▲推理小説周辺1

「『ハムレット』の小松が好きなんだ。(久生十蘭論)」

「小松君、君はもう死んだかね」
「ああ、おれはもう死んだよ」

好きな台詞である。久生十蘭の「ハムレット」だ。
図書館から借りだしてきた全集のページを、なにげなくめくっていて、この、「ハムレット」の最初のページにゆきあたったとき、背筋にぞくりときた。先に進むのが惜しくて、なんども繰り返して、そのページを読んだ。《……敗戦後一年目のこの夏、三千七百尺の高地の避暑地の、ホテルのヴェランダや霧の夜の別荘の炉辺でよく話題にのぼる老人があった。/それは輝くばかりの美しい白髪をいただき鶴ように清く痩せた……》
ため息をつく。
この《老人》、小松顕正という。なかなかの曲者だ。ハムレットばやりの平成二年だったが、こいつは、絶対忘れてはならないハムレット役者である。昭和二十一年の古めかしいハムレットだが、たぶん日本のハムレット読みは、結構この作品を読んでいると思う。(野阿梓は、間違いなく読んでいるだろう。「凶天使」の中で、ハムレットの食事のカットで久生の一行を借りているから、いっぺんでバレている。しかし、ああいう嘘を借りてくるのは面白いことだ)
とにかく、「ハムレット」は美しい物語だ。長いセンテンスを読むのに、息もつかせない。幾重にも重ねられた細かい描写を追っていくと、折り屈みのよい役者達の姿がほうふつとしてくる。演劇出身の作者の、珠玉の作品だ。シェークスピアより、ピランデルロの『ヘンリー四世』という戯曲を下敷にした物語なんだそうだが、面白い。というか、好みなんだ。ずいぶん、影響も受けたよ。
ストオリイはそんなに難しくない。避暑地に現れた秀抜な謎の老人。それにつき従っている憂欝な謎の青年。老人は、古めかしい服をきちっと着込み、現代の事をよく知らず、自分のモードで暮らしている。だが単なる世間知らずの頑固者というのではなく、どうにも奇妙な、時を越えてきたような様子と行動を、実に自然に行っている。そして青年は、周りの好奇の眼から、そっと老人を守ろうとしている。皆がいぶかしみ、青年を囲んで問いつめると、青年は、あの人は墓の下から出てきた人だ、などと訳の解らないことを言う。そして、重い口を開いた祖父江という青年の話は……。
簡単に、筋を示そう。
大正の初め、小松という男は資産ありあまる華族の息子で、学生時代演劇にうちこんでいた。彼はハムレットをやることになると、あらゆる参考資料の中に埋もれて、ハムレットを研究し続け、古い様式を残した自分の家で、中世のムード溢れる、ハムレットの私演会を催した。祖父江は、その時ホレイシオを演じていた、小松の仲間だった。だが小松は、芝居の最中に、二階の舞台から落ちて頭を打ち、死にそうな大怪我をしてしまった。結局快癒せず、精神病院に入れられてしまった。演劇の仲間達はちりぢりになり、祖父江はイギリスに渡って、心理学の勉強を納めた。
しばらくして、祖父江は、阪井という男と再会する。ハムレットの私演会で、クローディアスを演じていた男で、実際に小松の叔父であり、小松の事故で彼の財産と婚約者とを手に入れた男だった。恰幅のよい立派な男にはなっていたが、それがみるからに悪人で嫌な感じなので、祖父江は、彼とあまりつきあいたくなかった。だが、阪井の娘のゆく末が少々哀れになり、遊び相手をしてやる。阪井はある日、何故か慌てて日本に帰ってしまい、祖父江はほっとする。だが、すぐに第二次世界戦争が始まってしまい、食いつめた祖父江も日本に帰る。
帰国してもいい仕事がなく、職を持てずに苦しんでいた祖父江に偶然再会し、声をかけたのは、成長した阪井の娘の鮎子。彼の困窮を見抜いて、家に連れていく。阪井は初め祖父江に興味を持たなかったが、祖父江が精神病理をやっていたのを知ると、急に態度を変えた。自分の家で、暮らさないかと言い出す。言葉に甘えていうるちに、鮎子といい仲になる。そんな中で、阪井は祖父江に、「小松がまだ生きていることを知っているかね」という。祖父江は驚く。小松には憧れていたので、彼が精神病患者として閉じ込められていると聞かされ、様子を診てもらいたいと言われてその気になる。
驚いたことに小松は、自分の屋敷に閉じ込もって、三十年近くハムレットを演じ続けていた。危ない患者と言うわけではないので、病院から帰されていたのだが、私演会の続きを、つまり凝りに凝った中世のデンマルクの世界を、実生活の中で続けているのだった。祖父江は、学友ローゼンクランツの役割で、小松の生活に参入するが、小松をよく観察してみると、どうも彼の気違いは、ただのフリのように見える。祖父江は、小さな実験の結果、小松は十年ぐらいまえに自然治癒しているのでは、と判断する。
その結果を知った阪井は、それは間違いないか、と念を押す。もし直っているのなら、彼は俺達に復讐をする機会をねらって、気違いのふりをしてるのじゃないか、というのだ。祖父江はようやく合点がいく。私演会の際、小松を事故に見せかけて高い二階から落としたのは、この男なのだと。財産と女を横取りするために。狂人になったので安心して幽閉していたが、ある日突然小松の髪が老人のような白髪になったというので、阪井は小松が、正気に帰ったのではないかと疑っていたのだ。驚くべきことに、厚顔な阪井は、自分の犯罪を隠すどころか、祖父江に小松の始末を頼む。財産と娘をやるから、悪いようにはしない、と。小松は、生きていたってしかたのないような人間なのだから……と。
祖父江は戸惑う。鮎子はかわいそうに思うが、小松はもっと気の毒だ。こうなったら小松を阪井の魔の手から守ろう、と決意したが、時すでに遅し、鮎子が小松のお芝居を暴き、祖父江には薬を飲ませて動けなくしてしまう。
阪井は祖父江の目の前で、恐ろしい話を始める。「小松君、君の不幸は宿命というもので……」つまり、阪井は自分の手を汚すのは嫌なので、自分で死んでくれ、と頼むのだった。小松は動じない。昔の婚約者琴子も、その娘鮎子も死んでちょうだい、と頼むと、とんでもない返事をする。
「こうなると、なんだか死ぬことも楽しくなってきた。では死のう」
小松は防空壕に入り、阪井一家に生き埋めにされる。阪井が声をかける。
「小松君、君はもう死んだかね」
「ああ、おれはもう死んだよ」
祖父江は助けたくとも動けず、それを見守るばかり。折しも空襲が始まり……。
しかし、阪井一家は、この爆撃で死ぬ。小松は、爆風で外に投げ出され、助かった。
祖父江は、こう付け加える。
「……地獄がハムレットを投げかえしてよこしたことは、ハムレットにとって幸福なのか不幸なのか、わたしにはまだわかりかねています」
――終。
ううん、面白かった。最後の方の小松と阪井の会話のくだりは、いつ読んでも凄い、とうなってしまう。二人の性格の見事な対比を描いて、そんな無茶な、と思う論理を押し通してしまう。やるなあ。さすがだなあ。これが、いいんだなあ。小松って、いいなあ。
え、面白くない?
そりゃ、ダイジェストじゃ面白くあるまい。本来なら大長編であってもおかしくないほどもの凄い話なのに、凝縮されて短編になってるんだから、それをまたかいつまんじゃったら、せっかくの小松がねえ。しかし、これは、短編でなければいけないんだな。この構造上。だって、ストーリィを読ませる作品じゃないんだ。
……うん、せっかくの機会だ。「ハムレット」と小松と久生について、もうちょっと話をしたいなあ。いいかい? 特にオリジナリティのあることをいうつもりはないんだけど、ね。
この「ハムレット」というストーリィは、実に素人っぽい構造でつくられている。謎の老人で話をひっぱりだし、じつは……という因縁を、祖父江の日記から語らせる、というパタンを踏んでいる。こういう事件があった、こういう人がいたと始めるのは、久生の得意なやりかたなので、今回も自然にこの形をとったようにも見えるが、多分これは意図的な仕組みだ。だいたい、あわてて素人仕上げにすることはないのだ。「ハムレット」には前身があるのだ。昭和13年に「刺客」という作品があって、それが、この作品の原型なのだという。書簡体で書かれた、波乱万丈の物語だそうだ。それをわざわざ書き改めたのだから、久生には一つの意図があったはずだ。
そう思ってこの「ハムレット」を読みかえすと、不思議なことに気が付く。それは、小松、阪井、祖父江の三人の描写である。三人は、大正時代に一緒の活動をしていたのだから、みんなたいして年は違わない筈だ。小松は五十四歳と書かれているので、阪井も五十代だろうし、祖父江も五十近い年齢に違いない。それなのに、小松は老人だし、祖父江は青年だ。阪井は比較的年齢に近い描写をされている。
この差はいったい何か?
思うにこれは、この三人の生き方の違いではないだろうか。小松は、身動きできない状況下に置かれた無力な男であるが、その前に、事態を積極的によくしよう、という気持ちが無い。外見の姿の変化は、正気への覚醒の恐怖によるものだが、彼は中身も老人に近いのだ。状況に甘んじ、いままでの暮しをなぞるだけで、なにものも生みだそうとはしないのだから。
反対に祖父江は、永遠の青年である。結婚していないから外見も若いのかもしれないが、役にもたたない勉強ばかりをして、生活に困っている。それで実生活に目をむけるかといえば、社会的地位もなく、そのためのとっかかりもないので、他人にとりすがりスネをかじる。近代青年の一典型、とみてよいのではないだろうか。
阪井は、外見通り、ある意味で普通の大人である。悪人で、傲慢で、非常な論理の上に立脚して生きているが、自分の生活のためならば、なんでもやるという保身の態度と、娘かわいやの心情は、ありがちな大人の態度である。気持ちはわからなくもない。
そう見ると、冒頭、避暑地に現れる謎の二人、小松と祖父江の印象的な描写は、この生き方の対比を明確にしたいから設定された第一幕に他ならない。この似て非なる二人、特に小松という人間を描くところに、この「ハムレット」の命が秘められているので、あえてこんなつくりにしたのだと思って、間違いはない、と思う。
こんなことは、実際に「新青年」あたりで実作を読み比べているひとには、常識のことかも知れない。都筑道夫の言によれば、《「刺客」は作者が力をいれて書き、愛着もしていた作品で、しかし、ストーリイのおもしろさに重点をおきすぎたところに、不満が出てきた。そこで、人物描写に重点を移して、まったく書きあらためたものが、「ハムレット」ということになる》ということなので、私の推測は、あながち外れてもいまいと思うのだ。
ところでこの、気合いを入れて描き出されている《小松》というひとなんだが。
どう、思う?
都筑道夫はこう言っている。――《極端に苛烈な運命から、逃れようともせず、圧しつぶされもせず、生きていく男らしさをえがいた作品》。果して、そういう人、かねえ? それで、これは大戦後の十蘭が好んで扱ったテーマ、だとされてるんだけど、そうかなあ、と少し首をひねったりするんだな。ちょっと美しすぎる比喩だなあ、と。
というのはね、あれと比べちゃって余計なこと考えちゃったりするからなんだよな。――あれってのは、あれ。「蝶の絵」。
「蝶の絵」っていうのは、久生の代表作じゃあない。「ハムレット」よりあとの作品なんだけど、優れた創作とも言いきれない。澁澤龍彦も《成功しているとはいいがたい》というんだけど、でも、個人的にはとても好きな作品だ。主人公の山川花世が、イイんだよ。(作者自身も好きな話なんじゃないかと思うんだ。花世というのは十蘭の好きな名らしいから。顎十郎の従姉妹の名前もこれだし。里子なんて名前も好きらしくて、大事な作品や新聞小説なんかで使ってるけどね)
花世君は、華族のボンボンだ。日本の文化史がかならず一頁を割く、権威あるクリスチャンの家庭のただ一人の嫡男という設定になっている。女ばかりの家庭で、サナトリウム患者であろうかというくらい過保護にされて育った。蝶よ花よと育てられ、大人になると、学習院の女子部の教師になる。その弱々しい風姿から、生徒達におかわいそうに、といたわられて暮らした。それで彼が、戦争が起こって徴兵され、戦地に赴いた時には、誰もが生きてかえるまい、と思った。それが六年後、激戦地から、見事に生きて帰ってきた。友人はマリポサ(蝶)という名の戦犯として、つかまって殺されてしまったというのに、花世君は、昔と少しも変わらぬ、年もとっていないような風ですうっと帰ってきた。
ただし、様子が少しおかしい。変な嘘はつくし、酒をやたらに飲むし、庭の花は全部抜かせるし、南の国で約束を交わしたという娘がおしかけてきても、ふてくされて知らん顔をしているし、あずかった猿を撃ち殺したりする。やたらに手を洗ったりしているので、変だ変だと思っていると、電車から落ちて死んでしまう。遺書があって、それが自殺と知れる。
つまり彼の正体は、マリポサと呼ばれるスパイだったのだ。サロンで親日派の人と会話をし、相手の反応をみてデータを流し、を繰り返していたのである。生まれ育ちから、社交は巧みで、特に女性の扱いが上手なので、疑われても、現地の人々にかばわれてきた。しかし、彼自身は、自分のしていることが、戦局を変え、状況をひどく悪化させたことにおびえた。臆病な心から特殊任務につけてもらったが、こんな汚い仕事になるのなら、最初に死んでしまえばよかった、と。そして、悩みのゆきづまった彼は、クリスチャンの家系に傷をつけぬため、自殺に見えないように死んだのである。
山川の死は、自分も含めて、四方八方に気兼ねばかりしている、あまりにも臆病な人間の歴史だった、と語り手は言う。火葬場に来た人々に、灰になった花世は、風にのって挨拶してまわるのだった。
――ううん、これも、筋だけみると、だいぶ味気ない話になっちゃうなあ。久生の語り口あってこそ、の話だからね。
で、これを小松と比べるのもなんなんだけど、印象がかなり似てるんだな。実生活から見事に逃避して暮らしている、非常時下の青年。脆弱な存在なのにも関わらず、自分の生活の様式は絶対に崩さず、崩れると生死の危機に陥る。それで、二人の差は、死ぬか、死なないかなんだ。
澁澤龍彦が、こういう考察をしている。……久生の作品は、状況設定がほぼ同じ話で、その中で行動する人間の精神は、全く正反対の色調に塗りわけられているものがある。平均的な普通の人間でも、ある環境の中では、英雄や聖女になることも、その反対に怪物や動物のようになってしまうこともありうる、ということを十蘭はよく知っていたのだ、と。
で、この二人、花世と小松も、そんなわけで、生死に別れるんじゃないかと思うんだな。事情はだいぶ違うんだけどさ。小松の方が、ずっと花世より偉いかっていうと、ぜんぜん違うと思うんだよね。小松なんて、ぜんぜん男らしくなんてないんだよね。好きなんだけどもさ。小松が食わせもんだから、生き残ったなんて言いたい訳でもないんだけどね。
ま、澁澤みたいな格好いい言葉で言わなくてもいい。私はこういうね。――久生の主人公は、やれるだけやって、丁か半か、なんだ。いい奴も悪い奴も、もうやれるだけやる。それが大事。世の中結果はね、自分で決めるもんじゃないんだ。やれるだけやって、てのが大事なんだな。代表作の「黒い手帳」なんかもそうだ。ルーレットの出目を割り出す計算式を、酷い生活をし、十年かかって見だした男が、それをぽいと捨てて、殺されてしまう。その虚無。明るい少女小説でもおんなじ。戦争下で、とんでもない才能をもった人達が、あるだけの反骨精神をありったけ示す、「だいこん」。やるだけやったから、日本はなんとか良い国に戻る、それを信じて終わるんだけど、本当の結論はぽーんと投げ出されている。
中井英夫は、ペシミズムを言う。「ほとんど無益としか見えないことに賭ける人間の思いの深さ、それでもなおまちがいなく破滅に追い込まれていく運命の過酷さ。それだけが久生十蘭の関心事だったと思えるほどに……」と。《荒涼とした破滅への道》が、十蘭の生涯のモチーフと。
でも、そこまで言うと、行き過ぎって感じもするんだよね。久生ってのは、もう血も涙もないような結末を用意していることも多いんだけども、そんな時も、主人公に対する暖かい目を感じるんだ。自分が作り上げた人物なんだから、わが子のようにかわいいのは当り前かもしれないが。それで、あんまり過酷って感じがしないんだよね。これは、事実。事実とは、努力しても、こういう結果はあるのです、と言われて納得できるような説得力、物語的真実があるんだ。
だから、久生が異端作家なんて言われると、首を傾げちゃうね。当り前でないことも当り前に書いてみせるプロなのに。特異な部分はあるだろうけど、物語作者の王道を行ってると思うんだがな。
ところで小松なんだが。こいつ何故生きている、と思う? 男らしく、圧しつぶされずに生きているから? まさか。小松って奴は、現実生活より、ハムレットとして暮らしていく方が自分の生き方に適していて楽という、象牙の塔の住人だ。なかなか生きていけないタイプの人間だ。
でも、こいつは死なないな。こいつはね、本当のハムレットと違って、生死なんてとびこえちゃってるんだ。自分が生きても死んでも、どうでもいいの。運命に逆らったりしないんだ。なんでも受け入れる。もう、神か仏のように、すがすがしい感じさえする人だっていうから。ただ守るところは、永遠に守るんだけどね。

