『食べたい -- feminine mystique --

Written by Margaret Bluewater / Translated by Narihara Akira


1.

外は雪がちらつき始めていたが、身も心も燃える思いのために、私はシャツ一枚羽織っただけでも暑いほどだった。もちろん部屋も充分に暖かくしてあるから、この子が鳥肌をたてているのは寒さのせいではない筈だ。
「私、ひどいことをしてるわね……」
少女が低くうめく。
ああ、この滑らかな肌に舌を這わせるだけでは物足りない。かじりたいのだ、愛撫に反応して桜いろから暗血色に変わった胸のふたつの硬い木の実を。薄く流れる血を口唇でぬぐって、できることなら噛みちぎりたいのだ。
食べたい。
「ね、じっとしていて。もがいても手首と足首に傷がつくだけだから」
擦り切れた肌からもう血が流れだしている。乱暴はしたくなかったけれど、できるだけ四肢を広げた形で拘束しなければ逃げられてしまう。さるぐつわをかませなければ大声をあげられてしまう。
食べたい。
私はナイフを取り上げて、小さな洋梨を剥き始めた。半分溶けているような柔らかい果肉からぽたりぽたりと滴が垂れ、彼女の肌に落ちて流れる。
「……うっ」
喉の奥でくぐもった甘い声をききながら、私は中指程の長さの浅い谷間を本物の果実の方に彫りつけた。微妙な陰影を足してから彼女の顔に近づけ、空いている方の手で金色にけぶる彼女の足の付け根をそっと覆う。
「鏡か何かで見たことある? 貴女のここってこんな風なのよ。知ってた?」
身体を倒し、果実の谷間を嘗めながら、含み笑いで見せつける。
「貴女もこんな風に濡れるのよ。そして甘いの。だから時々、切り取って食べてしまいたくなるの。こんな風に」
もう一度ナイフを手にとり、果実の谷間にあてて薄い一片をえぐりとる。それを自分の口に入れ、もう一片切りとったものを、握りつぶして相手の胸に塗りつける。
食べたい。
まろやかとはいいがたいけれど、仰向けになっていても弾むような胸。雪のような肌にぽつんと浮かぶ二つの突起。肩から腕にかけての、笑くぼのできるような丸々とした肉付き。抱きしめても抱きしめたりないほど充実した腿。足の指先まで本当に柔らかくて、無駄な運動をさせられることのなかった最高級の食肉のようだ。どんなに甘い白いクリームのケーキも上手にできた中華のあつものも、こんなに食欲をそそらない。
食べたい。
つい熱いため息をもらしてしまうと、彼女は震える。一度達した後なので、感じやすくなっているのだ。それに私が本当に自分を食べようとしているとは思っていない。セックスにつきもののお遊びだと信じているのだ。
だいたい、食べたいという台詞は、洋の東西を問わず《おまえとやりたい》という意味だ。非処女のことを俗語で《食べられた女(エイト・ガール)》と言うではないか。
そういう意味でなら、私は彼女を何度も食べている。
だが、何故か飢えがおさまらないのだ。薄い汗の味、血の味、相手の体液の味、肌を噛んだ時の抵抗、それだけでは満たされないのだ。
食べたい。
私は自分の手の中の果実を握りつぶした。
最近熟した洋梨ばかり食べるようになっていた。もう季節が過ぎてしまって、なかなか手に入らないというのに。
この少女のせいだ。
本当に食べることなんて出来ないから、そしたら殺人者になってしまうから、その代わりにこれをむさぼり食べていたのだ。果物の方が甘い、人肉だって生はたいしてうまくないだろう、と自分に言いきかせて。
いや。
本当に食べられないのは、一度殺してしまったら二度と食べられないからだ。新鮮でなければこの肉は柔らかく味わえないだろう、冷蔵庫に保存するようなものでもない、たった一度の食餌のために、これだけ素晴らしい身体をむざむざ死なせられるか。こんな好みの少女が、そう簡単に見つかるものか。
でも、食べたい。
いつか殺してしまうかもしれない、いや、今晩殺してしまうかもしれない。だから今まで何度も脅した。サディズムの気があるから酷い目に遭わすかもしれないと。もう来るな、二度と二人で逢わない方がいい、と。
しかし彼女は来た。自分から身体を開いて求めてきたのだ。
だから思わず縛ってしまったのだが。
どうしよう。
食べたい。
私はかたく目を閉じて、彼女のさるぐつわをとった。理性の糸が切れる前に、この子に自由を与えた方がいい。そうすればせめて殺さずにすむ。
「怖くなったら大声を出してもいいわ。逃げたくなったら、このロープを切って逃げていいのよ。ほら、ナイフ。ああ、もちろん一本目は私が切るから。両手両足を全部縛られたままじゃ、切るのは結構難しいものね」
しかし、少女の口唇から洩れたのは別の種類の哀願だった。
「縛られたままでもいいんです。こうやってあなたが見ていてくれるのなら、もう一度抱いてもらえるんなら」
私の悪戯で濡れた胸を波うたせながら、
「脅かされたって怖くなんかありません。指や腕の一本ぐらい食べられてしまってもかまわないもの。あなたの一部になれるなら、いっそ嬉しい……」
「やめなさい」
冗談でもそれを言ってはならない。
私は本気なのだ。本当にしてしまいそうなのだ。
できるだけ心を引き締めて、なんとか落ち着いた声を出す。
「ちょっと焦らしすぎたわね、あなたにそんな事を言わせるつもりじゃなかったのよ。ね、今してあげるから、そんなにとり乱さないで」
「ああ、スティーヴンスさん……」
腕のロープを切ってやると、そのしなやかな腕はきゅうっと私に絡みついてきた。足のロープを完全に切り終わらないうちに、私の舌は強く吸い上げられていた。自分が食べられるような感覚も悪くない、と思いながら、私は四本目のロープを切るのを止めた。このまま愛し合いたい。食べたいなどと馬鹿な妄想を抱くよりも、肌身を重ねて溶けあう方がいい。それは深い安らぎと慰めを二人共にもたらす筈だ。
「あなたが好きよ」
嬉しい、とすがりついてくる。もう堪えきれない、もっとしっかり抱きしめてください、とでもいうように。
愛しい。
食べてしまいたいほど可愛い、というのはこういう時につかう形容詞なのだろう。それが、実感として胸にせまる。

