▲推理小説周辺2

「本格探偵小説について」

本格の探偵は、イイ奴であって欲しい。
気兼ねのない友人であってほしい。
古風な探偵小説の扉を叩くと現れる、怜利で無邪気な探偵者が好きだ。ほら、そこにいるだろう、長身痩躯の青年が。目元はなにやら眠たげだが、その底は鋭く冴えて、薄い口唇に、冷笑なのか、それともはにかんでいるのか、よくわからないような曖昧な微笑を浮かべて、うっそりと戸口にたたずんでいる。
彼はよくある奇人の類で、妙に子供っぽい、茶目っけたっぷりなところがあって、普段は自分の部屋でごろっちゃらしているが、気のいい相棒が訪ねていったりすると、実に嬉しそうに、変わった話や、手柄話をして聞かせる。
その話はまったく面白くて、世間の喧騒やしがらみを一時忘れさせるが、話が終わってはっと我に帰ると、その現実にぞっと震え上がることもしばしば、といった輩。
彼とこっそり目配せを交わし、輝く横顔を眺めるのことが、探偵小説を読むときの一番の楽しみだ。そういうの、皆嫌いかい?
偏狭な個人的趣味で云えば、探偵小説は普通の人々の日常生活に、ひそかにぽっかりと開いた亜空間でなければ、と思う。皆それを見いだすことなく行き過ぎてゆくところを、鋭い人間がはっと気づいて、その恐ろしさに身震いする、というのが理想だ。
胸に灼きつくような、銀のナイフの燦めくような、閃く一瞬であって欲しい。
孤独な遊民の心をさりげなく慰める、贅沢な無駄話であって欲しい。
いま生きている現実こそが実はファンテジイであるというような逆説を語ってくれる、一服の清涼剤であって欲しい。
遠い異国の激動の物語や、みすぼらいしばかりのリアリズムは、別の機会にお楽しみを譲るということにして。それでいて、時代の呼吸をじっくりと描いた、一枚の優れた風刺画であって欲しい。――そんなとりとめのない期待ばかりしている。
期待、ではいけないだろうか。「本格」は、片恋の偶像だ、と私は思う。完全なものはありえない、だが、誰かが思い続ける限り、この世のどこかに存在する、幻のようなものなのだと思う。皆、その夢を追いかけて、あてどなくページをめくっているのだと思う。違うだろうか?

(1990.7脱稿/初出・小松美明編『群探第15号』1990.7)

「『探偵小説』かくあるべき−−黄色い部屋は改装していかなきゃ。−−」

A.やっぱり、結局、……探偵小説なんだよう。

私は昨年の夏、とある本格探偵小説のパロディを頼まれまして、七転八倒しながら百枚ほどを書きあげました。
書きあげたんですが。
読み返して、納得がいかない。

水準に達している、という評価もいただきました。
いろいろ勉強して、一生懸命書いたんですけど。
やっぱり、納得がいかない。
こんなん、本格じゃないわ、と思ったのでした。

私の探偵小説読み歴は古く、十数年に及んでいます。
私が青年期に熟読した小説家を挙げよ、と言われると、やはり、そういう系統の作家しかあがってこない。
ですが、その趣味嗜好の基本は、十年来、殆ど変わっていないのでした。
それは多分に都筑道夫の影響を受けていまして、先日も、彼の探偵小説作法論『黄色い部屋はいかに改装されたか?』を数年ぶりに読み返し、「黄色い部屋は今でも改装されてない。これじゃいけない。私が本当に望むのは、画期的な作品がでてくることだけど、それ以前に、レベルの低い、小説ともいえないようなものが横行している現在をただしていかなきゃどうしようもない。やっぱり彼のとなえる条件は、本当に必要最低限な基本で、誰しもおさえておかねばならない道だわ」と思ったのでした。

で、次にもう一度我が身をふりかえりまして。
反省。
奇をてらうこととか、小説作法のことは考えてきたけど、肝心の探偵小説の基本について、しっかり勉強してこなかったわ。
そう、気付いたのです。
この基本をおさえれば、私でももっといいのが書ける筈。
このままじゃいかん、と思ったのでした。
新しい小説を切り開いていくのは大切だけど、礎もきちんとおさえておかなきゃ、と。
復習、しとかなきゃ、と。

B.でね、結局、こういうのがいいの。――私の「探偵小説六カ条」。

何を今更だだこねてるんでしょう、私は。
ここは、探偵小説専門雑誌じゃないのに。
でもね。
やっぱり、一言、書いておきたいのです。
こういう探偵小説が望みである、と。
読むのも、書くのも。
気持ちのいいのがいい。

本格探偵小説を書くのは、大邸宅を精密に描写することである、というようなことを書いたのは、確か夢野久作だったと思います。
それはまさしくそのとおりである、と思います。
やっぱり、よい本格を書こうと思うんなら、形式を踏まえて、じっくりと構えないといけない訳なんですよ。また、形式を踏まて努力すれば、ある程度いいものが書ける筈なんです。そういう枠組みのしっかりしたジャンルなんだもん。
だから味気ない、とも彼はいいます。それは確かにその通りなんです。だって、綿密な計画表をつくって、それにそって地道に材料を組み立てていく作業だから。これね、辛いんです、本当に。イッキカセイにやりたいのに、そういう訳にいかないから。
もちろん、感興のほとばしるままにいいものが書ければ、それはそれでラッキーな話で、本格探偵小説でなければ、本当に素晴らしいことだと思います。でもね、なかなかそうはいかないでしょう。万が一、そういうチャンスに恵まれたなら、それはそれでいいのですが。
でも、本格は、じっと我慢をして、丁寧に書かないといけない。定型を押え、かつ、マンネリにならず、常に読者を面白がらせなきゃいけないんだもん。これって、至難の技だよねえ。
でも、挑戦のしがいはある。

そんな訳で、私の一つの理想像を掲げてみたいと思います。
気持ちのよい、本格探偵小説。
結局は、都筑道夫のアレンジでしかありませんが……私なりの懐古趣味なんぞも、織り込んであります。

○探偵小説六カ条

1.事件が最初にあること。

探偵小説は、単刀直入に、事件から始まるべきです。
できるだけ単純な事件が好ましく、次々と別種の事件が足されていくのは感心しません。
足されていくのなら、必然性が欲しい。
やはり、なんでも事件がおこりさえすればよい、というのは、駄目です。例えば単なるバラバラ殺人、猟奇殺人なんかは、はっきりいって扱うべきではないです。猟奇であることに寄りかかり、無理に結末をこじつけようとして、とんでもないことを書く作家があまりにも多いので。現実の猟奇事件の犯人の告白は面白いかもしれませんが、それは文学の範躊。犯罪小説を書きたいのなら、また話は別ですけどね。
は、単純ながら一ひねりのあるもの。何故だろう、と作者がおどけてみせて、読者がつられて首をひねりたくなるようなものがベストですね。
これが難しいんですけど。
そこはまあ、お好みですね。
難しいですが、魅力のある事件を用意して欲しいです。
また、人間を殺す時は、丁寧にお弔いをする気持ちを忘れないこと。どんな悪逆非道な人であっても、死んでいい人、なんていないんだから。
また、死者を必要以上に冒涜しないこと。ヒンシュクを買います。心ある読者からは。

2.筋立ても単純であること。

ごちゃついた筋の話は、やっぱり読者に不親切。明快なプロットのあるのが、一番です。伏線をはれるだけはって、バラバラの筋を並べて事たれり、なんて作家もいますが、論外ですね。エンタティメントなんですから、読者の気持ちを一定方向にひっぱらなきゃ。特に長編では、長いぶん大変なことですが、とても大切なテクニックです。ちらりちらりとハンカチを振って、読者に上手な合図をおくりましょう。専門用語でいえば、ミスディレクションですね。まあ、アシモフの『黒後家蜘蛛の会』なんか、ほとんどこれだけでなりたってますからねえ。作家は読者に、ちゃんと自分のお城の道案内をしなきゃだめです。時間をかけて、ゆっくりとね。その上で、読者が道に迷うのが、一番上等の探偵小説です。これが最高の迷宮です。
チェスタトンみたいに、言葉の力業で連れてっちゃうのも、いいですね。私は好きです。これは短編でなら結構有効な手段ですので、是非挑戦していただきたいところですね。ただ、それには、かなりの寓意を含むことと、美文であることを求められます。だから、きついかなあ。

