(承前)

4.

「七十六分署のステファニー・キャロルです」
オーガスト・ナインはドアを開け、やってきた赤毛の大柄な婦人警官をみて何故かほっと安堵した。それはやっと助けが来てくれたというだけでなく、相手の雰囲気のせいもあったろう。歳は五十代半ばだろうか、ベテランというか肝っ玉母さんタイプというか、私にまかせておけば何もかもうまくいくわ、と胸を叩きそうな女性なので。
「お待ちしてました。お見せしたいものがあるんです」
「わかりました。失礼します」
歯切れよく答えて、ステファニー・キャロルはアトリエ内をぐるりと見回し、ふむ、と軽くうなずいた。消えた若妻は新進気鋭の画家だというが、なかなかどうしていい部屋を仕事場にしている。明るく清潔で、何よりきれいに片付いていることに好感が持てる。画材の匂いも不愉快でない程度だ。
「カミールさんはこの部屋で製作をなさっていたんですね」
オーガストも軽くうなずいて、
「ええ。本当は家で描かせても良かったんですが、我が家ではこれぐらい陽のあたる部屋は一つしかなくて、歩いて十五分のここにあらためて部屋を借りたんです。ここなら出版社も近いですし」
「なるほど、つまりオーガストさんも絵をお描きになるんですね」
「え」
自己紹介をそこまでしていなかったので、彼はびっくりしていた。陽のあたる部屋、という言葉からの推測だろうが、これは確かに有能な警官だ、とオーガストは心を引き締めた。
「ええ。昼間は画家で、夜は美術学校の講師をしています。僕は絵だけではまだまだ食べられないので……」
「若いうちは仕方ありませんよ。歴史に残っている画家達も、大勢の美術家に揉まれたり後輩を育てたりしているうちに少しずつ有名になっていった人ばかりですよ」
などと自分より二回りは若い男を軽くいなしてから、
「それで、カミールさんとは、その美術学校で知り合って結婚なさった訳ですか?」
「はい。僕の生徒でした。だから歳は十近く離れてるんですが」
よろしい、という風にうなずきながら、キャロルは奥の部屋に入った。
「寝室がありますね」
「ええ。泊り込みで描かなきゃいけない仕事もありますから、そこで仮眠が取れるようになってるんです。それで、お見せしたいのは、実はこの部屋なんです」
オーガストも部屋に入り、簡易ベッドを持ち上げて、その下に敷かれていた絨毯を引っ張り出した。
その一隅が変な風に切り取られていた。日に焼けて色がさめており、ベッドの下に敷かれていた部分とは思えない。
「この絨毯をこんな形に切らなきゃいけない理由なんて少しもないんです。それから、その壁の下の方」
ごくごく小さいが、血のしぶいた痕があった。言われなければ気付かないような処のせいか、少しもぬぐわれていない。
オーガストは膝をついた姿勢でステファニー・キャロルを見上げた。
「絵を描くのは結構重労働です。パレットナイフで腕を切ったりすることもあります。ですからアトリエに血痕があってもそんなにおかしいことじゃないんです。モデルを嘘の血で汚して、それを描くことだってありますし。でも」
キャロルも膝をついて、その血しぶきを見つめた。
「つまり、奥さんは殴られてここで昏倒したのかもしれない。その時血が広がったので犯人は絨毯の一部を切りとって、その不自然な部分をベッドの下に押し込んだんじゃないか、と言いたい訳ですね」
「そういう想像をしたら、おかしいでしょうか」
全くおかしくない。撲殺の現場にはこういう痕がよく残っているものだ。しかしキャロルはふむ、と考え込んだ。
「奥さんの失踪の原因に心当たりはないんですね」
「ええ。別に夫婦仲が悪かった訳じゃないし、カミールは順調に仕事をしてましたからスランプも考えられませんし、最近は新しい友人ができたことを喜んでいましたから、そんなに寂しい思いをしてなかったと思いますし」
「新しい友人?」
「ええ。J・L・スティーヴンスとかいうミステリ作家です。御存じですか?」
キャロルはその名に覚えがあった。以前有名な評論家と噂になった女性作家だ。いつの間にか立ち消えになってしまったから、おそらくヤラセのゴシップだったのだろうと思うが、そんな作家はおそらくたいした者ではあるまい。
「奥さんはどうして、ジェニー某と知り合ったんです?」
「いや、先方がカミールの絵のファンだって手紙を書いてきたらしいです。家内は凄く嬉しがってました。元々その作家のファンだったらしくて、話があう、楽しい、といつもニコニコしてました。だから、家出なんて考えられないんですよ、そんな理由は思い当たらないんです」
「思い当たらない、ね」
キャロルはすうっと立ち上がった。
「オーガストさん。このアメリカで、いや世界各国で共通なんですが、既婚者が殺された事件で、一番犯人の確率の高いのはどういう関係の人間だと思いますか?」
若い夫は青ざめた。
「配偶者だって言いたいんですね。でも僕が、カミールを? 殺したとしたら何故? いったいどういう理由で? 結婚してまだ一年ぐらいなんですよ、殺すほど憎んでる訳がない」
キャロルは極めて冷静に、
「世の中には、表向き夫婦仲がよくても、他で女をつくっていたり、妻を虐待する夫が沢山います。あなたの言葉だけでは、本当に仲が良かったという証拠にはならないんですよ」
オーガストはキッと目を剥いたが、思い当たることがあったらしく、すぐにガクンと肩を落とした。
「僕は虐待なんかしないし、浮気もしてません。でも、殺意を覚えたことはあります。彼女の才能に嫉妬してました。カミールは一見普通の女の子ですが、カンバスの前に座ると人が変わるんです。集中力も凄くて、他人を寄せつけずに十時間もかければ、かなりの大作も仕上げてしまうんです。どこにそんな情熱を秘めているんだろう、と驚きますよ」
その言葉には敬意が込められていて、ステファニー・キャロルはオーガストを信じたい気持ちになった。つまり彼の結婚の動機は、優れた画家を側でずっと見ていたい、という芸術家らしいものなのだ。その男がおいそれと妻を手放したり殺したりはすまい。
「もちろん、ゆきずりの人間の犯行もありえます。例えば盗難事件に巻き込まれた可能性があります。こうざっと見渡してみて、なくなっている絵や貴重品はありませんか?」
「ああ、そうか」
キャロルにそう示唆されたオーガストは、しかし顔をしかめて、
「僕にも見せてくれてない作品が結構あるんです。スケッチの類だったら、なくなっていてもわからないでしょう。そうですね、貴重品の方は……」
はっと思いついたように小箪笥の一番上の引き出しを開けて、小さな箱を取り出した。
「ああ、結婚指輪が入ってない」
「結婚指輪?」
今度はキャロルが顔をしかめた。そういうものは、新婚の女がそんな処に無雑作にしまうものではあるまい、と。するとオーガストは慌てて手を降って、
「あ、その、普段はしてるんですが、仕事中はいろいろと邪魔なんで、外すとそこにしまってたんです」
キャロルは低く呟くように、
「指輪がないということは、奥さんは仕事をしていない時に誰かに襲われた可能性がある、ということですね」
「ああ」
オーガストは思わず顔を覆ってしまった。
結婚指輪をしたまま他の男と寝たり逃げたりする女はいるまい。
そう、生きているのなら。
キャロルの事務的な声がそれに追い打ちをかけた。
「わかりました。確かにこれは失踪事件のようです。殺人の疑いも濃厚というラインで調査を開始します」
「そんな、僕は、どうしたら……!」
その肩をキャロルはポン、と叩いて、
「思いだしたこと、新しくわかったことがあったら、すぐに私に連絡を下さい。いいですか、まだ亡くなったと決まった訳じゃないんです、彼女を捜し出すために全力を尽くしますから、協力して下さい」
「もちろんです。よろしくお願いします」
藁にもすがる心地で、オーガストはステファニー・キャロルの腕にしがみついた。
「本当によろしくお願いします」
「わかっています」