「TRRRRR!」
ふいに鳴った電話のベルは大きすぎるほどで、興の醒めた私はすぐに作業を中断し、受話器をとりあげた。
「もしもし?」
「あの、そちらは作家のJ・L・スティーヴンスさんですよね」
「どちらさまで?」
慌てた声は若い男のものらしいが、あまり聴き憶えのない感じだ。狂信的ファンがこの電話番号をつきとめてかけてきたのだとすれば名乗らない方がよい。すると向こうはそれを察したか、すぐに慇懃な口調に切り替えて、
「すみません、どうも失礼しました。はじめまして、オーガスト・ナインと申します。あの、今日お電話したのは、うちの妻が、その、カミールがそちらにお邪魔してないかと思いまして」
「はあ」
私はわざととぼけた声を出した。どうして彼がそんな電話をしてきたのかすぐに解ったからだ。
「ということは、今日はカミールさんは、まだお家に戻ってらっしゃらないんですね」
しかし、オーガストは私のわざとらしいのんびり声に気付かないかのように、
「いや、それが今日だけじゃないんです。昨日の朝アトリエに出かけて、それっきり戻ってこないんです。夜アトリエに行ったんですが何処にもいなくて、それで今、カミールの友人知人に電話をして回ってるんですが」
「ははあ」
「それがその、部屋を調べてみたら、アドレス帳とか手紙の類とか結構なくなっていて、電話番号を調べるのも大変だったんです、それで家出をしたんじゃないかと思って」
それはそうだろう。この男はカミールの夫であっても、その友人すらろくに知らないのだ。例えば彼女の初恋のひとの存在だって、そのひとにJ・L・スティーヴンスという作家がよく似ていることだって。
私はさらにそらぞらしい声を出してみる。
「それは心配ですねえ。でももしかして失踪事件かもしれませんよ。何しろNYなんですから、家出だと思っても捜索願いを出しておいた方がいいでしょう。警察にはもう電話なさいました? もう二日もいないんですから、生死に関わる事件だったらどうするんです?」
受話器の向こうが一瞬沈黙した。
失踪、ということが、何故大きな事件として扱われるかといえば、往々にしてその先があるからだ。つまり、殺人が行われ、遺体が隠されている可能性があるということだ。
「……ええ、一応警察には連絡してあります。でもスティーヴンスさんなら、彼女がいきそうな場所に心当たりがあるんじゃないかと思ったんですよ。親しくしてらしたじゃないですか。手紙のやりとりも随分熱心にやってらしたし」
私は薄く笑った。声だけは冷静に、
「心当たりの場所、と言われてもよくわかりませんね。まだお付き合いを始めてからあまり時間がたっていませんし、手紙のやりとりはしていましたけれど、実際に会ったのは二、三回ですから。オーガストさんでしたっけ、あなたが考えていらっしゃるほど、私とカミールさんとは親しくないんですよ。うちに来られたこともないですしね」
嘘つきな私。でも、これはつかなければならない嘘だ。
「そうですか」
向こうはあきらかに落胆した声で、
「もしそちらに連絡があるか、顔を見せたりしたら、こちらに連絡をいただけますか? お忙しいところ申し訳ないんですが」
「わかりました、もしそういうことがあればお知らせしますし、彼女にもすぐに家に連絡するようにお話しましょう。それでよろしいですか?」
するとオーガストは私の声にすがるように、
「ありがとうございます。あの、では電話番号を」
電話番号を書きとり、会話が終わると私は軽く受話器を置いた。
「ちょっとドキドキするわね。考えてみればこれは不倫なんだもの」
オーガストも可哀相なのだ。彼にも悪い部分はあるが、パートナーを失うかもしれない時に不安にならない者はいない。妻のことを何も思っていないのなら、あんなにハラハラした声は出さないだろう。心配している事は嘘でない筈だ。
しかし私は、自分の欲望に再び向き合う。
「今いくわね、カミール」