3.結末に納得のいくこと。

結末は、やっぱり読者の最大の関心事。特に探偵小説では、本当に大切な要素です。
きちんとつけないといけません。
私は結末をおろそかにしがちな人間ですので、自戒を込めていいます。
結末は、うまくつけましょう。
それは作者のお好みで、どんな終わり方でももちろんいいのですが、やっぱり後味のいい方がうれしいな。
ぬくもりのある終わり方はよろしい。
人情話というのはなかなか効果的で、しかも納得されやすいようです。
別に、あっと驚かされなくてもいい。
納得がいくほうがいい。
呆れちゃって、開いた口がふさがらない、というのは、やっぱり勘弁です。
乱歩ふうな情緒が、よいですね。
乱歩の筋立ての清潔さ、その結末の詩情に勝る、日本の推理小説作家はいないでしょう。(日本人は、ポーまで戻らなくてよろしい。乱歩のはにかみまで戻ればいいんです。それを忘れちゃったから、みんな下品なんだよう)

4.探偵役が、ちゃんと存在すること。

探偵小説には、やはり探偵者が必要です。
いてくれないと、困ります。
彼は、読者にとって、世界の水先案内人なのですから。(だいぶん不親切な輩が多いですが、それはどちらも承知の上、充分利用しましょう)
とにかく、物語の早いうちに、探偵者は明快に登場するのがよろしい。
また、必然性のある登場の仕方がよろしいです。
偶然でもいいのだけれど、職業的に犯罪に関わる人でないのなら……やっぱりね。
できれば、お茶目なキャラクターであるといいですね。
面白いから。
あと、閑な人であるといいですね。
別に忙しくてもいいけども、心に遊びの余裕のある人がいいんじゃないかと思います。やっぱり。

5.きちんとした犯人のいること。

あたりまえのことですが、これは意外に難しい。
犯人って、いったいなんなのか、作家達にはよく考えて書いて欲しい。
……で、私の犯人論。
小説の普通の犯人は、自分の犯罪を隠蔽しようとして、いろいろと小細工をしたりする訳ですが(偶然隠蔽されちゃうパタンもありますがね)、そこに、いろいろとトリックを持ち込む作家がいて、探偵小説をにぎわかしています。
しかし、実際に、探偵小説的な犯罪を行う人間というのは、はっきりいって、芸術家です。ちゃちなことはあまりしない。自己表現としての犯罪で、ばれてもいい、という度胸のある人、もしくはばれてほしい、という、大胆な人が多い。
現実に、くだらない小細工を弄して捕まるお粗末な犯罪者もいるにはいますが、私はやっぱり後者の、捨て身の犯人を愛しています。(実際、そんなのばかりを書いてますが)
この点においては、本格探偵小説は、もっと哲学、社会科学、心理学、文学等に学ぶべきだと思うのです。皮相な知識で書くのでなく。そうすると、面白い犯人像ができると思うんですよ。
例えば『ロウフィールド館の惨劇』は、本当に嫌やあな嫌やあな話ですたが、犯人にキリリと焦点を絞ったからこそ、「画期的!」とあれだけの評価を得た訳です。
犯人、大切にしてください。
その魂は、結末と同じく大切だと思います。
ないがしろにしないこと。

6.小説として、ある程度のレベルのあること。また、オリジナリティ、新味のあること。

まあ、最低でも、一つの作品に、一人くらいは、生きた人間がいること。これが条件ですかね。
え? 難しいって?
ですが、いてほしいですね、是非。
じゃないと、小説を読んだって感じ、しませんもの。
アイデア中心の短編であればいかしかたない時もありますが、中長編は、いないと駄目だよう。

それから、重みのきいた、美しい文章で書かれていること。
え? ああ。文体は人それぞれですから、軽くてもいいですよ。でも、大邸宅をご紹介する訳ですからね。
もちろん、私は古い家の話をかけといってるのではありません。現代を舞台にしながら、懐古趣味の屋敷をだせなどといっているのではないのです。もちろん、『大いなる幻影』のような、現代に残る特殊な古いアパートが舞台だったからこそおこった事件、みたいな話は、それでいいんですよ。(未読の人、説明不足でごめんなさいね。古い作品ですが、乱歩賞だけのことはあるので、もし興味があったら読んで見て下さい)
ただ、現代の建売り住宅だって、あなどれないとこがある。また、思い切って時代劇にしちゃう作家もいますしね。これはこれで面白いので、時代考証を考えてくれれば、もっとやれ、と推奨したいです。
まあとにかく、レベルの高い文章で読ませてほしい。そういうことです。

また、ペダンティズムのある作品であること。
うんちくは鼻につく、という人もいますが、自然な知識の発露は、読んでいる人にも面白い筈。
自分の専門分野がある人は、是非その教養をひけらかして欲しいです。
これは、一つの武器です。
他の物書きに勝てる。
オリジナリティというのは、こういう所からおのずとあらわれるのです。
新味も。
自分の得意なもので、ガンガン書いて欲しい。チャレンジして欲しいです。

それから、好きな作家の方法やモチーフは、思いっきり盗んでよろしい。むしろ、盗んで欲しい。
これは盗作ではありません。自分なりに活かすのです。
老いも若きも、先達がいたからこそ書いているのです。
影響されない物書きなどいません。
「あ、こいつ、××読んでるな」とニヤっとする時、あるでしょう? そういう影響。こういうのは受けていいの。それで、その上に自分のオリジナリティを築くのです。
クオリティの高いオリジナリティを目指すために。

以上、「六カ条」、いかがでしたでしょうか。
みなさんが探偵小説にどんなイメージをもっているかで、意見もずいぶん違うと思うのですが。
きっと、みんな私と違うと思うよ。だいたい、この六カ条にぴったりとあてはまる探偵小説なんて、ほとんどないと思うし。私が好きなのは、結局寓話なんです。うんちくのきいた、人情話とかが好きなの。(だから、私はウエットな乱歩先生が好き)
でも、こうあって欲しいの。惚れた弱みでございます。

頑張って、いい探偵小説が書けるようになりたいです。
私の憧れは、連作短編ものなのですが。
レギュラーの探偵役が難しいので、できなかったんです。
結構ね、嘘っぽいのが嫌で。
で、発想を変えることにしました。
レギュラーの悪役をつくろうって。
何年かかるかわからないけど、努力します。
期待しないで、待ってて下さいね。
では。

ところで、みなさんもぜひ一度、探偵小説を書いてみませんか? 誰でも書けそうなところが、探偵小説の良い所です。
気軽にトライだ!

(うーん、なんだお前は……。いってることと、やってることが……バラバラだよう)

(1993.3脱稿/初出・Narihara Akira編『のんしゃらんと第6号』1993.3)

「探偵小説の志−−北村薫&大沢在昌論」

0.真実の探偵小説ファンに、逢いたい。

みなさん、お元気でいらっしゃいますか。
一年のこの時期恒例、Nariharaの探偵小説弁護の時間がやってまいりました。皆さん、御静聴よろしくお願いします。
え、こんな企画はいい加減やめて、推理小説専門の同人誌に書け、って?
そうです。私も常々そう思ってます。それに、実際に書くこともあったりするんですよ。こういうのは、探偵小説専門のファンジンでやるべきです。が、私はやっぱり『のんしゃらんと』で書くのが好きです。安心して、書けるので。
専門誌って、こわいんです。

え。
何がこわいのかって?
いや、だって、専門誌ってマニアの集まりでしょう?
だからです。
あの、もちろん、普通のファンジンをやってる人は、本当に立派な人が多いです。理性も分別もある方達が、良心的な本をつくっています。それには本当に頭の下がる思いがします。
でもね、どこにも、ヘンな人って、いるでしょう?
駄作は確かにこの世に沢山あるけれど、ワザワザそれを取り上げて、細かく下らなくケナす人。付き合いのマナーを無視する人、心ない人、見栄っぱりな人、机上の空論をふりかざす人、虎の威を借りたがる人。
別に、それはそれで、いいのですが。
ただ、それらに混じるのに、私、ちょっと疲れちゃって。

