『L'AMANT/ラマン』

1.

刹那は目を疑った。
「ここは……?」
にぎやかな音楽。楽しそうな人群れ。春めく日差しの下の重たい原色の世界。
長いドライブの末にたどり着いたそこは、有名なD××遊園地だった。
「こんなところでミッションが行われるんですか?」
今日は特別な任務なので、あなたと一緒に私も外へ出ます、と少佐に言われて、刹那は非常に緊張していた。しかしここで、いったいどんな戦闘があるというのだろう。どんな使命を与えられるというのか。増幅装置こそ薄いコートの下につけているが、今日は普通に見える服を、と言われて、いつもの特殊スーツ姿ではない。不意に敵に襲われたらどうしたらいいのか。とっさにバリアガードで防げるか。俺が少佐を守らなければならないのに、少佐に守られる羽目になったりしないか。少佐も武装している訳ではなさそうだし、本当に大丈夫なのだろうか。
リチャード・ウォンは、静かな微笑みを浮かべたまま返事をしない。
「少佐?」
「歩きましょう」
ウォンはそう言い捨てて、すうっと先にたった。ほとんど足音もたてないその後ろについて歩きながら、刹那はそれとなく周囲をうかがう。休日の遊園地というのは、人殺しの舞台としてはある意味おあつらえ向きなのかもしれない。溢れるほど人がいて、隠れる場所も多い、騒音も大きい。大仕掛けの建物の中で殺戮が行われれば、死体の発見は遅れるかもしれない。どうしてもにじむ血の匂いを、むせるようなキャラメル菓子の香りでごまかせれば。
「少佐、これから何処へ?」
ウォンはピタ、と足を止めた。半分だけ頬を振り向けて、
「今日はウォン、と呼びすててください。二人きりなんですから」
「えっ」
少佐の声音は甘く優しく、
「子供の頃、遊園地に行ったことがないと言っていませんでしたか? ですからこうして連れてきたんです。たまにはこういう処で健康的に過ごすのもよいものですよ、刹那」
「って、もしかしてこれは……」
任務でなくデートなんですか、と言いかけて刹那は赤くなった。俺は何を言おうとした。おぼこ娘じゃあるまいし、そんなこといちいち確認するもんじゃない。少佐がどういうつもりだっていいじゃないか。せっかく遊びに連れてきてくれたんだから、素直に喜べばいいじゃないか。
「ああ、あれに乗りましょうか」
「あれって……メリーゴーランドですか」
上下しながらゆっくり回る白い馬黒い馬。金銀で飾りたてたロマンティックな馬車。大人の男二人が並んで乗るものではあるまい。一人でも恥ずかしい。
「そうです。厭ですか?」
刹那が言葉に詰まっていると、ウォンは少し寂しそうな顔をして、
「私はあなたと乗りたいんですが」
本当のことを言うと、小さい頃は憧れていた。アメリカの田舎では、収穫の時期などに、移動式の小さなメリーゴーランドが巡回してくることがある。まだ家が落ちぶれきっていなかった頃、二度ほど乗った事がある。その時の楽しさは忘れていない。
刹那は小さくうなずいた。
「……乗ります」

最初の乗り物をクリアしてしまうと、恥ずかしさには慣れてしまった。遊園地は大人が童心に帰る場所でもある。白人が多いので、アジア系で長身の少佐の姿は目立つが、男の二人連れだからといって白眼視されることもない。刹那はだんだん心が軽くなってきた。身体も暖まってきて、薄いコートを脱ぎたくなったが、両腕の増幅装置を見られるのと困るので脱げない。
「ああ」
汗をかいている刹那に気付くと、ウォンは側にあったベンチを指さした。
「ここで少し待っていてください。すぐに戻りますから」
「はい」
刹那は大人しくベンチに腰を降ろした。
風はまだ冷たいぐらいだが、柔らかな陽光はもう強まり始めている。
いい季節だ。何もかもがこれから始まる予感に満ちた不思議な時間。様々なものが芽ぶき、育ち始める頃。
穏やかないろの空を見上げていると、少佐は本当にすぐに戻ってきた。
「外の方が気持ちがいいですから、ここでお昼にしましょう」
微笑とともに、サンドイッチの箱と熱い紅茶を手渡される。刹那は受け取って箱を開き、素直に食べ始めた。ウォンも手袋をとって、刹那の脇に座り、箱を開く。
少佐の細くて長い指がサンドイッチをつまんで、薄い口唇に運んでゆく。
眼鏡の奥の黒い瞳に、淡く浮かぶ青の光。
それを見つめながら、刹那は黙って口を動かした。
少佐の綺麗な掌。あの指先がどんなに繊細な愛撫を生むか、俺は知ってる。あの口唇の巧みさも、時に意地悪な舌の動きも。冷たく感じられるほど滑らかな肌も、その中心の熱さも。鋭く濃密な快楽のひととき。終わった後、おずおずと身を寄せると、甘やかすように背を撫でられて、身体の芯が再び溶け出してしまう。少佐、と喘ぐと、ウォンと呼びなさい、と囁かれて、何度も何度もその名を呼びながらしがみつき絡みあって――。
「どうしました、刹那?」
「あ」
なんでもないです、と頬を染める刹那に、ウォンは柔らかな視線をあてる。
「この後はどうしましょうか。刹那は乗りたいものか、観たいものがありますか?」
刹那は考え込んだ。少佐の行きたい場所へ、とばかり言うのも芸がない。
「あの……俺、最後に観覧車に乗りたいです」
刹那がやっとそれだけ言うと、ウォンはにっこりして、
「そういえば、出来たばかりのものがありましたね。じゃあ、最後はそれにしましょう。特に夜景は綺麗なものらしいですし」
刹那は頬を染めたまま小さくうなずいた。別にロマンティックさを求めて乗りたいのではない、密室で二人きりになって話したいことがあるからなのだが、少佐はきっと俺を小娘みたいだと思っているんだろうな、と。
するとウォンはさらりと話題を変えた。
「ところで刹那は、ポップコーンと揚げ菓子とどちらが好きですか? それとも、チョコレートか何かの方がいいですか」
「え?」
「サンドイッチだけでは足りないでしょう? おやつには何がいいですか? いろいろ試してみますか?」
楽しげに尋ねる。少佐自身がジャンクフードを試したいのだ、とわかって刹那も微笑む。
「俺、キャラメルをかけたポップコーンがいいです」
「では、私もそうしましょう」
パン屑を払って二人は立ち上がった。
やさしい日差しの下、仲睦まじく視線を交わしながら歩き出す。
互いの胸を微温の幸せにひたしながら。

日が暮れ落ち、夕食をすませた二人は、締めくくりのために約束の観覧車に乗ることにした。
背を押され、先に入った刹那の脇に、滑り込むようにしてウォンは座った。
「あ」
扉が閉まった瞬間、そっと腰を抱き寄せられて、刹那はぴくんと身を強張らせた。
このまま甘えてしまいたい、という強烈な誘惑。
少佐の腕の感触があまりに心地よくて、気が遠くなる。前後のゴンドラに人はいない。でも、人目がないからといって、少佐の肩に頬を埋めたりしたら、たぶん何にも言えなくなってしまう。いつもと同じになってしまう。
「少佐、俺」
と顔を上げた瞬間、口唇を奪われた。
優しくて、でもどうしても抵抗できない甘い口吻。
駄目だ、とろかされてしまう。
違うんです、俺、そんなつもりじゃなかったんです、俺は……。
だが、刹那が菫いろの瞳をぎゅっとつぶった瞬間、ウォンの顔がすうっと離れた。
「何か話したいことがあるんですね、刹那? わざわざ観覧車に乗りたいなどと言ったのは、二人きりで真面目な話がしたかったからですね?」
言われて刹那は瞳を開いた。
少佐は、いたわるような瞳で刹那を見つめている。
ぜんぶお見通しなのだ。
しかし、いざ少佐の方から水を向けられてしまうと、刹那も何と言っていいかわからない。ここに乗っていられるのも長い時間ではないし。
「いいんですよ、話してごらんなさい。もし時間が必要なら、何度乗り続けても構いませんから」
刹那はやっと、胸につかえていた一言を吐き出す決心をした。
「俺、……少佐の役に立ちたいんです」
ウォンは虚を突かれた顔で刹那を見つめた。
「今更あなたにそんなことを言われるとは思いませんでしたね」
「少佐、だって俺」
「あなたは役にたっていますよ。充分すぎるほどです。辛い実験にもよく耐えてくれましたし、私が命じた任務もちゃんとこなしてきたでしょう。私はあなたの働きに、不満を感じたことはありませんよ」
「でも」
刹那は再び口ごもった。
こんなことを言っていいのだろうか。もっと大きな仕事をまかせて欲しい、とかもっと信じて欲しい、とか。少佐の右腕になって、少佐と同じ未来を見つめて暮らしたいんです、なんて言いきれる力が、今の俺にあるのか。
「なるほど」
刹那の沈んだ表情を見て、今度はウォンから質問してきた。
「どうやら、あなたの方が、私に不満があるようですね?」
「え、あの、俺はそんな」
不満なんかない、そうじゃないんだ。でもどう説明したらいいんだろう、どう言ったらわかってもらえるんだろう。
困っている刹那に、ウォンは助け舟を出す。
「刹那が私から一番欲しいものはなんですか? もっと強い力、それとももっと高い地位ですか? お金? それとも安らぎ? 愛情ですか、それとも愛撫?」
言われて刹那は、そのすべてを目の前にいる少佐その人が与えてくれていたのを思いだした。
これ以上何か欲しいといったら、たぶんバチがあたるだろう。
だが。
俺が本当に欲しいのは。
「俺……少佐に必要とされたいんです」
ウォンは眉をひそめた。
「それは本気で言っているんですか、刹那」
「はい」
「では、私があなたを不必要と感じている、と思っているのですね?」
刹那は激しく首を振った。
「そうじゃないです。そういう意味じゃないんです、ただ、俺……」
手袋を填めた掌が、そっと刹那の頬を押し包む。
「刹那。そういうことを考えすぎるのは良くないことです。誰かの役に立つ立たないが、そのまま人間の価値ではないでしょう」
「でも俺」
「あなたは悩む方向を間違えています。もし私を好きで、私の役に立ちたいというのなら、まず自分が何をしたいか考えて下さい」
「少佐」
まるで催眠術をかける人のように、ウォンの声は低くなる。
「あなたは力を得ました。もう、かつての無力なあなたではありません。やろうと思えばなんでも出来るんです。あなたは、得た力で何をしたいのですか? 力は、ただあるだけでは意味のないものです。刹那はどうして力が欲しいと思ったのですか? 何らかの目的があった筈です。今のあなたの目標はなんです? 今ある力でなしえることですか? なしえないのなら別の目標をつくってもいい、努力で追いつくものなら研鑚をすればいい。そういう生活の芯が、あなたにはありますか?」
刹那はじっと相手を見返しながら、返事が出来なかった。
少佐にはわからないのだろうか。俺にはただ深い絶望しかなかったことを。俺はひたすら屈辱の泥沼から抜け出すことだけを念じていた。溺死寸前で、そこを抜け出した後のことを考える余裕などなかった。だから力が欲しかった。ただ呼吸をしたいがために。
だから、本当にしたいことなんて。
やっぱり少佐はエリートなんだ。俺の気持ちを、すっかりわかってくれている訳ではないんだ。
仕方がないけど、でも。
「刹那」
ウォンは優しく刹那を見つめたまま、
「そういう疑問を持つということはおそらく、あなた自身が今の状態を物足りなく思っているからです。ですから、よく考えてみて下さい。自分は何がやりたいのかを。あなたがそれを自覚したら、本当の意味で、私の役に立つ人になってくれる筈です」
刹那の瞳が暗く翳った。
「……努力、します」
「ああ、すみません、刹那」
ウォンは、相手の頬を包んだ掌を首筋に滑らせて、
「こんな時に無粋なお説教をしてしまいました。許して下さい」
「そんな」
「愛していますよ、刹那」
再び口唇を吸われて、刹那は少佐の腕に身をゆだねた。
愛されている、と思う。
少佐の台詞は嘘じゃない、と思う。
それなのに、この人の心の中に自分の居場所が欲しい、とどうしても考えてしまう。
何故だ。
どうして俺、こんなに強く抱きしめられているのに、寂しいんだろう。
少佐。
あなたにとって、なくてはならない人になりたい。
刹那がいなかったら生きていけない、と思われるようになりたい。
なれたら、こんな妙な寂しさはなくなる――たぶん。
「……刹那?」
「え」
「うわの空ですね。今晩、ここのホテルで続きをしようと思っていたんですが……やめておきますか?」
刹那はじっと少佐を見つめ返した。
今はあまりそういう気になれない。激しく交わったらこのもやもやした気持ちが晴れる、という保証もない。
だが、厭なのではないし、やめてください、とは言えない。
なら。
「俺、もうしばらく、このまま観覧車に乗っていたいです。少佐にずっと、抱きしめていてもらえたら……俺……たぶん……」
「それも素敵ですね、刹那」
少佐は淡く微笑んで、刹那を抱きなおした。
時が流れる。
ゴウン、と静かな音をたてて、観覧車はまわり続ける。
刹那は少佐の温もりを感じて、だんだん心が落ち着いてきた。と同時に、少しずつ情感が募ってくる。
少佐の肩口に頬をすりつけるようにして、刹那は呟いた。
「……ウォン」
「欲しく、なりましたか?」
刹那は小さくうなずいた。ウォンは嬉しそうにその耳元に囁いた。
「私もです。ここで今してしまいましょうか」
「少佐!」
「冗談です。後で、もっと清潔で広い場所でゆっくりと、ね」
「……はい」
だが、答えながら刹那は、胸の奥に再び黒い染みが広がるのを感じていた。
それは闇の超能力の源である憎悪や欲望でなく、もっと曖昧な不安――それはつまり終わりの予感。
ウォンは、刹那の本当の苦しみをまだわかっていなかった。いずれそれが、自分をも苦しめることになる事にも気付いていなかった。
すべて愚かしい恋心ゆえに。