積もる雪が吸収するのか、外の物音はあまり聞こえてこない。擦れるシーツの音と、肌の触れ合う音、そして互いの息づかいだけが二人の世界を包んでいる。
ベッドの上の彼女はすっかり上気して、なまめかしいとしかいいようのない風情だ。膨らんだ乳首を尖らせた舌でつつくと、彼女は切ないため息を洩らした。その瞳は熱っぽく潤んで、
「スティーヴンスさんがしたいことをしてください。そんな風に優しくされると、かえって苦しくて……」
「苦しい? じゃあ、少し休みましょうか」
「厭」
意地悪しないで、と身体をこすりつけてくる。
ああ、私のしたいことは、この口唇に、喉に食らいついて噛みちぎることだっていうのに。こんな風に丸い肩を掌で包みこみ、うなじをきつく吸うと、自分が映画の女吸血鬼になった気がするのに。
私は少女から身体を離した。
「ね、もう一度シャワーを浴びたくない?」
「それは、あの……今夜はもうおしまいにしましょう、ってことですか?」
霞んだ表情で喘ぐように呟く。私は彼女の短い金髪を撫でながら、
「違うわ。今度は一緒に入って楽しみましょう、ってこと」

バスタブをたっぷりの暖かいお湯で満たし、充分蒸気をあげてシャワールーム全体を温めた。
しかし、これでよし、と呟いた瞬間に、再び電話のベルが鳴った。私は舌打ちして書斎に戻った。
「夜分にすみません、ジョージア・モーゼスと申しますが、J・L・スティーヴンス先生のオフィスはそちらでよろしいんでしょうか。出来ましたら至急お取り次ぎ願いたいんですけれども、先生はいらっしゃいませんでしょうか」
礼儀正しい四十代女性の声。ははあ、今度はモーゼス社の親玉さんがきたか。私はこのひとは嫌いじゃないわ、と愛想のよい声を出す。
「本人です。いつもお世話様です。それであの、御用の向きはいったいなんでしょうか」
モーゼス女史は慎ましい声で、
「実はその、例のカミール・ナインなんですが、昨日の昼過ぎからちょっと姿が見えなくなりまして。自社の画家のことをお尋ねするなんてお恥ずかしい話で恐縮なんですが、先生のところに何かそれらしいことを言い残しておりませんでしたでしょうか。何処か旅行に行く予定だとか? とりあえず年内の仕事は終わってるんですが、来年の打ち合せなどもありますので……」
最後を曖昧に濁すあたりも如才なくて好ましい。私も同情深い声をつくって、
「私の方にはそういった連絡は来ておりませんが……ああ、新年号の分まで仕事が終わっているのなら、もしかして思い立って故郷に帰ったんじゃないでしょうか? もうすぐクリスマスなんですし、まんざら子供でもないんですから、そういうこともあるんじゃないかと」
「いえその、彼女の実家の方にはもう連絡をいれてあるんです。でもまだそちらには戻ってないようで、電話もかかってきていないとかで」
それはそうだろう。家出をした時に実家に帰る子でもないだろう、とは思う。早い結婚をしたのは血縁と折り合いが悪かったせいだと聞いている。
「それは心配ですねえ」
「ええ。なにせNYですから、どんな陰惨な事件でも起こりうる訳ですから……一般人だっていつどんなことに巻き込まれるかということを考えますと……あの子が無事でいてくれさえいればいいのですが……」
実の母のような親身な口調で呟く。しかし私は心の中で舌を出した。その無事っていうのは、あの子の腕が無事かどうかじゃないのかしら、と。
「そうですね、私も心配になってきました。わかりました、もしこちらの方に連絡がありましたら、モーゼスさんにすぐにお知らせします。お電話をするのは会社の方でよろしいですか、それとも御自宅の方がよろしいでしょうか」
するとジョージア・モーゼスはキリ、と声を引き締めて、
「真夜中すぎでも何時でも構いませんので、会社の方にお願いいたします。年末は仕事がたてこみますので、今晩は会社に泊り込むつもりでおりますので」
「それではそのようにさせていただきます。お仕事ご苦労さまです」
電話が切れると、私はそっと受話器を置いた。
さっきは意地悪な事を考えて悪かったな、と思う。オーガストとジョージアのどちらがより多く、いや人間としてどちらがより正しくカミールを愛しているかと考えると、たとえ心の中ででもモーゼス女史をけなしてはいけないと思う。彼女がカミールを失うことは、仕事抜きにしてもつらい筈だ。彼女にとってカミールは単なる自社のお抱え画家ではない、実際娘のように大切にしているのだ、結婚していたら私にもこれぐらいの子供がいたかもしれない、などと感慨深く見守っているに違いない。いや、あの可愛がりようでは、むしろそれ以上の感情を抱いてカミールを見ているかもしれないが。
「いけない、品のない発想をしちゃった」
しかし私の頭に浮かんだのは、同病相憐れむ、の諺だった。そういった恋は、普通に考えられるように汚くいかがわしいものではなく、むしろ苦しく辛いものだ。ましてその相手が、あの美しいコケットでは。
いけない。
湯舟につけっぱなしにしておいては、楽しむ前に彼女がゆであがってしまう。すぐに続きをしなければ。
私は急いでシャワールームへ戻った。
愛らしいひとの待つ、その部屋に。