いや、私も相当偏った探偵小説読みで、クズみたいな文章ばかり書いてますし、こんな所で延々と他人の悪口を言うのはあまりよろしくないからやめときましょう。
それに、私の目指してる方向を狙って、成功したり評価されたりしてる作家さんが、ちゃんといてくれるんですから。私の怒りがないものねだりでない、という事を立証してくれる人が、いるんですから。
そっちを、向きましょう。
寓意とロマンス、詩情と感傷、それら美しい要素を含み、読み物として一応の合格点をあげられる探偵小説。しかも、個性とプラスアルファをもつ作家が、いるんです。育ってきて、いるんです。
探偵小説も、日本の作家も、まだまだ捨てたものではありません。嬉しい事です。
今回は、そういう発展途上の作家から、二人の作家を選んで、書いてみたいと思います。
北村薫。それから、大沢有昌。
それでは、未読の方も、既読の方も、しばらくの間、下手な口上におつきあい下さい。
はじまりはじまり。

1.北村薫、詩情作家としての面目

北村薫。
この人の本は、探偵小説といっても、ほとんど童話の世界です。
すごく、キレイゴト。ごくさりげない日常の、ほのぼの。繊細にすぎる人情話で、甘いことこの上ありません。
しかし、彼の文体の美しさや、筋立ての暖かみは、確実にファンを捕らえつつあります。あちこちの雑誌で評価されているのを見ますし、結構広いファン層を持っているのかもしれません。とにかく、品の良さでは、現在の日本探偵小説界では、右にでるものはいません。
その点だけでも、薦められます。
年頃の少女の心理などをロマンティックに細かく描いて、嫌味をかんじさせないオジサンの手腕というのは、大したものです。

しかし、私が北村薫を推すのは、それだけの理由ではありません。常に彼が、日常生活に忍び込む魔、を選んで書いているからです。
彼の作品は、全くスタンダードな日常の中に、事件が進行します。他の人間が見過ごしてしまうささやかな異変の中に、事件が潜んでいます。ケレンは、ほとんどありません。推理の過程が短く、いかにも離れ業なので、ビックリすることはありますが、事件や登場人物に驚く事は、まずありません。
え?
そんな作品を書く作家は、他にもいるじゃないかって?
いや。
実は、北村薫のスタンスは、かなり特殊なんです。普通は、彼の扱い方でこの手の作品を書くと、地味すぎて読めないでしょう。小説としては、まず読めません。
それが、なぜ、鑑賞に耐えうるのか。
それは、美文で綴られているからです。甘いからです。
読みとばすのがもったいないくらいの、詩的な文章。そして、優しい優しい登場人物。それが、一つの確固とした世界を形づくっているので、読めるんです。
いいなあ。
私には、このスタンスはうらやましい限りです。同じような事を、拙作「るすばんこまち」等で試みている訳ですから。成功して、なおかつ独自の路線を走っている彼は、まことにうらやましい。いささか日本文学への傾斜がキツイと感じられる時もありますが、逆に強味にしている、とも思います。一つの個性、として。
だから、ちょっとだけうらやましいのです。私は文章がうまくないし、登場人物はあのとおりヒネてるし、私が同じ話を書いても、おそらく絶対読者に味方してはもらえないよな、と思った日には。

ところで、私が初めて北村薫を評価したいと思ったのは、去年発行された『冬のオペラ』を読んだ時でした。それまでも、読んではいましたが、人に薦めようとは思っていませんでした。いや、彼はようやく、ここでやっと薦められる所まで来た、という事なんですが。
え? じゃ、今まで誉めていたのは何だ、って?
いや、今まで誉めてきた所は、まさしく北村薫の美質で、デビュー当時から発揮されてきていました。でも、正直な所、探偵小説としては、いささか物足りなかったんです。
ところがこれ、『冬のオペラ』には、彼なりのアクセントがつけられていて、「ああ、なんだ、成長してくれたんだなあ」と思えた訳です。
そのアクセントとは、キャラクター。
こいつは凄いぜ。聞いて驚け。
「人知を越えた難事件を解決します」という看板を掲げた、世紀の名探偵、巫(かんなぎ)弓彦、その人です!

あ。
そこの貴方、笑いましたね。
そう。実は、ここでプッと笑うのが、正解です。それが正常な反応です、ハイ。
え、そんな探偵、アチコチにいるじゃん、なんで今更笑わなきゃいけないの、という貴方、これに関しては不正解。
こういう看板を掲げながら、ああいう地味な事件を扱う奴は、他にそうそうおらんですよ。
あ、ちきしょう。思いだしたら、ニヤと笑っちまったい。
いや、名探偵カンナギユミヒコ氏は、決してお笑いではないんですよ。事件も、お笑いじゃないんです。
でも、大真面目、というのとも、違うんだよね。
そこらへんが微妙で、ちょっと変わった存在で、面白いトコ狙ってるな、評価したいな、と思ったんです。

北村薫の書いてきた探偵役は、今までもちょっと変わったキャラクターでした。最初のシリーズ物の探偵は、なんと落語家さん。
この人は円紫さんと言って、新進気鋭の若手落語家さんなんだけれど、決してお笑いでなく、紺のセーターの似合う、爽やかで心優しい青年。ほとんど少女漫画のノリ。控え目な美形で、それでいて、世の中すべてを見通したような、悟った青年。
それって凄くイヤミなんじゃないか、と思われるかもしれませんが、それが全然イヤミでない。これが、北村薫の手腕であって、ちょっとばかりカッコイイんです。
でも、これはどうにも地味でした。
それで、北村薫も考えたらしく、二重人格の過激なお嬢様を、探偵役に据えた事もあります。
『覆面作家は二人いる』。
これは確かに、いささか派手でした。明るい笑いの部分もあり(基本のお約束を満たしている)、そういう意味ではある程度は成功していた、と思います。
でも、これもやっぱり地味すぎました。パンチ不足。
その次のステップとして登場したのが、実に人を喰った男、カンナギユミヒコ氏であった訳です。
ええ。
人を喰ってますですよ。
彼は名探偵なんですが、人知を越えない事件は引き受けないので、暇な時は一生懸命バイトしてるんですが、やっぱりほとんど暇な訳です。というか、全然仕事なんてこないんですよ。でも、彼は全然慌てません。ちゃっかり、秘書嬢なんかも、いたりする。
いいでしょ?
基本路線のお膳だては、バッチリでしょ?
そう、北村薫に必要だったのは、こういう、お約束のアザトサだったんです。それが、カンナギ氏をもって、ようやく出てきたんです。

カンナギ氏の路線には、先輩がいます。
私の乏しい知識の中でも、新旧とりまぜて、こういう探偵役が何人かおりますが、ふっと想起されるのは、泡坂妻夫の「亜愛一郎」とか、別役実の「X氏」、ここらが近いんじゃないでしょうか。
亜愛一郎は、あれは完全に笑いを狙った人です。チェスタトンの書いたガブリエル・ゲイルのパロディに過ぎない人だからしょうがないんですが、そんなこと知らなくたって、誰でも笑いますよ。なんたって正体が、南の国の王子様、だもんな。舞台は現代日本なのに。まあ、ガブリエル・ゲイルも御貴族様だからなんでしょうか。
で、亜と比べて、カンナギ氏はどうか、というと、私はカンナギ氏に軍配をあげます。
だって、カンナギ氏の方が、品がいいんだもん。泡坂氏、探偵小説書いてる時、結構品がないんです。それがイヤで、だんだん読まなくなっちゃったんで。……こういうの、感情的に過ぎる判定でしょうか?
それから、別役のX氏。
別役実は劇作家であり、探偵小説家とはいわくいいがたいですが、不条理なスリラーを書かせたら、そこらの作家が束になってもかなわない人なので、いれさせて下さい。
別役の書いた『探偵物語』(ちくま書房)にでてくるX氏は、非常に変わった男です。彼は探偵です。彼の住む街に、探偵は彼しかいません。X氏が探偵だということを、町中の人間が知っています。ですが、じゃあ、探偵を頼もう、という話になった時、誰もX氏を思い浮かべないのです。それはX氏が無能だからではなく、みんなの頭の回路の中に、探偵はX氏、という考えが入っていないからなんだそうです。
X氏の存在、というのは、ほとんど詩のようなものです。彼の扱った「夕日事件」はたとえようもなく美しいので、この話だけで、X氏は日本探偵小説に残っていい、と思っているくらいです。
それなのに、カンナギ氏と比べると、私はカンナギ氏に軍配をあげます。
何故って?
それは、品がいいから。