2.

「ん……カルロ……」
甘い口吻。
「キース様……」
「んんっ」
キースはシーツの海の中、カルロの腕に抱き込まれて子供のように甘え、絶え間ないそのキスに溺れていた。
が、ふと動きをとめて相手の胸を押し返した。
「どうした、カルロ?」
「え」
キースは怜悧な総帥の顔に立ちかえっていた。声も厳しく、
「もし相談事があるのなら、先に言っておけ。後のことばかり考えて、気もそぞろな相手に抱かれたくはない。君のことだ、おそらくノアの事なんだろう? あまり悩まないうちに打ち明けておけ」
「キース様」
この青年、仕事の事となると一瞬でこの表情に戻る。こうまで変わるものかと思うほど急激に変わって、一糸まとわぬ姿であっても、氷の鎧で身をよろった総帥キース・エヴァンズになってしまう。
「違うのか、カルロ?」
こうなると構わず愛撫を続けることはできない。キースの言っていることは正論だ。相談事があるのも事実だ。
カルロはキースからやや身を離し、伏し目がちにこう切り出した。
「その……ノアの資金援助者の中に、キース様が無事ならば、ぜひ直接会わせてくれという申し出をしてきた者があって、その要求がかなり執拗なので……」
「なんだ、そんなことか」
キースはほっとしたように笑って、
「会ってやるから心配するな。彼らを基地内に呼ぶ訳ではないし、同志達に知らせるようなことでもないから、むしろ気楽なことだ。私はいつでもいいぞ」
「え」
カルロは動揺した。
同志の前に出るのはあんなに嫌がるのに、どうしてそんなに簡単な事のように言うのだ。
「ですが、直接お会いになるのは、危険では……」
ノアの外は安全ではない。キース・エヴァンズを狙う者は米軍の特殊部隊だけではない。支援者達だってすべて信用できる訳ではない。政界の裏組織に通じたものやマフィアじみた連中もいる。キース様を一人で彼らに会わせる訳にはいかない。
だが、キースは笑顔のまま、
「そんなことを言っていたら、集まる資金も集まらないだろう。先立つものがなければ、ノアそのものが崩壊するぞ」
「しかしキース様」
「心配症だな、カルロは。なあに、昔からよくやってきたことだ。一緒に食事をして、現在のノアの状況を少し話してやるぐらいのことで、向こうの気はすむんだ。もちろん相応の準備と用心が必要だが、紳士として相対すれば恐れることはない」
「ですが」
キースは真顔になって、
「カルロ。どうしてノアに複数のスポンサーがついていると思う? 支援者達が、何故金を出してくれていると思うんだ? 金満家がサイキッカーを哀れんでいるんじゃない、崇高なボランティア精神の発露でもない。後ろ暗いところがある連中だからこそ、ノアとつながりを持ちたいんだ。いざという時、超能力者の力を借りられると思わなければ、誰が金なんか出すものか。ギブ・アンド・テイクという訳だ。だから彼らは、うさん臭くて当り前なんだ。もちろん、当人がサイキッカーで、表立って力は貸せないが、ノアの役に立ちたいと思っている殊勝な支援者もいる。そのどちらにも会ってやるのが、総帥としての私の務めだろう。会って彼らに、それ相応の満足感を与えてやらないとな。そうすれば新生ノアも、当座は安泰という訳だ」
カルロは言葉を失ったまま、キースを見つめていた。
清潔な容貌に似合わぬ大人の思考。そういった駆け引きの類はウォンの押し込みなのだろうか。あの男がキース様にそんなやり方を植え付けたのか。
カルロの考えを見抜いたかのように、キースは先を続ける。
「私は今まで、それを一人でやってきた。英国貴族の一員として、それぐらいの駆け引きを出来なくては困るからな。指導者としての最低限のたしなみだ。……ところで、だ」
すうっと身を起こし、枕元をさぐって紙とペンを掴む。
「とりあえず、セッティングができるか、君は?」
「は?」
キースは何事かをサラサラとそこへ書き出しながら、
「一人に会ったら、他の支援者にも会わねばなるまい。適切な時間や場所が必要だ。できれば基地では会いたくないが、内部を視察したいものもいるだろう。その調整を君にまかせても大丈夫か? なに、会う順番は私が考える。君は主に連絡と段取りをつけてくれればいいんだが……やれるか、カルロ?」
そう言われてはうなずくしかない。
「わかりました。可能な限りやってみます」
「そうしてくれるか。有難い」
有難い、というのは本心だった。キースは渉外関係が得意でないので、カルロにある程度のことをやってもらえるのなら本当に助かるのだった。カルロもイタリアでは有数の金持ちの家の出、会食の準備を整える手腕ぐらいはある筈だ。もし今の時点でないとしても、出来るようになってもらわねば困る。総帥代理として、それなりに育ってもらわなねば。
「そうだな、君もついてくるか? 総帥補佐なのだから、一緒でも誰も何も言うまい。私の仕事ぶりを見せてやろう」
「そうさせていただけると、僕も……」
「だろう?」
カルロはカルロで別の思惑や隠し事があるので、キースの申し出は有難い。
「では、こちらも手筈を整えます」
「うん。そうしてくれ」
キースは枕元に書き物を投げ出した。とりあえずの案が出来たらしい。
「さて。もう、これで君の憂いはないな? 急ぐ必要のないことだ、続きは明日でいいだろう?」
パチン、とスイッチでも入ったように、キースの瞳が潤みだした。
「え、ええ」
「じゃあ、仕事の時間は終わりだ。……さっきの続きをしよう」
柔らかな身体は再び鎧を脱ぎ捨てて、カルロの胸に頬を埋めてきた。だが、カルロはまだ気持ちが切り替わっていない。すぐにキースを抱き寄せることができずにいると、
「どうした? 今夜はもう、そんな気分になれないか?」
「いえ、その……」
キースは首を傾げた。
「まかされた仕事が遂行できるかどうか、不安なのか」
「そういう訳では」
「なら」
キースは相手の首筋にしなやかな腕をまきつけ、
「欲しいんだ。したい」
乞われて口唇を重ねると、カルロの情緒も昂まってきた。
よし、今度こそ集中して、と相手の肌を探り出すと、キースの声が甘く溶けだす。
「そう……そのまま……あんっ」
「キース様……」
しかし、心をこめて丁寧に触れようとすればするほど、カルロの耳の奥に冷たい言葉が蘇ってくる。
《連中にも、それ相応の満足感を与えてやらないとな》
たぶん僕も、その程度の軽い存在。
口先ひとつで簡単にあしらわれてしまう、当座の安泰のためだけの総帥補佐なんだ。
駄目だ、そんなことを考えては。
僕が望んで、このポジションについたんじゃないか。
厭がるキース様を、バーン・グリフィスを人質にして無理矢理ノアへ連れ戻し、こんなに沢山の責務を負わせているんだ、情けない男と思われて当り前なのに。
キースはもう恍惚の表情で目を閉じている。
「いい……カルロ……早く……」
愛しい人を抱き寄せながら、カルロは低く囁く。
「まだです。もう少し待って下さい」
「焦らさないで……早くひとつになりたい……」
この人はいつもこんな風にウォンを欲しがったんだろうか、と思った瞬間、カルロの中にあった何かが爆発した。
乱暴に押し開いて貫く。激しく揺さぶる。
「あっ……痛!」
僕だって欲しい。あなたと一つになりたい。
でも、あなたの心は僕の上にはないんだ。
だからせめてこの瞬間は、肌身だけでも僕のものでいてください。
キース様。
「ふ……うっ……」
キースの喘ぎは、いきなりの辛さでなく、身体の喜びを伝えてくる。
これでいいんだ、今は。
キース様だってほら、こんなに熱くしてる。僕を欲しがってくれてる。
だから今はこれでいいんだ。
そしていつか、あなたの信頼をきちんとかち取って。
「もう駄目……達かせて、カルロ」
「キース様!」
カルロは動きを早めて、早めて――二人がガックリと力を抜き、シーツの中に崩れ落ちるまで、たいした時間はかからなかった。
けだるい余韻の中、抱きあいながらくちづける。
両の目蓋を重たげに開き、キースは小さく呟くように、
「朝まで……ここに……」
「います、いつまでも」
「うん……一緒にいてくれ……カルロ……」
そのままキースは眠りに落ちてしまった。
軽く後始末をし、カルロは毛布を引き寄せて、キースと自分の肩を覆う。
「今で、充分幸せだ……」
これでいいんだ。
こうして、キース様が僕の腕の中にいるんだ。
どんなにはかなくとも、これはまちがいなく幸福のひとときだ。いつも辛い過去を思う必要はない、暗い未来を考える必要はない。
この時間を大切にしよう。
おやすみなさい、キース様。
そう呟いて、カルロも目を閉じた。
眠りの波が二人をさらい、心地よい夢へ運んでいく――。

3.

