Narihara Akiraと『水晶の舟』;津原泰水


◆Narihara Akira(以下Nとする)と出会ったのは十年以上前のことで、その最初の印象を思い出そうとしているのだけど、僕自身、二十歳(はたち)の混沌のさなかに居たせいもあって、記憶の、とりわけ前後関係が曖昧模糊としている。やがて冬が訪れて、Nが白いとっくりセーターの愛用者であることを意識した瞬間や、会話の断片――Nの口から発せられたその偏愛する作家、音楽家や音楽家らしき人々の名前、Nの筆跡が奇妙に僕のそれに似ていて、走り書きを解読するのが僕の役目だったことなどが、切り刻んで繋ぎ合わせたテープを聴くような調子で面白おかしく現れては消え、また現れ、消えていく。

◆当時からNの書く小説には、ある種の読みづらさが付きまとっていた。それがNの思索の忠実な引き移しであるがゆえなのか、あるいは意図的な撹乱だったのか、じつは未だ判断がつかずにいる。チェスタトンの軽妙や中井英夫の律儀さを引き合いに出すのはたやすいが、それらを経過したからと言うより、べつの多くを経過しそこねたゆえの作風に思えた。僕のような無節操な小説読者にはいささかもどかしい面もあった。つくづく、読者とは身勝手なものだ。

◆『水晶の舟』はそのNがふと、普段とは違う楽器を爪弾いて見せたような作品だ。旋律はNのものに他ならないが音色が違うので、一瞬とまどう。僕にとりNの資質を理解しなおす好機だった。相変わらず衒学的だし、物語が論理の軽業に牽引されていくのもいつものこと。しかし語り口が――楽器とすれば、発音までの物理的構造が、決定的に違う。

◆『水晶の舟』はたぶん、現在のNの自信の現れなのだ。どういった素材をどう調理しようと結局Nの味になる。小手先のレシピではない、とNがほくそ笑んでいるのが見える。

◆『水晶の舟』でNは、死という名のカードを、幾度となく裏返す。最後の一行まで裏返し続け、そのたびに新らしい唐草模様が現れる。いかにもといえばいかにもなラストで、放り出された読者は、模様の冬枯れた最後の姿を探し求めるのだが、じつのところNは冒頭でそれを提示している。安っぽいオルガンとギブソンのSGとジャジィなドラムを従えた、モリスンの歌に託して。

Feb 9,1997
copyright (C)1997,1999 Tsuhara Yasumi

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●『水晶の舟』とは?
→「XX」別冊第4弾Narihara Akira個人誌。♀♀サスペンス。
死に臨む人、死に魅了される人間にしか欲情できないデラ・ウォーターズ。その奇怪な欲望を読書や勉強で昇華していた彼女は、ある夜偶然、ドロシー・ジョーダンという一少女と出会った。彼女はデラの理想に、ありとあらゆる意味で一致していた! この運命の出会いがもたらす結果は?
オリジナル版は完売しましたが、現在『ガラスの靴が欲しいわけじゃない』に再録しています。また、単品で、複数箇所で、オンライン販売を行っています(KDP & BCCKS)。


1999.1収録
問い合わせ先→Narihara Akira
http://www5f.biglobe.ne.jp/~Narisama/