品がいいのは七難隠す。
皆さん、北村薫にそろそろチェックをいれておきましょう。
もしかして、バケるかもしれませんから、ね。

2.大沢在昌、この古くて新しい正義漢

大沢在昌は、やはりサメを読みましょう。とにかくサメ。まあ、損はしないでしょう。エンタティメントらしいエンタティメントを味わおうとするなら、サメを読んでみましょう。
え?
まさか、サメを知らないんですか?
だって、去年映画にもなったし、今年のアタマにはシリーズ四冊目が直木賞をもらったでしょう。(後注/この文章を書いた直後にTV化もされました)
そう、『新宿鮫』です。
あれも流行物で、あちこちでいろいろ書かれてますから、逆にあんまり誉めたくないような気もするんですが、やっぱり良い所があるんで、私なりに応援したい、と思います。
面白いです。これは。
正直言って、ヤラレタ、と思いました。うまく目先をかえている。いや、私だって、この視点で警察物を書こうと思えば書けなくもない、と思いますが、でも、これにはかなわんでしょう。
サメはね、昔懐かしい正義の味方なんです。お笑いでなく、マジな。純粋で、これ以上ないほどまっすぐな、傲慢に他人を裁かない、素晴らしい正義を目指す人です。でね、驚くほど斬新なヒーローだったりもするんだ。きっと作者の誠実な人柄と、発想のほどよい甘さ加減が、題材にマッチした結果なのでしょう。

サメは刑事物です。巷では、ハードボイルド、とも言われています。
私は普通、こういうレッテルが貼られた本は、読みません。偏見を承知であえていうなら、普通の刑事物は、ステロタイプで貧乏臭いのです。中には突拍子もないお笑いの物もありますが、どれもほとんど面白味が感じられないので。海外のものも、渋すぎて今一つ、というのが多い。まして、ハードボイルド、なんて言われた日には! 私、男のヤセ我慢、大嫌いです。負け犬のくせになに気取ってやがる、とカツを入れたくなります。メソメソしてる奴なんて、論外。
でも、サメは、そういうのと一味違う。

サメ、こと鮫島警部は、エリートです。育ちがいい。頭もいい。若い、優秀な警察官です。
でも、えらい逆境にいる。過去にいろいろ組織内でありまして、公安の内紛の巻き込まれまして、殺されかけて。本当は警察なんかやめちまいたいほど追いつめられているのです。孤立してます。現在も命の危険があり、同僚にも気を許せません。
普通なら、彼は組織を抜けるでしょう。でも、彼はやめません。孤独な一匹狼である方が、ずっと楽なのに。楽になって、「ああ、物騒だった」とため息をつき、自分の生き方を新しく気取る事だってできなくないのに、それでも彼は、やめません。
それは、彼が、公務員として、自分の仕事に誇りを持っているからなのです。警察官の仕事を、世の人間に必要な正義だと信じ、それをまっとうしたい、と思い、守るべき規則は、徹底的に遵守して生活しています。つまり、彼は前向きなカタブツなのです。しかも、型破りなカタブツとして、押し通しています。だから、彼は、意地でも警察をやめません。決して妥協せず、コツコツと自分の仕事をこなしていきます。まだ充分若いのに、なかなか立派な偏屈君でしょう?
しかも、彼は人に迷惑をかけない。組織で遂行する正義というのは、とかく犠牲を伴います。偏った犠牲を、やむをえずに生んでしまう事があります。汚い取引をしなければならない時も、あります。
鮫島は、それを徹底的に拝そうとします。できることは、無茶でも独力でやり、できない時は、最低限の助力で、事件を解決していきます。
これが、本当の、筋の通った、正義です。
優れた、新しい、ヒーローです。
ああ、そんなのキレイゴトさ、お話だからね、と思います?
私は、そうは思いません。
他の人間は駄目でも、鮫島ならこれが可能だろう、と思わせるだけの、リアリズムがあるからです。それに、味方もいます。課長の桃井(この人は本当にオイシイおじさん)、観察医の薮、恋人で歌手の晶。周りにこういう理解者がいることで、優れた彼ならば、やってやれないことはないんじゃないか、と思うんです。
私も、公務員であるからには、こうありたい、と思うもの。
よくぞ、ここまで言ってくれた、現場の人間の良心を、よく書いてくれた、と思います。
そういう、筋の通った力強さが、あります。

実は大沢在昌は、組織という形に入った事がないそうです。
ちょっと、意外でした。
きちんと資料を収集して、勉強して書いているゆえの、説得力なのでしょうか。現代的なセンスと、エンタティメントの特質については、よく把握している作家だ、というのは、感じます。ネーミングの遊び心も、洒落てるな、と思います(あえて、狼でなく、鮫、というあだ名をつけるとか。医者にヤブって名をつけたり、狂気の犯人に木津/キズ、なんて名をつけたりね)。
そして、大沢在昌の新しさは、鮫島警部だけにとどまりません。その相手役とある、犯人像が面白い。
こういう警部なんですから、相手はギトギトな極悪非道な奴でいいんです。そういう形をとった方が楽で、格好もつく筈です。
しかし、あえて、大沢在昌は外してきます。
サメの追う犯人は、おそろしく現代的な悪人です。ものすごく脆弱な、誰かの手に救いを求めているような、外国人や若者や女性だったりします。
そこにも、また、すごくリアリティがあります。ああ、こいつなら、ふっと悪いことするかもしれない、自分が悪いとあまり思うことのないうちに、深みにはまって破滅していくかもしれない、と思わせるようなキャラクターをさりげなく設定するんです。
うまい。
そう、犯罪者というのは、本来そういうものの筈です。
とりたてて、異常者というような者では、ない筈。
作者が犯人に対して向ける目が、暖かい事に気付いたら、見えてきます。本当は、何が悪で、何が正義なのか。本当は、何を信じて、どう行動すべきなのか。
そういう主張が、わあっと浮かび上がってきます。
うまいです。

え? 確かにヒーローらしいけど、昔懐かしくはないって?
そういう人は、黙って、サメの既刊の四冊を読みなさい。
読んでいるうちに、これがいかに時代劇の世界か気付くでしょう。物語の骨子が、お家のために犠牲になりかかった武士が、自分の刀と知恵だけで逆境を切り抜けていく、という(まるで「腕におぼえあり/用心棒日月抄」)形であることが、見えてくるでしょう。もちろん彼は、お家断絶にならないよう、自分も死なないように、努力する。感情移入した読者が、ハラハラしながら、応援する。
そういう形の、オーソドクスなエンタティメントなんです。こういうものは、所詮ツクリゴト、であっても、面白いものなんです。さあ、皆さん、騙されてしまいましょう。

私も大沢在昌はサメしか読んでないので、断言はできませんが、彼もバケる可能性があるので、一応チェックしてみましょう。現在、『新宿鮫』『毒猿』『屍蘭』『無間人形』ときてます。前三冊はすでにノベルスになっていますし、直木賞のあおりで、図書館でも本屋でも、捜すのに苦労する、という事はない筈です(これ以降、九八年年末までに、さらに二冊が書き下ろされています)。
未読の方は、チラ、とでもどうぞ。

そんな訳で、二人の作家を紹介させていただきました。
皆さんも、時々は、日本の推理小説、見直してあげてください。有栖川有栖なんかも、いささか地味ですが頑張ってるらしいですし、女流の方もガンガン飛ばしてるようですし。
では。

(1994.3脱稿/初出・Narihara Akira編『のんしゃらんと第10号』1994.3)

「『犬神博士』夢野久作」

私の読んだ本、の題で「のんしゃらんと」に書くのも、これで四回目になる。
正直言っていろいろと悩んだ。初回の『敵は海賊』の時は、以前書いておいたものに手を加えたので、それなりの論文になったとは思うのだが、それ以降、鳴かず飛ばずである。このタイトル、他のテーマより、意外に難しいらしい。対談記録で『スカラムーシュ』の事をヒョイと書いてしまったが、後で「う、アンドレ・ルイでも書けた、失敗した!」と思ってしまったあたり、なんと貧乏なひきだしの持ち主だろうか。読書不足極まれりだ。
とにかく、今回もロクなものが書けそうにない。
それで、夢野久作の『犬神博士』を取り上げて、お茶を濁すことにしよう、と思う。