ステファニー・キャロルは、アトリエを出たその足でモーゼス社に向かった。
なかなか瀟洒な建物である。一階にある喫茶室やレストランも大きく綺麗で、さっぱりとした内装ながら配慮の行き届いた会社に見える。
「七十六分署のステファニー・キャロルと申します。カミール・ナインさんのことでお尋ねしたいことがあるんですが、社長のジョージア・モーゼスさんとお話できますか」
「少々お待ち下さい。お取り次ぎいたします」
受付の女の子はそう言ったが、キャロルはだいぶ待たされてしまった。応接室で何度スラックスの足を組みかえたか。柔らかいソファも考えものよね、と内心呟いていたところへ、
「遅くなって申し訳ありません、年末の出版社というのはかなり忙しいもので……特にうちはギフトブックなどもかなり扱っておりますので、印刷に出した後、再チェックが必要になったりするんです。他人様に贈るものですからいい加減なものは出せませんので」
さりげなく宣伝までしながら現れた、いかにもそれらしいキャリア・ウーマンを見て、キャロルはニコニコと微笑んだ。
「七十六分署のステファニー・キャロルです。こちらこそお忙しい時にお邪魔してすみません。しかし事が緊急なものですから。まず、カミールさんのアトリエについてお話をききたいんですが」
「カミールのアトリエ?」
「あそこの部屋が作業に向いていると勧めたのは、カミールさんがイラストを描いている『ジェランディア』の編集長さんだとうかがったんですが」
「ええ。探したのは私です。それが何か?」
内装の趣味が似すぎてはいませんか、いくら大事な金の卵だからと言って、わざわざ新婚の夫から引き離して、寝室つきのアトリエを用意してやったりするのは行きすぎていませんか、と口を滑らせかけて、キャロルはニッコリ微笑み直した。今はおどおどした若造と話をしているのではないのだ、皮肉を投げつけたりせず直球を放るべきだ。
「あの部屋の鍵、および合鍵を持っているのは誰ですか」
ジョージア・モーゼスは即答した。
「本人と配偶者と大家だと思います」
それからすうっと顔を近づけてきて、
「そんなに複雑な鍵ではないと思いますから、合鍵をつくることも、ドアを壊して押し入ることも可能でしょう。知り合いが訪ねてきたら、彼女も自分から鍵を開けるでしょう」
真顔で言うが、その裏にある感情は全く読めない。キャロルは内心舌打ちしながらビジネスライクに尋ねた。
「普段、あのアトリエに昼間から訪ねて行くような人がいますか?」
「私は時々行きます。編集者として、仕事の進行状況を確認しに。カミールを売り出したのは私なんですし、どうしたって責任がありますから」
平然と、いやむしろ強い口調で言いきる。私はなにもやましくない、という表情だ。
「あなた以外は?」
「配偶者や大家が、ふらっと訪ねることがあるかもしれません。あとは……」
そこでふっと言い淀んで、
「ジェニー・スティーヴンス先生、とか」
ほう、またか、と思ったがキャロルは顔に出さず、
「それはどなたですか?」
「小説家の方です。カミールがその方のファンで、向こうもカミールのファンだというお話で、親しく行き来をしてらしたようです」
「つまり、そちらにも話をきいた方がいいということですね」
「わかりません。先日お電話した時は、カミールが失踪したことを御存知ないようでしたけど」
「わかりました」
キャロルはすうっと立ち上がった。
「そのスティーヴンスさんとやらの仕事場か自宅を教えていただけますか」
「確か同じ場所だったと思いますが……少々お待ち下さい。調べて参ります」
ジョージア・モーゼスも立ち上がった。先に立って歩きながら、
「あの、カミールは見つかるでしょうか」
振り返らないので表情はわからないが、なんとも心細そうな声だった。
「見つけたいと思っています。仕事ですから」
「よろしくお願いします」
その頬に一瞬光るものが見えた、と思ったのがキャロルの錯覚でなかったのは、次の瞬間の肩の震えでわかった。
「本当に、こんな……ことが……」
扉に顔を伏せるようにしてジョージアは呟いた。ステファニー・キャロルはソファに戻った。
「待っていますから、顔を拭いてから外に出てください」
そう言われてモーゼス女史の肩はさらに激しく震え出した。ぱたぱたと絨毯に落ちるものをぬぐおうともせずに、かっきり五分だけ彼女は泣いた。それからハンカチで顔を押さえ、振り返ってニコリと笑った。
「お待たせして本当にすみません。すぐ戻ります」
一人になったキャロルは、深いため息をついた。
「厄介な感じのする事件だわ……どいつもこいつも狸に見えてくる。次に行くJLとかいう先生とやらも一筋縄では行きそうにないわね、ちょっと用心してかかるか」
そう考えて次のプランを練り始めた。
七十六分署のステファニー・キャロルは、実は結構策士でもある。年のいった女性警官をなめてはいけない、これはただ地道なだけでつとまる仕事ではないのだ。
「急襲、だわね」
ごく自然に相手の不意をつく、なるべく合法的に。これで行こう、いつものように。
キャロルは薄く笑って腕を組み、モーゼスが戻って来るのを楽しそうに待った。
その急襲がどんな結果をもたらすか、予測しえぬまま。

5.