「……ウォン、少佐……」
「ウォン、だけでいいと言っているでしょう」
「でも、まだこんな明るいうちから」
「私の執務室は軍の一番奥の部屋なんですよ、昼も夜も同じ明るさです。それに、二人きりの時は少佐と呼ばないで下さい」
「……ウォン」
震えながら刹那は長い睫毛を伏せ、次の口吻を求めるように首をこちらへ差し伸べてくる。
可愛い、とウォンは思う。
もう、こんな風にとろけてしまって。
たいした手管をつかっている訳ではない、ただ口唇を奪っただけだ。定時訓練が終わって報告にきた刹那を見た瞬間、急に愛しくなって抱き寄せただけだ。
しなやかな身体から、かすかに石鹸の匂いがする。軽く汗を流してから報告にきたに違いない。このまま執務室の奥にあるベッドへ押し倒しても、厭だとは言わないだろう。
「刹那……愛しい刹那……」
敏感な部分を探っていくと、刹那はもじもじし始める。
「ウォン……ここで、このまま……?」
「刹那が、ここでこのままが良ければ……」
「……あ」
熱っぽく喘いで、刹那はぐったりとこちらの腕の中に身を預ける。
それを支え、掌を動かしながら、ウォンは考え続けていた。
たまにはベッドでない場所でもいいだろう。刹那が嫌がらないのなら。
しかし私も、昼間から執務室で刹那を抱いてしまうとは。
向こうから求めてきたのでもないのに。
確かに刹那を気にいっている、身体の反応も好ましく思っている。その若さと従順さを愛している。
しかし、抱かずにいられないほど情欲があり余っている訳ではない。
〈ああ、気まぎらわし……か〉
実はついさっきまで、キースのことをぼんやり考えていた。
互いの仕事と立場上、しばらくは逢えまい、逢えても逢わない方がいいだろう、と思うと、それだけでひどく悲しくなる。このままあの人を失ってしまうのではないか、と不安になる。なまじ彼の愛情と、変わらぬ肌身を確かめた後だけに、苦しい。
新生ノアの中に、あの人の支えになれる者、相談にのれる者がどれだけいるだろう。辛くないのか。寂しくないのか。苦しくはないのか。苦しいとしたら、苦しめているのは私ではないのか。それは自惚れだろうか。貴方は独りで泣いているのではないのか。本当は今すぐ飛んでいって、貴方を抱きしめたい。貴方が笑っているのなら、一緒に微笑みたい。貴方が望む未来があるなら、一緒に築きたい。貴方と手を携えて――。
寂しい、と思った瞬間、刹那がここへ報告に来た。
それで、思わず。
〈刹那が接触テレパスを使えて、いま私の考えていることを知ることができたら、やはり私を憎むのだろうか〉
少佐が誰を好きでも俺は少佐が好きです、と言いながら身体をぶつけてくる青年だが、この心の中を知って喜ぶ事はまずなかろう。身代りに抱いているつもりはないのだが、ただ気をまぎらわせたいために抱いていると知ったら、やはり悲しむだろう。
せめて、うんと優しくしてやらなければ。
「刹那……やはり、ベッドへ……」
「ウォン」
潤みきった瞳で見つめながら、刹那は首を振る。
「もう、俺……」
その瞬間、インターフォンが鳴った。
「ウォン少佐!」
T補佐官の声だ。
「お話があります。例のサイキッカー訓練計画についてです! 開けて下さい!」
声が尖っている。緊急の用件らしい。ウォンは刹那の服を直してやりながら、
「やれやれ無粋な。どうやら仕事のようですね。……あなたは奥の仮眠室に行って、少し休んでいてください」
刹那は整わない呼吸を飲み込むようにして、
「同席していてはいけないんですか」
「刹那」
そんなに赤く上気した愛人の顔を、補佐官の目にさらす気はない。ウォンは刹那を仮眠室の方へ押しやる。
「これは仕事の話ですから、あなたは……」
「俺がきいてはいけないことなんですか。秘密の計画なんですか。補佐官は知ってるのに、俺はいちゃ駄目なんですか。あんな無能な、少佐にふさわしくない男を優先するんですか」
「ああ」
そういう焼き餅か、とウォンは眉を開いた。
T補佐官は、G大佐が目付け役として送り込んできた男である。ゆえに一緒にいる時間は、確かに他の者より長い。しかし、だからといって何がある訳でもない。
刹那はまだ離れがたいらしく、こちらを掴む掌に力を込めたままだ。
キースだったら、愛撫を中断して気持ちを仕事に切り替えてもダダをこねない、怒らない。もちろんその後、時間をとって構ってやらなければいけないが。
しかし、一緒の仕事をしている訳ではない刹那に、同じ態度を要求するのは気の毒だ。
「わかりました。なら、その衝い立ての向こうできいていても構いませんよ。ですが、同席はちょっと……今、そんな艶っぽいあなたを補佐官の前にさらしては、彼の目の毒ですからね」
「あ」
刹那は何を言われたかやっと気付いて、大人しく執務室の衝い立ての奥に身をひそめた。ウォンはデスクに戻り、ドアロックを解除した。いつもの口調にやや皮肉めいたニュアンスをまじえて、
「どうぞお入り下さい、補佐官殿」
「ウォン少佐!」
待たされてかなり苛立ちを募らせていたらしく、勢いよく入ってきた補佐官は、デスクの上に分厚い書類の束をバン、と叩きつけた。
「なんなんですか、このプログラムは。こういう計画をたてるなら、少佐自身が指導をするべきでしょう。サイキッカー以外の人間が指示を出して、連中が素直に言うことをきくと思いますか!」
ウォンはデスクに頬杖をつき、いつもの涼しい笑みで、
「下のものにいうことをきかせるのが軍でしょう。出した命令を遂行させられなくて、何が軍です」
補佐官は眉をつり上げた。
「最初から軍属であったものと彼らは違います! それにこれは、兵士向けのプログラムではありません!」
「戦闘訓練も入れてあるでしょう。彼らが自分の能力を適切に引き出すためにも、この計画は必要だと思いませんか、補佐官殿?」
「確かにそうですが」
補佐官の語気が弱まる。ウォンはにこやかに畳みかける。
「米軍も大したものですねえ、私の言うことしかきかないサイキック兵士を大勢抱えこんでも、ビクともしないというんですから。サイキッカーが私の指示で、一斉にクーデターを起こしたら、一体どうするつもりなんでしょうか」
「う」
補佐官は言葉を失った。ウォンは頬杖に顎を軽くのせて、
「まあ、これだけ綿密なプログラムをつくったのですから、適切な指導者が集まりさえすれば、いずれ彼らもいうことをきくようになりますよ。折りを見て私も現場に行って、彼らにこの計画の趣旨の説明をしましょう。とりあえず今は、ソフトに訓練参加を呼びかけていて下さい。力づくで言うことをきかせるのが無理でも、言葉で説得の出来る人材が、この基地内にも多少はいるでしょう?」
「ですが、それでそのうち何とかなるとでも?」
「なります。大丈夫です。それに……」
ウォンは声をぐっと低めた。
「この訓練に参加できない、ついていけないような者は、軍には必要ない者の筈ですよ?」
厭な笑い。
無能者を惨殺しても、露ほども哀れを感じないだろうと思われる、冷酷な。
補佐官はガクンと肩を落とした。
「……わかりました。確かにその通りです。しかし、少佐も必ず訓練の場に立ち会って下さい」
「ええ、そうしましょう」
「くれぐれもよろしくお願いしますよ」
「わかりましたよ、補佐官殿」
「それでは失礼します。お忙しい処をお邪魔して、大変申し訳ありませんでした、ウォン、少佐」
嫌味らしく、最後をわざとゆっくり言って、補佐官は部屋を出ていった。
刹那がおずおずと衝い立ての陰から出てきた。
「……少佐」
「ああ、待たせてしまってすみません、刹那」
ウォンは立ち上がって、刹那の肩に手触れた。
「大丈夫ですか? やはり、奥の部屋へゆきましょうか?」
「いいえ」
彼は首を振った。
「どうしたんです?」
刹那は答えない。青ざめているのは煽られた情欲を無理に抑えていたためかと思ったが、どうやらそうではないようだ。補佐官が置いていった冊子状になった書類の束へ、彼の視線は釘づけになっている。
冊子につけられている表題は――『超能力兵士選別強化プログラム』。
「これは……何なんですか?」
ウォンは軽く眉をひそめた。刹那がこんなものに興味を持つとは、と。しかし、特に秘密にしておくことでもないので、自ら冊子を取り上げ、刹那の目の前に差し出す。
「知りたいのなら、中を見てみますか?」
「はい」
刹那はパラ、と中をめくった。難しい顔をして、ゆっくり読んでいく。
ウォンはおやおや、と感心しながらそれを眺めていた。刹那が文盲でないことは知っていたが、こんなに分厚い資料を我慢して読み、即座に理解する能力があるとは思ってもみなかった。軍の書類にありがちな難しく長い単語、硬い言い回しなど、一生懸命目でたどり、指でたどっている。
しばらくして、刹那はやっと顔を上げた。
「これは……何のために、この計画が必要なんですか?」
「何のために、というのはどういうことですか?」
刹那は険しい顔でページを開き、ウォンに差しつけた。
「サイキッカーは、超能力を持ってるだけで元々強いんじゃないんですか? どうしてこんな護身の訓練の必要が? 素手や武器で相手を倒す訓練が本当に必要なんですか」
ウォンはああ、と笑みをこぼした。
刹那でさえそういう疑問を持つようでは、元からのサイキッカーも同じ事を思い、プログラムの指示に従わないかもしれない。補佐官からの抗議はもっとものようだ。
「サイキッカーと言えども、軍にくれば一兵士です。危険な任務をこなさなければなりません。その時いつも超能力が使えるとは限りません。潜入先で暴れ放題をされては困る場合も多いのですよ。安定した能力の持ち主であっても、サイキックでは必要以上の殺人や破壊を引き起こしてしまいます。ですから素手でもある程度強くなければなりませんし、最低限、何か武器を扱えなければ駄目なんです」
これは本当の目論見だから答には悩まない、ウォンはすらすらと説明する。だが、刹那は冊子の別のページを開いて、
「じゃあ、この基礎学習プログラムと職業訓練というのは何なんです。兵士にはこんなもの、必要ないじゃないですか。ここへ来たサイキッカーが、いずれ退役出来るとでもいうんですか? 軍を辞めた後の面倒まで見てやる必要があるんですか」
おや、とウォンは首を傾げた。
どうやら刹那も馬鹿ではないらしい。そういう方へ頭が回るのなら、それらしい説明をしてやらないと納得しないだろう。
「兵士の活動にはスパイ行動などもありますから、かなりの学問が必要なんですよ。それに、サイキッカーの中には恵まれない生活を送ってきたものも沢山います、社会的な規範や仕事につくことの意味を知らない者も多いんです。そういう連中は往々にして規律を乱しがちですから、こういった訓練も必要なんです」
「じゃあ、さっき補佐官に言ったのは……軍に向いた人間とそうでない者をこれで選別するっていうのは、そういう意味なんですか?」
先の話をちゃんと聴いていたらしい。ウォンはうなずいて、
「まあ、選別の意味は確かにありますが」
「じゃあ、役にたたないと判断されたものは、軍内で始末してしまうということですか」
「まさか」
ウォンは思わず笑って、
「ここへきたサイキッカー達は皆、いわば私の部下です。たとえ兵士としての資質がなくとも、それなりの取り柄を持っている筈です。もしなくとも、多少の面倒を見てやらなければなりません」
「そう……なんですか」
刹那はとけきらない顔でうなずく。
確かに本音はまた別にある。だが、それは誰にも言わない。知らせるべきひとに対しても、まだ教える段階でないのだ。まして刹那になど、教えられる訳がない。
刹那はふと何かを決意した顔になった。
「少佐」
「何です?」
「俺も、このプログラムに参加させて下さい」
ウォンは虚を突かれて、反射的にこう答えていた。
「あなたには別の訓練があるでしょう。人工サイキッカーとしてのレベルを維持するハードなプログラムと、このプログラムは両立しませんよ。そんなに面白いものでもありませんしね」
「じゃあ、こういう訓練をする必要は、俺にはないんですか?」
そう問われるとウォンも困る。確かに刹那にも教育を受けさせてやりたい。超能力以外の防衛力を身につけさせてやりたいとも思う。だが。
「そうですね、あなたはこの冊子を読んで、すぐ理解するだけの力がありますからね。実際にこのプログラムを実行してみて、成果がある程度あがってから、あなたも少しずつ参加していけるようにしましょう」
「本当ですか」
「ええ」
刹那は目を輝かせている。
そうか、そんなに学びたいのか、それはいいことだ、と思いながら、ウォンは刹那の肩を抱いた。おそらく私に近づきたいため、優れた兵士になりたいためなのだと思うと、やはり可愛い。
「さっきの続きをしませんか、刹那?」
刹那はぱっと赤くなった。
「……奥で、ですか?」
「ええ。邪魔が入ってこない、仮眠室で」
刹那がこくんとうなずいたので、ウォンは彼の背を抱いて奥の部屋へ向かった。いつものように甘く囁きながら。
「……愛していますよ、刹那」