夢野久作という作家そのものについては、私は書くことがない。ユーモラスで猛烈な疾走感のある文章と、大変な生真面目さと力強い構成力を一体にあわせ持つこの作家、評価されて当然だ、とは思う。情念の深い屈託が秘められている難解な作、爽快かつ詩美に溢れる読物的な作、それぞれバラエティに富んでいるので、マイナーなものもそれなりに面白く、独自の路線を守った異端作家として恐れられるより、もっと素直にエンタティメント性を読まれていいのに、と思う。ただし、偉そうな事を言いながら、私は彼の業績の半分も読んでいないし、興味深いが読みとおせない某超有名作もあるし、彼の生い立ちや背景にも興味がないので、やはりこれ以上書けない。
そこで簡単に、ポピュラーな作の中で、好きな創作ベスト3をあげてみようと思う。こういうのが、好みや立場が一番読者にわかりやすく、てっとり早いだろうと思うので。他にもよい作品が沢山ある、なんでアレをあげないんだと叱られるかもしれないが、私はわかりやすくて楽しいものが好きなので、以下を挙げさせてもらう。
3位、パロディ精神を駆使し、孤独の心情を珠玉に磨き上げた詩編『猟奇歌』、2位、犯罪事件の本質と素朴な人情をぎゅっと凝縮して描いた連作『いなか、の、じけん』、そしてベスト、超ローカルなものを扱いながら普遍的娯楽大作となりえた『犬神博士』。
そう。
『犬神博士』を最初に読んだあの夜の事を、私ははっきり覚えている。
大学四年の夏だった。
その年、家の建て替えの関係で、私は妹と二人暮しをしていて、同じ部屋にぶっちがいに寝ていた。その夜、なんとなく寝つけなかった私は、布団から乗り出し、ふすまを半分しめると、隣の部屋のあかりを小さくつけて、図書館で借りてきた『夢野久作全集』をこっそり読み始めた。
すぐ眠るつもりだった。睡眠薬、ナイトキャップのつもりで開いた本だった。いつまでもあかりをつけていると、妹も目をさましてしまうかもしれない。キレのいいところで早めにやめよう、と思った。
だが、手がとまらない。目が、活字を追って走る。息をつめて読み続けた。熱中のあまり、小説の終わりまで時計を見るのを忘れていた。ページを閉じた時には、夜中の三時をまわっていたが、充実感が先にたって、眠気もとんでいた。
なんだコレ。
すっげえオモしれえじゃねぇか。
そう呟くしかなかった。
本を読む幸せとは、こういうものではなかったか。
こんなに読書に我を忘れ、ワクワクしたのは、実に久しぶりの事だった。むしろその時は茫然としていたかもしれない。
この、痛快無比な弁舌の数々。登場人物の強烈な躍動感。流れ流れる主人公の運命。荒削りな部分もあるが、夢野久作の個性を十二分に溢れさせて、しかも、かなりわかりやすい筋立て。
名作だ。
完全無欠のエンタティメントだ。
どうして誰も、これを教えてくれなかったんだ。
その日私は、「夢野久作を読むなら、『犬神博士』を読みなさい」と宣伝しよう、と心に決めた。
その思いが、今、この原稿を書かせているのである。
それにしても、この本には勝てない。チラとでも冒頭から読み返すと、「へん、考えてみりゃそんなに珍しい話じゃなし、別にそこまで誉めるほどのもんでもないじゃないか」と思うのだが、結局ついつい、最後まで読んでしまうのである。万歳お手あげ、すみません、である。

とはいうものの、これから先を書くのは難しい。
本当は、筋を話したい。長所短所を含めて、全ての面白さや問題点を、洗いざらい伝えたい。だが、それではこれから読む方に対してかなりムゴイことになるし、あまり適切な紹介になるとも思えない。
そこで、要点を絞って、最大の魅力だけを語ろう。
主人公のストレートさ、カッコよさを、である。

主人公のチイ少年は、常に完璧な正論の持ち主である。目からどさどさウロコの落っこちるような論理を、どこでもズバズバ言いのける。いつもまっすぐに物事を見すえ、まやかしや嘘に騙されない。大胆な行動力と潔さで、どんな大人にもヒケをとらないが、別に生意気な訳ではなく、心根は素直で美しい。洒落も使える少年だから、最初は眉をひそめる相手も、最後は彼に笑わされるし、泣かされる。
しかも、これは平凡なお涙頂戴、賢く優しい少年の、有徳の物語ではない。チイ少年はキレイゴトですまされない生い立ちの持ち主で、捨て身で戦っても自暴自棄にならない、非常なタフネスだ。正義感も強いが、義理人情や大人の価値観に流されないので、決断すれば悪い事だってへいきのへいざ、くだらないことはためらいもせず、すべてドカンとぶっとばしていく。
『アルジャーノンに花束を』のチャーリーが、その生き方のケナゲさで読者の涙を絞るとしたら、『犬神博士』のチイ少年は、その痛快さで、胸のすくような思いを味あわせてくれる。最近の小説ではついぞ見られない、深い娯楽性と生命力のを感じさせてくれる主人公なのだ。
マジで、カッコイイんだ。

『犬神博士』は、三一書房の全集でも読めるけれど、ちくま文庫でも出ているので、本屋でみることができると思う。
ただ、その場で立ち読み、はやめた方がいい。
本屋の店員に肩を叩かれて、「もう閉店時間です」と言われるのは、誰でもキマズイだろうから。

(1994.12脱稿/初出・Narihara Akira編『のんしゃらんと第13号』1994.12)

「南洋一郎の『三十棺桶島』」

前に「のんしゃ」の座談会でも話しましたが、南洋一郎が好きです。
今でも子供用の図書室には、ルブランと乱歩がつきものですが、ルブランの子供向け翻訳は、やはりあのポプラ社版の南洋一郎にとどめを刺すと思います。
彼はね、もともと小学校の先生だったんです。それで、説教訓話みたいのから書き始めて、子供のための小説に手を染めて、いつしか物書きになった。本当にね、死ぬその当日の朝まで、子供達のために、ルブランの翻案をやってたんだという逸話が残っています。私の尊敬する人の一人です。
実は、幼い頃の私は、特にルブランのファンではありませんでした。『奇岩城』『8・1・3』なんかも、読んで面白かったんですが、それはそれ。高校の頃、ルブランが面白い、という知人がいて、おや、そうかい、と家にある保篠龍緒訳を読んでから、その魅力を再確認したという程度。あの頃は、丁度懐古趣味に走りだしていたので、その熱と重なって面白く感じたのでしょう。ルビがキラキラ、熱の籠った流れるような古めかしい文章の楽しさ。大好きです。
でもね、『三十棺桶島』だけは、南洋一郎です。
これじゃないと、納得しない。
彼の切り取り方が、凄くうまいから、好きなんです。

子供の本って、難しいですよね、本当に。特に翻案って。
私は『雨月物語』の「菊花の契り」が非常に好きです。それは、子供の頃読んだ昔話集に入っていた形が、すごくすっきりとわかりやすい形だったからです。
イントロがいいんですよ。秋の夜。月も傾き、墨を流したような暗闇の中、じっと家の戸口にたって、ひたすら人影を待つけなげな青年の姿。そこへ、一種異様な雰囲気ではありますが、どうやらひたすらに戻ってきた兄の姿。
それは、この日に帰って来るという一つの約束があったからで、母にどんなになだめられても、決して兄を信じて疑わなかった弟の心持ちが、直に迫って来る。その弟にこたえて、死んで魂になってでも帰る、という兄の気持ちもよくわかる。
大きくなって原典訳を読んで、実は二人は実の兄弟でなく、真実の友情を描いた物語であって、様々な付録がついている、と知っても、私には、最初に知った形が焼き付いているのです。あれはよかった、と。
子供向けの本は、それが無駄の無い、原作のエセンスをぎりぎりまで凝縮したものであればあるほど、いいんですね。もちろん、原作の方がよりいい、という話も沢山あります。(バーネットの『秘密の花園』とか)でも、心地よい、子供のために書き直された本というのは、やっぱりあっていいと思います。それが、私にとっては、『三十棺桶島』だったのだと思うのです。

これもイントロがいい。不思議な、美しい始まりです。
少しばかり年のいった上品な御婦人が、ある田舎の村にたたずんでいます。先日、気晴らしに見に行った映画の中に、自分が少女時代に使っていた独特のサインがうつっていたためです。なぜこんなことが、と撮影された村をたずねてゆくと、自分のサインがあちらこちらに記されています。思わず、彼女はそれを追っていきます……。