「この小説、カミールが死んでたら出せるのかなあ」
その昼下がり、物騒なことを呟きながら、ジェニーは自分の手書き原稿をめくっていた。
「全くあきれた三文ポルノよね、サド様の方がよっぽどましだわ。筋もいいかげんだし迫力もないし、エロティックですらないじゃない」
その原稿は、スティーヴンスという女性を慕う、少女と呼んでいいほど若い女が、夜の戯れの果てに死んでしまうという陳腐なものだった。
「発表する気なんてないけど」
組んでいた足をほどき、原稿を置いてデスクの上につっぷす。
発表する気はないが、書いていて久しぶりに楽しいと思う文章だった。何を書いても自由だったアマチュアの頃を思い出す。いや、あの頃でさえ発表するつもりもないものなど書く気がしなかった。それなのに。
「しかも、こんな内容のものを……」
カニバリズム――人肉嗜好。
血しぶきの飛ぶホラー小説やエロ映画めいた怪奇物などには、気持ちが悪いというより、はなから興味がない。意味もなく人が死ぬ話は大嫌いだった。死者は敬意をもって葬られるべきものであり、特にジェニーが考える推理小説というものは、死を丁寧に扱う文学なので、なおさらそういう安直なものを心がけて遠ざけてきていた。
しかし人肉嗜好は、ある意味深みのあるテーマである。実録物を読むとそれがよくわかる。人間は様々な状況で古来から人間を食べていた。例えば祭りの時に供物として。一族の儀礼的習慣として。もしくは商売として。経済的に逼迫していたために。極限的飢餓状況のために。陰惨な復讐のために。性行為よりも完全に相手を支配するために。これ以上ないほど侮辱するために。狩りの楽しみのために。もしくは単に人肉が美味しいから、という理由もある。その一つ一つは興味深い事件である。
「私は、食べないけど」
相手を傷つけず、血も流さないでその肉を食べる方法、つまりジェニーが内緒にした五番目の方法は、小説の中に書き留めることだった。文章の中でならどんな描写でもできる。書くこと自体が快楽である作家の場合は、どんな現実不可能な欲望でも、頭の中でいくらでも解消することができる。どんな風に美化しようと、どんな風におとしめようと、それは全く作家の自由なのだから。
使用人の密告によって狭い牢獄に長いこと押し込められていたサド侯爵が、思いつく限りの人間の悪徳を執念深く書き残した気持ちが、今のジェニーにはわかる気がする。彼の小説がポルノグラフィーの烙印を押され、その残虐行為が奇妙な興奮をもって読まれる理由も。
「でも、私のこれは他人に見せられないからなあ」
見せたら、誰かが傷つく。カミールもヴィダも厭な思いをするだろう。私の頭の中だけのことだから許されている悪徳であって、これは破りすてるべきものなのだ。もしカミールが本当に死んでいたら、どんなに後味の悪い作品になるだろう。死んだ者を汚してはならない。死んでいるから名誉毀損にはなるまい、とか、カミールの名は記していないから平気だ、という問題ではない。
「他の連中に変な誤解をされたら嫌だし」
カミールが好きだ。しかしそれは劣情ではない。彼女の絵を愛しているし、実物を目の前にするととても楽しい。しかし抱きたいとは思わない。まして食べたいなどとは。
「……待って。それって本当かしら」
この間、夢の中で身体を動かしていた。私は誰かに反応していたのだ。その相手は誰だったろう。おぼろだったがあれはカミールではなかったか。
手紙をもらって、外で二人きりで会ったりもしているのだ。あの時私に本当にやましい気持ちがなかったと言えるかしら。アルコールが駄目だというし、夜は家に戻らなければいけないから、と昼間こっそり会えませんか、小さなレストランで落ちあったのだった。あの日出かける前、ジェニーは薄化粧をした自分の顔が、鏡の中でひどく美しく見えることに気付いた。恋する女のような華やいだ顔をしていた。しかもそれは自分一人の思い込みではなかった。
話の最中、カミールはぽつりと呟いた。
「今日のスティーヴンスさん、この間より綺麗」
次の瞬間、彼女はあ、と息をのんで、
「失礼なこと言ってすみませんでした。つい」
「失礼? どうして?」
「あ……」
うつむいて頬を染めてしまう。その様子があまりに愛らしいので、だってあなたに会えて嬉しいんですもの、などという軽口は叩けなくなった。むしろ警告するように、
「今日の私が綺麗なのはね、たぶん身体が満足してるせい」
「え」
はっとあげた顔が悲しそうで、ジェニーはたまらず言葉を継いだ。
「このところ恋人と会えなくてね、昨日、寂しいから自分でしたの。相手のことを思い浮かべてね。そしたら少し落ち着いたみたい。女の身体って怖いってちょっと思ったけど。性欲が満足すれば簡単に幸せになるのかって。身体が納得すれば心も気持ちよくなっちゃうなんて……単に私があさましいだけかもしれないけど」
そう言って微笑んでみせた。
して落ち着いたのは事実だった。自分で触れながら複数の相手を妄想し、そして、ヴィダに抱きしめられたところで達したのだった。そのいっときは幸せな気分に浸れた。その後、身体だけ納得するなんて嫌だ、好きな人と抱き合ったのでもないのにいい気分になるなんて、と軽い自己嫌悪に陥ったりもしたが。
「そういうのってちょっと悲しいかもしれないわね。でも私、寂しいからって現実に誰かをひっかけるようなことをしたくないの。そういうセックスって相手も自分も傷つけると思うから。それでもいい人もいるでしょうけど、私は、そういうのは嫌なの」
それはジェニーの本音でもあり、目の前のカミールに対する牽制球でもあった。案の定彼女は、
「その方のこと、本当に愛してらっしゃるんですね」
深い瞳をしながら呟いた。ジェニーも瞳を翳らせて、
「さあ、どうかしら。あの人とはもう駄目かもしれないし。本当はね、待っているのがそろそろ辛いの」
するとカミールは首を振って、
「スティーヴンスさんはその人の事、まだ全然あきらめてないです。だからきっと大丈夫ですよ。だって、本当に寂しくて辛くてたまらなかったら、想像の中でも出来ないんじゃないですか? 少なくとも、それで幸せになったり満たされたりしないです。打ちのめされた気持ちの時に、身体だけ気持ちよくなることなんて無理です。女だけじゃない、たぶん、男だってそうだと思います。だから私、スティーヴンスさんは全然あさましくないと思います。だって、好きな人としたいと思うのは、遠く離れている恋人を想うのは、当たり前のことじゃないですか」
あたりまえの、こと。
その言葉が胸にすとんと落ちて、ジェニーは目の開かれる思いがした。カミールは特に斬新なことを言っているのではない、しかしジェニーは、そういうことを今まで上っ面でしかとらえたことがなかった。
「そうよね、それは当り前なのよね」
実感を噛みしめるように呟くと、カミールは再びあ、と息をのんで、
「ごめんなさい、私、そんな偉そうなことを言うつもりじゃなくて」
なんて差し出がましい、としきりに恐縮してしまう。ジェニーは優しい年長者の眼差しになり、
「いいえ、本当に当たり前のことだもの」
なるべく自然な形で話題を変えた。
「それより、良かったら、この間のお話の絵、そろそろ見せてもらってもいいかしら」
「あ、はい」
カミールはしっかりしたつくりのファイルを取り出した。ジェニーは手を清めてからそれを受け取った。
「素敵」
それには小さな竪琴を持った女性の連作が収められていた。中世の人なのか、ウェストをゆるく結んだ丸襟の貫頭衣の上から、長い金髪を隠すかのように、大きなショールを羽織っている。窓辺によりかかった絵などは、長い裳裾の下から小さな靴がのぞいている。鉛筆も木炭もペン画もあった。透明水彩で着色されたものや、パステルらしいものもある。
「見せてもらえて、嬉しいわ」
それはカミールが、雑誌や画廊で発表するつもりはないのだけれど、ずっと描きためている連作がある、と手紙の中で書いていたものだった。そのシリーズ、私個人が見るのは駄目かしら、とそれとなく水を向けたところ、スティーヴンスさんだけになら、という返事がきて、それが今回の会見の直接のきっかけになったのだった。
それらの絵は、大勢に見せないのが惜しいとしか言いようのないほどひたすら美しく、普段の絵よりもさらに大量の愛情が溢れていた。逆にそのせいで、カミールはこれを多くの人目にさらしたくないのだろうとジェニーは思った。まだ成形されきっていない、無垢な感情そのままの発露だから。
「私だけが見せてもらえるなんて、本当に幸せ。これはトルバドールね、中世の吟遊詩人の」
思わずほう、とため息をつくと、カミールも嬉しそうに微笑んで、
「ええ。トルバドールっていうか、女性だからトルヴェールかもしれないですけど。本当は彼らはただ自作の詩をアカペラで歌うだけで、楽器を持ってなかったらしいんですけど、これはその、イメージなので。その他の細かいところは、いろんな絵を参考にして」
「そう。……でも、凄く素敵」
連作の女性はポーズや背景こそ違え、どうやら同一人物をモデルにしたように思われた。どことなく自分にも似ている、と思った瞬間、ジェニーはなんという自惚れ、と苦笑いした。
「どうなさったんですか?」
カミールが不安そうになったので、ジェニーは笑いをすりかえて、
「いいえ。このモデルになった方が羨ましいって思っただけ。それともこれは、人物も含めて全部あなたの想像なの?」
「モデルは、います」
カミールは胸の前で指を組み合わせた。祈るようにうつむいて、
「ジュニア・ハイの時の、芸術の時間の先生で……最初に私の絵を認めてくれた人なんです。それで、その、少しだけスティーヴンスさんにも似ていて……」