自室に戻り、そのままベッドにもぐり込んだ刹那は、少佐の愛撫の痕を軽く指で辿りながら、躰を丸めた。
「少佐……」
情炎が、まだ身のうちに残っている。
それなのに、煽ろうとしても燃えあがらない。
どうしてだろう。
少佐、最近抱き方が違うんだ。求められてるって感じはするけれど、前みたいじゃなくなってきた。前より優しいぐらいだけど、なにか少し違うんだ。
いつからだろう。
変わってきたのは、栞を捕獲してきた後ぐらいからか?
俺が留守の時、何かあったんだろうか。
「……少佐の生活の芯って、いったいどこにあるんだろう」
世界は私のもの、と豪語してはばからないだけの実力と資金を持っている少佐が、俺を抱く時はどことなく弱々しい。少佐は何を考えてサイキッカーを集めているんだろう。使える部下が大勢欲しいだけなんだろうか。だが、使えないものまで抱えこもうとしてるみたいだ。栞やパティみたいな小娘を捕まえさせて研究したりもしてる。自分の超能力を高めるためらしいけれど、それにしては少佐には投げやりな風情がある。俺みたいな人工サイキッカーをこしらえる意味もわからない。単にひまつぶしやゲームなら、もっと楽しそうにやるんじゃないだろうか。
少佐はいったい何を考えてるんだろう。軍で何をしようとしてるんだろう。
知りたい。
そしたら俺も、それにあわせて何か考えることができる。
でもきっと、いくら尋ねてもうまくはぐらかされてしまうんだろうな。さっきみたいに。
どうしよう。
何か手はないのか。どうしたら、もっと少佐に近づけるんだ。
刹那はそうっと自分の躰を抱きしめた。
「……寂しい」

4.

「まあ、こんなものか……」
その夜、支援者との会食リストを眺めながら、キースはひとり自室でため息をついた。
カルロが考えてきたセッティング場所とスケジュールはまあまあのもので、これならば比較的安全、かつ快適に話が出来そうだった。カルロに資金を集める手腕が備わっているのは間違いなさそうだ。だからノアを再建出来たのか、と感心する反面、それしかしてもらえないのだと思うとどうも気が重い。
本当の事を言えば、支援者連中というのはあんまり会いたい相手ではない。カルロの前だから何でもないことのように言ったが、気を付けて準備していっても、失言をすることはあるし言質をとられたりもする。政府や軍につながっている支援者もいる、後をつけられたり命を狙われたりもし、あげく資金を調達しそこなう時もある。そうでなくとも気疲れする仕事で、できれば頼りになる右腕と共にやりたい。
「ただでさえ、基地再建に余計な金がかかっているんだし」
かつてのノア秘密基地が無事だったなら、こうまであちこちに頭を下げずにすんだろう。もう少し別の方面に金を回せたろう。
さて、今後どうやりくりしていったらいいのか。
すべてカルロまかせではまずい。彼の理想は、僕の目的とかなりずれている。意見の衝突が起こった時、資金の流れを把握している者の方が強いのが普通である。苦手な分野だからといって手をこまねいている訳にはいかない。
さて、どうしたものか。
「……ウォン」
思考はなにかとリチャード・ウォンの上に戻ってゆく。
彼が旧基地を破壊していかなければ、こんな苦労をしなくてすんだのに。
君が資金の運用をしてくれていたなら、余計な心配をしないでよかったんだ。君自身もスポンサーだったから、自分とノアに損な金の使い方をする筈がなかった。優秀で抜け目のない実業家の君だ、そういう意味では完全に信用していた、信頼できたんだ。
ああ、君はどうして離れていったんだ、と今さら恨みたくなる。
「ウォンの嘘つき。二度と貴方と離れられない、なんて泣きながら僕を抱いたくせに」
一度だけ、米軍サイキッカー部隊の本拠地へ乗り込んだ時の事は今でも忘れていない。どうしても逢いたかった。ウォンの本当の気持ちを知りたかった。だからわざわざ危険を犯して、立場も考えずに訪ねに行ったのだ。
あの時、「貴方がいなくてどうして生きられるでしょう」とかき口説かれて、どんなに嬉しかったかしれない。
愛されている、と思った。
再会の日はすぐに来る、と思った。
だが、あれからウォンは逢いに来ない。何にも言ってこない。なにかにかこつけてこっそりと来ればいいのに、ぱったり音沙汰がない。昔のウォンなら、ちょっと名前を呟いただけで飛んできたのに。いつでも貴方の事を考えています、と囁いてくれたのに。
もう君は、僕の事なんかどうでもいいのか。
胸が痛む。
キースは書類を投げ出した。
「……忘れよう。僕を置いていった者の事なんか、もう」
思いつめては駄目だ。気分転換をしなければ。
キースは部屋を出た。
「あ」
カルロにねぎらいの言葉をかけてやろうと思ったのだが、彼は自分の部屋にいなかった。何か所用があって、夜だというのに基地外へ出ているようだ。幻の元総帥は、基地内にあまり居場所がない。カルロの部屋以外に行ける場所は限られている。
「いっそ、もっと悲しくなるのもいいか」
自虐的に微笑んで、キースは基地の最深部へ降りてゆく。
目覚めぬまま、氷温治療を受け続けている親友の元へ。