わざと入浴剤もシャボンも入れなかったのでお湯は透明で、彼女はしきりに恥ずかしがって身を丸め、できるだけ湯舟にもぐろうとする。タイルの白さでこちらの方が寝室より明るく感じるのかもしれない。長く入っているためには心臓より上は浸からない方がいいので、私は両腕で彼女をバスタブの縁に縫いとめた。
「あ……」
喜びの声。
気が付くと彼女は全身の力が抜け、瞳もとろんとして、もうすっかりなすがままの状態になってしまっていた。
「大丈夫?」
ちょっと触れただけでもこうだ、刺激が強すぎてここで倒れてしまったら困る、と思った。気を失ったら失ったで楽しみようもあるけれども、一番したいことは出来ない。それに身体に出来ている擦り傷に熱い湯がしみないかということも気がかりだった。
「平気です」
彼女は弱々しくうなずいて、
「それに」
もっと触れあっていたいんです、と小さい口唇が呟く。その仕草が本当に幼い子のようで、抱いてあやしてやりたい衝動にかられる。
「じゃあ、こうしましょうか」
私は一度立ち上がり、少女の後ろから湯舟に入りなおした。身体を長くのばし、柔らかなマットレスのように彼女を受け止めてからウェストを抱えてやる。すると彼女は、安心したように仰向けのままそっと体重をかけてきた。元々そんなに重い子ではないし、お湯の中なのでさらに楽だ。
「気持ちがよくて、眠ってしまいそう……」
そう呟くと彼女は私の鎖骨に頬を寄せ、猫の仔が頭からすりよってくるような感じで甘えだした。私は重心をずらしてその愛撫に応えながら、頚動脈を切るのならこういう瞬間だな、などと考えた。カミソリの刃をその棚に置いておいて、そっと腕を伸ばしてからこう構えて……。

また電話だ。
今晩はなんて電話が多いんだろう。始める前に受話器を外しておくか、いっそ電話線を切っておけば良かったと思うほどだ。私は手早く身体を拭き、ローヴを羽織って書斎に戻った。
「どちら様ですか」
「エヴァハード・グリーンヘイズです。ジェニーはそこにいますか」
「私よ。何?」
旧友ゆえに思わず声が尖る。普段はここまでつっけんどんにはしないのだが、理性が溶けかけてそのまま夢のように気持ちよくなろうとしていたのを中断されたのだ、風呂場にもいろいろ持ち込んでいたのに、これでは雰囲気ぶち壊しだ。
するとグリーンヘイズは軽くかわした。
「ごめん、忙しいならいいわ。ただ、カミールが消えちゃったっていうから、ちょっと知らせておこうかと思って」
私は一瞬おし黙った。
「ジェニー? もしもし?」
「カミールが消えたってどういうこと? 私に知らせておこうって、どうして?」
声が掠れる。何故グリーンヘイズからその話が来るのだ、と思うと、心臓が急に早く打ちだした。すると彼女は屈託なく、
「だってジェニー、カミールの大ファンだったじゃない。だから教えておこうと思って。なんでも昨日アトリエに行った後、ぷっつり姿を消しちゃったらしいのよ。原因不明の失踪なんで、関係者は大騒ぎで探してるわ。それで、私のところにも心当たりがないかって電話があってね。ジェニーのとこにはまだ来てないの?」
「ええ。知らなかったわ」
思わずそう答えてしまって後悔した。まずい、これは後でつつかれたらボロの出る嘘だ。私は眉をしかめつつ、
「いやあね、カミールみたいな子が消えるなんて。怖い話だわ」
するとグリーンヘイズは立て板に水を流すように、
「そうでしょ、なまじ魅力的だから、さらわれたりしたら絶対命がないわよね、何されるかわかったもんじゃないもの。単なる家出だったとしても、まだ十九でしょ、黙ってれば既婚女性には見えないし、結局誘惑されて連れていかれちゃったりして。相手の顔をみてる訳だから、そうしたらきっと殺され……」
「っていうのはあまりにありがちな新聞ネタって感じで、厭ね」
ぴしゃっとやっつけるとグリーンヘイズは苦笑して、
「それがありがちなのは、残念なことにその手の悲劇が毎日のように起こっているからよ。反対に言えばあなたの小説みたいにひねりをきかせた展開はそうそう転がっちゃいないわ」
私も苦笑して、
「ありがとう。創作小説家としては、それは誉め言葉だと受け取っていいのよね? つまりちゃんと現実を越えたものを書いてるってことで」
「あらそう? 私はノンフィクションもやるけど、文章じゃ絶対に現実には追いつけないと思うわ。どんな不条理の物語だって極悪なポルノ小説だって、現実の悲惨さ凄さに比べたら……」
私は再び遮った。
「ねえ、私、いまシャワーを浴びてたの。もし創作論をしたいなら、今度あった時じゃ駄目かしら。風邪をひくから」
「あら、それで電話に出るのが遅かったの、ごめんなさい。私はまたその……」
何か言いかけてグリーンヘイズはふとやめた。
「じゃあまたね、カミールの件は、続報があったら知らせるから」
「ありがとう。おやすみなさい」
「まだ寝ないわ。年末の仕事が終わってなくって。でも、おやすみなさい、ジェニー」
そのまま電話は切れた。
しかし嫌味な言い方をする、と思う。仕事がたてこんでいて気がたっているのかもしれないが。
おかげですっかり甘い気分は消えてしまった。これだけ邪魔をされ、理性の世界に引き戻されてしまうと、今晩はこれ以上よこしまなことはやれそうにない。
なら、ここでいったん終わりにしてしまおう。
お楽しみは、もう少し先へとっておこう。
本当に殺す気なんて、ないんだし。
それにカミールはもう、私の手中にあるのだから。
思わず笑いがこぼれるのをとめることが出来なかった。
そうよ、彼女は私のものなのよ、と。