「小松君、君はもう死んだかね」
「ああ、おれはもう死んだよ」

死んでくれと頼まれて、では死のうって、言えちゃう人なんだから、もう死んでるとおんなじなのかもしれないけどさ。
でも、最後に投げ出された祖父江の疑問には、答えられる。死ななくてよかったんだよ、と。こんなおじさん、地獄でも迷惑するしさ。この人は殺しても死なない男。とんでもない輩がお好きな方は、ぜひ読んでみて下さい。優れたブラックユーモア、なんて簡単な言葉じゃ言いつくせない、不思議な味わいがあるから。
ところで今の私が座右にしているのは、創元推理文庫の久生十蘭集だ。顎十郎捕物帳が入ってる奴。顎さんを嶋田九作にやらせたいね、そしたらおもしろい番組ができるだろう、などと考えながら読む。それから、何か本格が読みたいとき、ふっと手にとる。「ハムレット」も入ってるし。本当なら全集を揃えるのがベストだと思う。この間好きな巻を二冊だけ買ったんだけどね、友達に読ませたくて、あげちゃったんだ。
もったいない話。

(1990.10脱稿)

「『ハムレット』の小松が好きなんだ…(初出発表稿)」

注:以下の原稿は、同人誌掲載にあたって、前項と同じ原稿を縮めたものである。紙幅と時間の関係で書き直したため、この決定稿は必ずしもよいものにはなっていない。

「小松君、君はもう死んだかね」
「ああ、おれはもう死んだよ」

久生十蘭の『ハムレット』、幕切れ近くの二行だ。
この台詞が好きだ。この小松という男が、面白い。

久生十蘭という物書きは、徹底的な人間を書く。善人は、思いつく限りの善行を尽くし、悪人は、できうる限りの悪行を働き、極限状況に置かれた一般人は、必死にもがいて運命と戦う。そういう人間の様を描き尽くす。
主人公達は、自分のできることを、自分が正しいと思うことを、一心一途に遂行する。それで、やれるだけやっても、誰にも誉めてもらえない。そして、結論はさいころのようにぽーんと投げ出される。彼らは文字通り、人事を尽くして天命を待つ。だが、とんでもない不幸の目がでても、登場人物達は気にしない。結果は結果、できるだけのことはしたのだから、あとは丁でも半でも運命をいさぎよく受け入れる。努力は必ずしも実らない、報われない、それが現実なんだ、と悟りきってでもいるように。
この無情が、いい。
しかもその余韻に、ほのかなぬくもりを持っている。

さて、小松だが。
都筑道夫がこの男を形容して、“過烈な運命に圧しつぶされず、生きていく男らしさ”などという言葉を使うのだが、それは誉めすぎだと思う。こいつはそんなに立派な男ではない。はっきりいって、とんでもない奴である。面白い輩ではあるが。

小松は華族のぼんぼんである。若い頃演劇にのめり込み、「ハムレット」に強い興味を持った。生活すべてをハムレットを演じることにそそぎ込み、自らハムレットになりきった挙げ句、自分の屋敷で私演会を催す。そこで、劇に参加していた叔父の阪井に、二階から突き落とされて頭を打ち、精神に異常をきたしてしまう。叔父に動産も不動産も押さえられ、婚約者まで奪われて、小松は私邸で幽閉生活を送る。わずかに残る私演会の記憶から、自分をハムレットと思い込んで、中世ヨーロッパの生活を、日本の大正から昭和初期にかけての三十年の中で続ける。そんなある日、小松の意識は正常に戻る。しかし、事態を把握できたところで、今の小松には叔父に逆らう力も方法もない。彼は異常者のふりを続ける。しかしそれもやがて叔父に見破られ、さてこうなれば生かしておかないと詰め寄られ、絶体絶命の危機に陥る。
だが、小松は慌てない。叔父に交渉を申し出る。意識が戻ったからといって、今更家屋敷を返してくれなどとは言わないが、それでも駄目か、と。駄目とわかると、殺されるのか、とあっさり観念する。自分から死んでもらいたい、などと阪井にとんでもない申し出をされても、「防空壕が墓になるとは、戦時らしい趣向だね」などと澄まして答える。悪人一家に、あなたが死んでくれたら感謝する、と口説かれると、なんだか死ぬことも楽しくなってきた、では死のう、などと口走る。そして生き埋めにされながら、「ああ、おれはもう死んだよ」などというのだった。
最後は神様のいたずらで、叔父は空襲で死に、小松は爆風で土がとばされて助かるのだが。
しかし全く当たり前の話ではある。戦時なのだ、防空壕の中の方が安全なのに決まっているのだ。
まったく小松は食えない奴である。

さて、小松は果たしてハムレットなのか。
小松は実生活に向いた男ではない。生きていても、世のため人のためになるような人間ではない。本人もそれはよく知っている。この世界が自分向きにできていないことを知り尽くしている。そこまではデンマークの王子様と同じだ。だが彼は、王子のように策略をめぐらせない。叔父の仕掛けた計画にのって、自分の生活をおとなしく守っている。「生か死か」などと陶酔したりもしない。自ら命を絶つような事こそしないものの、生に対する執着は薄いらしく、自分の命を他人事のように扱う。悩める若人というのとは、だいぶ違うようだ。
それは当たり前かもしれない。これは久生の創作なのだから。シェイクスピアの戯曲とはなにかが違って当然なのかもしれない。シェークスピアというよりも、ピランデルロの「ヘンリー四世」という戯曲を下敷きにした物語だともいうし。
では、小松は何者なのか。

小松は小説の冒頭で、秀抜な老人として登場する。老人というほどの年齢ではないのだが、正気に戻った時に髪が全部真っ白になっていたため、年寄りに見えるのだ。ハムレットは難しい役のため、若者という設定にも関わらず、年のいった役者が演じる事が多いらしいが、彼はあくまで老人なのである。着ている服も少し古いし、仕草も古風で、時間と場所を越えてきたひとのようなのだ。不思議な魅力的な老人として、彼は描かれる。別荘地に避暑に来ていた人々は取り沙汰して、影のようにつき従っている青年に、彼の素性を問いただす。乞われて青年はノートをつくり、皆の前で今まであった事を物語風に語り出し、以後そういう形でストーリーは展開される。
言葉を尽くして描写される小松の外見は、おそらく彼の内面の比喩だ。生活力を持たず、何物も生み出さず、過去の虚構にのみ浸っている彼は、精神的に老人なのである。彼に従者のごとく寄りそっている祖父江という青年は、実はかつての小松の芝居仲間で、年齢は十も違わないのである。だが、彼はあくまで青年として描写される。祖父江は結婚もしていない、定職ももたずにぶらぶらしている学究の徒であるため、年齢より実際若く見えるらしい。
だが、この二人の対比のために、冒頭のシーンはすさまじいほど美しい。このシーンがあってこその『ハムレット』であり、このシーンが物語の構造を決定しているといっても過言ではない。
この登場人物の描きわけこそが、作者がこの小説、『ハムレット』でやろうとした事なのだ。
これはいいかげんな推測ではない。『ハムレット』が書かれる八年前、久生は『刺客』という書簡体の小説を発表している。筋立ては同じなのだが、波瀾万丈の筋立ての方が強烈な話らしい。改作『ハムレット』では、悪人だが壮年者として活き活き暮らす阪井と、同じような毎日を静かに暮らす小松の描写が深まっているという。ほとんど同世代の筈なのに、老人の小松、その叔父なのに壮年者である阪井、そしてお付きとして青年である祖父江、として描かれる三人。その対照は大変興味深い。老人、中年、青年のステレオタイプ。それが幾重にも重ねられた形容詞、長いセンテンスの中で命を持って動き出す。息もつかせぬ美文の中、折り屈みのよい役者達の姿がほうふつとしてくる。
美しい老人、そして生ける屍である、小松。