理屈、整合性、伏線、そんな小難しい事は、すれっからしの大人のためのもの。ただ一つだけの不思議、それに強く魅力があれば、どんな力業も、幼い子供は受け入れてしまうのです。糖衣のかけられた風邪薬を、すんなりと飲むように。
保篠訳は、主人公ベロニク・デルジュモンの結婚当時のスキャンダルからスタートし、映画の話も、卑しげな探偵ジュトレイリの調査報告が目立って、おやおやと思います。(いや、それはいいんです。私、このジュトレイリさんは好きだから。『三十棺桶島』のキャラってみんな凄く好きで……ルブランの描く人間って、躍動感があって面白いんだもん)
そして、南洋一郎は、このコウトウムケイの物語を、おいしいところだけ拾って、うまいことアチコチを綴りあわせ、そのハラハラドキドキに甘いめくらましをかけていきます。
たどりついた廃屋での怪老人の死体。残されたのは呪いの言葉、そして、謎の「三十棺桶島」という言葉。人を生かし、また、殺す石、という謎かけ。(これはラジウムの事。時代、ですよねえ。科学読物みたい。私が小学校の頃は、原子力発電なんて、ねえ……の時代だったんですよねえ)決死の思いで渡りついた島で、自分の息子そっくりの少年と謎の男がおこす大量殺戮劇。必死に逃げながらも、利口な犬に助けられて、岩屋に閉じ込められた生き別れの息子と、初恋の人にあうベロニク。(ここも大好き。お互い、相手の声と手しか見えなくて、それでも親子なんだってわかって、息子が泣くのね。「ママ、ママ!」「フランソワ!」そういって感きわまる二人。十二歳にもなって「ママ」もねえもんだ、とも思うんだけど、それでも好きなんだよう。浪速節だというなかれ。人情話は万国共通!)
そして、危険な目にあう彼らを救うべく、さっそうとして現れるのは、希代の大盗賊アルセーヌ・ルパン。ドン・ルイス・プレンナという偽名を名乗り、母国フランスのため、この島にラジウム鉱石の秘密を探りにやってきていた彼は、諸悪の根元、アレクシス・ヴォルスキーの企み、を様々な機知をもって打ち砕くのです。望みをことごとく打ち砕かれた彼は、それでもラジウム鉱石を持ち帰ろうとして大火傷をし、哀れ息子レイノルドと海に落ちて死んでしまいます。
勧善懲悪。めでたしめでたし。
ああ、面白かった。満足満足。

実は、保篠訳では、ヴォルスキーは死なないんです。逃げてしまう。(悪党だから、逃げても当り前ですが)でも、レイノルドは、もっとずっとかわいそうなんです。必要がなくなったら、ベロニクを脅かすためだけに、父親に刺し殺されてしまう。ひどい。ヴォルスキーの前妻エルフリーデは、どちら版でもかわいそうであって、誤解によって夫の手ではりつけにされ、殺されてしまうのですが、それはそれとして、やっぱりアレクシスとレイノルドの最後は、納得できない。せっかくの、熱血愛国物語+波乱万丈お涙頂戴物語なのに、なんでなの?
そう、思ったものです。
ストーリーなんて強引で構わない、むしろ無理矢理ぴっぱっていってくれ、と思う私ですし、いつもハッピーエンドであってくれ、とは思わない私ですが、あれは納得いかなかったなあ。
いかに、ポジティブでフレキシブルで、ただのキレイゴトで終わっていない南洋一郎版が、心に深く刻まれていたか、と、今更思います。
機会があったら、皆さんも例の片眼鏡の紳士に挨拶してみる気はありませんか?

(1993.12脱稿/初出・Narihara Akira編『のんしゃらんと第9号』1993.12)

「意外な結末って何?」

最近、個人的な必要に迫られて、翻訳ミステリを何冊か読んでみました。
実は私は翻訳物が苦手であまり読まない人間なのですが、ここしばらく推理小説から遠ざかっていたこともあって、結構面白く感じました。
新しいところでは、『捜査官ケイト』(ローリー・キング/集英社文庫)が良かったです。女性警官物ですが、肩肘をはったところがなくて、続編も楽しかったです。新人のせいか素人っぽくもたつく所もあり、結末もお約束といえばそうなのですが、キャラが立っているというか、出てくる人全員を応援したくなるというか、読むと幸せになれる小説なので、評価したいと思うのです。翻訳も品がよくて、つっかえずに読めましたし(訳者さんには、せめてドイルとブラッドベリは読んでてもらいたかったですが……「その晩犬は何もしなかった」とか『火星人日誌』はないよ、と)。
あと、新しくはありませんが、マーガレット・ミラーの『ミランダ殺し』(創元推理文庫)も楽しかったです。タイトルそのものが伏線になっていて、それが最後の一行で見事に生きるのは、久しぶりに「やられた!」という感じがしました。
ただし、よく考えればありがちな話ではあります。それをツルツルと最後まで読めたのは、構成の妙に加えて人物描写のうまさのせいです。出てくる人間がみな善人ばかりでないにも関わらず、生き生きとしていて嫌味もない。しかしこれはベテランの作者だからできる業、素人には真似のできない書き方で、私なんかはハハアと頭を下げてひれ伏すしかないのでした。
あと、うんと古いものになりますが、『EQMM(エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン)』の日本語版複刻(早川書房)も面白かったです。昔の推理小説って趣向が楽しいですし、ロマンスを馬鹿にせずロマンティックな要素として巧みに取り込んでいるので、キャラクター的への興味をひくんですね。
当り前のようですが、人間が描けていて、読み手を引き込む構成力や雰囲気があれば、その小説はやはり面白いのです。

そこで私は、ハタ、と考えました。
推理小説の大事な三要素という理論をとく人から、《奇怪な発端、緊密な論理の展開、結末の意外性》などという言葉が出てきますが、果して《結末の意外性》って何なのかしらん、と。
必要だとは私も思うけど、いったいどんなもの?と。

推理小説に限らず、読者を引き込む不可思議なイントロと、そのまま読者の興味を引きずってゆく力強い構成は、エンタティメントにはかかせない要素です。娯楽物は最後の最後のページまで、お客様に楽しんでいってもらわなきゃならないのですから。
しかし、意外な終わり方、というのは、これはいったい何なんでしょう。読者の期待をいい方向へ裏切る、という事なのでしょうか?
勉強不足の人間がこんなことを言うのもなんですが、皆さん、そんな推理小説に出会ったことがありますか? 思うに、意外な結末、というのはおおむね、茫然とするようなお粗末な終わり方や、後味の悪いオチではなかったでしょうか。
私自身、結末のつけ方が下手な素人作家ですが、昔の推理小説なんかは特に、「今のは一体なんだったんだ?」というオチが多かった気がします。結末なんて、人情話でもお約束でもいいのに、無理にひねろうとしたために訳がわからなくなってしまった、というような。
意外な結末って、なんなのでしょう。

物語というものは何か。
何のために存在するのか。
この問いの答は、作者にも読者にも簡単に出せるものではありません。その時の気分によっても違うでしょうし、十人の人がいたら十人が違う答を出す筈です。
つまり、こういう結末が正しい、というものはない筈です。後味の悪い、ひねった結末が好きな方もいるでしょうし、後味はいいけど悲惨な結末が好きな方もいるでしょうし、後味の悪いハッピーエンドがたまらなく好きという方もいるでしょうし、スカッと何もかもすっとばした結末がいい方もいるでしょうし、新味はないけれどきっちりと定番を押さえた終わり方に満足される方もいるでしょう。要は作者がその終わり方を選んでよし、とし、読者もそれをよし、とすれば、何の問題もない筈です。

しかし、意外な結末、というのは、これらのどれにあてはまるのでしょう。「やられた、騙された!」と悔しがりつつ気持ちのいい結末は、読者に何を与えるのでしょう。
そういうことを考え出すと、推理小説というのは非常に特殊な形の小説に思えてきます。もちろん、他のジャンルの小説や映画でも、「しまった、やられた!」という終わり方のものはありますが、その後それなりに穏やかにしめくくられるのが普通です。やはり最後のドンデン返しというのは、推理小説というジャンルに一番強く求められているように思うのです。
しかし、それを本気で追求している物書きは、果してどれくらい存在するのか。
それを成し遂げた作家はどのくらいいるのか。
なんだか、かなり少ないような気がするのですが。

え、そんなこともないでしょうって?
では、ちょっと教えていただけませんか。
本当に面白い、意外な結末を。

(1996.3脱稿/初出・Narihara Akira編『のんしゃらんと第18号』1996.3)