さてしかし、この時点でカミール・ナインの失踪、およびそれに続く猟奇殺人事件における犯人とその動機の意外性、本当の独創性を見抜くことが出来たものは、誰一人としていなかった。
そう、私自身も含めて、人間の腕がゴロリと転がり出すような事態を誰も予想していなかったのである。

2.

「わあ、なんて素晴らしい喫茶室!」
ジェニー・L・スティーヴンスはその日、オーダーを頼む前に壁の絵に釘付けになってそのまま動かなくなってしまったので、エヴァハード・グリーンヘイズは壁際の席に陣取ってウェイトレスを呼んだ。
「グリーンヘイズです。このテーブルにコーヒー二つ。伝票はモーゼス編集長につけておいてください」
「かしこまりました」
ウェイトレスが去った後も、ジェニーは壁の前にうっとりと立ち尽くしたままだった。
「凄い! どうしよう私。こんなにたくさん一度に見られるなんて思ってなかった。どうしよう。好き。カミール可愛い」
ぽうっと頬を染めたその姿は女学生さながらで、グリーンヘイズはすっかりあきれ顔で、
「あなた、本当にファンなのね、ジェニー」
しかしJL先生はすっかり興奮したまま、
「だって可愛いもの。シンプルな線なのに動きがあって、暖かみがあって。血が通った絵ってこういうのを言うのよね。筋肉の弾力が感じられて押したらへこみそうなんだもの。ああ、この二の腕のくぼみ、この丸い肩。噛じりたい。食べたい!」
グリーンヘイズはため息をついた。ジェニーがこうまであられもないことを外で口走るとは思っていなかったからだ。こういう展開になるのなら、モーゼス社の喫茶室でカミールの個展みたいのをやってるわよ、などとうかつに教えなければよかった。今度モーゼスに行く用があるから一緒にどう、などと誘わなければよかった。確かに似たような賛辞は今までも電話口できいていたが、ここでは人も聞いているというのに。
「ね、それやったら変態通りこして変質者、犯罪者よ。判ってる?」
ジェニーはしかし夢中だった。
「そんなのわかってるわよ。でも本当に柔らかそうなんですもの。この鉛筆のスケッチの肩の線を見てよ。なだらかな首筋。遅れ毛のリアルさ。ふっくらとしてえくぼが出来そうな掌。二次元だなんて信じられない。着衣の絵もその下が完全に想像できるのよ、どうしたって触りたくなるじゃない。口唇で味わいたくなるわ。……食べたい」
グリーンヘイズは冷やかな一瞥を投げて、低い声で呟いた。
「あんたね、それ、相棒の前でも言える?」
突然ジェニーはおし黙った。グリーンヘイズはよし、とうなずいて、子供に言い聞かせるように、
「いい、ヴィダの耳にいれたくないようなことは、他の人の前でも言うべきじゃないのよ。わかる? 少しは冷静になった?」
ジェニーは奇妙な微笑を浮かべた。
「確かにヴィには言えないわね。その通り。ごめんなさい」
含みのある口調で言って、再び絵を見上げた。
「でも、ファンなの。素敵だなって思うのは本当なの」
「それは自由だと思うし、ヴィダも怒らないでしょうよ。私もだけど」
「有難う」
ジェニーはようやく落ち着き、運ばれてきたコーヒーに口をつけた。
「騒ぎすぎたわ。ごめんなさい」