しかし小松は、決して否定的に扱われているのではない。最後で語り手の祖父江は、小松が生きのびてしまったことが、彼にとって果たして幸せなのか不幸せであるのかわからない、と読者に投げかけをする。しかしその生を無下に否定しない。作者の目は暖かい。
中世を生きる小松が精神的に老人であるということは、別に許されざる罪ではない。若者だとて、無力感にうちひしがれて、行動できないでいる今の世だ。自分の流儀を守り、人に迷惑をかけずに生きる小松が、生を奪われる程の罪人であるとは思われない。
けなげに生きている人々からは反発も買おう、と思い、作者は小松を突き放して描くのだろうが、わざわざ書き直しをしたぐらいだ、小松のようなとりとめのない輩を、久生十蘭はかなり好んでいるのだと思う。自分の生を投げ出しているような投げやりな輩だが、自分の流儀を追求してはばかることがない。その行き方は、いい、と思う。
こういう奴がのうのうと生きていられるのが、探偵小説のひとつの魅力だ。探偵小説においては、こういうお遊びだの余裕だのが大事なのだ。こういう割り切れないキャラクターが、のんびりと主役をはって怒られないのが、探偵小説なのだ。それは逃避ではない、非難されるべきことではない。人生をガチガチ生きても仕方がないし、ガチガチと生きられない人間がいるのが現実なのだから。こういう小説のジャンルは、彼らのためにある。
小松っていいなあ、と言える幸せ。
私は黙って久生十蘭集を座右に置き、にやりと笑ってページを閉じるのだ。

(1990.10.17脱稿/初出・小松美明編『群探第16号』1990.12/加筆訂正1999.1)