「まぼろしの城の主−−怪盗紳士乱歩先生」

「乱歩先生」
日が暮れて物寂しくてどうしようもなくなったので、彼の芝居小屋をつい訪ねてしまった。
「おや、久しぶりだね。いらっしゃい。今日は何を見たいんだね」
穏やかな笑顔で迎えてくれたのは、ここの主人の乱歩先生−−若い頃は相当の美青年だったというが、今ではすっかり円熟した貫禄を見せる、黒縁眼鏡に着流しの老人である。自分の芝居小屋に幻影城などという茶目な名前をつける、詩人肌の紳士である。
「いえ、見せ物はいいんです。ただ先生の顔が見たかっただけで」
心が弱っていたので、つい失礼な事を言った。先生は、見せ物を見せるためにここにいるのだ。誰彼の愚痴をきくために待っていたのではない。
しかし乱歩先生は、構わないよ、という風にうなずいた。
「立ち話もなんだから、そこに座りなさい。さあ」
先生は私を小屋の隅に座らせると、見せ物の台の端にあった急須をとりあげ、白湯をついでくれた。
「気のきいたものもないが、ゆっくり休んでいきなさい」
「すみません」
私は湯呑に口をつけた。
「おいしい」
普段なら、ただのお湯などさして美味いと思わないだろう。しかし、乱歩先生の魔法は湯水にまでかかっていて、私は一気に渇きを癒された気がした。
「いや、世辞はいらないよ。ただの白湯だ」
そう言いながらも、先生は嬉しそうに笑った。豊かな頬に、子供のような無邪気な照れを浮かべる。この人は、誉められるのがなんでも嬉しい。本来は慎ましい人なのだが、自己顕示欲は人一倍あって、ちょっと認められただけでも有頂天になるのだ。もちろんその逆も真で、自己嫌悪に陥った時はどん底までおっこちる。繊細だが極端な人なのだ。
「いえ、先生にいれていただくと、白湯でもこんなにおいしいんです」
「そうかい、それならいいんだが」
彼は見せ物の人形に触れ、小道具たちに目をやる。落ち着いたらひとつ、昔懐かしい芝居を見せてやろうというつもりらしい。
手づからそれを見せてもらえるのは、実はご馳走をいただくよりも有難いことだが、今日は腹が減っていない。それよりなにより、私は一服の清涼剤が欲しくてきたのだ。ここしばらくの慰めになる言葉をもらいたくて、きたのだ。
「先生」
「なんだね」
「私もそのうち、見せ物小屋をやろうと思っているんです。先生がつくったような、立派な見せ物を」
先生は薄く笑った。
「おやおや、私のは子供騙しだよ」
子供騙し――それは乱歩先生の悪口を言う時に散々きかれる言葉だ。
私はこの言葉が不思議でならない。子供がいうならおかしくないが、これを大人までが言うのだ。皆、子供の頃にどんなに先生の世話になったか、すっかり忘れてしまったのだろうか。大人になって読んで、なんだ子供騙しだと怒るなら、こんなに子供っぽい話もない。第一、乱歩先生は、いつも最初の口上で、子供騙しだということをあれだけはっきり宣言しているではないか――「さあ、これから皆さんをうんと怖がらせてあげましょう。ただし、そんなに悪いことは絶対に起こらないから、安心して楽しんでいらっしゃい」と。
これがあるから、偽物はすぐわかる。良い子には許しがたいような悪人や犯罪が出てきたら、それは乱歩先生の見せ物ではないのだ。一見こわがらせに見せながら、淡い恋愛や不思議な理知の光や人情の暖かさに満ちた軽やかな世界が、乱歩先生の見せ物の正体なのだから。
出来のいい子供騙しくらい、素晴らしい娯楽が他にあるか。
「子供騙しでいいんです。私も子供を騙せるようになりたいんです」
すると、乱歩先生は眼鏡をキラリと光らせた。
「おやおや、大人も騙せないうちから、子供を騙そうというのかい」
「……すみません」
とっさに謝る。青臭い事を言ってしまった。出来もしないのに、やってもいないのに、なにが子供を騙したい、だ。
すると、乱歩先生は奥の掛軸を指さした。
「あなたは、あれをどう思う」
そこには、先生の言葉――《うつし世は夢、夜の夢こそまこと》が、墨痕鮮やかに書かれていた。
「私は、あの言葉は字面通りの意味だと思いません」
「字面通りというのは?」
「現実ははかなくて空しいけれど、虚構は人の魂の真実を縫い止めると」
「おや、それだけの意味ではない、と?」
先生は不思議そうな顔をした。それで充分な答だとでもいいたげだ。しかし私は続けた。
「はい。何をつくるにも、ただ生きてゆく時も、夢をもちなさいということだと――現実の中にさえ夢を見、夢のなかにも真実を見て生きてゆきなさいということだと」
「そうか」
先生は立ち上がり、私の湯呑を手にとった。
「それだけわかっていれば、もうこの小屋にくる必要はないんだよ」
「先生」
「私達は、いつでもするりと消えなければならない。芝居がはねたら、もう観客の前からは姿を消さねばならない者なんだ。それが、あなたにできるかね」
「それでもしたいんです。むしろそれが望みです」
「そうか。それは辛いな。……それではまだまだ、この小屋は残しておかねばならない」
どうやら、先生はこの小屋を閉めてしまうつもりだったらしい。幻影の世界へ戻ってしまうつもりだったのだ。
「先生」
「いいんだよ。いつでもおいで」
先生は見せ物をしまい、やんわり私を追い出しにかかった。

生きていくことが物憂く、また、何かに渇いてしかたのない時、私は乱歩先生の小屋を訪ねる事にしている。それが何故か――わからない人間は訪ねる必要はないだろう。
そして、その人達を、私はうらやむことはない。

(1996.6脱稿/初出・Narihara Akira編『のんしゃらんと第19号』1996.6)

「夕陽の向こうには−−《別役実》の世界」

中学に入るとすぐ、市立図書館の大人室に出入りするようになった。十二歳の私が読み散らかしていた本の種類は、今思うととんでもないものもかなり含まれていたけれど、決定的な出会いもいくつかあって、十数年たった今まで尾をひいている作家もいる。その中で、今回は、別役実の話をしておこうと思う。たぶん彼については、今までまとまったものを書いたことがない筈だ。
古い話で、少々申し訳ないけれども。

別役実は劇作家である。彼の本や芝居を見たことのある人は、「ああベツヤクはね」とすぐにわかっていただけると思うが、彼は主に日常生活にひそむ不条理を描く作家である。市民生活の常識をしつこくしつこく逆手にとって、平凡な筈の生活を非日常の空間に持ち込み、悲劇(もしくは悲喜劇)にぶちあげて幕を閉じる。筒井康隆より多少辛口程度ではあるが(高校生などが学校演劇の脚本に選ぶレベルだ)。言葉の力業という点においては、神林長平より少々アクが強い、という程度だろうか。
SF作家を二人もひきあいに出してしまったが、別に彼の戯曲に科学的な不思議さがある訳ではない。とにかく日常と非日常が、なんでもないことからグルリと入れ替わってしまう有様を劇にする男だ、と思っていただければよい。それは私個人の意見でなく、おおむねの読者も異論はないだろうと思われる。そういう創作家である。それが面白いと思わない人にはなにがなんだかよくわからないが、面白いと思う人は、「なるほど」とニヤリする類の。
そういう作家は、まあ時々いる。
だから彼も、そんなにたいしたことはないのかもしれない。それでもあえてとりあげるのは、ある《出会い》があったからだ。
「夕日事件」である。

別役実の本に『探偵物語』という一冊がある。絶版になっていなければ、ちくま書房から文庫かなにかで出ていると思うのだが、この連作集の最初の話が「夕日事件」である。
私はこの話が大変好きだ。おそらく別役本人も気に入っている話だと思う。何故なら別の本で、「探偵X氏と赤い夕日事件」の名で、ほぼ同じストーリーを展開しているからだ。ただし、『探偵物語』に収録されたバージョンの方が数段素晴らしく、かつ詩情に満ちているので、興味をもたれた未読の方は、ぜひそちらを見ていただきたい。これは探す価値のあるメルヘンである。他の話はいつもの別役節とも言えるが、この一編にだけは、普遍的な何かが、ある。