あの時胸の中にふわっと広がった感情はいったいなんだったのだろう。
不思議だった。
それはときめきに似ていた。微かな痛みを伴っていたが。
「カミール……」
寂しさよりも、甘い眠気に近いもの。
このまま少しうとうとしてしまおうかしら。
そう思って目を閉じた瞬間、呼び鈴とノックの音が何もかも蹴ちらした。
「ジェニー・L・スティーヴンスさんはこちらにいらっしゃいますか? 七十六分署のステファニー・キャロルと申しますが」
まさしく夢破られた思いでジェニーは立ち上がった。なんで警察なんか来るんだろう。ああ、もしかしてカミールの事かしら。本当に彼女は何処に消えたのだろう。彼女の消えてしまいたい気持ちはわからなくもないから、だから今まであまり心配していなかったのだけれど、急に不安になってきたわ。よく考えてみれば、彼女の失踪の理由には、もしかして私のしたことが関係しているのかもしれないし。何にせよ、どうか無事でいて欲しい。馬鹿な子ではないから、きっと上手に身を隠しているのだと思うが。自暴自棄になって何かの事件に巻き込まれたりはしていないと思うのだ。
ジェニーはチェーンを外さずにドアを細く開けた。
「何の御用でしょうか」
「これから署まで御同行願えますか。カミール・ナインの件でおうかがいしたいことがあるので」
そう言って制服の婦人警官はドアの隙き間にブーツの先を押し込んだ。突然の侵入者にうんざりしたジェニーは、いささかけだるく呟いた。
「これからですか? ただ話をするだけなら、この部屋でも構わないんじゃないでしょうか」
するとこの大柄な赤毛の警官は、妙な紙切れを取り出して彼女につきつけるようにし、
「正式な逮捕状を用意してあります。同行していただけない場合は、あなたは多大な不利益を被るでしょう。ここで武器をとって抵抗したり逃亡したりした場合は、更に罪を重ねることになります。外には私の部下も待っていますので、無謀なことはなさらないほうが賢明です。もちろんあなたには黙秘権があります、それから……」
TVドラマさながらにしゃべり出した。ジェニーは少しく驚いて、
「ちょっと待って下さい。これは一体なんの逮捕状ですか?」
「カミール・ナインの殺害容疑です」
「私が! カミールを?」
ちょっと待って。それでは出来すぎている。私は確かに小説の中で少女を一人殺してしまったけれど、カミールに手をかけてなどいない。神かけてしていない。
「ちょっと待って下さい。逮捕状が出てるってことは、警察はよほど大きな証拠を掴んでいるってことですよね、それはいったい何なんですか」
するとステファニー・キャロルは薄く笑って、
「今更隠滅出来るものでもないから、お話ししましょうか」
逮捕状をしまってからドアチェーンに指を置き、
「さる筋から通報がありまして、あなたの留守宅を捜索させていただいたんです。階下の大家さんにも了承ずみです。その時何が出てきたと思いますか?」
想像がつかない。
まさか、私の猟奇小説だけでは犯人扱いはできまい。
その顔色を読み取ったのか、さらにキャロルは妙な笑いを洩らした。
「ええ、一つはあなたのポルノ小説ですが、そんな曖昧なものでなく、ちゃんと物証があるんですよ。私達は見つけたんです、あなたの部屋の押入れとベッドの下から、カミール・ナインの頭髪を少し、彼女のアトリエにあった絨毯の切れ端が一枚、それには彼女の血の染みがついたものが出てきたんです。それから、何重にもビニールで丁寧に梱包して、匂いが外に洩れないようになっていた、女の両腕。左手の薬指にはカミールの結婚指輪がはまっていて、左の小指は切り取られていました」
はめられた。
また、やられたのだ。
運命の神様は、どうして毎回私をこんな目に遭わせるのだろう。それともこれは、いい機会だからちゃんとしたガードマンのいる、二十四時間完全警備の貸家に引っ越せというお達しなんだろうか、と一瞬本気で思った。
「その腕は、本当にカミールの腕なんですね」
「血液型は一致しています。そして腕は、死後切り取られたものだとわかっています。つまり、カミールは、死んでいるんです」
その瞬間、世界がグルリと回った。
ジェニーは自分がどうなったのかよくわからなかった。頭と肩を床にぶつけてどうやら痛いみたいだ、どうして私は倒れたんだろう、失神するってこういう感じだったっけ、と回り続ける世界の中で考えていた。
外では「誰かチェーンを切るものを!」という声やせわしない足音がしている。ジェニーはどうして自分の瞳から涙が流れ落ちていくのかわからなかった。悲しいとかショックを受けたというよりも、むしろそれは情けなくて泣いている気持ちに似ていた。この眩暈をいつか小説に書いてやろう、もしまだ書くチャンスが自分に残されているのなら、などと彼女はぼんやり考えながら、目を閉じた。

6.

「どうして黙秘権を使い続けるの、あなたは」
グリーンヘイズが面会室に来てくれた時も、最初ジェニーはおし黙っていた。
警察にきてから、J・L・スティーヴンスは一言もしゃべらなかったらしい。普段の彼女ならば、あなたたちのやり口には腹をたてている、人を疑わない大家さんを騙して、住居に不法侵入するなんて、弁護士を呼びなさいそれだけでも許さないわよ、ぐらいの抗議を最低限する筈だ。それがうんともすんとも言わず、ただ壁を見つめてじっと考え込んでいるのだ。まるで次の小説のアイデアが出なくて、たいそう無駄に苦しんでいるかのように。
つまりエヴァハード・グリーンヘイズがスムーズに面会室にこぎつけたのは、友人にはきっと何か言うだろうという警察の淡い期待があったからだ。遺体の他の部分も見つかっていないし、犯行に使った道具もまだ発見されていない状況なので、面会時間もたっぷりとってくれるという異例の歓迎を受けて彼女はやってきたのだった。
確かにジェニーは、グリーンヘイズが目の前に座って十分たった頃、ようやく重い口を開いた。
「犯人はわかってるの。動機がわからないのよ」
「何を言ってるのよ、ジェニー」
しかし彼女は、面会室の内側のカウンターを中指で、タイプを打つような力強さでトントンと叩きながら、
「私には警察に言えないことがあるの。友人のあなたにも、もちろんヴィダにも言えないことが。だから、とにかく真犯人を捕まえて、この事件を解決しなきゃいけないのよ。ピースの柄はどれもとても曖昧だけど、全部持ってるのは私だけなんだから、想像力をフルに回転させて、このパズルを完成させなきゃいけないの」
奇妙に目を輝かせてそんなことを言う。グリーンヘイズはあきれかえって、
「ジェニー。これは現実の事件なのよ、推理小説とは違うの。それにあなた本人に、そんなに優れた探偵能力があるとは思えないけど」
「いいえ。今回の事件は私の直感力でなんとかなる程度のものの筈よ。だって、考えてみれば私の小説がいけないんだもの。それがこんな顛末を引き起こしたのよ。だから私が解決しなければならないの」
今度はグリーンヘイズがちょっと黙り込んでしまった。なんという神がかり、訳のわからなさ。そしてこの自信たっぷりな態度はいったいどこから出て来ているのか。
グリーンヘイズは辺りをはばかるようにすうっと声を低めた。
「ねえ、誰にも言えないことってなんなの」
ジェニーは首を振った。
「言えない」
「じゃあ、紙に書いて私にだけ見せてくれるとか」
「書けない。秘密だから」
もう一度首を振る。グリーンヘイズはさらに声を低めて、
「まさかジェニー、カミールと寝たんじゃないでしょうね」
「寝てない。そういう意味でやましいんじゃないわ」
ジェニーは即答した。嘘でないと直感したグリーンヘイズは首をひねって、
「じゃあ、なんで誰にも言えないのよ」
「それを言ったら話したも同然になるから、もうこれ以上言えない」
ジェニーは再びかたくなに口唇を閉ざしてしまった。
実は少し震え出していた。そういう意味でやましいんじゃない、という言葉ががヒントになってしまったかもしれない、と後悔していた。エヴァは馬鹿ではない。日々くるくると考え事を変えていく作家なのだ。想像力はジェニーよりあるだろう。
二人はにらめっこを始めた。
ジェニーはもう少しで言ってしまいそうになっていた。カミールの頭髪がうちの寝室で発見されたことだけは変じゃないのよ、本当はね、彼女は一度うちに来たの。二人きりで、外でない場所で会ったの、と。

