの下から小型の鞄を引っ張り出しながら、
「ああ。……そろそろ、日本に帰ろうと思う」
「日本へ?」
今更日本に戻ってどうするのだろう。
しかし、忍は真面目な顔だ。
「いやか?」
「いやって事は、ないが……」
「なら、帰ろう」
「……わかった」
俺は、影の手を呼んだ。
「でも、いきなり日本まで飛ぶとなると、ちょっと時間がかかるぞ。それでいいのか?」
忍は、必要最小限の品をポンポンと鞄につめこみながら、
「飛行機で帰るよりは、早いだろう?」
「そりゃあ、そうだが……」
きぬぎぬの甘さも感傷もない忍の様子に、俺の胸はかすかに痛んだ。なにか一言があっていいだろう。昨日一日の事を、まるで覚えてないという事はないだろう。それなのに、何にもなかったような顔をして。
「どうした?」
「……なんでもない」
俺は立ち上がって、忍に背を向けた。
「ちょっと、戸締りをしてくる」
「そうだな。出て行くなら、開けっ放しはよくないからな」
「……ああ」
俺は、裏口から外へ出た。
そこで、五分だけ、声を殺して泣いた。
どうしてこんなに、ただ涙が流れるのか、わからなかった。
本当に、わからなかった。

《後編/第3章》へ続く

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Written by Narihara Akira
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