「え、中井君のことかい?(中井英夫論)」

え、僕にも話せって? ……ふむ、中井君の話なら、しなきゃなるまい。でも、僕がそういう話をすると、全く個人的な話にしかならないよ。とりとめがなくなるだろうし、中井君のこと知らないひとに、わかるように話せないし。それでもいい? じゃ、話すよ。僕の目にうつる中井君てのは、こういう奴だ。……
中井君と出会ったのは、高校三年の時だ。もう五年の付き合いになる。何で知り合ったかと云えばやっぱり、例の『虚無への供物』のことを、そちこちで聞いたからだ。あれは、なんだかんだいって高名な創作だからね、あちこちでタイトルを目にして、それでまずこのひとの名前を覚えたんだ。なんか面白い作家はいないかな、と物色してた時期だったから、さっそくとりついて、図書館にあった随筆の類を、次々にかじった。それから、講談社文庫の『虚無』を買って、受験期の夏休みだというのに、あの長い小説を、暗い部屋でねっころがって一心不乱に読んだっけ。……でも、そのときは、あんまり面白い人だとは思わなかったな。作者の気持ちはよく解る気がしたし、形ばっかりの竹本健治なんかよりは手ごたえあるな、とは思ったけど。だからそのあと、こんなふうにハマルとは思ってなかったなあ。
初めていいな、と思ったのは、大学に入ってからだった。……あれは、大学の新入生のオリエンテーションの日。暇を持て余してしょうがなくて、購買部で、中井君の短編集を一挙に三冊買ったんだ。それがなんだか面白くて、渋谷から家までの長い道のりを読みふけったっけ。小づくりの面白さっていうのかな、よくできた短編の面白さというのを久々に味わえた、という満足感があった。それで、いろいろな作品群を片っ端から読み始めた。たぶん、半年くらいは夢中になって読んでたと思うよ。それが、中井君とのつきあいの始まりだった。
この付き合いのなかでは、いろんな事があったよ。……まず最初に母親が、なんでこんな人を好きになったんだろうね、と首をひねってくれたっけ。ある教授なんかは、君はこんなものを読んでるのか、汗の匂いのしないつくりものを、とほとんど軽蔑の薄笑いを浮かべてくれたっけ。それでも、大学のサークルでは一生懸命読書会もやったし、評論らしきものも書いた。中井君のおかげで、高校時代の論敵と絶交した事もある。HMMの投稿欄で、中井君のファンだというおじさんがいて、面白いから手紙をだして、文通を始めたりもした。
そんな訳で、中井君との付き合いは迫害も多かったけど、味方も結構いてくれたりして、そんなこんなで尾を引いて今日に至る訳だ。やあ、腐れ縁だなあ。いったい中井君の、何にそんなにこだわってきたんだろう。
実は、正面きって、何で中井君が好きかってきかれると、ちょっと困るんだ。母親の疑問ももっともでさ、中井君を読む前は、もう物凄くトリッキィなつくりもの、完全な本格みたいのが好きで、都筑道夫とか読んでてさ、泡坂妻夫あたりも一応の合格点をやってもいいかな、というようなやたら狭量な若造でさ、もう、キチンと探偵者がでてきて、理詰めがしっかりしててって感じじゃないと受け付けない、というような奴だったんだから。
今でも、その気はあるな。今更チェスタトンが面白い、とか思って、そろそろと読みかえしてるんだから。彼を読むと、少し心が落ち着くね。文章もきれいだし、風刺も効いてるし、『詩人と狂人達』なんて、なかなか面白い寓話だよね。……だから、情緒的な線で押してくる人とか、生真面目な人生路線とか、文学っぽいもの、全て駄目だったね。斜に構えてたくせに、むしろ道徳っぽいものや教訓めいたものの方がまだまし、という変なひねくれかたをしてた。
それなのに、もう悪戯に纏綿で、情緒の塊みたいな中井君を、平気な顔して読みはじめたんだよな。人に云われるまでもない、いったい何が面白かったのか、自分でも一瞬理解に苦しむよ。
思い当たることは幾つかあるけどね。まずはじめに、中井君は、僕の「お手本」だったんだ。
当時の僕は大学に入って、とにかく文学青年のはしくれになった。文学部に属して、本を読み、分析させられ、レポートを書かされ、文化系のクラブに入り、読書をし、議論をし、創作を書きして、……しかし、その時、実は途方に暮れてたんだ。確かに量的には本を読んでいたし、自論をどうどうと披露できるくらいの自惚れもあった。しかし、これからの自分のスタイルをどう定めたらよいのかが、全く分からなかったんだ。つまり、アイデンティティの危機というやつ。……
下らない話なんだけど、どういう人間が文学青年なのか、自分は学生として、どんな風にあるべきなのか、等など、細かい事をくよくよ考えつめてたんだな。文学はとはなんぞや、などと額に皺立てて考えながら文学部に入ったのじゃない、むしろB級エンタティメント一点張りで過ごしてきたんだから、文学青年かくあるべし、という理想像について考えたことがなかったのは全く当り前の話なんだけど、今更慌てて、自分にしっくりとくるお手本が、欲しくなったんだ。《らしく》あるためのよるべが。
そういう人間にとって、中井君はとても取り付きやすい、手ごろなお手本だったんだ。文学青年を気取るときには、中井君風の詠嘆をもらせば、様になった。エッセイを書くとき、中井君風の毒舌的な態度は、適度に硬質で便利だった。創作に行き詰まったときは、中井君風の逃げをうってごまかした。中井君は《Conte》――「小説」を書いてる、って信じられたし、商業的に作家として認められていて真似をして悪いわけがないから、文章だって真似をした。そこらの荒れた文体の作家達に比べれば、どんなにかましだったし、書かれていることの難しさも適当に思えたし。……そんなふうにして、僕の文学生活、創作生活はスタートをきったんだ。なかなか利用価値のある有難い先生だったよ、中井君は。
そういう訳で、「ハムレット」で開眼して久生十蘭に夢中になるまで、中井君を一番のお手本にしてたんだ。……こういうのを私淑っていうのかな? いや、一回も会ったことないんだから、そうはいわないな。……しかし中井君てひとは、直接逢わないほうが無難なひとだろう? カンシャク起こしてるときに出くわして、頭ごなしに叱りつけられちゃかなわないし、落ち込んでるときに会って、無惨な独特の繊細さをみせつけられちゃやっぱりかなわないし、あの頑固なひとに、喜ばれてにこにこと迎えられたりするのも厭だし。やっぱり一ファンとして、遠く離れて、好き勝手に学んでおります、親しんでおります、というのがいいね。ひどい奴だから、病気の話を聞く前は、早く死んじまわねえかな、とさえ思ってた。そういう無礼な人間なんで、僕は中井君本人にはあんまりあいたくないんだ。……それともあのひと云われてみたいかな、「先生はいつ死ぬんですか」てさ。このひとが太宰治に云ったみたいにさ。
ふん、悪趣味な空想だね、やめとこう。こういう悪心を覚えさせるというのは、やっぱり親しみを感じてるからかなあ。中井君っていうやつは、作品より、作家の人となりに興味を持てるというところがある。(実を云えば都筑君への興味も、作品の面白さよりも、一生懸命な方法論とか、溢れるペダントとか、それなりの努力と業績、に感心してたってほうが強いかもしれない。線が細いけど、リアリズムも追求してて偉いと思うし。いや、あのひとの本質的な臆病さがなんとなく共感を誘うので、読み続けていたというのが正しいのかなあ。彼の出不精からくる、非常に限定された世界の中で進行する作品のスタイルが興味深かったしね。アメリカからきた怠け者の詩人が、翻訳家の家でごろっちゃらしている、というような、逼塞感のある設定が面白かった。古典的な設定かもしれないけど、そんな中で展開する精密な寄せ木細工のような世界というやつ、いつでもなかなかいいものだ、と思うんだ)
とにかく中井君には、私的な文章がやたらに多いよね。それを読みふけちゃったから、なんだか近しい気がするってとこがある。身辺雑記、日記、随想など、こんな日常まで、つらつらかいていいのかいというような文章が多い。我が想い察しろ、というか、読者への甘えさえ感じられる謎めかした物言い。女々しい泣き言を全部さらけだしてどうするんだ、と怒る人もいるんじゃないか? でも、中井君というやつは結構曲者でさ、意外に、自分はこう思う、これは間違っている、という下手に声高な主張は少ない。むしろ今流れている時間について、現実と世相というものについて、自分の感じるまま書き留めながら、甘えというより、自分の小ささ、無力さをはっきりと思い知って、現実を独自の目で見つめているという感じに仕上がってるんだな。話のもっていきかたでさ。やっぱりそこらはプロなんだな。うまいもんだよ。それとも、そう思うのは、単なるひいきのひきたおしなのかな?
そうだな、この付き合いが続いているのは、中井君が親しい友達のように思えるからかもしれない。中井君と僕とは、かなり違う人間なんだけど、作品を読んでも、日記の類を読んでても、うなずけるというか、共感する点、共通項が、二つばかりあるような気がする。一つは、青春時代へのこだわりを見せるとき。もう一つは、《B》こと名編集者、田中貞夫への傾心をみせるとき。彼を同類だな、と思うのはそんなときだ。……そうだな、ここらで、いい加減な放論はやめて、分析まがいの事をしてみようか。僕の好きな中井君の日記をいくつかとりあげて、評価してみよう。乏しい自分の体験と照らしあわせながらね。
まず、青春時代へのこだわりについて。……戦時下の中井君の青春については、「見知らぬ旗」はじめ、作品にも繰り返し繰り返しでてくるけど、彼の戦中日記『彼方より』あたりを読むのが、なかなかに興味深くて面白い。知る人ぞ知る、中井君が、通信兵として市ヶ谷の参謀本部に務め、文字どおりミスター・ヒロヒトのお膝元にいながら、せっせと書き散らしてた天皇批判、戦争批判の記録だ。……命知らずというか、全く大胆なやつだ。それとも、視野狭搾君ってやつか? 自分の魂に忠実すぎて、向こうみずな自分の姿に気が付かなかいって奴だ。中井君、割とそういうところがあるからな。自分の正体をけむにまきたがるくせに、八方破れの自分を、平気でさらしたりしてさ。間抜けというか、妙に図太いというか、かわいらしいというか。
『彼方より』は、僕の戦争観を確かにし、新しく目を開いてくれた日記だけど、一般人が読んでも、意義がある日記だと思うよ。戦争中でも、人々は日常は非常ではなかった、むしろ今よりも健全だった、ということをしっかり書き留めているものだから。当時は特別な時代だったんだ、と口をつぐんでしまうひとの多い世代の中で、戦争の狂気はもっと身近である、ということをきちんと訴えている記録だから、もっと読まれていい本だとも思う。けっこう優れた資料だと思うよ。
まあ、そういう小説もあるけどね。中井君や久生の作品なんかばかりじゃない、『仮面の告白』みたいな耽美小説だって、世相の正気とあきらめを書いてるんだから。……ちょっと前(二月二六日)朝日新聞の夕刊を読んでたらさ、「池袋モンパルナス」っていうタイトルの、宇佐美承という人の書いたこんな記事があった。【年とったものはよく若者に「君たちはあのころの軍や警察を知らない。戦争反対などできなかった」というが、私は日米開戦のとき十六歳だったから、その言葉のごまかしを知っている。私を含めて国民のたぶん九十数%に侵略戦争認識などなかった。私たちは《持てる国米英はずるいのだから、やっつけて当然》と思っていた。】という文章。
そうだったんじゃないか、と思うよ。日常ってやつは、そういうもんだと思う。どんな狂気の時代にも、皆正気なんだよ。平和な時代でもいつでも同じで、皆目の前の事につい気をとられて、生きてる。考えなけりゃいけない大きな問題があっても、なかなか取り組めないんだ。危機感は充分に持っててもさ。一見平和な今でもそうなんだから、あの痛ましい時代の人が口をつぐんじゃうのもわかるよね。それらしい美談がいくらでもあるんだから、過去の自分の後悔を、胸と頭を痛めながら、わざわざ語ることはないよ。……こういう文章は、いまさらな芸術家の放言かもしれないけど、一般人も耳を傾けなきゃって思う。やっぱり、歴史って勉強しなきゃいけないな。過去から学ぶだけでなく、将来を見通す力を養うために。……
シリアスは、さておいて。
『彼方より』は、この作家の背景の研究にも、ミーハー的好奇心を満たすにもうってつけである。本の最初に、中井君の若い頃の写真が一葉挟まれていて、二十代半ばののっぺりした青年が、けっこう今風な冴えた美貌でたたずんでいる。このひとが軍隊内でもてた、という断片的描写は、男性ばかりの状況下でどういう種類の異常が起こりうるのか、という興味に格好のサンプルをあたえてくれるし、それに対する中井君の反応から、この人の風変りな潔癖さも知れる。それから、このころ大切な肉親に先立たれて、寂しく焼け出され、いろいろ苦労したりしたんだな、というのがわかると、作品の背景としての興味もある事件だけど、なかなか単純に同情をそそったりもする。やたらに書き込まれている女の子みたいな感傷や、細かく注のついた当時の風俗のスケッチやらも、蒼臭い詩美を保っていてなかなか素敵だ。
でもこの日記を好きなのは、その上にもう一つ個人的な理由がある。この日記は、本当に詰まらない事、細かい事、何もかもやたらに細かく書き込んでいる、そのこと自身に、僕はシンパシイを感じるんだ。僕は、中井君が日記を懸命に書きつけていたのか、わかる気がするんだ。彼はただ重大な時代を書き留めようとばかりしてたんじゃないんだって気がするんだ。小さな自分を省みて、ね。
実は僕も、この日記を読んだ頃(十八だった)より少し前、日記を必死で書きつけていた。高校三年の頃の日記というのは、いまのものと全然違うんだ。いや、中身は対して変わりゃしないよ。人間変わってないから。つまり、日記に対する姿勢が、違ってたんだ。大学ノートに「遺稿」なんて題をつけて、自分のことを皮切りに何でもかんでも書き込んだ。場所も時間もおかまいなし、人が白い目でみようとなにしようと、やめずにね。
その「遺稿」ってタイトルは、別に死のうと思ってつけた訳じゃない。青年期の感傷に酔っぱらって、そんな題をつけたんじゃない。中井君みたいに、本当に死地の環境と時期に追いつめられて、「精神革命起草書」を書いたみたいに、気負ってつけたものでもないんだ。ただ、後になにか残そうと思って書いたんだ。それは、当時の自分の書いたものに価値があると思ったからじゃない。大学に入ったら小説を書こうと思ってた。それの下敷にするつもりだったんだ。僕はそれまで、まとまった小説ってものを書いたことがなかったし、書くには、書くべき材料があまりにも少なかったし。だから、自分の感じたこと、自分の価値観、自分の疑問、自分の哲学、自分の面白いとおもったもの、もろもろすべてを一生懸命書きつけたんだ。そこが初めだと思ったからさ。
で、たぶん中井君も、自分のこれからの文学の下敷として、修業として、必死に日記をつけてたんじゃないかと思うんだ。『彼方より』には、中井君が入隊の時、白秋の『桐の花』一冊を持っていったと書いてるけど、結局あのひと、文学青年ながら、そんなものだけしか、自分の基本にできなかったんじゃないかと思うんだ。よるべになるものがあまりに乏しくて(量的にも質的にも)、必死になって日常を書くことで、すべてを書きつくることで、自分の中から何かを引き出そうとしたんだと思うんだ。実際、このころの発想を、作品にしたもの、あとで書き起こしたもの、相当あるわけだし。
例えば、べつの日記になるけど、『黒鳥館戦後日記』を見てみよう。創作メモとして、こんな記述がある。《仮題「悪魔の家」/これは私のすべての作品をひく辞書だ。/これは私の文学の聖書だ。/すべての作品の原典だ。》ってのが。
当時の彼は二十三才だけど、これ『虚無』の原形なんじゃないかと思うんだ。……不可思議な世相と呪われた中井家と理不尽な母の死。これが『虚無』の下敷きになってるのは、中井君を少しかじれば察しられることだ。……本人が『ユダの窓』がきっかけだった、とあちこちで述べているのは本当だとしても、その基本発想は、もっと昔からあったんだと思う。何気なくね。『黒鳥館』なんか、もうなんでもかでも書いてあるもんな。自分の出来る料理のレシピ、憤るしかない新聞記事のスクラップ、甘ったるいセンチメンタリスム、それに混じって当時の風俗を描いた草稿や将来の大作を夢みる創作メモ。……とにかくなにしろ、この時代を基礎にして、中井君はできあがったんじゃないか、とやっぱり僕は思うよ。人生の岐路、青年期にありってやつ。
まあ、中井君が青春時代、戦争時代を糧にして、散々書き散らしたのは、読者のよく知ることで、今更僕が騒ぐことじゃない。人が若い時代にこだわるのは珍しいことじゃないし、中井君には《戦争》って一大事や、《肉親に死に別れる》という大事件があった訳だから、それなりに書く意義がある。それにしても、様になるんだからいいよね。うまく昇華しててさ。……
さて、そろそろ次の日記にいこうかな。『月蝕領崩壊』はどうだろう。僕は、中井君の作品からなにか好きなものを一つ挙げろと言われたら、不出来なものとは思うけど、これを挙げるな。個人的に好きなんだ、これ。かけがえのない友人の癌とその最後を見届ける作家の日常記、とでも紹介すればいいのかな。中井君は怒りそうだけど。傾心の対象をただひたすらに見つめる魂の記録、とでもいえばいいのかな。作家の、同性の人間に対する深い執着の記録だ。
この中井君にとって特別な人間《B公》の事は、エセイの『ラ・バテエ』あたりで知って、ふうん、中井君にはこんな友達がいたのか、ってぼんやり感じてたんだけど、『月蝕領崩壊』を読んで、「わあ、こいつは!」と叫んだね。読んでると、泣きそうな顔をしながら日記にむかっている、神経をぴんと張りつめた男の姿が、目に浮かぶようだったよ。二人のぎこちない闘病生活が、ほうふつとするんだ。……でも、上手じゃないよ。つきつめかたが甘い。読んでも泣けてこないしね。これでよくオスカー・ワイルドの悪口が云えたもんだよ。たしか彼、『地下を旅して』で、ワイルドの『獄中記』について、《よくもまあつっこみの足りない、甘ったれた思いを綿々と書き綴って》なんてな事を、云ってやしなかったかい? 誰の事を云ってるんだろうね、棚にあがっちゃってさ。
ほら、あの、三一書房の全集の8巻読んだかい? この相沢さんてひとの書いた、この日記の解説のとこ、見てよ。中井君って、二十代で出会って何十年もずっと面倒を見てくれてきた編集者のBが、《おまえの作品を一個も読んでない》といったのを、頭から信じてたんだってね。盲信なんてもんじゃない、目を覆いたいほど幼いというか、自己中心的で相手の気持ちを察しない、というかさ。解説のひとが《わたしはその作家の残酷がおぞましく、その人間の自己憐憫をうとましく思った》って書いてるでしょ。全くそのとおり。綴られているのは、甘ったれた泣き言だ。自分の不幸を訴える泣き顔は、いつだって疎ましい。はた目には、迷惑で気味の悪いものだ。
うん、中井君の同性愛問題は、やっぱり考えどこだよな。どう扱えばいいのか、結構考えちゃうんだけどさ。こういうことは、ひどく個人的な問題で、本当のところは、本人にしかわからないことだからね。確かに男色的傾向のあるひとだと思うけどさ。身体的な事実はさておいて、精神的には、やっぱりあるだろうさ。中井君には同性愛者の必須条件(?)、強烈なマザー・コンプレックスがあるしね。このひとは、五人兄弟の末っ子で、お姉さん子でお母さんに溺愛されて、甘えを自覚してナルシストとして育った人だ。要素はあるんだ。その人が母親を失って、敗戦後、本人いうところの清らかな大恋愛に破れた、というなら、そのあと自分と同質の人間に走っても不思議はない。より優れた者に出会っって、恋情を抱いてもおかしくはないと思う。作家は嘘をつくし、多分に演出があるだろうけど。
でもさ、中井君のBに対する気持ちってのは、同性愛というより、ほとんど宗教に近いんだよね。これは崇拝だ。もう相手の云うことは嘘八百でも構わない、無理にでも全部絶対信じなきゃいけないんだ。この人がいなきゃ生きてる意味が無い、スーパーエゴみたいな存在を抱いてる状態。心をそっくり、完全に預けてるんだ。……なにが言いたいのかって?僕は思うんだ、劣等感や疎外感の強い人間には、こういう存在が必要な時もあるんじゃないかって。他人や時代に流されないための、自分ひとりが選んで信じる、一つの神様がね。まだきれいなままの弱々しい魂を、そっくりそのままとっておきたいって気持ちのために、自分の城を突き崩されないために、異なるものを入れない、特殊で堅固な壁を築く姿。純愛風でいいじゃないか。え、そういうのも男色の世界だって? 待てよ、男には昔から、相手の人柄にのめりこんで、その人の冒険に命を賭けるってロマンがあるじゃないか。独特のニュアンスでさ。男同士の友情ってのは、たぶんいろいろなレヴェルで存在すると思うんだ。その個人にとっての様々な事情と運命でさ。そういうことは、ひとがとやかくかんぐらなくてもいいんだよ。Bって人は、中井君の第二のお母さんって考え方もできるけど。Bってひとは、影になり日向になりして、中井君を育ててきたひとみたいだからね。
脆弱なくせに、怠け者で威張り屋の中井君がなんとか生きてこれたのは、きくところによれば、友人達がいろいろと面倒をみて、ひきまわしてくれたからだろう? 作家としてなったのも、よき理解者と応援者達があったからこそだ。Bって人は、そういうなかで、一番近くにいて、守ってきてくれたひと、とみてもいい。空気のように自然にそばにいて、必要な人間として、Bって人は存在したんだ。……うらやましいような話だ。果して普通の人間の目の前に、こういう人間が現れてくれるかどうか。……そんなことを考えると、中井君てのは幸せな奴だ。その反対に、そういう人間を失うことは本当に辛い。その痛み、ほんの少しだけ知っている。……
さて、やっかみはおいといて、少し中井君を誉めてあげよう。この人にもいろいろ、業績があるんだよね。日本の戦後短歌の新人発掘に尽力したとかさ。寺山とか塚本とか、みんな中井君が発掘したんだろ? その中でも僕が本当に感謝してるのは、久生十蘭の紹介だ。三一書房の久生の全集には、本当にまいってるんだ。これに個人趣味的な中井君のような人が力を尽くしてくれたのは、本当に嬉しい。僕は、この全集でしか読めない「だいこん」とか「キャラコさん」とかが大好きだ。主人公がほんとに魅力的で、読んでて気持ちが明るくなるし、すっとするし、理想的で健全な人間の力を信じたくなる。独自の戦争観に裏打ちされてるしさ。川村湊が、『紙の中の殺人』で、久生は脆弱な理想主義者だ、みたいなことを書いてたけどもさ、大人の童話だと思えばいいじゃないかとも思うんだ。本当は弱々しい貧血症の人間にだって、自分がそうなりたいと思う希望の物語を書ける。力強い純愛や、巧みな風刺を書ける。久生はそれが、書けたひとだと思うよ。(つっこみはたりないけど、川村湊より、川崎賢子の『少女日和』の方が、久生論としては面白いな。趣味の問題もあるけど)
話はとぶけど、久生十蘭というひとは、この人には身辺雑記の類が全然ないんだってね。この気持ちもわかるな。あのひとの作品の文章の完成度、根のつめかたをみると、日々変転する自分の私的な考えを書き留めて発表することなんできないと思うよ。虚構そのものに完全に取り込まれちゃって、人生の全部になってる人だから。……そういう夢うつつの生き方も、一般人から考えれば、甘ったれた嘘っぱちな生き方なのかもしれないと思うけど、筋が一本通ってるんだから、立派だと思うよ。こういうのも、いいよね。
しかし、そういう面でこの全く反対路線の中井君の作品は、相当久生の影響を受けてるね。人間像や題材や。例えば「人形たちの夜」に「春」にでてくる、砂美とその母親の話。刑務所で生まれた少女、という設定、確か久生の短編にあるだろ、「虹の橋」っての。久生の方は、自分の生い立ちを隠そうとして、別人の罪を背負ってしまうという話だけど、主人公の悲しみの描き方、生まれてくる子には生い立ちを教えないで、と頼む終わり方、そのほかを見ても、これは下敷だと思うよ。それから、……ほら「干からびた犯罪」だったっけ、怪しげな霊媒師がでてくるのは。『真珠母の匣』にもでてきたっけか、まあ、そういう奴。中井君の話には、けっこうでてくるいかがわしい輩だけども、語り口なんかからして、あれも久生の「雪の小径」あたりが、頭の中にあって書いた話だと思うんだ。かなり影響強いよ。久生の枠より、中井君の枠の方が狭いくらいだ。久生がいなけきゃ、このひと、上手な短編書けたかどうか。
まあ、これも別にたいした問題じゃないけどね。他にも久生の影響受けた作家はごまんといるんだし、創作の命は題材じゃない、題材の取り上げ方なんだから。独自の切口、価値観、アプローチが問題になるんだからさ。先達の作品を自分のやり方で処理するのは、正しいやり方だよ。新しい創作をするときに、認められたやり方だよ。けしてパロディなんかでなく、さ。中井君レヴェルの作家であれば、それなりの、彼なりの、オリジナリティーでいいと思うんだ。中井君は、ほどほどなところがいいんだからさ。デカダンな物言いだけど、中井君は、たいしたことないから、面白いんだ。取り澄ました男でなく、意気地無しの甘ちゃん作家だったから、面白いんだ。作品がちゃちながらくたのようだったから、面白いんだ。そんなもんだと思うよ。
あれ、もうこんな時間かい? そろそろ終わりにしよう。やっぱり、とりとめがなくなっちゃったね。もうちょっと面白い話ができたらよかったんだけど、また始めるときりがないし。続きは別の機会、ということで……それじゃ。