「バーン」
氷温カプセルの中に身を横たえたバーン・グリフィスの前に、キースは膝まずいた。
「結局君も、僕を置いていったんだ……」
何も言ってくれない、動かない友。微弱にすぎる生命反応。
こんなのは死人と同じだ。
君の意識が戻るかもしれないなんて、淡い期待を抱いて新しいノア基地に居続けているなんて、僕はなんて馬鹿だ。
「バーン。君も馬鹿だ。死んでしまうぐらいなら、僕なんかかばうんじゃない」
ウォンが基地を爆破した時、死んでいればよかった。
そしたらこんな惨めな想いをせずにすんだのに。
ああ、ごめんよバーン。僕を心配して、ノアまで二度も来てくれたのにこんな目に遭わせてしまって。
「僕なんかどうでもいいのに……僕、なんか……」
涙で目が霞む。バーンの姿もぼやける。まるでかすかにバーンが動いているかのように見える。
「……?」
いや。
見間違いではない。
カプセルの中で、バーンの手が動いている。薄く目を開き、キースの方へ腕を伸ばそうとしている。
「バーン」
カプセル越しに、キースはバーンと掌を触れあわせた。
「バーン、僕がわかるか、バーン」
〈……キース〉
テレパシーだ。
バーンはしきりに口を開こうとしているが、声にならない。長い間喉を使っていなかったのだから無理もない。が、テレパシーは健在らしく、弱い波動ながらもバーンの意思が伝わってくる。
〈……無事、だったのか、キース……良かった……〉
「バーン! 僕がわかるんだな?」
〈当り前……だろ……〉
「……良かった」
キースの瞳から熱い涙が溢れ出す。嬉しい。バーンが生きていてくれた。もう一度僕を見てくれた。僕の安否を気遣ってくれた。
キースは泣きながら言葉を継ぐ。
「君の意識が戻って本当に良かった……でも、あんまり無理をしないでくれ。テレパスも体力を消耗させる。君は二年も眠っていたんだ、身体のあちこちが弱っている。当分じっとしていないと。リハビリも少しずつしていかないと」
〈二年……俺は、二年も……〉
「うん。だからもう助からないと思ってた。植物人間になったまま、ずっと目覚めないと思ってたよ」
〈そうか……〉
バーンは開きかけた目を閉じた。
〈ここ、ノアか〉
「うん、そうだよ。新しい基地だ。サイキッカーの君を普通の病院に連れてゆく訳にもいかなくて、ここで治療していたんだ。最新の医療技術と、ヒーリング能力のあるサイキッカーの力を借りて」
ふとバーンの掌がカプセルの内壁を離れ、テレパシーが途切れた。
キースははっとした。
命尽きる者が、その直前にパアッと命の炎を燃やす時がある。ほんのひとときだけ目覚め、回復したかのように元気にふるまう時がある。
バーン。やはり君は、死んでしまうのか。
〈キース〉
バーンの声が、再びキースの掌に伝わってきた。
〈おまえ、まだ、ノアの総帥なんだな……前とおんなじ事を、やってるんだな〉
「バーン?」
〈やっぱり俺は、秘密結社は肌にあわない……おまえと一緒にいたいが、それは無理そうだ……それに、もしおまえが、俺の目の前で誰かを殺したら、俺、きっとおまえを許せない……〉
「いいんだ、バーン」
キースは淡く微笑んだ。
「確かに僕はノアの総帥のままだ。必要とあれば殺人も辞さない。だから、君が許せないというなら、それはそれでいい。それから僕は、君をノアに縛りつけようとは思わない。この秘密結社に納得がいかないというなら、ノアから去ればいい。君が自由に動けるようになるまで、かなりの時間がかかる筈だ。その間、もう一度ノアと僕のことを考えてみてくれ。それで駄目なら袂をわかとう。慌てて結論を出す必要はない筈だ。もし、君がどうしても僕を許せなくて、殺したいというのなら殺してくれてもいい。君にだったら殺されてもいいんだ、僕は」
〈キース〉
バーンの口唇が少しだけ歪んだ。
〈馬鹿言うな……俺はおまえを憎んでる訳じゃない……殺したいなんて思ったことは……一度も……〉
微笑もうとしているらしい。キースは手の甲で目元をぬぐった。
「わかってる。有難う、バーン」
〈俺、もうちょっとだけ休ませてもらうぜ……次に目が覚めたら、もちっと元気になれるかな……〉
「うん、きっと大丈夫だよ、バーン」

部屋に戻り、ベッドへもぐりこみながら、キースは不思議な期待に胸踊らせていた。
バーンの意識が戻った。
もしかしたら、今度こそ、僕のやっていることをわかってくれるかもしれない。
甘いかな。
いや、理解してくれなくてもいい。バーンが僕を憎んでいないなら。ノアにいたくないというのなら、それで構わない。妨害さえされないなら。いや、妨害されたって。君になら殺されてもいい、というのは本心だ。
君の「無事だったのか、良かった」の一言だけで、僕は嬉しい。
あとは君が元気になってくれさえすれば。それ以上のことは望まないから。
そんなことを自分にいいきかせながら、目を閉じる。
このささやかな祈りが叶う事を願いながら。

5.

「俺は……卑しい真似をしてる」
思わずそう呟いてしまうほど、刹那は惨めな気持ちでいた。
本当は定時訓練の時間なのだが、体調が悪いと偽って休んだ。そうして空いた時間に、少佐の執務室へこっそりやってきたのだった。
誰もいない。
ウォン少佐は外出中のようだ。
監視カメラが何処かにあるはずなので、刹那はむしろ堂々と部屋に入っていった。そして、いかにも少佐に仕事を頼まれたような顔で、執務室にある棚の書類の類をゆっくり調べ始める。
どうせ、後でバレて叱られてしまうだろうが。
知りたいのだ。
少佐のことを何でも。
少佐が何を考えているのか、軍で何をしようとしているのか、少しでも掴みたいのだ。

実験体としての刹那は、ここのところすっかり行きづまっていた。
まかされた任務をやり遂げても、それが少佐のどんな役にたっているかわからない。闇の超能力はほぼ開発され終えていて、その後まったく進展を見せていない。目的も見えず、成長も望めないのでは絶望もする。だからせめて、少佐の役により多く立てれば、などと考えて、こんな余計なスパイ行為に及んでしまったのだ。
さて、もう一度考えを整理してみよう。
少佐ははえぬきのサイキッカーを大事にしている。だが、選別もしている。
選別そのものはおかしくない。だが、軍に無用、と判断された者にも特殊教育を施している。いずれ基地から放出し利用するかのような、ありとあらゆる丁寧な教育を。
何故だろう。それは本当に、単に自分の手駒を増やしたいからだけなのだろうか。
少佐は人工サイキッカーの研究も続けている。増幅装置の研究もだ。自分の力を強化するためだ、と言っているけれど、目的は本当にそれだけなんだろうか。それとも部下がまだまだ足りない、というのか。
わからない。
いくら考えても、わからない。
書類をはぐっていくと、リチャード・ウォンという男が、どれだけ多岐に渡った活動をしているか、深い学問のない刹那にさえわかる。しかし、その焦点が何処にあるのかはどうしても見えてこない。少佐の考える強化計画にも参加させてもらえない。何を尋ねても答えてもらえず、刹那はとても寂しかった。
あの微笑の煙幕の中にある、少佐の真意はいったいどんなものなんだろう。
刹那は棚をある程度調べ終えると、大きなデスクへ向かった。
引出しの中も整理整頓されている。見られて困るような秘密など、ここには潜んでいないかのように。
「……これは」
刹那の手が一瞬止まった。
超能力者の秘密結社・ノアに関するファイルに添えられた、短い走り書きの一片。

《君は君の道を行け。僕は僕のやり方で行く。僕達は敵ではない。生き方こそ違え、
今でも同志だ。いずれ、また何処かで必ず会える。その日までしばしの別れだ。
愛している。――キース・エヴァンズ》

「これ、か」
刹那はそれをさっと元へ戻すと、なに食わぬ顔であたりを片付けた。
そして、平然と少佐の執務室を出た。
ファイルには、そのキースなる英国青年のデータが載せられていた。ノアの元総帥、のコメントの脇に端正な顔写真が貼りつけられていた。淡く銀に透ける髪、冴えざえと輝くアイスブルーの瞳。いつ撮られたものかわからないが、老成した雰囲気のある青年だ。添えられた生年月日からして、まだ二十歳かそこららしいが。
「あの男、なのか」
少佐は時々、眠りながら泣いている時がある。その時、小さく呟く一つの名があった。
「本当は、少佐はあいつを……」
見てはいけないものを見てしまった。
俺にはわかる。
少佐はあの男を。
そして、あの男のために。
そういうことだったのか。
以前は気まぐれでも、強く求められている感じがしていた訳がわかった。あの頃は、俺が少佐の寂しさを少しでもまぎらわせていたんだ。
でも今は、あいつの気持ちを確かめ終えて。
つまり、俺を抱くのはただ哀れみ――。
刹那は足早に自室に戻ろうとしていた。
誰にもこの表情をみられたくない。
嫉妬に狂う、この顔を。