あれは九月の初め頃、つまり二ヶ月程前、グリーンヘイズの新作『春の微笑』という詩集が送られてきた。何気なくそれを開いて、ジェニーは軽いショックを受けた。グリーンヘイズは普段詩人ではなく、その作品も平凡なものだったが、それについていた挿し絵のひとつひとつの美しさには目をみはるものがあった。
そう、それはいきなり襲った恋の衝撃だった。
ジェニーは毎晩詩集を手にした。ページをめくるごとに、挿し絵の人々は笑い、怒り、涙し、へそを曲げ、そしてまた笑った。男も女も老いも若きも着衣も半裸もわけへだてなく生き生きして、深い愛情をもった職人がその誇りのすべてをかけて描き出したものに違いなかった。
ああ、世の中にはこんな絵を描くひとがいるのか。
ジェニーは俗に言われる《いい絵》というものがよくわからなかった。綺麗だと思う絵、好みだと思う絵はあったが、それに魅了されて何度も眺めるような経験は、物心ついてこの方ほとんどなかった。
そう、これは《いい絵》なのだ。
ジェニーは専門に絵の勉強をしたことがなく、相棒であるヴィダに文学以外の芸術の話をされてもぴんとこなかったのだが、今回のこれが良いものである、という確信だけは揺らがなかった。私は見つけたのだ。これからは胸を張って好きな画家の名を挙げることができる。カミール・ナイン、と。
ああ、カミールさんに一言ファンです、と伝えたい。私は『春の微笑』に載っている絵しか知りませんが、それだけでわかります、貴女は素晴らしい画家です、と。
そう思ってジェニーは何度もファンレターの下書きをした。タイプで清書もした。しかし何度も破り捨てた。
誇り高いひとは、往々にして気難しい。
だから、一行でも変なことは書けない。ありふれた賛辞は絶対に嫌われるだろう。本の後書きの最終ページに添えられていた挿し絵画家の直筆の一言は、《大きな仕事をさせていただいて本当に有難うございました。これからもよろしくお願いします》という慎ましいものだったが、たかがこれっぽちのこと!という自負がその文字に現れているように思えた。
ジェニーは一ヶ月悩み、思いあまってついにグリーンヘイズに電話をした。
「あの、とても申し訳ないんだけれど、『春の微笑』に絵を描いてたカミール・ナインさんについて、ちょっと教えてくれないかしら?」
グリーンヘイズは何でも書きとばすタイプなので、しばらく思い出せないようだったが、ああ、と電話の向こうでうなずいて、
「ああ、例の詩集、見てくれたんだ、有難う。別に全然申し訳なくないよ。カミールは打ち合せで何度か会っただけだから、私もよくは知らないけど。まあ、礼儀正しいし、いい子だと思う。絵も確かにうまいしね」
「いい子?」
ジェニーは眉を寄せた。
「カミールさんて年下なの? あなたより」
「えっ」
今度はグリーンヘイズが息をのんだ。
「本に経歴あったでしょう。見なかった? 十代よ、十九歳。あなたより十二歳年下。ジュニア・ハイの頃から『シャングリラ』って詩と絵の投稿雑誌に載りはじめて、結局十七でデビューして、今もアートスクールに通う学生画家よ。まあ私は沢山描いてもらったけど、『シャングリラ』出してるモーゼス社で単行本の表紙とか何冊かやってるぐらいだから、まだあまり露出してない子といえば言えるけど」
「十九歳!」
そうか、あの誇り高さは若さゆえ、瑞々しい観察眼も若さゆえのことなのか。
「じゃあ、本当にウンダアキント(天才少女)ね」
ジェニーは挿し絵の中の若い女性を描いた一枚を思い浮かべた。瞳の大きい、長い巻き毛の、育ちの良さそうな、だが華奢というのではなく芯のしっかりした感じの頬の豊かな女の子の姿を。
ちょっとタイプかもしれない。
「なによジェニー、カミールのファンになっちゃった訳?」
「だって素敵な絵なんですもの」
「じゃあ、モーゼス社宛てで手紙でも書いてみたら? 凄く喜ぶと思うよ。ファンレターの類は少ないらしいから。それが『シャングリラ』の編集長も首傾げるくらいでね、読者の人気投票ではダントツなのに、個人的にはほとんど来ないんですよって言ってた」