付記

生前の中井英夫に、このエッセイの掲載誌は送られている。一応本人、目を通したらしい。私の文章の処で、彼がどう感じたかはわからない。しかしまあ無礼な事を、と思う。若気の至りというか、よくもこうポンポンと悪口を並べたものである。ただし、私が書いた中井英夫に関しての小論としては、情けないことにこれが一番まとまったものなのである(何度も挑戦していてその都度失敗していた)。語り口を普段使わない「僕」にしているあたり、自分でもかなりイヤラシイと思うのだが。(1998.12)

(1990.7脱稿/初出・小松美明編『群探第15号』(中井英夫小特集)1990.7)

「『亜』は亜空間の亜 」

亜、ね。
亜愛一郎ね。
ああ。……懐かしい名前だなあ。
謎の写真家にして優秀な素人探偵、美麗な容貌の奇行の人、しかしてその実体は、南の島の王子様、って奴だね。
ところで、今更、亜なんですか?
だって、最近の泡坂先生といえば、華麗なる女性奇術師とかあやしげなインドの行者様とかでしょう。文学賞もいただいちゃったしねえ。最近、僕あまり本を読んでないんで、泡坂先生からも足が遠のいちゃってるんだけど、それでもいいの? 最近読んだのはエッセイの類ばっかりだよ。あいかわらずの切れ味だよね、だから、大筋のところは昔と変わってないだろうな、と思うんだけどさ。
それでも泡坂先生の話、書いていいの?
ああ。ごめん。
亜、の話だったっけね。
それだけすりゃ、いい訳ね?
うん。
亜はね、あれだよ。
あれってなんだって?
亜ってさ、自分の名字を紹介するとき、「亜は亜硫酸の亜です」とかいうでしょ。
他にも、「亜鉛の亜」とか「心のない悪です」とか、いろいろいうけど。
違うんだよ。
「亜」はね、亜流の亜です。
物真似っていう意味の、亜。
亜っていうのは、つまり、みんなが受け取っているような、オリジナリティのある存在ではないってこと。あるステロタイプのなぞりである、ということなんだ。
まあ、よく考えればね、間抜けで美形で腕っぷしが強い、なんてのは、まるで流行物だよ。もともと、ウケを狙ったような存在だ。
うん。
でもね。
それだけじゃないんだ。亜はね、何故亜流の亜かっていうとね、あれはガブリエル・ゲイルのパロディだからなんだよ。

え?
まさか、ガブリエル・ゲイルを知らない?
G・K・チェスタトンがつくった素人探偵だよ。知らないの? ああ、チェスタトンというと、みんなブラウン神父しか知らないんだから、やんなっちゃうよなあ。……なんて言えるほど、僕もチェスタトンを読み込んでないから、偉そうなことをいうのはやめとこう。とにかく、ガブリエル・ゲイルはね、『詩人と狂人達』という短編小説集で一冊になってるから、どの版でもいいから、騙されたと思って、読んでごらん。面白いから。
ガブリエル・ゲイルというのは、謎の絵かきにして、優秀な素人探偵だ。一見奇行が多いんで、狂人なんじゃないか、なんていわれちゃうんだけど、実は結構な身分の育ちのいい青年なんだ。ね、この設定だけ見ても、亜が、ガブリエル・ゲイルのパロディだってわかるでしょう? 絵かきと写真家、という、微妙なずらしも憎いいよね。
え?
それだけじゃ、根拠が薄弱?
ん、じゃあねえ、作品の筋で見てみましょうや。
亜のデビュー作である、「DL2号機事件」と、ガブリエル・ゲイルの二番目の話、「黄色い鳥」の相似を見よう。
ほらね、タイトルからして近いんだよ。
飛行機と、鳥だもの。
え? こじつけだって?
まあ、待ちたまえよ。本当に近いんだから。
「DL2号機事件」は、「一度あったことは二度とおきない」というジンクスを持った男の話だ。ころぶのがこわいと、先にころんでおく。地震がこわいと、地震があったばかりの土地へ引っ越す(あ、これはもっともかもしれないね、地学上の事を考えれば正しいや)。交通事故がこわいと、事故をおこした運転手をやとう。二度とおこさないだろう、という発想でね。ここまではいい。だが、その次がいけない。殺されるのがこわいから、先に自分の家で殺人事件をおこしてしまおう、という考えをおこして、殺人を実行しようとする。……まさに狂った論理だね。実にチェスタトン的な展開だよ、これは。ガブリエル・ゲイルをひきあいにだすまでもないかもしれない。ブラウン神父でも、こういう筋立て、よくあるからね。
じゃあ、「黄色い鳥」の話にいくよ。これは、解放することがが自由、という思想にとりつかれた男の話だ。男は、自分の思想のために、籠の鳥を外へはなす。ここまではいい。男は、自分の金魚を解放するために、水槽から外へ出してしまう。ここで、ガブリエル・ゲイルは男の思想に気がついて、みんなを男の屋敷から連れ出す。何故かというと、男は、自分の解放のために、屋敷を爆破してしまうんだな。
どうです?
近いでしょう、極めて。
「黄色い鳥」で、ゲイルが人々を助けたように、「DL2号機事件」で、亜も殺人をくいとめようとするでしょう?
本当に近いんだよ。
これは、意図的な作業です。間違いなく。
知らないで書いてる訳、ないんだから。
亜はね、チェスタトンの泡坂流翻訳、なんです。
嘘だと思う人は、ホント、読み比べてごらんって。
だから、いったでしょ。「亜」は亜流の亜なんだよって。
おわかりかな。

それでね。
あとね。
ここから先は、僕の個人的、直感的な話なんだけど。
「亜」はね、亜空間の亜でもあるんだ。

いや、亜空間っていったって、SFの話じゃないんだよ。
もっとわかりやすい言葉でいえば、日常に対する非日常、現実の空間に対する疑似空間、といえばいいかな。
僕はね、探偵小説というのは、大衆小説である故に、寓意を持つべきだと思ってるんだ。一つのおとぎ話であるべきだと。(これはやはり、チェスタトンの主張でもある訳だけど)
そして、探偵小説というものは、日常生活をちとずらした処にある、亜空間を描く小説であるべきだ、と思ってる。
何故かというとね、同じ大衆小説でも、SFはね、完全に異世界、を描くものでしょう。現実と遊離した世界。SFは、日常とまったくかけ離れた異世界を描く事によって、現実を風刺したり、理想の生活を実現したりして、読者をカタルシスに導くんだよね。
でも、探偵小説は違う。現実をぎりぎりまで料理して、いかに虚構の世界に持ち込んでいくか、という力業の世界なんだ。平凡な日常にひそむ、ぽっかりと開いた暗い淵。今まで確かな現実だと思っていたものが、音をたてて崩れ落ちてゆく瞬間。目の前のなにげない出来事が、心臓も凍るような恐ろしい事件の切れ端だったら……、と思わせる小説。これが、探偵小説の一つの美しい形、姿なんだ。
もちろん、いろんなタイプのミステリがある訳で、その全てにその美学が存在するとは言わないけどね。かえって僕の意見なんかは、極北扱いされたりするから、違うって人も沢山いるんだろうけどさ。でも、そういうののない探偵小説って、なんの魅力があるのかな。僕にはそれが不思議なんだが。美学のない探偵小説なんて、子供騙し以下じゃないか?
で、個人的な話をおいて、泡坂先生の、亜に戻るとね。
これはまさに、亜は亜空間の亜なんだな。
まず、話や論理そのものが、微妙に日常からずれていく、つまり非日常としての世界なんだよ。
亜の世界は、狂人の論理で貫かれてる。一般的な人間が持つ常識が、押し詰められて非常識に達したところを描いている。それは、亜空間を生む。(たとえば、別役実の不条理劇のように。あ、読んだことのない人は、別役の戯曲集を読んでごらん。いかに小市民の常識が押し詰められていくと、狂人の論理に発展していくか、わかるから。小説『探偵物語』を読んでもいいけど)
亜の世界は、強烈な印象を残す断片的な非日常なんだ。こんなこと、あるわけない、と思いながら、ありそうだなとも思わせてしまう世界なんだ。
それにね、舞台、設定そのものが軽いめまいをおこすようなものだったりする。
例えばね。
右腕山の上空に現れたと信じられるUFOの存在。
田舎町のまん中に立つキンキラの観音様。
カーボンで二度も真っ黒にされる商店街。
一晩で消えてしまった田舎の民家。
湖の底の巨大蛸。
南海の孤島が舞台なんて話には、数種のバリエーションもある。
いくつかの突飛な密室物も、マイナーな亜空間、と呼べるかもしれないね。
こんなのないよな、と思いつつ、でも、けっして日常から激しく遊離することのない異世界だ。
劇場の壁だか柱に化石を見出す亜、その存在そのものが、日常の生活の中に非日常を見出す存在、といえるかもしれない。