「ガデス。……入ってもいいか」
「なんだ刹那か。こんな夜中に何しにきやがった」
インターフォン越しに不機嫌な声。刹那はドアに身を寄せて切羽詰まった調子で、
「どうしても尋ねたいことがあるんだ。頼む。入れてくれ。お願いだ。二人だけで話がしたいんだ」
「おい、俺の部屋の前でそんな妙ちきりんな声を出すんじゃねえ。開けてやるからちょっと待ってろ」
ドアはすぐに開かれて、刹那は相手の部屋に入った。
「ずいぶん青い顔してやがんな。まあ座れ」
ガデスは奥の部屋へ行き、湯で割ったラムを持って戻ってきた。
「飲め。多少具合いが悪くとも、これ一杯でとんじまうからな」
「有難う」
熱いコップを受け取って、刹那はそれをそっと掌の中にくるみこむ。
ガデス。
元々傭兵ということで、サイキッカー部隊の中で独自の地位を占めている。素性はすっかり謎で、名字さえ知られていない。ガデスという名も一種のコードネームなのかもしれない。また、めっぽう強い。下手な超能力など必要ないほどに。
刹那は最初、この男に強いライバル意識を感じていた。
少佐と対等に口をきくこと。
腕力の強さ。
サイキックの破壊的なパワー。
父性。
六歳の年齢差。
そのどれもが刹那の神経にひっかかり、よく私闘を申し込んでは負けていた。
しかしそのうちいろいろあって、ガデスは意外に悪気のない男であることに気付いた。今では敵愾心もかなり薄れ、むしろ親切な友人、とさえ思うようになっていた。
黙ってホットラムをすする刹那。
菫いろの瞳に長い睫毛が翳りを落として、妙に寂しげな風情だ。
「で、何だ、ききてぇことってのは、ん?」
頃合いを見はからってガデスが声をかけると、刹那はコップを低いテーブルに置き、ようやく顔を上げた。
「ガデスは……確かノアから来たんだよな」
「ほう、良く知ってるな」
ガデスが眉を上げると、刹那は小さくぶっきら棒に、
「少佐が前にそんなことを言ってた」
「そうかい。で、俺がノアにいたことがあるから何だってんだ? 別に問題はねえ筈だが」
ノアを出て軍に来た事に関して、ガデスは何の罪悪感も持っていない。しかし、それをなじる者がいることも彼は知っていた。コウモリのように簡単に寝返る男は信用できない、と疑いの目で見る連中がいることも。
しかし、それを刹那にとやかく言われる筋合いはない。
「その……」
刹那の視線が宙をさまよいだした。しばらくためらってから、
「なあ、総帥のキース・エヴァンズってのはどんな奴だったんだ? おまえの目から見て、どうだった?」
「はあ? キースだって?」
ガデスは眉をひそめた。キースの事を俺にきくのはお門違いだろう、と思いつつ、
「なんだ、敵の事をよく知っておきたいってな殊勝な心がけか?」
軽口で返すと、刹那ははっきりしない声で、
「ふ。……敵、か」
ガデスは肩をすくめて、
「まあ、今ん処は敵だな。サイキッカー部隊の目的の一つは、ノア壊滅らしいからな。少なくとも、大佐より上の連中はそう考えてるぜ」
刹那はその言葉を遮るようにして、
「とにかく、キースのことを教えてくれ」
「教えてくれ、と言われてもなあ……特に親しかった訳じゃねえし、俺はあいつを見限って軍へ来た男なんだぜ」
刹那はきつく眉を寄せた。念を押すようにゆっくりと、
「それは、キースって奴が、ガデスが忠誠を誓う価値のない相手だったって事だな?」
性急にすぎる結論。
ガデスは眉間に深い皺を刻んだ。その声はぐっと低くなって、
「俺はな、誰かに忠誠を誓ったことなんざねえ。俺は誰の指図も受けねえ。もちろん依頼された仕事はやるぜ、傭兵稼業はビジネスだからな。だが、理不尽な命令に従った事はねえんだ。たとえどんなにたっぷり報酬が出ようとな。……俺がノアを出てきたのは、あそこにいても何の得もねえからだ。あそこは弱いサイキッカーの命を気まぐれに助けて、適当に囲っておくだけの場所だ。この俺様が、そんなぬるま湯にずっと漬かってられると思うか? 守ってくださって有難うござい、と誰かに頭を下げ続けてられると思うか? それとも俺様が腕を奮って、気にいらない連中までボランティアで守ってやらなきゃいけなかったってか?」
刹那はア、と口をつぐんだ。
ガデスは愛用の葉巻に火をつけた。軽く煙を吐き出して、
「ノアはな、ありゃあ見限るしかなかったんだ。キースって小僧には、確かにそれなりの力があったさ。サイキックもそこそこだし、なんと言っても人を集めて従わせるだけの器があった。だが、あいつに出来たのはそこまでだ。ノアは何にも生みださねえ。たまにほんの一握りのサイキッカーを救えるだけの話で、何にも解決しちゃいねえ。しかも犠牲が大きすぎる。それにな、どんな理想を掲げたって、組織ってのは腐るもんだ。弱っちい連中が身を寄せあって震えてるだけの理想郷は、どんなに優れた指導者がいても、あっと言う間に駄目になるもんだ。……俺の言うことがわかるか、刹那?」
刹那は無言でうなずいた。
ガデスの言うことはもっともだ。それに、キースがそれなりの存在であることもわかった。少佐が執着するだけの価値が、あの男にはきっとあるのだろう。
「……で、ききてぇ事はそんだけか?」
「もう一つ」
すぐ部屋を追い出されるのを恐れるかのように、刹那は早口で答えた。
「ウォン少佐はいったい何を考えてるんだと思う? 何を考えて軍に来たのか、いま何をしようとしてるのか、ガデスには見当がつかないか?」
「さあなぁ」
とぼけ顔で首をひねってみせたが、ガデスは刹那の質問の真意に気付いて、内心ハハア、と思った。
つまり、ウォンとキースはデキてるんだろ、という事か、と。
確かにキース・エヴァンズとウォンとの仲は、ノア内では半ば公然の秘密だった。年長で策士のウォンの方が入れあげているという意外性もあって、常に絶えない噂だった。
つまりは妬いてるって訳だ。
可愛らしいこった。ウォンの心をつなぎとめておきたくて、こいつなりに必死なんだろう。地位だの快楽だのにひかされて愛人になってる訳じゃねえんだな、本気であの男に惚れちまってるんだな。
今更あの二人のヨリが戻ることもねえだろうし、あの中国人に妬くだけの価値はねえぜ、と教えてやりたい処だが、まだ恋の真最中で目のくらんでいる刹那に言ってもせんないことだ。
まあ、遠回しにヤメとけ、と伝えてやるか。
「ウォンが軍で何をやろうとしてるのかは、俺もさすがに知らねえよ。だが、あいつがノアを出たのは、キースと離れるためだと思うぜ」
「離れるため?」
刹那が怪訝そうに尋ね返すと、口の端に葉巻をくわえたまま、ガデスはニ、と笑った。
「おう。あいつにゃ妙なプライドがあるからな、それに足をとられたのさ」
「プライドって?」
ガデスはふん、と鼻を鳴らして、
「ウォンはな、自分がやろうと思ったことは何でも出来ると思っていやがるのさ。手にいれたものは、大人しく自分の言うことをきくもんだとも思ってる。だから、出来ない事が出てくると、すぐに目をつぶっちまう。大事にしてた持ち駒でも、持て余すようになるとすぐに放り出す。まあ、一種のガキなんだな。やたらに物事を押しすすめるってのが、どんなに空しいか知らねえのさ。なまじ金を持ってるし、なんでもそこそこ自由になると、そうなっても無理ねえんだろうがな。……で、キースってのは一種の暴れ馬みてえな野郎だからな。あいつが乗りこなす事が出来るほど、おとなしか無かったって事だ」
と、いうか。
ウォンは、自分の恋の愚かさを受け入れることができないのだ。夢中になるだけなるが、思う通りの結果が出ないとすぐ焦れて、本当の実りを取り込むまえに投げ出してしまう。飽きっぽい男にはありがちな話だが、それは器量のなさ、とガデスの目にはうつる。まあ、ウォンが軍に来たのは、結論としちゃあ間違ってないだろう。ありゃあ十代の若造と、いつまでもままごとをやってられる柄じゃねえ、とガデスは思う。
刹那は鋭い瞳で問い返す。
「本当にそれだけなのか? キースを思い通りに操れなかったから、ただそれだけの理由で軍に来たのか?」
ち、わかって訊いてやがる、とガデスは肩をすくめた。
ならもう何も言うことはない。
「だからよ、ウォンが何を考えてるかは、俺も知らねえよ。興味もねえし、心をのぞいてみたこともねえ。まあ、俺なんかにゃそう簡単にのぞかせねえだろうがな」
「本当にわからないのか」
ガデスは苦笑した。
「ああ。知ってても教えてやらねえ、と言いたいところだが、ウォンにそういう義理はねえ。本当だ」
「そうか」
刹那はコップを置いて立ち上がった。
しおれ顔。
「帰る。……すまなかった、こんな時間に」
「そうだな。とっとと部屋へ戻って寝とけ」
「そうする。有難う」
大人しく部屋を出てゆく刹那を見送って、ガデスは太いため息をついた。
「そういうことは、知りたくても我慢して突つかねえ方が、幸せでいられるのによ……」

自室のベッドの中で、刹那は何度も寝返りをうつ。
胸の中が煮えたって、眠れない。
「俺にはわかる」
少佐はキースと離れようとなんかしてない。
本当に離れたいのなら、あんなラブレターを大事にとっておいたりするまい。時々あのファイルを取り出して、顔写真とあの一枚を並べて見ていたのに違いないんだ。
今でもあいつを愛してて、あいつの事しか考えてないんだ。
ノアを出てきたのは、ガデスの言ったように《プライドに足をとられまい》としたからなのかもしれない。
でも、それだけじゃないだろう。
おそらく少佐はあえてキースの敵陣へ乗り込んできたんだ。中をかきまわす腹で。軍向きでないサイキッカーは、人手不足のノアへ譲ってゆくつもりなのかもしれない。だからあんなに熱心に人材教育をしてるんだ。俺が相手にされないのは、元からのサイキッカーじゃないからだ。それに、俺だって、ガデスと同じで、生まれついてのサイキッカーに同情する気持ちなんかない。救ってやる気なんかさらさらない。サイキッカーでなくたって酷い目に遭うんだ。誰も助けてくれなけりゃ、自力で生きのびるしかないんだ。元から力を持っている連中を保護してやるほど、俺はお人好しじゃない。
だから、少佐にとっては役立たずなんだ。だから、俺を選んでくれないんだ。
「少佐……」
刹那の勘の鋭さは一種の不幸だった。
あの短時間で、ややウォンに好意的な解釈ではあるものの、たいして的外れでもない真相にゆきついてしまったのは、まさしく愛人としての勘である。
瞳がジワッと潤んでくる。
恋人が隠していることはあえて探らない方がいい、という真理を知らないほど、刹那も幼い訳ではない。だが、どうしても悟りすましてはいられなかったのだ。そして、知ってしまったこの事実。
「少佐は、俺の少佐、なのに……」
いっそノアに秘かにつっこんで、キースとやらを殺してやろうか。
そしたら、少佐は俺のものになるだろうか。
わかっている。そんなことをしても無駄だ。むしろ少佐に憎まれるだけだ。
だが。
どうしたらこの気持ちはなだめられる。

その夜、ウォンが刹那の部屋を訪ねなかったのは幸いだった。
破局へのカウントダウンの開始が、ほんの少し伸びただけの話だが。

6.

「いい……」
カルロの肌は、どこかひんやりと冷たい。ベッドの中で抱きしめられると、時々ゾクッと鳥肌がたつほど気持ちがいい。特に朝は。肌が熱く感じられる日は、自分からすがりついていくことすらある。
「キース様」
いきなり絡んでくるキースの手足に、カルロは少しく戸惑った。だが、触れていいのだ、していいのだと気付くと反撃は早い。キースが厭だといわない限り、かなり濃厚な愛撫で応じる。
「あ……ん!」
あっけないほど簡単にキースが終わってしまうと、カルロは手を止めた。
「大丈夫ですか?」
「うん……君は……いいのか?」
まだ終わってないだろう、と霞んだ瞳が問いかける。
「本当は……欲しいです」
「じゃあ、続きを……」
そんな風に熱っぽく囁かれ迫られると、カルロも我慢がきかない。もう朝だということも忘れて、キースに溺れてゆく。ずっと欲しかった魂が、愛撫を求めて自分の腕の中で震えているのだ。自制心を保つことなど出来ようもない。抱きしめ、押し開き、どうしようもなく溢れてくるものを激しく叩きつける。
「や、あ……っ!」
たまらなくなって悲鳴をあげるキース。たまらなくなって加速するカルロ。
そして、溶けあう。
熱く、白く。

「疲れた」
息が鎮まってくると、キースは苦笑いしてカルロの胸を押し返した。
「朝からあんなだと、少しきついな」
「すみません」
「謝ることはない、こっちが欲しがったんだから。でも、次回からは手加減してくれ。起きられなくなる」
「わかりました……でも、キース様があんまり綺麗で……」
「口説き文句はもういい。ちょっと休ませてくれ。後からゆくから」
離れがたいのか、カルロはキースの背に腕を回したまま、
「では、身支度を手伝わせて下さい」
「一人でできる。それより君こそ、早く仕事へ」
「はい」
しぶしぶとベッドを降り、簡単に身仕舞いを整えてカルロは寝室を出ていった。
「……ふう」
キースは重く疲れた身体を、ベッドの中で伸ばす。
カルロの奴、夜でもないのに、あんな。
午前中の抱擁は、親愛の情の確認のためにある筈だ。だから冷たく断わられるのも厭だが、夜とまったく同じ激しさなのも困る。まだ若いカルロに節度を求めるのは無理だろうとは思うが、もう少し神経を使って欲しいものだ。
ウォンだったら、朝からあんな無理はしない。
もし目覚めた時に僕が求めたら、適当に甘やかしてくれた。そりゃあ勢い余って、という日がなかった訳じゃないが、それでも。
「馬鹿な。比べるな」
キースは顔を覆った。
過去の記憶は美化されがちだ。本当にウォンはそんなに素晴らしかったか? それに、カルロとウォンを並べて考えても何の意味もない。あれはあれで認めてやらなければ。ないものねだりをしたり、昔は良かったなどといつまでも考えて、自分の価値を下げるな。
僕はいつでも、未来を見つめる者でなければ。