その日、本当にあったこと。

空調は完璧で、暑すぎることはない。厚着をして寒い外からやってきても、自然に温もりを感じられる温度と湿度に調節できた。
それからジェニーは、仕事場中にとめてあるゼロックスコピーのピンを一本ずつ抜き始めた。それは今までカミールにもらった絵を複写したものだった。本物は汚すのが厭なので大切にファイルしてある。しかしいつでも見ていたいので、こうして複製を部屋中に飾ってあるのだった。それが一枚増えるたびに幸せな気持ちになれたし、元気も出た。ヴィダの不在で晴れない心も、それで大いに慰められてきた。カミールの絵にはそういうプラスのエネルギーがあった。
一枚一枚集めているうちに、半裸に近い女性のスケッチがふと一番上になった。
「……ちきしょう、やりてえ」
思いきり下品な口調で言い捨てると、ジェニーは絵の束を抱きしめた。
寄せるさざ波のような情欲。
どうして絵に欲情するんだろう、私は。
カミール本人に対しては、全然そんな気持ちにならないのに。絵と本人が少し違うからかもしれないが。いや、そういう気持ちにならない方がいいじゃないか。そう、なってはいけないのだ。第一彼女に失礼だ。
ジェニーは外したコピーの絵を、ハトロン紙の封筒にまとめて入れ、本棚の一番上、原画を収めてあるファイルの脇にしまった。
「こんにちわ」
呼び鈴が鳴ったので、ジェニーは飛ぶようにドアに戻った。チェーンを取り、さっと扉を開ける。
「いらっしゃい。時間通りね」
「わあ」
中へ迎え入れられたカミールは、好奇心で目を輝かせた。ジェニーは椅子まで彼女を案内しながら、
「ごめんなさいね、やっぱり散らかってて。一度片付けたんだけど、ちょっと突発で仕事が入っちゃって」
カミールは柔らかく首を振った。
「全然散らかってなんてないです。私こそ、図々しくてごめんなさい。でも一度、スティーヴンスさんの仕事場を見てみたかったんです。すみません、どうもお邪魔します」
「そんな大げさなものじゃないのよ。自宅兼の仕事場だから」
すすめられた椅子に礼を言って座ると、カミールは周囲の本棚を見上げた。
「でも、凄い本の量ですね。床が抜けてしまいそうで。これが全部資料なんですか」
ジェニーは見栄をはらず、素直にそれに答えた。
「私は資料はほとんど図書館で調達するタイプだから、ある本はだいたい出版社から送られてきたものね。これでも結構減らしてるんだけど。私とマネージャーでざっと目を通して、いらない本は古本屋に払い下げるの」
「そうなんですか……でも、それでも凄いです」
若者らしい慎ましさと探求心と隠せない興奮。私の仕事場なんて、画家の目に焼き付けるべき部屋ではないかもしれないけれど、と思いつつ、ジェニーは好ましくカミールを見つめて、
「何か飲む? 暖かいものがいいわよね」
「もしあるなら、コーヒーをいただいても構いませんか」
「ええ。すぐ煎れるわ」
ヴィダの使っていたコーヒー沸かしに必要なものをセットし、ジェニーはカミールの脇の椅子に戻ってきた。
「ろくなテーブルもなくてごめんなさいね」
寝室に置いてあったコーヒーテーブルを、こちらに持ってきて当座の客用にしているこの貧しさ。普段来客は断わるし、友人も滅多に入れないがための不首尾である。
「大丈夫です。今日はスケッチだけですし、画帳なら膝の上に置けば描けますし。イーゼルが必要な大作なら、いっそアトリエにお呼びした方がいいですし」
ジェニーは少しためらいがちに確認した。
「ねえ、本当に私を描く気なの?」
「ええ。だってこの間約束して下さったじゃないですか」
実はその前、外で二人であったあの日、いつも沢山スケッチをもらっているけど、何かお礼ができないかしら、とジェニーから言い出したのだった。カミールはお礼だなんて、今までの作品をずっと見て下さってるじゃないですか、それだけで充分です、買っていただくなんてもうとんでもないですし、とかたくかたく断わって、
「だって、こうしてスティーヴンスさんとお話しできるだけで夢みたいなのに」
「私だってあなたのファンだから凄く嬉しいのよ、それはおあいこでしょう?」
「でも」
カミールはちょっと悩み、
「じゃあ、お願いを一つきいて下さいますか?」
一度ジェニーを描かせてくれ、と言うのだ。
「別に構わないけど、私なんかモデルにしても」
「描きたいんです。本当はスティーヴンスさんのこと、ずっと描きたいって思ってたんです。でも、あの……」
困ったような難しいような顔。つまりこれは、思いきって告白、というやつなのだった。ジェニーの胸はときめきつつ、頭の中では危険信号がまたたいている。
「その……着衣でよければ」
「もちろんです!」
ぱっと顔を輝かせて、
「あの、それで、もし良かったら、スティーヴンスさんの仕事場で描いてもいいですか」
「それはいいけど、あまり綺麗じゃないのよ」
「見たいんです。ありのままのあなたの、いつもの姿を」
「カミール」
眩暈がする。
ああ、私はこの少女に口説かれているのだ。
どうしよう。色恋のような深いつきあいどころか、少しでも他人に力を加えられたり踏み込まれたりするのをひどく嫌う私が、カミールの勢いには簡単にぐらついて、その流れにのまれそうになるなんて。
でも、だって、この娘の表情を見たら。
思いきって告白してはみたものの、拒絶されたら、嫌がられてしまったらどうしよう、それが不安でたまらないというその顔――あまりにもいじらしくて、こちらの胸もきゅうっと締めつけられるようだ。
ジェニーは、かろうじて年長者の余裕を演じた。
「それじゃあ、描く描かないはともかくとして、一度うちに遊びにいらっしゃいな。幻滅されてしまいそうだけど」
「有難うございます!」
そんな訳で、こういう展開に至ったのだ。
「それでええと、私はどんなポーズをしたらいいのかしら」
鉛筆を取り出したカミールに、膝を揃えたジェニーが声をかけた。
「出来ればお仕事中の姿を描きたいんですけど、私がいたらタイプに向かって集中できませんよね」
カミールはごく真面目に答える。誘われていると思ったなんて、やっぱりこちらの自惚れだったんだわ、などと思わせるほど。ジェニーはリラックスして微笑んだ。
「タイプをするだけが作家の仕事じゃないわ。例えば資料とにらめっこして、いろいろ考えたりする時間も大切なのよ」
「そうですね……あ」
カミールは急に何か思いだしたように、持ってきた鞄の中をかき回し始めた。
「何?」
「この間の連作を気に入ってくださったみたいだったんで、今日一枚差し上げようと思って持ってきたんです」
確かマット、とかいう紙の額縁に入った絵をカミールは取り出した。例の女性吟遊詩人の絵で、窓辺に寄って歌っているところらしい。短い詩が添えてある。



BELE YOLANZ

愛らしいヨランツは部屋に座って
素敵な絹のローヴを縫っていた
恋人に着せるために。
ため息をつきながらこんな歌を歌う
「神様、愛という名は甘いので、
味が苦いとは知りませんでした」