うん。
これが、探偵小説ってものだよ。
そう、思うんだけどね。

亜の魅力は、連作でパワーアップしてるところにもあるね。
亜という男の博学さが不自然でないし、おなじみの人物がでてきて楽しませてくれるという大衆的な楽しみもあるんだけども、非凡な論理世界を重ね合わせていくうちに、また新たな亜ワールドとでもいうべき、亜空間をつくりあげてるんだな。
そんな訳で、「亜は亜空間の亜」なんだよ。
うん。

(1993.10脱稿/初出・手塚隆幸編『亜愛一郎(泡坂妻夫)研究』1993.10)

「物部太郎のこと(都筑道夫論)」

「物部太郎について、何か書いて下さい」と頼まれて、ついうっかり、「ハイ」と素直に返事をしてしまった。
大馬鹿者である。
自分が書きたいものを書く訳ではない。頼まれ原稿である。
こういうものに、素人は、気楽に返事をしてはいけない。
特に僕は、エッセイ、評論の類は下手だ。
最近たてつづけにその手のものを書いてみて、その下手さ加減をしみじみ味わっていたのにも関わらず、なのだから、やっぱり馬鹿である。
だが、「ハイ」と返事をしてしまったのだ。したからには、やはり書かねばならない。しかたない。書くことにする。

でも、やっぱり、書きたくないよう。
だって結局、都筑道夫という作家の悪口を書くことになりそうだからさ。
僕は、彼を尊敬してるんだ。中学の頃から十数年も読んできたんだ。都筑という人は、僕に大人の本格推理小説とはなにか、というのを教えてくれた恩師だ。その姿勢と努力(とその継続)は、素晴らしいと思ってるんだ。
え?
だったら、誉めちぎればいい、って?
そうもいかないんだよ。昔の僕なら、できたかもしれないんだけど、今の僕には、もうできない。
なんか、見えてしまったものがあって。
かけられていためくらましがとけてしまった、というか。
これから書くのは、たぶん悪口になる。だから、渋ってる。

言い訳にしか、聞こえないよね。
でもね、恩人に砂かけるような真似、誰だってしたくないでしょう。
僕が立派な創作家で、彼を凌ぐような作品をガンガン書いてて、なんてことができてれば、ためらいないかもしれないけど、そうじゃないしね。
そうだよ。僕みたいなヒヨッコが、偉そうな事書けないよ。どこで誰が読んでるか、わからないしさ。この世界(文壇、特に日本推理小説文壇!)って狭いしさ、下手すると、まわりまわって作家本人に読まれちゃうことだってあるし。
前に、ある同人で書いたエッセイで、作家本人に読まれてしまって、それが全然深みのないイイ加減な原稿だったもんだから、思いきり冷や汗かいたんだ。何も知らん若造が何を書いてる、って一喝されるかと思った。ホント、無責任な原稿は書くものでない、と自戒しました。
でも、Nariharaはお調子者ですから、すぐそういう戒めを忘れてしまう。乗せられてヨタを書く。相手が誰かも忘れてね。
やっぱり、馬鹿だ。
え?
アマチュアだからいいだろうって? 作家は批評されるべきだって?
そりゃあね、なんとも思ってない作家について書くならいいですよ。ゆきずりの、たいして愛着のない作家について書くのならね。生意気な若造、と罵られたって、痛くも痒くもない。でも、そうじゃないからね。自分の骨身、血肉になってるような人について書くのは、やっぱり身を切られる思いですよ。
しかも、悪口を書く。マゾだね。
物部太郎の事だけあっさり書いて、そこですっとひいとけば問題ないのにさ。どうしてもつっこんで作家論してしまいそうなんだなあ。
やっかいな性分だなあ。馬鹿だよ、ホント。

さて。
どうして作家論してしまいそうなのか、というと。
彼が創作したそれぞれ個々の探偵について書くのが、恐ろしく難しいからなんだ。
だってさ、みんな、おんなじ人間なんだもん。
つまり、作者の塊儡、作者の分身。
真面目で几帳面な、怠け者。
これに尽きる。
どんなに遊んでても、お道楽してても、ストイックであるキャラクター。
これが、都筑の創作する探偵達だ。
もちろん、それぞれにカラーはあってさ、彼が使いわけてる訳だし、僕にも好き嫌いはあるんだけど。
(ちなみに僕が一番好きなのは、初期のキリオン・スレイ。外国人の風来坊という設定が適当にうさん臭くて、彼の堅苦しい面をうまくほぐして、あたりを柔らかくしてるから。遊びもうまく短編の枠に納まってて、下品になりそうなところをぎりぎりのラインで救っている)
あ。
物部太郎も、別に嫌いではないんだよ。
松田道弘氏の名著『とりっくものがたり』(ちくま)を読んで、『七十五羽の烏』はそんなにエライ本なのか、とびっくりしてから読んだからね、印象が他の本と違うんだな。作家本人も、楽しんで書いたシリーズだというのが伝わってくるし、自信もあるだろう、と思うしね。
でもね、だから、どう、というのを書くのは、凄く難しい。深みのあるもの、と言われたら、とても困る。
困るんだな。
彼は、良くも悪くも、職人芸作家だから。

僕は、プロ作家とは何か、という一つの理論を持っている。 アマチュアの分際で、と言われるかもしれないけど、素人だからこそ、あえて持ってる自分の論。
プロというのは、コンスタントに作品を発表し続けなければならない。しかも、そのレベルは落としてはならない。そして、自分の精一杯、いやもう死ぬほどの努力をして、読者に対して誠実な、良心的な作品も書かなければならない。
それが、プロですよ。
都筑自身が、確かそんなこといってた、と思う。

だからね。
逆に言うと、彼の作品は、職人さんの芸であって。
それ以上でも、それ以下でもない。
面白ければ、美しければ、それで結構。
つまらなければ、読者にあわなければ、それはそれ。
そういうものなんです。
だから、なにかあえていう必要がない。
小説は、論評されるためにある訳ではないですから。
読者が読んで、過不足がなければ、それがプロ。
で、都筑という人は、サービス精神は豊富ですから、もうできる限り自分の知識を詰め込み、書き尽くしますから、読者はなんとなく満腹してしまって、おしまい。
僕はそれで、長年騙されてきた口だから、よくわかる。
都筑について書こうとする人が、なんとなく歯切れが悪くなる理由は、そこらへんにあります。
つまり、テクニックを買わされているんだ、ということなんです。技術を。職人さんの技術を読まされているんです。豊富な知識とか会話の面白さとか独自のロジックとかを含めて、のことですが、基本は職人さんの意地を読まされている。
それは悪いことでもないし、間違ったことでもないんだけど、今の僕は、彼に足りないものがわかってしまったので、どうも納得がいかないんです。
他の作家にも、ないといえばないんだけど、彼の場合、本当に我が道を行く人だから、目立つんだな。それに、せっかくシリーズ物、書いてるんだから、やっぱり欲しいポイントなんだな。
それは何かって?
つまり、物語性、なんです。

彼は(物凄く古い話ですが)、シリーズ・キャラクターを使うことの有効性を、自著『黄色い部屋はいかに改装されたか?』(晶文社)で明らかにしていますし、佐野洋との論争もあって、シリーズ物の良さをさんざんアピールしています。
そうです。
確かに、シリーズ物は面白いのです。
馴染みのキャラクターがいることは、読者にも作者にも作中人物にもそれぞれ便利があります。
レッテルがあると安心して良めるので、読者が作品に入りやすい。作者も作者で暗黙の了解を含めて書きやすい。短編を積み重ねていくと、キャタクターの成長も書けるので、人物も深みがでる。これは全くその通りなので、特に都筑のような短編作家には、これは有効な書き方でしょう。
でもね、それだけ、なんだなあ。
小手先なんだ。
なぜ断言するかというと、都筑先生は時々、短編で書いたキャラクターを長編で登場させたりするのですが、まず例外なくつまらない。失敗してしまう。それは、彼が長編を書けないからじゃないんです。もともと彼はあまり長編がうまくない、という理由もあるんだけど、もっと原因は根本的なもの。
この人、物語が書けないんです。
ここが、不思議なトコなんだなあ。
いやね、僕は本当に不思議に思ってるんです。皮肉じゃないんだよ。というのは、都筑はチェスタトンが好きだからです。チェスタトンというのは、独特のロジックを描く人で、文学、ミステリ、諸方面に影響を与えておりますが、この人、物凄く寓意に満ち満ちた、物語を書く人です。あるパタンのおとぎ話を、無数に生産した人、といっても過言ではない。
ところが、都筑は、お話は書かない。現象とか、自分の論理とかは書くんだけれども、決して物語は書かない。他者をコマに、ロマンスを書くことはない。せいぜい講談どまり。
だから、長編が駄目なんです。
物語としての骨組みがないから、読み終わった時、うすっぺらい感じがいなめない。短編を引き延ばしたような、水で薄めてしまったような、頼りない感触しか残らない。
彼自身が、本格推理小説に人情を持ち込むと甘ったるくなる、と自らを戒めているから、といってあげてもいいのですが、やっぱり長いものは、ロマン、つまり物語の部分がないと、読者は満足しないと思います。せっかく長いもの読むんだもの、読者は筋をたどります。それがない、というのは、致命的かな、と思う訳です。
僕は(自分も物語を書ける体質でないにも関わらず)、十数年前から、探偵小説を「Logical Roman(論理的なロマン)」とよんでいました。直感的に、そう思っていた。ドイルやルブランや乱歩が読まれ続けるのは、そのロマンの部分がたぶんにあるせいだから。
大衆小説には、やはりロマンが必要じゃないかな、と思う訳です。
せっかくシリーズ・キャラクターでサービスしてるんだから、そこまで欲しい。小手先の芸で魅せるのでなく、虚構の人間に、もっともらしい命を吹き込んでほしい。そう思う、訳です。だって、シリーズものだったら、やればできるんだもの。やりやすいんだもの。
だから、やってくださいな、と思う訳でした。

我が道を行き、それなりの業績をあげている作家に、ずいぶん余計なおせっかいをいう、と思われるかもしれません。でも、切なる希望。このまま、モウロクしてもらいたくない。

さて。
簡単に都筑論をしたところで、物部太郎くんの話にうつりましょうか。
え?
どこが簡単だって? 前置きが長すぎるって?
すいません。実はこれでもいいたりないくらいなんです。
でも、あんまりつっこんで書くと、先が続かないから。
(ここまで書いといて、よくいうよ)
まあとにかく、物部太郎君の事を、ちょっとだけ書きます。

太郎君には、良いところが三つある。
一つは、育ちの良さである。
その育ちの良さが、嫌味のないばかりでなく、都筑らしい設定で、面白い。
物部太郎は、怠けたいんである。
普通だったら、怠けたいのなら、ただ怠ければいいのである。ぐれればいいのである。
ところが、太郎君は違う。
親に心配をかけず、人に迷惑をかけず、一生懸命やっているようにみせて、堂々と怠けたいのである。
ポイント高いのは、親に心配かけず、人に迷惑をかけず、という心意気。
そんなこと、普通の怠け者は、考えないだろう。
これが都筑の、怠け者でありながらストイックなキャラの典型的なパタンなのかな。
都筑は、そういうキャラクターが好きだし、正しい男らしい生き方だと思ってるみたいで、久生十蘭の「ハムレット」という作品を評して、「極端に苛烈な運命から、逃れようともせず、圧しつぶされそうもせず、生きていく男らしさをえがいた作品に、みがきあげたもの」(「真説・鉄仮面」解説)というのだが、この話、趣味的な演劇人である小松という男が、半生を道化芝居で過ごした、という話で、別に苛烈な人生でもなんでもない。たしかに小松はハムレットを演じるために並々ならぬ努力をし、叔父に殺されかかり、婚約者を奪われするけれども、彼はもともと生活能力のない人だったので、叔父さんに飼い殺しにされていてもあまり苦痛に思っていなかった節があって、死んでほしいと頼まれると、じゃあ死のう、などといってしまったりするトボけた男なのである。
面白い奴だが、決して、彼のいうような男ではない。ここに、都筑先生と世間のズレ、がある。まあ、それが面白い、とも、言えば言えるが。