原作の美しさには及ばないが、筋を知らない方のために、簡単に「夕日事件」の内容を説明しておこう。
主人公のX氏は探偵である。X氏が探偵であることは、街中の人間が皆知っている。しかしその逆、探偵がX氏であることには、誰も思いうかばない。それはX氏が無能であるからでなく、単に街の人の思考回路の中にその方向の矢印がないだけなのだ。当然、X氏には仕事の依頼がこない。彼は毎日することがない。
ところがある日、X氏の事務所のポストに、一通の手紙がくる。手紙には差出人の名前がなく、中身も白紙である。X氏は差出人を推理し、彼なりに捜査を展開するが、すべて無駄足となる。やはり自分は無能なのかと落胆するX氏だが、差出人は後から自分の正体を明かしてくる。
犯人はX氏のオフィスの裏にある病院に入院している少女で、X氏のいる雑居ビルのせいで夕日が見られないのだという。しかし、毎日仕事がないX氏は、一日を終える時、ため息をつきながら屋上でじっくり夕日を眺めるため、その哀愁漂う背中によって、少女にはその日の夕日の美しさがしみじみよくわかるらしい。彼女はそんなX氏にお礼を言うために、白紙の手紙を出したのである。
しかし、礼状ならばそれを説明すべきである。何故白紙の手紙を出したのであろうか。
その謎はすぐに判明した。X氏は事情を知った翌日から、無心で夕日を眺めることができなくなってしまうのである。おかげでぎこちないX氏の背中は、夕日の美しさをまるで伝えなくなってしまった。少女は正しくこれを危倶していたのである。だから、白紙だけで感謝を伝えようとしたのだった。
少女の抗議は毎日続く。意識しすぎていて滅茶苦茶だと。だが、X氏はどうしても自然に夕日を見ることはできない。どんなに努力しても、少女の望み通りには見られない。
X氏は絶望する。自分は夕日さえまともに見ることの出来ない男なのか。そんな無能な男なら、明日から探偵などよしてしまおう。すっぱり別の人生をいきよう。そううちひしがれて黄昏時を過ごす。
だが、そう考えた翌日、少女から喜びの電話が入る。
昨日の夕日は、本当にしばらくぶりに美しかった。見せてくれてありがとう、と。ただ、あんまり有頂天になって喜ばないでくださいね、また明日からきれいな夕日が見られなくなってしまいますから、と――。
メルヘンである。
不条理を越えて、ひとつの詩である。
これが、その後の私の読書の質にかなり影響してしまった。詩のない推理小説は、基本的に屑だ、と。

十二歳の私がこの話に感動したのは(今でもするのは)、探偵者の出て来る小説、推理小説というものに一番必要なのは、このメルヘンの部分だろうと思うからだ。この小説は、それを見事に具体化している。
推理小説というのは、一定の形をもった小説である。その器自体が美しいので、中に何を盛っても許される部分がある。ゆえに、粗悪品も横行する。そして、粗悪でも許す読者も大勢いる。いや、どこをもって粗悪とするかが難しい小説ジャンルでもあるのだが。
しかし、読者は粗悪品であろうとなんだろうと、それぞれ価値基準の眼鏡を持って、それを選ぶ。私だって年に一度の御馳走と日々のジャンクフードを選ぶ時には違う眼鏡を選ぶ。
そして、私がこれは面白い推理小説/探偵小説だ、と選ぶ際に何を基準にするかと言えば、それが《詩美》なのである。
それを強烈にすりこんだのが、この別役の一編だったのだ。

詩は、推理小説に必要なものだろうか。
詩美をたたえた推理小説は沢山ある。古い所は渡辺温や城昌幸、最近は北村薫にいたるまで、清潔な叙情を不可欠の作風にしている作家がおり、連綿として青年の情緒の世界を描いている。
だが、これらは彼らの個性であり、推理小説という枠そのものに必要なものであるとは断定できない。
しかし、別役の「夕日事件」は、詩がなくては駄目なのだ。詩があってこそ、詩によって成立している推理小説なのだ。
こういう例にでくわしてしまうと、推理小説とは何か、ということを、もう一度考え直してみなくてはならなくなる。おそらく、この「夕日事件」は単なる一童話であり、推理小説ではないと断ずる方も多い筈だからだ。大人の読む推理小説と子供向けの童話・訓話は非常に近いものである、という事実を無視して。非合理的な状態が、主人公の活躍によって正常化されてゆくという健全な流れ(もしくは勧善懲悪)を持つ物語は、大人向けのエンタティメントにおいては、推理小説というジャンル(時代劇の捕物帳まで含めて)でしか生き残っていないというのに。

さて。
それでは、推理小説と、単なる寓話・実話との差というのはいったい何だろう。
私の答は簡単だ。
寓話には、理屈や正論や道徳はいらないのだ。
むしろ、その綿密な常識のステップを、一段、二段と軽く飛ばすところに魅力が発生する。
だとすると、「夕日」は、そういう意味では寓話でない。X氏の行動は、彼個人の論理に貫かれているとはいえ、最初から最後まで筋道の通ったものである。傍目からは愚かしいばかりではあるが、非常に段階的であり、理想の探偵の行き方であり、結末も納得がいくものだ。思考・論法の積み重ねがあってこそ成立している小説である。だから、これは寓話ではないのだ。
だが、この作品の完成度を高めたものは何か。読者の頬を「ああ」と優しく緩ませるものは何か。
それは、《詩》の部分である。
感謝を伝えてはみたいものの、伝えられずに白紙をポストへそっと落として行くという少女のゆかしさ。
他人の背中を見て、夕日の美しさを感じられる想像力。
そして、少女の心根を知ってしまうとつい無駄な努力をしてしまわざるを得ないX氏の優しさ。そして、感傷と実務能力にはなんの関係もないのに、思い詰めて仕事をやめてしまおうかと思うほどの律儀さ。
これが詩である。
いや、情緒とも人情話と呼んでもよいだろう。そういうものが嫌いな方は、目を背ける程のセンチメンタリズムかもしれない。
だが、「夕日」は決して甘い話に流れて終わっていない。それは、緊密な論法とかけひきの上に成立しているからだ。推理小説という枠の中へ入れてみたからこそ、この詩は完成したのである。そして、この小説は、最後まで詩であることによって、推理小説として独自の味を醸し出しているのだ。不条理の詩美と、ぎりぎりまで整理された論理の様式との、見事な融合なのである。

そんな訳で、こういう小説を一度知ってしまったため、私はつい欲張りになってしまった。
門外漢の別役実に出来たんだから、これから出て来る作家達の中にも、まだ読んだことのない既成作家達の作品にも、もっと贅沢で詩に溢れた作品があるに違いない、と。
もし万が一ないのなら、私もそういう小説を書かねばなるまい、と。
そんな訳で、私はへなちょこな推理小説(?)を、十数年も書き続けてきた。そしてたぶん、これからも少しずつ書き続けてゆくのだと思う。
あの、詩という高みを目指して。

十数年を経て、別役の不条理世界は、詩とともに私の根っこになった。
日常と非日常がこともなく入れ替わるというモチーフはその後、十七歳で中井英夫に出会った時にさらに増幅され、私の作品の中に息づいている(筈だ)。平凡な日常もつきつめていけば、新たな謎に、不条理につきあたる――これが推理小説の一つの純粋な形だ、正しい興奮だと。
そうでなければ人殺しなど、お粗末なワイドショーの素材にすら値しない。何かが何かを理由あって殺すのは、生きとし生けるものが数十億年間、毎日毎日繰り返してきたことで、珍しくもなんともないことだからだ。
だからそれを、誰かの楽しみのために加工するには、哲学や詩や信条の一つも必要になってくる。そんな味付けでもなければ、血を流したままの肉塊などまずくて食べられたものではない。だが、そこにかける塩とスパイスが、詩と不条理であれば、生の肉がどんな風に生まれ変わるか。
素材のうまさを引き出すのは料理人の仕事だということを忘れなければ、こんなに当り前の話もないのだが。

私の信念を極北と呼びたい人は、呼んでくれて全く構わないと思っている。どうせ詩と不条理だ、理性の世界とは相入れない筈のもの、これは無理なカップリングなのだ。
ただし成功すれば、それは理想の恋愛だ。
成功すればの話だが。

(1996.6脱稿/初出・Narihara Akira編『のんしゃらんと第20号』1996.6)

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Narihara Akira
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