受け取ったそれを、ジェニーはうっとりと眺めた。
「詩も素敵」
「ええ。これは《可愛いヨランツ》って歌なんです。作者はわからないみたいなんですけど」
「俗謡みたいなものね」
「ええ。ありふれた詩ですけど、ヨーロッパでは長い間歌い継がれてきたみたいです。やっぱり誰もが持つ感情だからですよね、きっと。愛って一緒にいると楽しいことなんだと思いますけど、でも、一緒にいるから苦しいってこともありますから」
そう言われた瞬間、ジェニーは緊張した。いつの間にか左手首をカミールに握られていたからだ。
「ジュニア・ハイの時のアートの先生が、この詩を教えてくれたんです」
ジェニーは手をふりほどくことができずに、カミールの苦しそうな顔を見つめていた。
「まだ若い先生でした。若くて、本当に若々しくて。創作の喜びって何なのか、身体全体で表現しているようなひとでした。尊敬していました。先生がいなかったら、私は絵なんて描いてなかったかもしれません。少なくとも他人に見せようなんて思わなかったと思います。でも、十年生になった時、先生が学校をおやめになって。それで気付いたんです。私はあの人が好きだったんだって」
カミールはふと瞳を翳らせて、
「よくある憧れだったんだと思います。それはわかってるんです。それに先生が学校をやめられたことは良かったと思っているんです。先生は本当は詩人になりたくて、子供の頃からずっと詩を書いてらして、それで、ついに覚悟を決めたんだそうです。それはきっと大変なことなんだと思いますけど、先生が好きな道をすすんで下さるのは嬉しいと思いました。私も頑張ろう、今どこで何をなさっているのかは全然わからないけれど、でも、同じ芸術の仕事をしていたら、もしかして、いつか何処かでお会いできるかもしれないからと思って」
ジェニーはじっとりと汗をかきながら、かろうじてこう答えた。
「私はアートの先生だったことはないわ」
「だから、それは憧れだったんです。でも、スティーヴンスさんのことは」
パサ、と絵の落ちる音がした。ジェニーは逃げられなかった。無理をすればよけられたのかもしれないが、カミールは素早くジェニーの口唇を奪っていた。
「待って」
ジェニーはやっと顔を背けた。悲鳴にも似た声で、
「あなたは旦那さんのある身じゃないの」
「いいえ」
カミールはじっとジェニーを見つめ、
「あの人は気にしないんです。私に男がいようと女がいようと構わないんです。そういう人なんです。ただ面白い生徒だから、俺が育てたんだって言ってみたいからって、それだけの理由で私を妻にしたんです。私は家を出たかったし、NYでの一人暮しは物騒だし。ただそれだけの事なんです。だから、スティーヴンスさん」
こちらが思わずよろめくような勢いで抱きついてきた。
「……好きです」
低く呟いて、鎖骨のあたりに柔らかい頬を埋めてきた。
椅子が二人分の重みできしむ。
しかし、誘惑と呼ぶにはそれはあまりに不器用なしがみつき方だった。キスで勢いをつけて胸に飛び込んでみたものの、その後どうしていいかわからない、というようにカミールはじっと身を硬くしていた。細かく震えてさえいた。夫もあるのだし、この年でそういうことを何も知らない訳はないだろうに。つまり、この子は相手の反応が怖くて動けないでいるのだ。拒絶されたら、軽蔑されたら、憎まれたらどうしよう、とおびえているのだ。
「カミール」
ジェニーの心臓の鼓動は急激に早まっていた。
どうしよう。
可愛い。
キスしてあげたい。抱きしめて優しく愛してあげたい。
あなたを軽蔑したりしない、あなたのことは本当に好きよ、と言って安心させてあげたい。でも、そう言ったあと拒絶するのはとても残酷なことだ。
ああ、どうしたらいいの。どうしたら。
この子を少しでも傷つけたくない。
ジェニーはぎゅっと目をつぶり、それから羽織っていた薄いカーディガンをとって、カミールに着せかけた。
「?」
何をされたのかよくわからなくて、カミールは顔を上げた。その頬はすでに紅潮していて、本当に決死の覚悟でジェニーにしがみついたことをよく表していた。どんなに強く、あなたに抱きしめられたい、愛されたいと強く願っているかを。
そう、これは彼女を部屋に呼ぶと決めた時から、覚悟していなければならなかった事態なのだ。今更私は何をグズグズしているのだ。こうなったらしてしまえばいいじゃないか。誰が知るだろう、二人だけの秘め事を。
ジェニーはカミールの胴に腕を巻き付け、小さな耳の側で囁くように言った。
「ベッドルームへ、行く?」
「ああ……」
その時、急にカミールの身体が重くなった。
ジェニーのその言葉に緊張の糸がぷつんと切れて、そのまま気が遠くなってしまったらしい。
カミールを抱え直すと、ジェニーはそのまま寝室に向かった。実の詰まった十九歳の身体を運ぶのはたやすい作業ではない。まして、失神してぐったりしてしまっているのだから。しかし、とりあえず休ませてやりたかった。少し眠れば落ち着くかもしれないし。
可愛い、カミール。
「あ、私……」
彼女はすぐに目を覚ました。自分がベッドに横にされていて、しかも襟元のボタンが二つ外されていることに気付いてはっと飛び起き、
「ごめんなさい、私、どうしてこんな」
「謝らなくていいのよ」
ジェニーは優しい瞳でそれを見つめ、自分もベッドに座ってカミールの腰に腕を回した。
「どのみちこの部屋に連れてくるつもりだったんだし。まだ夜までは、だいぶ間があるんだし、ね?」
「あ」
しかし、カミールがもう一度腕の中に倒れこんでくると、ジェニーの気持ちはどんどん醒めてきた。いま私の口から出た、歯の浮くような芸のない台詞はいったいなんだろう。まるで遊び人の男が、なりゆきで女の子を抱くようじゃないか。
やはり、こういうのは、よくない。
少なくとも今、私にも相手にもいいこととは思われない。
しかしカミールはうわごとのようにジェニーの名を呼び、その口唇を押しつけてきた。
「ん」
本当に子供のような、つたない口吻。
おずおずと、でも、瞳を潤ませて。
「カミール」
ああ、ヴィダも最初抱きあった日にはこうだった。私が初めてという訳ではなかったのに、紆余曲折があって、いよいよ愛を確かめあうことになった夜、なんだかおびえたような、不安そうな、幼いような顔で口づけてきた。当たり前のことをしている筈なのに、ひどく緊張していて。
だから、安心させたくて、なるべく優しい口吻を返した。あなたを信じてる、あなたが好き、と伝わるように。ヴィダはぴくん、と一瞬身を震わせたが、すぐにジェニーに絡みつき、それから柔らかく溶けたようになった。信じて身をまかせてくれているのだ、と思うと愛しくて胸が痛くなった。本当にこういう気持ちになるものなんだわ、と頭の隅で驚いてもいた。恋をするのも誰かと抱き合うのも初めてではないのに、今更こんな気分になるなんて、と。
「ジェニー……」
カミールはキスに応えて欲しくて、掠れた声で呼ぶ。そう、あの晩のヴィダもこんな感じだった。
薄いけれど、柔らかく滑らかなヴィダの唇。口吻を重ねると、堪えられず甘い吐息を洩らし始め、欲しかったの、と呟いて瞳を潤ませた。つまり、あなたのキスが、肌身が、心が欲しくてたまらなかった、と。それは嬉しいというより、苦しそうな顔だったけれど。
ジェニーは、思いきって自分からカミールに口づけた。
「あ……!」
カミールはきゅっとしがみついてきた。ジェニーの背に腕を回して強く引き寄せた。赤ん坊が泣き出して親を求めるような激情がそこにはあった。
可愛い。
愛しい。
けれど、ヴィダとは違う。
この子は彼女じゃない。全然違う。どこをとっても。
違っていて当り前で、それは悪くないのだけれど。でもカミールはそういう相手ではない。私はこれがしたいんじゃない。
「……ふ」
いきなり熱いものが頬に降りかかってきたので、カミールは目を開けた。
「どうした……んですか」
涙が溢れて止まらない。
「ごめんなさい。私やっぱり、駄目……」
そっとカミールから身体を離して、
「私、あの人を裏切れない……ううん、そうじゃない。裏切るとかそういうのじゃなくって、私はあなたとは出来ない。だってまだあの人が好きなんだもの。もし憎まれていても、二度と寝てやらないって罵られたとしても、私の中で彼女への恋は終わってないんだもの。だから出来ない。あなたを身代りにしたくないし……いいえ、あなたは身代りにはなれないわ。少しは似てるけれど、でもあんまり違いすぎるもの。ごめんなさい。ここまでしておいて今更無理だなんて、卑怯者もいいところよね。最初からきっぱり断わればよかったのに。知らん顔を通していればよかったのに。でも、あなたに好かれているのがいい気持ちだったから、つい誘うようなことをしてしまって……ごめんなさい、やっぱりあなたを傷つけてしまったわ。ごめんなさい」
「そんなに謝らないで下さい」
カミールは近づいてきたが、今度はジェニーには触れず、低く囁くような声で、
「ご自分を責めないでください。だって、スティーヴンスさんに決まった恋人がいらっしゃるお話は前にちゃんと聞いてたんですから。どうしてもあきらめられないんだってちゃんとおっしゃってたじゃないですか。だから、今のは私が無理にしようとしただけなんですから、そんな風に泣かないでください」
「カミール」
少女は大人の微笑を浮かべた。
「それに、私がスティーヴンスさんを好きなのは、そういうところがちゃんとしてらっしゃるからなんです。それに、私と絵をごっちゃにしなかったから」
「ごっちゃにする?」
「ええ」
カミールは襟のボタンを止めなおして、
「今まで私を好きになってくれた人は沢山いました。男も女も、ただ寄ってくるだけの人は多かったと思います。本気の人も、たぶん少しはいたでしょう。でも、私の絵に目をつけると、みんな《出せ》とか《売れ》とかしか言わなくなってしまうんです。そんな気持ちで描いてるんじゃないものまで。そして、いったんそうなったら、誰も私を愛してくれませんでした。本当の私を見てくれなくなりました。私は絵を描く機械じゃないのに。絵そのものが私でもないのに。でも、スティーヴンスさんだけは、違ったんです」
「違った?」
「ええ。この絵はどうして発表しないの、もったいない、なんて絶対におっしゃらなかったでしょう。反対に、誰にも見せたくないぐらい好きになってしまったの、いただいたもの、全部部屋に飾ってもいいかしら、いつも見ていたいからって手紙に書いてくださって。私、そういうのがとても嬉しかったんです。素直な気持ち、絵を描き始めた頃の気持ちに戻れて、沢山描いても疲れなかった。喜んでくれる人のために描くのが楽しいってことを思いだして……」
「そんな」
私はそんな立派なものじゃないわ、と言いかけるジェニーを制して、
「いいんです。だから、そういう意味で愛してもらおうなんて、もう望みません。それに、スティーヴンスさんが、私をとても大事に思ってくださってるのはわかってますから。そんなに心配しなくても壊れたりしないのにって思うぐらい、うんと気を遣ってくださってたでしょう。私、それが、嬉しくて……抱きしめられるよりも、嬉しくて……だから、つい甘えたくなって……ごめんなさい」
言いながら、その大きな瞳が潤みだした。
「カミール」
孤独なのだ、この子は。
豊かな感情の泉を持ちながら、誰も正しく汲みにきてくれなくて、大勢の知人に囲まれていても、何人も庇護者がいても、恋人に抱かれても、さみしくてたまらなかったのだ。誰にも解ってもらえなくて、そういう意味ではずっと独りだったのだ。上っ面だけ愛されて、大事な部分を満たされないできたのだ。そして、憧れの人への深い愛を、独りで懸命に守り続けて。
ジェニーは涙を拭いた。姿勢を正して、カミールと真っ直に向き合った。
「もしよかったら、友達として、抱きしめてもいい?」
「……もちろん」
肩を抱くだけ。友人として、慰めるだけ。
そう自分に言いきかせて、ジェニーはカミールを抱き寄せた。
次の瞬間、広がったのは不思議にやすらかな気持ちだった。
それは愛にとても似ていた。いや、これも愛の一種なのかもしれないが。
カミールの涙はひきかけていた。
「あなたも、そろそろ落ち着いた?」
「はい」
それから二人は顔を拭いて冷やし、腫れた顔を元通りにした。結局モデルどころでなくなって、カミールはそのまま帰ることになった。
ドアの前でコートを羽織り、鞄を肩にかけたところで、ふとカミールはまた表情を変えた。
「スティーヴンスさん」
「なに?」
「もう二度と会いたくない、なんて、思いませんか」
心配そうな顔。
「どうして?」
「さっきは、もう二度と甘えたりしませんなんて言ってしまいましたけど、自信がないんです。だってすぐには、この気持ちは醒めないから」
ジェニーは一瞬迷った。きっぱり突きはなすべき場面だというのに、言葉を失ってしまったのだ。期待させてはいけないのに。
「スティーヴンスさん?」
ジェニーは一つ深呼吸した。
「大切な友人をすすんでなくしたい人はいないわ。それに、人の間の絆って変化していくものだと思うの。恋が友情に変わることもあるし。だから、私の気持ちを知っていて、さっきみたいにちゃんと尊重してつきあってくれるなら、またいつでも会いたいわ。あなたを辛くさせてしまった分、もし別の部分で力になれたら、とても嬉しいと思うし」
「やっぱり私、あなたが好き」
カミールはもう一度ジェニーに抱きついた。それは恋人に対する甘えたものではなかった。だが、ジェニーが味わったことのある友人の抱擁の中で、一番深い愛情に溢れていた。
よかった、と思った。
自分は間違っていなかった、と。
しかしその後、カミールは突然消えたのだった。
何かを苦にでもしたかのように。