二つ目は、シリーズ・キャタクターとしての、楽しさが味わえる、ということ。
片岡直次郎は、ファースト・エイド・エージェンシーなるあやしげな職業の人間であって、どんな揉め事も片付けると豪語する人間だから、お坊ちゃんの物部太郎を、もとはたいそう子供扱いしていた。第一作目『七十五羽の烏』の台詞はこうだ。
「あきらめて、起きてくれよ。探偵の仕事は、ぼくがやるからさ。そばで見てるだけなら、いいじゃないか。立体推理小説だと思って、楽しんでいればいい。なにしろ父上が心配して、電話までかけてきてるんだから」
普段は依頼人である太郎に敬語をつかっているのに、いざとなると子供扱い、本音がでるらしい。会話はぼく、きみで、ほとんどかけあい漫才である。
これが、第三作目になると、こうだ。
「ぼくは実に不しあわせなんです。至急、こっちへ来てくれませんか、所長」/「おもしろがっていないで、なんとかしてください」/「その(苦境をすくってくれる河内山)宗俊の役を、所長にお願いしたいんです」/「そりゃあ、ファースト・エイド・エージェンシーのころですよ。物部太郎探偵事務所の一員としては、むちゃなことは出来ないでしょう」
弱気である。いくら彼をひっぱりだしたいからといっても、随分だ。
これを、キャラクターの変化として楽しめれば、それはそれで面白い。成長物としての、意義がある。

三つ目は、都筑の作品の中での、特殊な位置である。華麗な初期長編の美しさを残しながら、緊密な論理構成を、長編として楽しめることだろう。これは松田道弘氏の評論にくわしいし、それ以上の事は書けないので、皆さん文庫で読んで欲しい。
まあ、一言で言うと、かなり猥雑な部分もあるのだが、基本的に短編作家である彼が、よく頑張って書いている、と思う。どうやって事件を一つ一つ積み立てて行くか、そういう緻密さを学びたい人間には、格好のテキストだろう。推理小説において、組み立てについて研究するのは大事な事だ。

ただし、やっぱり物部太郎は古いのである。
題材のとりあげかた、内容の古さは、作品の古さもあって、いかんともしがたい。というか、この作家は、いろんなものにすぐとびつくんで、逆に作品がすぐ古びてしまう作家なんだ、ともいえるんだけれども。
都筑は若い頃、講談のリライトなんかをさんざんやっているから、そういう知識が豊富だろうが、今の読者は、この内容の濃さ、彼の趣味についていけないだろう。
たとえば、片岡直次郎、といって、ピンとくる人が、若い人の中にどれだけいるだろうか。こういうペダンチズムは、僕は大変好きだが、普通の読者にとっては、彼の知識は興味のない雑学、としか映らないのではないだろうか。
古いものは、現代では、いっそ時代劇にしてしまったほうがいい。彼の知識が活かされるし、古くて当り前だからだ。
そういう意味では、砂絵のセンセー物は成功している。文庫を渡り歩いて今でも生き延びているのが、いい証拠だ。
そんな訳で、物部くんは現代では分が悪い。

付記

何故かは知らないが、この文章も一人称「僕」で書かれている。人の悪口を言う時には性別を隠すようにしていたのかと思うが、単に韜晦の手口として使っていたらしい(1998.12)。

(1993.10脱稿/初出・手塚隆幸編『物部太郎(都筑道夫)研究』1993.10)

「島田荘司『眩暈』論――第二の乱歩たらんとしている小説家の明日はどっちだ?」

1.気の毒な小説への弁護

『眩暈』のよい評判を、あまりきかない。どうしたのだろう。ある書評では、「島田荘司はどうしてしまったのだろう。なにかバラバラになってしまった感がある。今まで素晴らしい作品群を産んでくれたことに感謝して……」云々と書かれていた。そんなに酷い作品なのであろうか。手にとる前、私は首をひねった。そして、手にとってみて更に首をひねった。きちんとした探偵小説ではないか。なかなか面白いと思う。彼もついにこのレベルまで到達したか、と誉めてやっていい出来だ。それなのに、どうして、真面目に論評がされていないのだろう。SF的な匂いがするから? 社会批判、文明風刺的な要素が強いからか? それともパロディ的な要素があらゆる分野からとられているから? それとも、男色が事件の要素として使われているから? いつものようなハッタリ臭が薄いせいで、探偵小説としてくいたりない、と思われているのだろうか? 問題提起が今更だというのだろうか? 今更やっかみで黙殺されているとは思えないし、いったいどういう理由なのか。
おかしい。
皆、島田荘司に何を期待しているのだろう。彼の指向性を、どうとらえているのだろうか?
本来なら、島田荘司のファンでない私が、こんな文章を書くのはおかしいのだが、この本については、どうやら読んだファンも黙ってしまっているようなので、少々ふびんに思い、一文を書くことにした。(ちなみに、私の読んだのは講談社の初版である。書き直しのあるという二版以降の事は知らないので、見当違いの事を書いてしまったら申し訳ない)
さて、以下の文章は、『眩暈』のストーリーに多少触れつつしなければ書けないので、未読の方で、『眩暈』を推理小説として楽しみたいと思われる方は、原書を読んでから、この拙文を読まれたい。単に一冊の小説として読もうと思う方には、何の問題もないので、続けて読んでいただきたい。読むつもりのない方も、既に読まれて、この本に腹を立てているような方も(さているのかな)、御同様にお願いしたい。
『眩暈』の大筋は、ある研究論文集の中の一文からスタートする。精神異常者が書いたとされる文章が、探偵御手洗潔の元に届く。御手洗はその文を読み、何年も前に起こった殺人事件を即座に看破、助手であり作家である石岡は、その解明に手を貸し大活躍するのだが……という、きわめてオーソドクスな形の推理小説である。ある意味、今までの御手洗物の、集大成にあたる本ともいえよう。これで何故、バラバラになってしまった、などと言われなければいけないのだろう? それを、色づけしているもののせいか?
ひらがなで始まる最初の章は、ダニエル・キイスの有名なSF『アルジャーノンに花束を』を思わせる。また、精神異常者の書いた文章、というモチーフには、夢野久作の『ドグラ・マグラ』を思いだす方もいるだろう。「ぶーん、とモーターの音のするエレベーター」なんて形容は、『ドグラ・マグラ』の有名な書き出しを思わせるので、やはり意識して書いているのだろう。また、自分がかつて書いた作品『占星術殺人事件』を殺人を飾る要素に用い、過去の作品にたびたび触れる書き方には、乱歩の『陰獣』を思い出す方もあるだろう。そこらへんが読者を混乱させる、バラバラ感のゆえんなのであろうか。
しかし私には、ごく自然に読めた。『水晶のピラミッド』に比べたら、こちらの方がよっぽど一本筋の入った、読みやすい小説である。島田荘司の流れていこうとする方向性から考えて、全く自然な線上にある作品だと思う。
先にも書いたが、私は島田荘司のファンではない。だから、必要以上にもちあげたり、弁護するつもりはさらさらない。はっきりいって、私は島田荘司の作品のうち、ほぼ御手洗物しか読んでいない。そして、デビュー作『占星術殺人事件』と次の『斜め屋敷の犯罪』は、ほぼ発表当時に読み、「なんだこれは」と、一度は放り出した読者である。
それがなんで続きを読むようになったかといえば、知人から頼まれたせいだ。ゆえあって御手洗物のパロディを書かねばならず、仕方なく初期以降の作品を読み、その後の島田荘司の活躍の様子をきき、ハハァ、こいつの狙っているのはこれか、と思いあたって、見直したのである。その心情はわかる気がするし、作家として精進しているし、御同情申し上げたいと思う部分も多々ある。最近はいいたいことが多すぎるらしく、やたらと長編志向なのはいただけないが、彼の精神は理解できる。某講談社文庫文庫の後書きにあった「御手洗潔の志」を読んで、私の読みはだいたいあたっていたな、とうなずいたものである。
今回も、彼の精神は散見されるが、全部ひっぱりだすのは大変なので、明快な一箇所を抜きだしてみよう。講談社初版の396ページから397ページにかけて、のところである。

「明治の文豪、漱石や鴎外も生涯借家暮らしだったのですよ。そのことがもし彼らへの尊敬心へのブレーキになるとしたら、現代日本人は救いがたく成りあがっているのです」
御手洗がにやにや笑いながら言った。
「今われわれが、彼らに対しいくぶんか敬意の念が曇るとしたならば、彼らが家を持っていなかったからでなく、大逆事件や、時の権力の横暴なとんちんかんぶりに対し、なにひとつ発言することのない常識人として生き、カフェで演説のひとつもぶたなかったということを理由にすべきなのです」
本気ともジョークともつかぬそんな御手洗の言に、真顔で大きく頷いたのが藤谷だった。
「その通りです。当時の文人で、社会的な問題意識を持ち、多少なりとも書いたのは、石川啄木ただ一人でした。漱石も鴎外も、安全な文豪という道を選択したのです」
藤谷は持っていた紅茶茶碗を、受け皿に置いた。そして、鼻眼鏡を右手の指先で押して、もとの位置に戻した。
「私は今、このようなミーハー雑誌をやっておりますが、ジャーナリストとしての信念を忘れたつもりはありません。一生芸能人の朝帰りばかりを追っかけるつもりはありません。一介の編集者の私が言うことではありませんが、Fを、いつかは社会への問題提起の雑誌としたいと考えております」

これが、島田荘司の基本姿勢であろう。
非常にわかりやすい訴えだ。
彼の創作は、反骨精神なのである。
そして『眩暈』もまた、社会への問題提起としての、探偵小説なのである。

今回の彼は、(不謹慎な言い方をすれば)今流行の『環境と人間』をテーマにしている。わかりやすいところでいえば、「酸性雨は、降りはじめが最もペーハーが高い」などという御手洗の呟きであるが、先ほどとりあげた、バラバラな要素の中に、一本筋を通すのがこのテーマであるのだ。
『アルジャーノン』と『ドグラ・マグラ』には、共通するものがある。前者はSFであり、後者は探偵小説であるけれども、両方とも、医学への問題提起がある。『アルジャーノンに花束を』は、心の美しいチャーリーという精薄の青年が、知能発達のための人体実験をひき受ける話であるし、『ドグラ・マグラ』も自我を失って苦しむ呉という青年が、正木と若林という医学博士にもてあそばれる話なのであるから。今回の島田荘司はサリドマイド児を扱いながら、それに対するチャチな憐憫なしに物語を組み立てている。学術研究の薄気味悪さ、つまり有用であるからといって、科学が、医学の研究が、文明の進歩と称してどこまで許されるのか、という問題の追求。インドネシアへの日本の進出の描写を描き、その不気味さをきわだたせる手際。そういう細かい要素を、積み重ね、積み重ねして、だが深刻になりすぎず、わかりやすい本格探偵小説を組み立てている。
よくやった。
……じゃないのか。違うのか?
特に、島田荘司をおっかけてきたファンの人間は、この本を評価してやらねばなるまいと思うんだがな。文章のレベルもあがってきたし、読者の反響を考慮し克己し、作品に一本筋を通した彼を、誉めてやっていい筈だ。先にあげた二作品に続けて、『御手洗潔の挨拶』『異邦の騎士』『御手洗潔のダンス』『暗闇坂の人喰いの木』『水晶のピラミッド』そして、『眩暈』と読んでみると、ここまでやってきた彼の努力は、認めてやらねばなるまいよ。
と、思うんだがなあ。