だが、キースがシャワーを使い服装を整え、部屋の外へ出た時、したばかりの決心がもろくも壊れそうになった。
ドアのすぐ外で、カルロが待っていたのだ。
「キース様」
「先に仕事に行けと行ったろう?」
うんざり声のキース。しかしカルロは眼鏡の奥の瞳を光らせて、
「一仕事すませてから戻ってきました」
「何のために戻ってきた? 私はこれから行く処があるんだが」
キースは先に歩き出した。カルロは半歩遅れながら、
「行かれるのは、バーン・グリフィスの処ですね」
「うん。それがどうかしたか? 何か緊急の用件でも出たのか?」
カルロは一瞬黙った。
おや、と思ったキースが足を止めて振り向くと、カルロの表情が硬い。
何が言いたいんだ、とキースが眉を寄せると、彼は再び口唇を開いた。
「彼のリハビリは順調です。急速な回復をみせているといってもいいぐらいです」
「ああ。優秀なスタッフに恵まれたと感謝している。君のおかげも大きい」
「有難うございます」
だが、言葉とは裏腹な暗い顔。
「どうしたんだ、カルロ?」
「キース様は、バーン・グリフィスがほぼ健康体に戻ったら、彼をどうするつもりなんですか」
「どうするつもり?」
カルロの質問の意味がよくわからない。
「私は別にどうこうするつもりはないんだが、君は何か考えているのか?」
カルロは慇懃な声で、
「バーンはこの新基地内部に精通しています。旧ノアも、そして新生ノアに対してもいい感情を持ってはいません。誰かに踊らされたり、騙されたりすれば、内部事情を漏らしてしまうかもしれません。もしくは軍サイキッカー部隊の捕虜になって、強制的に情報を引き出される可能性もあります」
「ああ」
やっとわかった。バーンを説得するなりなんなりして、ノア内へとどめておけ、と言いたいのだ。
キースはなるべく優しい声を出した。
「カルロ」
「はい」
カルロは上目づかいでじっとしている。キースは噛んでふくめるように、
「君の心配はよくわかる。だが、もしバーンがノアを離脱したいと言えば、私はそうさせるつもりでいる。基地内を熟知しているのは彼だけでない。そういう危険性を考えたら、誰も基地外へ出られなくなってしまうだろう」
「ですが」
「野生の鳥をサイズのあわない籠の中にむやみに押し込めれば、無惨な死を迎えるだけだ。もし彼が、健康な身体と精神状態の時にここに居たくないと考えるなら、《さあお行き》と放してやるのが私のつとめだと考えている」
その冷静な微笑みに、カルロはかえって逆上した。
「キース様は、彼がノアに必要だとは思わないのですか? あの優れたサイキックを惜しまないんですか?」
キースは微笑んだまま、
「私は、友人としての彼を必要としているんだ。わかるか? 友人として、だ」
カルロは答えない。キースは先を続ける。
「もちろん、友人として、長い時間を一緒に過ごしたいと思う。彼の優れたサイキックを惜しまない訳ではない。彼の暖かな人柄はノア内では得難いものだ、出来れば同志となってもらいたい。だが、彼は部下ではないんだ、何の強制も出来ない。彼をここへ閉じ込めて、窒息させるのは論外だ。……きれいごとに聞こえるかもしれないが、彼も幼子ではないんだ、本人の判断にまかせるのが一番いい結果をうむ。そうは考えられないか?」
カルロはじっとキースの言葉に耳を傾けていたが、強張った表情を変えずに続ける。
「ですが、離れていたら、彼が危機に陥った時に、助けることができないとは思いませんか?」
「一緒にいても、目の前で死なれる可能性だってある。実際彼は、私を助けようとしてあんな目に遭ったんだぞ」
「しかし」
ウォンならこんな押し問答はしないものを、といいかげんうんざりした瞬間、キースはふと話題を変えることを思い付いた。
「ところでカルロ。……支援者との会食は、本当に一通りすんだのか?」
「え」
ギクリ、と動きのとまるカルロ。
「はい。すべて完了しています」
表情を繕おうとして失敗している。やはりアレを隠しているな、と思いつつ、キースは涼しい顔で、
「そうか。その件についても、君には感謝している。君がセッティングをしてくれたおかげで、事が本当にスムーズに運んだからな。それにしても、ベルフロンド財閥というのは大したものだな、あれだけ巨額の資金を苦もなく吸い上げているとは。いったいどんな事業展開をしているんだ? 裏組織のあがりや株の売買だけではああはいくまい。元々の資産が莫大なんだろうが、維持だけでも大変だろう」
カルロは無理に口唇の端を引き上げながら、
「一族の中には商才にたけた者が多いので……」
「そうなんだろうな。私にはない資質だ。君からも学ぶことが多そうだ」
「そんなことは……」
「そう謙遜するな。さて、バーンの処へ行った後は君の部屋へ行く事にしよう。とりあえず、資金の確保は無事できたのだから、仕事の再整理をしていかなくてはな」
明るく言って、キースはカルロを一人残し、悠々とその場を去った。
〈カルロめ、やはり気付いているな〉
新生ノアの資金繰りは一時期そうとう苦しかったのだが、最近だいぶ楽になってきていて、キースはそれを怪しんでいた。カルロにいくら商売の才があったとしても、具体的な成果のない時期にも金が入ってくるのはおかしい。支援者達に一通りあってみても、急に羽振りが良くなった者もいない様子で、つまり謎の資金源が新生ノアを潤しているのだった。具体的な人物像はまだあぶり出されていない。新スポンサーは巧みにその姿を隠しているのだ。
実際に資金運用をしているカルロは、絶対にその存在に気付いている筈。
気付いていながら、僕には黙っているつもりなんだ。
まあ、それならこちらからはあえて触れまい。
僕の切り札に使えるように。
もう一つだけ、支援者の一人から漏れた名前が、キースの心に響いていた。
「ワン・ユンファ、という華僑をご存じですか?」
「ユンファ?」
ウォンの本名は確か《皇飛晃》と書いて、《フェイフォン》と読んだ筈。ただ、外国人には聞き取りにくい名であるから、聞きまちがいということもありえる。だが、リチャード・ウォンの存在を知らないスポンサーはいない。華僑とくれば連想する筈だ。同一人物ではない、と思う要因があるのだろうか。
キースはわざと空とぼけた。
「さあ……その、ユンファがどうかしましたか?」
「いつでも力になります、というメールが届くんです。正体も送信元もわからないのですが、どうやら私がサイキッカーだと知っているようなので……ノアの関係者ではないのですね?」
年配で手がたい事業展開をしている支援者は、心配そうにキースを見つめた。
キースは笑顔でそれに答えた。
「相手にしないことです。それ以上何かあれば、私達にご相談下さい。大丈夫です」
「わかりました」
ワン・ユンファ、か。
単なるたちの悪いゆすり屋の可能性もある。
しかし、それがウォンの偽名なら。
ウォンはウォンなりにいろいろ動いているだろう。今更あてにする気はないが、もしかして新しいスポンサーの正体というのは……カルロが必死になって隠そうとしているのは、彼も同じことを考えているからではないのか。
「まあいい」
期待しないことだ、と思う。
バーンがどんな選択をしようと、ウォンが何を考えていようと、僕の努力の及ぶところではない。だから、無駄な期待、良すぎる期待はしないでおこう。
キースは親友の元へ向かう。
あたりさわりのない話をしに。友の努力を讃えるために。
とにかくもう、誰にも傷つけられたく、なかった……。

7.