「でもそしたら、私の書くのが変に印象に残っちゃうかもしれないじゃない」
だから何度も破り捨ててきたのだ。そういうのが怖くて。
「なによ、無名のファンでいたいなら、匿名で出せばいいじゃないの」
「でも、匿名にしたら、気味悪がって読んでくれないんじゃないかしら」
「なら、あなたいったい何が心配なの」
「だって、うんと気難しい人だったら? こいつはなんて頭の悪い奴なんだって軽蔑されたら? ちょっとでもそんな風に思われたら怖いもの」
グリーンヘイズは一瞬電話の向こうで黙ったが、あきれたというよりはむしろ落ち着いた声で、
「あのね、カミールはそんな高慢な子じゃないと思う。それに、誉められて悪い気のする人なんていないでしょ。ジェニー、自分がもらったら厭だと思う手紙ってどんなのよ。嬉しいって思うファンレターってどんなやつ? それ考えてから書けば、そんなに失敗しないと思うわ」
「じゃあ、あたりさわりのない……」
「そりゃあ最初の手紙で、《あなたが好きです。つき合ってください》っていきなり書いたらふられるでしょうけどね」
グリーンヘイズが笑う前にジェニーが笑い出した。それはジェニーが以前言った冗談で、面識もなく何にも知らない相手から来た最初の手紙に《つきあってくれ》と書いてあったら、相手がどんなに素晴らしい女性でも絶対つきあわない。それがディートリッヒでもロミー・シュナイダーでも。男ならたとえ大統領でも!と。だってそんなの気持ちが悪いじゃないの、絶対にふるわ、友達になって下さいっていうのだってあんまり好きじゃないのに、とジェニーは言っていたのだ。
すると、グリーンヘイズはぐっと優しい声を出した。
「まあね、ジェニーが神経質になる気持ちもわからなくはないけど、カミールは大丈夫だと思うわよ。書いたげなさい」
ジェニーはドキン、とした。グリーンヘイズは彼女の屈託の理由を見抜いていたのだ。当然といえば当然なのだが。実は先日、ジェニーが大学の頃好きだった女の子に書いた手紙が蒸し返されて、大変なスキャンダルになるところだったのだ。それは特にいかがわしい内容のものではなかったのだが、ゆすりに屈する訳にもいかず、また余計なゴシップも増やしたくなかったので、そのために友人の評論家で力のある男性に口をきいてもらったり、そのせいでその男性との仲を取り沙汰されたり、そのゴタゴタのせいで出す予定だった長編小説が流れたり、学生時代の短編が売れたのはいいが、新作はしばらくおあずけをくらったり、とさんざんな目に遭ったのだった。ジェニーは今、精神的に痛めつけられた上に仕事の真空状態の中に(全くない訳ではないが)いるのだ、神経質になっていて当然なのだ。
「もちろん無理にとは言わないけど。……ごめん、私、思いやりと想像力に欠けてた」
グリーンヘイズが声の調子を落とすと、ジェニーは反対に明るい声をあげた。
「そうね、わかったわ。書いてみる」
電話の後、ジェニーはもう一度下書きをし、それからタイプで打ってみて、味気ないその文字をみて手書きで書き直しはじめた。伝えたい内容はただ一つ−−貴女の絵は素晴らしくて、私はとても好きです、ということ。それだけ書けていればつたなくてもいいのだ。飾った言葉で大げさに誉めたりせず、ただ、こういう部分が好きなのだ、と書けば。
それを投函してから一週間後、ジェニーの郵便受けに淡いラベンダーいろの封筒が入っていた。表書きにあるのは、どこかで見たことのある柔らかい字体。
「あっ!」
返事だ。カミール・ナインの文字だった。カミール・ナインと書いてあった。出版社でなく、自宅らしい住所が記してあった。
ジェニーは震えながらナイフで封筒の端を切り開いた。何が書いてあるんだろう。何が。どうしよう。
便箋二枚に渡って、絵のタッチと同じく、ふっくらとした美しい書体でそれは綴られていた。