2.気の毒な作家への弁護

思えば、島田荘司は非常に気の毒な作家である。
御手洗作品を通して読んでみて、同情はやはり募るばかりである。
気の毒に。

先にも書いたが、島田荘司は、反骨精神によってものを書いている。
ゆえに彼は、オーソドクスな人情味溢れる本格探偵小説を書き続けなければならないのだ。
気の毒に。

島田荘司は、たいそう孤独である。
大勢仲間を引き連れ、後輩を育てあげているが、その中にいても、なお孤独であろうと思われる。(その事でさえ叩かれているものな)
気の毒に。
反骨であるためには、仕方のないことであるが。

島田荘司が登場した頃というのは、真面目な社会派も流行らず、軽味の赤川次郎のブームさえ去り、日本の探偵小説というジャンルは相当お寒い状況だった。そこには幻影城出身の作家達やらがまだ気炎を吐いていたのだが、マニアックであり、王道ではなかった。そこへ島田荘司は出現した。とんでもない大時代な道具だてをひっさげて、懐古趣味極まれり、といった呈で現れたのである。
探偵小説の読者達は、思いきり眉をひそめた。なんだ、この作家は。品がない。職業は占星術師だって? 怪しげな。
事実、私もそう思っていた。誰もがそう思っていたと思う。初期の島田荘司が、古株の探偵小説ファンにどれほど冷たくあしらわれたかは、著者本人がそちこちで語っているところであるから、間違いない。
さすがに当時は私も、彼の反骨精神の強靭さに気付かず、続けて読もうという気はおこらなかった。その後、新本格だ、などと銘うって、某大学の大学生達を後へ従えているという風聞も、なにやらしゃらくさいと思ったものである。
だから、島田荘司を再び読むようになったのは、全く偶然のことなのである。
読んでも、最初はやはりたいして感心しなかった。私はどうしても文章や筋立てに品のあるものが好きで、島田荘司には、そういう品格にやや欠けるところがあるからだ。若いパワフルなお嬢さん方は、そういうささくれだった部分も平気で飲み込めてしまうのだろうけれど、私は文学部なんぞを出たガチガチのうるさ方なので、どうもそういうところが我慢できない。
それが、ある日、ふと見方が変わった。
ある本屋で手にした、一冊の本のせいである。
島田荘司は、鮎川哲也と、懐古趣味のアンソロジー本を出していたのである。初めは意外な取り合わせだなと思ったが、鮎川哲也も新人発掘に熱心な作家であると同時に、古い探偵小説を大切にし、後世に遺していこうという作家であるから、懐古趣味で、かつ若者をぞろぞろとひきつれてまわっている島田荘司と、一脈通じるところがあってもおかしくない。
なるほどな、と思いつつその本のページをめくって、私はあっと叫んだ。「三行広告」が入っている。
この好短編が、まだ読めるのか。
「三行広告」は、私が高校後期、懐古趣味に走って走りまわった頃、とあるアンソロジーで読んで感銘をうけた、気楽な遊び心のある美しい探偵小説である。乱歩の随筆や香山滋の古いところを読みふけっていた私は、記憶の片隅に残ったその掌編を愛した。新聞の三行広告から展開するささやかな都会の冒険。知的な人間のお遊びにワクワクする心持ちは、探偵小説の魅力にとりつかれた人間が、忘れてはいけない要素である。これを書いた作家は、他にほとんど作品を発表しておらず、放っておけば必ず埋もれてしまう小品であった。
これを選んだのは、当然、鮎川哲也であろう。
と、思ったら違った。
島田荘司が真面目に推薦しているのだった。彼は彼なりに、この短編を愛惜しているのだ。
えらい。
こんなところでも、きちんと仕事をしていたのか。
見直した。
……という、非常に簡単な理由で、島田荘司を再評価してしまったのである。
うるさ方のひねくれ者、と自称しながら、私もかなり単純な人間である。普段、同じものが好きだからといって仲間である、などとなれなれしく近寄ってくるものをみだりに許さない私であるくせに、いったいどうしたというのだろう。
実はそこで、私はようやく、第二の乱歩たらんとしている彼に気付いたのである。

江戸川乱歩。
私の乱歩観は、単に初心者へ探偵小説への扉を開く人ではない。
日本の探偵小説の父であり、母である人だ、と思っている。
尊敬している。一目置かざるを得ない人、と思う。
彼の前にも、日本の探偵小説はあった。彼ばかりが極めて優れた探偵小説ばかりを書いたともいえない。
しかし、彼は探偵小説を愛した。
そのために翻訳もした。海外作品の紹介を執拗に続けた。劇もした。本当の探偵になろうとさえした。書誌をつくった。随筆をまとめた。仲間を育んだ。雑誌をつくった。赤字になってもやめずに、身銭をきって、それこそわが子のように慈しんだ。そして後輩を引き立てた。かわいがった。作家育成のために賞もつくった。
彼は、自分が愛して愛して愛しぬいた探偵小説のために、なんでもやった。自分が傑作が書けなくなったのなら、後に続くものに書いてもらおうと、奔走して奔走して、そして、この世を去った。
えらい。
そう思って、はた、と気付いた。
現在の島田荘司のやっていることも、ほぼ同じじゃないか。
彼はまだ、作家生活を始めて十年ほどだ。やってることも乱歩に比べれば、小規模に過ぎない。
しかし、その心意気は、はっきりと理解できる。
彼は、第二の乱歩たらんとしているのだ。
足りない分はまだまだあるが、成長しようとしているし、実際してもいる。
なるほど、そうだったのか。
ようし、わかった。頑張ってくれたまえ。

こうして、島田荘司を見直した私なのであった。
ところで、読者の中には、反論もあろう。
いくらやっていることが立派であろうとも、作品が面白くなければどうしようもないではないか、と。
それは、その通りである。
そういう方は、以下の話を読まれるとよいと思う。

「数字錠」
「異邦の騎士」
「暗闇坂の人喰いの木」

最初の「数字錠」は短編である。後二冊は長編である。これらの作品には、私は一応の及第点が与えられてよいと思う。実際、島田荘司のファン(特に女性)は、これらの作品が好きだ、という人が多いようだ。
ところで何故、私がこれらに点をやれるかというと、これらは、すべて人情話だからである。きちんとした、お涙頂戴だからである。(「数字錠」なんて、志賀直哉の「小僧の神様」ばりだ)
皆、騙されて読んでみてほしい。
そこで、納得すると思う。これらが、人情話であることに。

もともと、御手洗物は、シャーロック・ホームズのパロディであるらしい。シャーロック・ホームズの面白さは、人情話の面白さである。これは私の独断ではない。あの、都筑道夫がそういっているのだ。都筑は、ホームズが読まれ続けているのは、人情物であるからだといっている。なるほど、と思う。大衆が面白いと思うのはロマンスである。人情話である。だから、話のつじつまが多少あわなくとも、面白いと思えば気にしない。
ところで、本格探偵小説は論理の小説である。余計な情緒は排除したい、と思う都筑であるから、このホームズの論評はむしろけなし言葉であろうが、ここでは、人情話こそ読まれる、エンタティメントの基本である、という、古くて新しい命題に注目していただきたいのだ。
つまり、島田荘司は、読まれるために、人情話に走ったのである。その要素を、深く取り入れたのである。
えらい。
しかも、きくところによれば、他のシリーズでも、作品にいろんな要素をぶちこんで、探偵小説のあるべき姿をよく復習し、作家である修業を怠らず、よく努力しているらしい。
立派な事だ。頑張って欲しいものだ。

え?
そんなの、作家としてあたり前だって?
作家は読まれなければどうしようもないし、作品をよりよくしようとする努力は誰でもするものだから、当然のことだって?
ああ。
それはそうだ。
だが、島田荘司の努力は、ちょっと違うのだ。
あまりにも、涙ぐましいことなのだ。
それが、わかってしまったので、私は気の毒でしかたない、というのである。

もう一度、この章の最初の部分を繰り返そう。

島田荘司は、反骨精神によってものを書いている。
ゆえに彼は、オーソドクスな人情味溢れる本格探偵小説を書き続けなければならないのだ。
反骨、つまり世間に流されないこと、反逆児である、ということは、現在の世の中ではとても大変なことなのだ。
大人の男社会というものは、ある程度忍従を強要される社会だ。そういう場所には、ある程度の秩序や、良識というものがわずかに残っている。だが、現代の日本や世界にある、秩序や良識や正義というものは、いったいなんだろうか。
はっきりいって、そんなものは、ない。
根底から、ゆらぎきってしまっている。
二項対立、正義と悪という概念は、死んでしまっているのだ。
この、相対的な価値観の滅びてしまったこの時代に、あまのじゃくでいるということは、たやすいことではない。革命は、保守のあるところにしか現れない。この時代、反骨精神をもって立ち上がろうとすれば、反対にその者は、王道を行かねばならない。まったく健全な正統派であることが、世間と逆をいくことになるのだ。
この恐るべきパラドックスに、島田荘司は気付いてしまったのである。
だから、彼は、いろいろな粉飾を施しながら、手探りを続けながら、探偵小説という定型を至上とする文学の、その王道をいかなければならないのである。様々な迫害を受けながら、反逆の精神を持ちながら、より良き正統を目指す王者でなければならないのである。
なんという矛盾。なんという気の毒な話なのであろうか。

だから、島田荘司は、たいそう孤独である。
大勢仲間を引き連れ、後輩を育てあげているが、その中にいても、なお孤独なのだ。同じ系統をひく、優れた後輩は育っていない。彼の亜流は存在するようだが、彼の精神を理解している作家はいない。最近の若い女性作家の中には、見るべき人も現れつつあるようだが、それも彼の流れの中にはいない。
風聞では、自分を理解してくれる女の子達が作ってくれたファンジンを、あちこちへ配っているという。作品集の中にも、「近況報告」などと題して、自分を援護してくれる女の子達の事を書いているから、あながちただの噂でもないのだろう。
なんとも気の毒な話だ。
それを、惨めである、と笑ってしまうことは簡単だ。
だが、本当に、ここで笑っていても、いいのだろうか?

あの大乱歩でさえ、実は孤独だった。
彼は年譜をつくり、執拗に自分の事を書き残した。それは、偏執狂の性格がでたばかりではないだろう。真に自分を理解してくれるものを、自分の理想を実現してくれるものを待って、書き残したのに違いないのだ。
それを自惚れである、と笑ってしまうことは簡単だ。
だが、笑ってすませてよいものであろうか?

日本に存在する探偵小説の良心的な読者達よ。
うさんくさい評論家達よ。
自らも優れた探偵小説を書いて欲しい。
そうすれば、島田荘司の困難な道のりがわかるはずだ。彼の孤独が恐ろしい程わかるはずだ。
そうやって、努力するものが一人きりでなくなれば、必ずまた新しい良い流れがうまれてくる筈である。

私は、まだ希望の光を見失っていない。
エンタティメントとしての探偵小説はすたれないことを信じている。
だが、その望みを、細腕の作家一人にかけるのは無謀というものである。
繰り返す。
島田荘司は、全く気の毒な作家なのである。
頑張って欲しい。
自ら異邦の騎士となって。

付記

島田荘司がデビュー作でバラバラ殺人を描いたのは、自分もしくは物事の本質的な解体を、意識的(か無意識的に?)描いたのではあるまいか、と思う時がある。人々の身体をもう一度集めることによって新たな意味を持たせる――それは探偵小説という小説ジャンルの一つの役割に似ている。探偵小説には、現実というものを解体して、小説という虚構の形で解答を与える、というフィクションとしての存在意義があるからである。(1993)

付記2

御手洗潔のイメージが固定されるとイヤなので、TV化・映画化は絶対しない、挿し絵もいらない、とかたくなな姿勢を長らくとっていた島田荘司だが、先日私は本屋で御手洗くんの少年時代を描いた漫画があるのを発見してしまった。しかも作者のお墨付きで、である。島田荘司はかつて孤独な騎士であったが、実は同人女性にはモテていた。御手洗や石岡の出てくるパロディ小説を喜んで読み、同人女性に対してサービス精神を発揮していた。その結果、そういう漫画が発生することになったらしい。だからどうだ、ということもないのだが、私の現在の彼に対する感情は「やる時はやる人だと思ったが、やはりただのナンパだったのか?」である。(1998.12)

(1993脱稿/初出・手塚隆幸編『御手洗潔(島田荘司)研究』1994.4)

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Narihara Akira
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