エヴァハード・グリーンヘイズはしばらく考え続けていたが、ついに腹を決めてジェニーに質問を投げかけた。
「ね、真犯人はオーガスト・ナインなの? それともジョージア・モーゼス?」
「問題は動機なのよ。それさえはっきりすれば、どちらが犯人かわかると思うの」
ジェニーはもう胸中に犯人を決めた口ぶりだった。
「動機って何だと思うの?」
グリーンヘイズが引き込まれると、
「人が人を殺す動機はいろいろあるわ。ゆきずりの相手ならお金が最大の原因でしょうし、家族や恋人みたいな近しい同士の殺人は、愛憎が最大の原因でしょうね。つまり、親しい同士は感情がぶつかりあうからお互いを殺しやすいのよ。でも、カミールには、本当の意味で親しい人はいなかったと思うの」
「それ、どういう意味?」
親しい人がいない、という言葉の意味もわからないし、それは動機を絞りにくくする考え方としか思われない。するとジェニーは諭すように、
「つまり、彼女には仲間も指導者も夫もいるけど、彼らから正当な愛を受け取っていないのよ。だから、愛や憎しみや嫉妬から、カミールが危害を加えられる可能性はとても低いと思う。でも、その殺人がゆきずりの人間の犯行なら、私の留守中にわざわざ腕なんて放り込みにこない筈だわ」
「つまり、彼女を害したのはカミールに近い人間だけれど、その動機は激情みたいなありふれたものでなくて、もっとエキセントリックなものだったって事?」
「たぶん。それにね、カミールは死んでないと思うの」
「えっ」
グリーンヘイズだとて、カミールの腕が発見されて、それが死後切断されたものらしい、という話ぐらいは新聞で読んでいた。
「じゃあ、あの腕は」
「だって遺体が、腕だけしか出てこないなんて変じゃない。血だけなら生きてる人間からだって採れるわ。あれがカミールの腕だって証言したのは、おおまかな血液型とせいぜい夫の証言ぐらいだと思うの。正式な検死には時間がかかるから。オーガスト・ナインは絵に描かれた腕を見て夢中になってしまう芸術馬鹿よ、妻の生の腕なんてきっとちゃんと見てやしないわ。そして、私の住所を知っていて、留守中に訪ねてきてもおかしくないような身分の人間で、なおかつカミールに近い人って一人しかいないじゃないの」
グリーンヘイズの声がはねあがった。
「ちょっと待ってよ。ジョージア・モーゼスがカミールをさらって何処かに隠してるっていうの? 別の死体の腕をもいで、まるで殺されたみたいに見せかけてまで? その動機は何よ」
「ね、動機を考えなきゃ、駄目でしょう」
ジェニーはニヤッと笑って、
「あなたが知らないことを一つ教えてあげるわ。カミールはナイーヴだけど頑固な娘よね」
「ええ。そうみたいね」
ジェニーは楽しそうに続けた。
「彼女ね、発表する予定のない連作を描きためていたの。自分の楽しみと、過去の思い出を宝石に変えるために。私にはこっそり見せてくれたんだけど、本当に素晴らしい作品ばかりだったわ。あれを世間が知ったら、彼女の評価はもっと上がるでしょうね。多少荒削りではあるけれど、若い作家らしい情熱の溢れた傑作だって絶賛されると思う。でもね、彼女はそれを発表する気はなかったの。絶対に嫌だって言ってたわ。もしかして、彼女なりに整理やまとまりがついたなら、いずれは世に出したかもしれないけれど、今の彼女に出せ、とゴリ押ししたら、絶対抵抗して、破いてでも焼いてでも人目に触れさせないようにしたでしょうね」
「つまり、ジョージア・モーゼスがカミールを軟禁している理由は、その絵を世に出したいからって言いたいの?」
「もしかして軟禁が行き過ぎて、殺してしまうかもしれないけどね。芸術作品に目がくらんでいる人は、それを生み出してしている本人には意外に気を遣わないものよ。もしカミールが死んだなら、この作品は遺稿として出せる、若くして死んだ薄幸の画家の作品として、いくらでも煽って売れるとしたら? いいえ、売れるか売れないかなんて問題じゃない、ただ秀作を世に出したいんだっていう編集者の盲目的義務感だったら、なおさら始末が悪いかもしれないわ」
「大変」
グリーンヘイズは青くなった。
「忙しい年末だもの、この時期に出版社に社長が泊り込みをしてても誰も不審に思わないわよね。あそこは立派なレストランがあるから大きな冷蔵庫もあるし、昔は地下一階がバーだったビルだから地下室の防音は完璧だし、軟禁どころか人殺しにもおあつらえむきの場所じゃないの」
「御明察」
ふざけた口調でうなずくので、グリーンヘイズは怒りだした。
「ちょっとジェニー、どうしてそれを警察に言わないのよ。黙ってなんかいるから捕まっちゃうんじゃない。もしカミールが殺されてたらどうするの、あなたがぐずぐずしてたせいで、業を煮やしたジョージアに殺されちゃったら」
ジェニーは首を振り、奥にある鏡に向かって声をかけた。
「ステファニー・キャロルさん。そこで聞いているんでしょう。わかってるんだからこちらに入ってくるか、どうか返事をして下さい」
つまりそれは鏡でなく、TVなどでよく見る向こう側からしか見えないガラス窓であるらしい。返事は戻ってこなかったが、ジェニーは続けた。
「七十六分署のステファニー・キャロルさんは、そんなに愚かな警察官じゃないわ。私が仕事の打ち合わせで一時間外出してる間にきれいに家さがしをすませて、たぶん我が家の脱走経路の有無まで確認したことを、帰宅した私に全く気付かせなかった凄腕の持ち主なのよ。私にわかる犯人を見抜けない訳ないじゃないの」
まだ返事がないので、ジェニーは大きな声をあげた。
「本当は口裏をあわせてあげても良かったんだけど、ああいうことされてシャクだから、わざと黙秘を続けてたの。私が犯人として捕まれば、ジョージアが少し安心してボロを出すかもしれない、それが私を捕まえた理由なのよ。だからこんなに待遇がいいんじゃない。いくらなんでも何十分も友達とのんびりおしゃべりさせてくれる面会室なんてあるもんですか。TVドラマでだって無理があるわ」
「御明察」
ようやく奥のドアから、赤毛の女性警官が入ってきた。
「すみませんでした。事情をお話ししようとは思っていたんですが、新聞にすっぱ抜かれたり、ジョージアの動向を常にチェックしていなければならなかったりで、あなたが黙秘していることをいいことにこちらも知らん顔をしていたんです。失礼をお詫びします。御協力いただいたことを感謝します」
「いいえ。全然気にしてませんから。それより、カミール・ナインは無事だったんですか」
まるで旧友に語りかけるように、ジェニーは自然に立ち上がってそう言った。ステファニー・キャロルは苦笑して、
「ええ。逃げようとして、ちょっと足に怪我をしていましたが、身体にはほとんど怪我はありません。一番大きいダメージは、判明した腕の持ち主のことで」
「その方は結局どなただったんでしょう」
「ゼラニウム・ゼルダというペンネームの貧乏詩人で、あちこちでずっと売り込みをやっていて、最後の傑作をモーゼス社に持ち込んだんですがそれも駄目で、やけを起こしたのかそこの地下室に入り込んで、首をつってしまったらしいんです。まだ若いんだから、詩で食べられなくてもそんなに絶望しなくても良かったと思うんですが。貯金が尽きた訳でもなかったようですしね。会社のイメージダウンを恐れたジョージア・モーゼスが、よし、どうせならこれを利用してやれ、と思ってもあまり責められないのかもしれません」
「なるほど」
二人のやりとりをききながら、グリーンヘイズはほっとため息をついた。カミールは無事だった。殺人はなかったのだ。この友人は無罪なのだ。
しかしジェニーはそんなグリーンヘイズに気付かず、いかにも憂鬱そうな声で、
「それで、そのゼルダさんっていうのは、カミールの七年生から九年生までの美術の先生だった人ですね、最初に彼女の絵の才能を引き出した」
「そんなことまで知っていたんですか」
ジェニーは重々しくうなずいて、
「それ以外の人だったら、カミールはショックなんて受けませんよ。反対に言えば、たとえ何十年生きていたって、一番尊敬していた人がそんな死に方をしたら誰だって嫌でしょう。まして彼女は若いんです。あの年齢でアートスクールの講師を選んで結婚をしてしまったのも、そういう理由からだったんだと思いますよ、たぶん」
「なるほど」
「カミールは繊細な子なので、できるだけ早く休ませてあげてください。犠牲者なんですから。ジョージアさんのしたことも充分ショックな筈ですし」
「わかりました。その点は配慮します」
さて、なんとか無事釈放となって別れ際、ステファニー・キャロルはもう一度ジェニーに詫びた。
「今回の件は本当に申し訳ありませんでした。各新聞社にはこちらからきちんと抗議を申し込んでおきますので」
「いいんです。慣れてますから」
ジェニーは薄く笑った。
「どうせ私はゴシップ作家なので、今回の事件で名が出たことで、いっそ本が売れて生活が楽になるでしょう。関係者も気にしないでしょう、本が売れさえすれば私が殺人犯でもね」
皮肉めいた口調で言う。するとステファニー・キャロルはすっと姿勢を正して、
「確かに御本は売れるでしょう。明日本屋に行って私が全部買い占めますから」
「御冗談を。お世辞も同情も結構ですよ」
「いいえ」
キャロルは真面目な顔になって、
「さっきの面会室でのエヴァさんとの会話には引き込まれました。きっと普段のスティーヴンスさんの小説は面白いんだろうと思いました」
「普段の?」
「ええ。ポルノはあまり向いてらっしゃらないと思います」
「はっきり言いますね」
「ご自分でもそう思ってるんでしょう? だから殴り書きをそのまま机の上に放り出しっぱなしになんかしてたんじゃないんですか?」
ジェニーは苦笑した。
「単に私ががさつなだけですよ。うちのマネージャーが、今ちょっと故郷に帰ってるんで、一人では整理が間に合わないんです」
「そう言われるなら、そういうことにしておきましょうか」
そんな風に軽く話をまとめて、ステファニー・キャロルは笑顔で二人を見送った。グリーンヘイズはしばらくあきれていて、帰る方向が別れる時になると、さっさとさよならを言った。
「クリスマスの準備があるのよ。帰るわ」
「わかったわ。じゃあね」
エヴァも実家に戻るんだろうな、などと考えながら、ジェニーは日暮れかけた家路をたどった。何の買い物もしていないが、一人なのだから気楽だった。もしかして気の毒がって大家さんがパーティーをしてそれに呼んでくれるかもしれない。そうしたらプレゼントを用意しなければいけないが、まあ、それはそれだ。カードはもう書いてあるし。
問題は、テキサスにいるヴィダだ。今からカードを送るのでは遅すぎるかもしれない。
でも、気持ちは伝えておいた方がいいだろう。
あなたを愛している、心から、と。