「これで計画はほぼ完璧……」
バインダーの書類の上を、ウォンの指がゆっくり動く。
軍内に収容されているサイキッカーの選別はほぼすんだ。軍向きではないものの、ノアに欠けていて、なおかつ優秀な人材を洗い出すことが出来た。
数ある軍サイキッカー研究所の中から、悪名高い場所を選び、彼らを移送する手筈も整えた。
この情報を、ノアへ流す手段もある。
ノアは当然、移送車を襲うだろう。
彼らはノアのメンバーに救出され、新しい理想郷へおさまる。そこで、自らの力を開花させる。そういう風に教育したのだ。若い指導者をあなどらず、協力できるような人間ばかりを選んだのだ。自由と規律の精神のバランスのとれた者を。
「これでいい」
そう呟いた瞬間、キース様に逢いたい、という想いで心の中が一杯になる。
あんまり恋しくて、今すぐ飛んでいきたい。
だが、まだ駄目だ。
せめて、この計画が成功してから、成果をみせはじめてからだ。
そうでなければ、私が軍にきた意味がない。
そう、すべては貴方のために。
使えるものは、どんな小さな力さえ、すべて貴方に捧げたい。
「執務室で私は何を……」
溢れる想いを振り払うように、ウォンは計画ファイルを閉じた。端末を開いて、今度は軍内の現在の状況をチェックする。
浮かび上がってくる、いくつかの問題点。
「刹那にも困ったものですね」
最近の刹那は妙だ。以前は補佐官を上回る質問責めでウォンを困らせていたが、この頃ぴたりと何も尋ねなくなった。それから、サイキックの訓練を怠るようになった。記録をとるための最低限のテストは続けているものの、自主的なものを一切しようとしなくなったのだ。これでは伸びるものも伸びない。また、サイキッカー選別強化プログラムの中にこっそりもぐり込んでいる時もある。サイキッカー部隊には一種のフリーパスがあるし、少佐の命令だと嘘とついて参加している時もあるらしい。こちらの留守中に何やら一人で探っている様子もある。素人ながら心のガードを固く閉じ、ウォンに近づこうともしない。
「反抗期、ですかねえ……だいぶ遅い反抗期だ」
まあそれは冗談として、刹那を今後どう扱ったらいいか、よく考えねばなるまい。
刹那の超能力はこれ以上伸びを見せないだろう。不満は高まるばかりだろう。能力が衰えていくと自暴自棄になりはしないか。体力の低下の兆候もある、これは人体実験を施されたものには重大な危険信号だ。ヤケになるには充分だろう。かといって、今から選別強化プログラムへ押し込むのもどうか。あれは、教育を与えて、さあお行き、と放すためのものだ。ここを巣立つメドのない刹那に、それを与えて何になる。本人には巣立つ気すらないというのに。
と考えていた矢先に、インターフォンが鳴った。
「ウォン少佐。入室許可を下さいますか」
他人行儀な刹那の声。
「いいですよ、お入りなさい」
「有難うございます。お仕事中失礼します」
いかにも軍人らしい足取りで入ってきて、刹那はピシリ、と敬礼した。
ウォンは軽く眉を寄せた。
「二人きりの時にそんなにしゃちほこばる必要はありませんよ。それに、定時訓練の報告に来たにしては、だいぶ時間が早すぎるようですが?」
「今日は少佐にお願いがあって、参りました」
「なんですか、お願いというのは?」
刹那は一呼吸置き、視線をウォンから外した。わざと宙を見つめて棒読みに、
「次のサイキッカー移送の際、同行させていただきたいのであります」
「同行したい?」
ウォンの表情が険しくなる。
「何のためです?」
「移送に同行する軍人の数が少なすぎます。いくら運ばれるサイキッカー達の力が弱いとはいえ、あれでは数で負けてしまいます。サイキッカー部隊の一員として、その危険性を少しでも減らしたいのです」
ウォンはじっと刹那をにらむ。
何を考えているのだ。
こちらの計画を見抜いているというのか。
しかし、そうなら何故そんなことを志願してくる。
もしいま刹那の身体の一部にでも触れれば、刹那がどんなに心をガードしていようと、即座にその真意を掴める。
「少佐。お願いです!」
と刹那が叫んだ瞬間、ウォンは彼の背後をとっていた。
テレポート。
「少佐!」
肩を掴まれて刹那は悲鳴をあげた。
こじあけられた心。
そして、ウォンの心に流れ込んでくる思念は。
〈少佐の計画は確実じゃない/サイキッカー達をもっと安全に逃がすためには、ノア連中に襲われた時に、他の軍人どもを俺が始末した方がいい。事情をのみこんでいるこの俺が/いざとなったらノアに襲われたことにして、俺が逃がすことだってできるし/多少危険な目に遭ったっていい/少佐が誰を好きだっていい、キースとかいう小僧に骨抜きだっていうならそれで構わない、どうせ少佐は俺以外にも沢山の愛人がいるんだろうから/だからもし少佐がキースのために何かしようとしているなら、俺も手伝う/せめて少佐の役に立ちたい/必要とされたい/助けたい!〉
「刹那、どうしてそれを!」
刹那はウォンの掌を振り払った。
「俺には、テレパスで少佐の心はよめません。でも、少佐が何を考えてるのかぐらいは、わかるんです。ずっと、ずっと側にいればわかります。俺は少佐を愛してるんです!」
「……刹那」
ウォンは、おぞましいものを見る目で刹那を見た。
自分はどうなってもいいから相手に尽くしたい、という姿は、美しいというより不気味なものだ。恋愛というのは微妙なもので、何もかも相手を知り尽くし保護し励ましてやればいいというものではない。そして刹那は、自分がウォンを見下し、哀れみ同情しているのに気付いていない。しかも、愛情を強制しようとしている。
「俺だって役にたちます。何でもできます。少佐の計画を見抜くことぐらいできるんです、使ってください、何でも命令してください、利用して下さい!」
「やめなさい!」
たまらなくなってウォンは叫んだ。
「余計な事を! あなたは必要ないんです!」
ビク、と刹那の動きが止まった。
「この計画にあなたはいらない! 私のすべてのプロジェクトにおいて、あなたはもう必要ないんです!」
刹那は茫然とウォンを見つめた。
「……少佐」
一言だけ掠れ声で呟き、魂の抜けた人のようにふらふらと執務室を出て行った。
ウォンは茫然とその場に立ち尽くしていた。
ついに言ってしまった。
刹那には、決して言ってはならないことだったのに。
愛人としての刹那が不必要な訳ではない、愛しているのは嘘ではない。
それなのに。
〈使ってください、何でも命令してください、利用して下さい!〉
そう、あれは私自身の叫び。
キース・エヴァンズに何度も言った台詞。
キース様は、あれをどんな思いできいていたのだろう。愛情の証として受け取ってくれていたのだろうか。それとも今日の私のように、ただ疎ましい、としか感じていなかったのか。
私はすべて間違っていたのか。
「そんなことは……ない筈だ」
この移送計画は成功させなければ。
刹那を同行させないようにしなければ。
ルートを決行日を変えて、この計画の犠牲にならないようにしなければ。
刹那にさせるのは、あまりにむごすぎる。
感情の波立ちを懸命にこらえながら、ウォンは再びデスクへ戻った。
思考がまとまらない。
すぐに刹那を追いかけるべきだろうか、という考えが頭の隅をかすめたが、身体は動こうとはしなかった。
本当に愛しているのなら、何も考えず追うべきであったのに。
こうしてここで、一つの恋が終わりを告げた……。

8.

「やはりそうか」
その日キースは自室の端末で、謎の資金源の陰に、ついにワン・ユンファの名前を見いだした。
間違いない。
これは、リチャード・ウォンだ。
彼の金が、新生ノアにも流れ込んできているのだ。
普通に考えるなら、使うべき金ではないだろう。信用してはいけない、当てにしてはいけないものなのだろう。
だが、正直これは有難かった。
今のところ、特に不都合も生じていない。
「もし、何か見返りを要求されれば、そこで切ってしまえばいいだけのことだ」
ウォンの手は熟知している。何か仕掛けてくるようなことがあっても、かなりの部分まで対応できる自信があった。
「キース様!」
その時、カルロ・ベルフロンドが部屋を訪ねてきた。
キースは端末の電源を切り、あたりを簡単に片付けてからドアロックを解除する。
「待たせたな。で、どうした、カルロ?」
「米軍に収容されたサイキッカーの数十名が近頃、別の研究所へ移送される計画が判明しました。そこへ入れられれば、生きて出られないどころか三ヶ月以上の生存も危ういという、例の」
キースはなるほど、とうなずいた。
「つまり、彼らを移送中に救出したい、と言いたいんだな?」
「はい。移送ルートは極めて特殊ですが、同行の軍兵士の数はあまり多くありません。おそらく移送される者達のサイキックパワーが、比較的弱いためと思われます」
キースはすうっと目を細めた。
「そうか。……で、その情報は何処からきた?」
カルロはア、と息を飲んだ。
「もしかして、軍が仕掛けてきた罠かもしれないということですか?」
キースは薄く笑った。
罠かもしれない。しかし、ワン・ユンファの善意かもしれない。
どちらでもいいことだが。
「まあ、罠でもなんでもそれが本当なら、救出するのが筋だろう。人手も欲しい処だしな」
「わかりました。では、早急に対策と作戦計画を」
「ああ。今回の救出作戦には私も参加しよう」
「え」
カルロは目を剥いた。
「キース様が、ですか?」
「ああ。その方が、皆の士気があがるだろう? キース・エヴァンズは生きていた、と知らせるのにはいい機会だ。そろそろ頃合いだろう」
「キース様」
眼鏡の奥の瞳が感激に潤む。
「有難うございます、キース様」
「礼を言われる事ではない。それより、情報の詳細を確認する方が先だ。すぐできるか?」
「お待ち下さい、後でまたこちらへお伺いします」
「頼む」
カルロが部屋を出てゆく。
ひとり残されたキースは、不思議な高揚感に胸踊らせていた。
ウォン。
どうやらまた、君に逢えそうだ。
どういうつもりか知らないが、君が動いているというのなら、僕も僕なりに動く。
負けはしない。
決して。
キースはふと思い立って、部屋を出た。
行く先は、バーンの私室。
「バーン」
「おう、キースか」
バーンは笑顔を振り向けた。もうすっかり傷も癒えて、身体の諸機能もリハビリによって回復している。
もう、そろそろ頃合いだろう。
「バーン、決めてくれないか」
「え」
「ノアに残って僕に協力するか、それとも別の道を選ぶかをだ」
バーンは頬を引き締めた。
何度も重ねて問われてきた事だ。
ちゃんと答えなければいけないのはわかっている。
本当の気持ちは言いづらい。
だが、言わなければ。
「俺、ノアには……やっぱりいられない」
「わかった。お別れだな」
「キース?」
あっさりとうなずいて、微笑みながらキースは続ける。
「僕は、君を諦めた訳じゃないんだ。ノアはたぶん変わってゆく。僕も変わってゆくだろう。君がもう一度僕に会いたいと思う時が来たら、また、ここを訪ねて欲しい。僕のしている事がまだ間違っていたら、ちゃんと抗議してくれ。もしいいと思うことがあったら協力して欲しい。そういう別れ方をしたいんだ、君とは」
「キース」
「駄目かい?」
バーンは無言でキースを見つめる。
確かに、俺達二人が生きてゆく道は、それしかない。
「わかった。そうすることにするぜ」
「有難う、バーン」
堅く握手を交わす。
それからバーンは旅支度を始めた。キースはバーンの部屋を出た。
一言だけ、小さく呟きながら――もうお行き、と。

9.

俺はどうして舟なんかに乗ってしまったんだろう。
車でもなんでも盗んで、それで走り続けた方が気が晴れたかもしれない。
しかし、それだけのエネルギーが、彼――刹那には残っていなかった。

〈あなたは必要ない!〉
知っていた。
でも。

リオ・グランデ河を走る客船の中でも比較的豪華なその船は、夏の行楽を楽しむ人々に溢れていた。キャンディピンクとチョコレート色に塗られた船。子供が持って歩いている原色の風船。水面をまぶしく照り返す強烈な日差し。穏やかな川波に揺られ、誰もが陽気にバカンスを楽しんでいる。
この中に紛れ込んでしまえば、たとえ軍から追っ手がかかっても大丈夫だろう、と私服の刹那は考えた。いくらサイキッカーが珍しくない世の中になったとはいえ、一般人が大勢いる前で軍人がいきなり大立ち回りを演じることもあるまい。まして俺は軍の重要機密だ、俺の能力が人前で発揮されるのは困るだろう、と。
刹那の思惑が当たったのか、乗り込んだ船の中に追っ手は見つからなかった。
昼の彼は、なるべく人の多いデッキやサロンなどで時間をつぶした。
しかし、夜になれば、みな自分の部屋に戻ってしまう。
刹那は人のいる処で過ごしたくて、かなり遅い時間になってもサロンに居残っていた。
専属のピアニストなのか、それとも船客の手すさびなのか、設置されたグランドピアノの蓋を開いて、ショパンのワルツを弾き出した女性がいた。
物憂い三拍子に耳を傾けながら、刹那はサロンの隅にじっと座り続けていた。

〈あなたは必要ないんです!〉
耳にこびりついている、少佐の怒鳴り声。
知っていた。
そう言われてしまう事も、ずっと前から覚悟していた。
だから、辛くなんかない。
少佐に必要とされないなら、俺は軍にいる意味がないから、だからこうして軍を抜けてきただけだ。
ただ、それだけだ。

「もし」
「は?」
刹那が顔を上げると、年のいった上品な御婦人が紙箱を差しだした。
「若い人は、こんなに遅くまで起きているとお腹がすくでしょう。少し何か食べませんか」
箱の中身はサンドイッチだった。
刹那は穴のあくほどそれを見つめたが、素直に受け取って食べ始めた。
しかし、口を動かすより先に涙が溢れ始めた。
少佐。
ウォン少佐。
俺は。
俺は、俺は、俺は……っ!
「あらあら、いったいどうなさったの? 何かあったの、そんなに泣いて」
驚いた老婦人は、慌てて刹那をなだめようとする。
刹那は膝の上の紙箱に大粒の涙を幾つもこぼしながら、掠れ声で呟いた。
「今……人と別れて来たんです」

(1998.12脱稿/初出・恋人と時限爆弾『L'AMANT/ラマン』1998.12発行)

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