アパートの階段を上がり、ドアをあけて、ジェニーは今自分が鍵を無意識に二回まわしたのに気付いた。
「やだ。開いてたの?」
ちょっと待って。
開けられてたんじゃないの?
いったい誰が?
中に電気はついていない。
ジェニーは耳をすませた。奥に人がいる気配がする。
どうしよう。
せっかく殺人犯の汚名が晴れて、さっぱり無罪放免で帰ってきたのに、アパートについた途端に殺されちゃうの、私ってば。
すると、寝室から声がした。
「ジェニーなの? 帰ってきたの?」
耳を疑った。
寝室に飛び込むと、ベッドに座る一つの人影があった。
ヴィダだった。こちらの姿を認めると、部屋の灯を明るくして、
「おかえりなさい、ジェニー」
「なんで……」
「座らない、ここに?」
ヴィダはコート姿のままでベッドに座っていた。その脇にジェニーが座るとため息をつくように、
「灯りもつけてなくてごめんね。今日戻ってきたばかりだったの。そしたら大家さんが慌ててて、ジェニーが大変だって言って、でも話が全然要領をえなくて、なんだか隠し事をしてるみたいだったから、本当に何かあったんだろうと思って、もしあなたが戻ってこなかったらどうしようってちょっと途方に暮れてたの。ごめんなさい、ドアに鍵もかけてなくて」
「いいの」
ジェニーは胸の底からじわりと湧きあがってくるものを感じつつ、気になっていることをそろそろと切り出した。
「その……家の中のこと、片付いたの?」
「まだ全然。説得は続けるつもり。続けなきゃ駄目だと思うから」
「じゃあ、どうしてここに戻ってきてくれたの。大変だったんでしょう」
ヴィダは痛々しいほどやつれていた。ジェニーはあらためて自分の思いやりのなさを感じた。なんて私はひどい女だ。どうして私は電話口で、あんなに無神経なことを口走ったのだろう。ヴィダがどれだけ疲れきっているか考えもしないで。家族なんてどうでもいいじゃないなんて、普通の友人にも言わないじゃないか。彼女が怒って当り前だ。それを私は。なんてことを。
するとヴィダは顔を上げた。きっぱりとした声で、
「帰ってきたのは、もうすぐクリスマスだから」
「クリスマスだから?」
「クリスマスってやっぱり家族と過ごす時間だもの。違う?」
ヴィダの瞳が深い感情をたたえて、ジェニーを見つめた。
「考えたの。家族が大事だなんて言ってあなたと喧嘩したけれど、私は間違ってなかったかしらって。だって、血がつながってなくたって、家族は家族じゃない。だから帰ってきたの。ここへ。クリスマスなんだから」
「ヴィ」
するとヴィダはジェニーの背中に腕を回し、きゅっと彼女を抱き寄せた。
「だって、私の一番大事な家族って、ジェニーなんだもの。だから私はここに居なきゃ」
その瞬間、ジェニーの心の中にあった汚いものや雑音は、すっかりきれいに消えてしまった。苦しみも辛さも嘘のようにぬぐいさられて、いま生きている喜びだけが全身を満たした。
「私もそう。……ごめんね、ヴィ。許してくれるのね」
「ええ。私こそ、あなたが大変だった時に、留守にしてごめんなさい」
「いいの。私の方はたいしたことなんかじゃなかったんだから」
ああ、この聖夜、すべての人々に祝福あれ――。

* 参考文献 "CANNIBALISM:The Last Taboo!" by BRIAN MARRINER他

(1997.12脱稿/初出・恋人と時限爆弾『食べたい』1997.12発行)

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