ジェニー・L・スティーヴンス様

今日、出版社からお手紙受け取りました。どうも有難うございました。私の絵を誉めて下さったこと、本当に嬉しかったです。実は私、以前からスティーヴンスさんのファンだったんです。C&H社で書いていらした頃からいろいろ読んでいました。どれも面白くて、どうしてこんなお話を考えつくんだろうって不思議に思うほどでした。
それで、もしよろしかったら、これからも手紙のやりとりをしていただけませんか。私、そんなに気難しくないと思います、噛みついたりしませんから、あまり心配なさらず、どうぞ気楽に書いてください。手紙は読むのも書くのも好きなんです。ましてそれがスティーヴンスさんからなんですから、なんでも嬉しいと思います。
でも、私もたったこれだけの返信を書くのにとても緊張してしまったのですが。急いで出さなければ、と思いながら、なんて下手な文章だろう、どこかに失礼がないかしら、ととてもドキドキしています。
どうか、若い娘が生意気な、なんて思われませんように。

カミール・ナイン拝

小さなカットが一枚同封されていて、自画像です、と一言添えられていた。画用紙の切れ端に鉛筆のスケッチだったが、いつもの彼女のタッチは少しも損なわれず、いやむしろ更に生き生きしていた。大きな瞳。滑らかな頬。短く切ったボーイッシュな金髪。穏やかな目鼻だち。だが中身がぎっしりつまっていると思わせる弾力のある表情。なんとなくヴィダに似ている気もする。顔立ちもそうだが、愛らしく一途で普段はいじらしいほどだけれど、仕事と自分には秘かなプライドを持っているキャラクターという感じがして。
好みだ。
「ちょっと、危険だわ」
いきなりやましい気持ちが湧いて、ジェニーは慌てた。絵だけでなく本人も好きになってしまいそうだ。それは困る。それは困る。それは困る。
「でも待って。どうして困るの?」
いいじゃないか、好きになるのは。たぶん私はカミールを、友達を、知人を好きになるように好きになっていくだろう。やましい想いを抱いてもいいじゃないか。心の中だけでなら。それに、私はいきなり誰かに惚れたりはしない。いきなり寝たりもしない。これが恋になるかどうかもまだわからないし、時間をかけてつきあってみて、それでも好きで、それでもしたかったら、それからまた悩んだり考えたりすればいいことだ。そうなったらそうなるだけのこと。今パートナーがいるからといって、それが永遠とは限らないのだから。
そしてジェニーは、この手紙の返事の下書きを始めた。カミール・ナイン様、私も手紙を読んだり書いたりするのが大好きなんです。こちらこそ、これからもよろしくお願いします、と。
それから手紙は、三日に一度の割合で二人の間を往復し始めた。カミールからのものには必ず小さなスケッチが添えられており、それはジェニーの心に絶え間なく新鮮な空気を送り込んで、胸の炎を煽るだけ煽った。それは恋の始まりにありがちな急激な情熱の膨張だったが、ジェニーは不安よりも幸福を感じていた。こういうやりとりはいつか途絶えてゆくものだ。そうでなくともだんだん落ち着いていくものだ。だから今は、カミールの好意を喜ぼう、と考えていた。
つまりまだ、ジェニーの気持ちの上昇は頂点には達していなかったのだ。怖いと思うほどは幸せでなかったのだ。
まだ、その頃は。

「でもね、エヴァ」
デザートについてきた林檎を噛じりながら、ジェニーは再び額装されたカミールの絵を見上げた。
「劣情をもよおさせる絵って、ある意味簡単じゃない。私は描かないからよくわかってないのかもしれないけど、ある一定のパターンのからみの構図ってあるでしょう。そのツボを押さえておけば、そういう感情をかきたてるのはあまり難しくないんじゃないかと思う訳。でも、絵の中の人と寝たいと思えるような絵ってあまりないと思うの。それって結構凄いことなんじゃないかって」
「そうね」
エヴァハード・グリーンヘイズは素直にうなずいた。
「確かに彼女の絵には、いい意味での官能性があると思う」
官能というのは、単にエロティックやセクシーであるという意味ではない。本来的には親密さや愛を分けあえる相手との間に感じる、暖かい気持ちの流れのことなのだ。つまり、カミール・ナインはその内面に、深く純粋な情愛を育んでいるのだろう。それが絵に溢れ出しているのだ。
「でもね、寝たいならまだ簡単なのよ。私ね、カミールの絵に欲望を感じるんだけど、それが《食べたい》なのよ」
「あ、そ。……食べたい、の」
グリーンヘイズはひややかに、
「それはモデルに噛みつきたいってこと?」
ジェニーは首を振った。
「ちょっと違うわね。モデルになった人を噛じりたいとか、御本人と寝たいって訳じゃないの。そこらへんがちょっと微妙でね、実体が目の前にあっても絶対に食べたくないのよ」
そこで薄く笑って、
「変よね、紙は食べられないじゃない。そりゃあ口に入れれば食べられるかもしれないけど、そこに描かれてる質感を得られる訳じゃないでしょ。もちろん紙人形さん遊びをしたい訳でもないし、絵を切り裂きたい訳でもない。それなのに、妄想だけがふくらんでいくの、口の中に食感が湧いてくるのよ。美味しい味もするの。人肉なんて食べたこともないのに、食べたくもないのに、絵の中の人にそういう欲望を持ってしまうの、どうしても味わいたいって」
グリーンヘイズは軽く肩をすくめた。
「それって作家の想像力ってやつなんじゃない? まあ、二次元の存在やら無生物に恋するのは芸術家の常で、特に目新しいことじゃないと思うけど。それが創作の原動力になるってのは、ギリシア神話の時代からある話よ」
ジェニーは遠い目をして、
「恋、か。それもちょっと違うかな。でも、できれば小説のネタにできないかなって思ったりもするの。実体を食べる方法ならいくらでも浮かぶし、実行も簡単なんだけどね」
「簡単?」
グリーンヘイズは眉をしかめた。
「物騒なことをずいぶん軽く言ってくれるわね、さすがミステリ作家、って言いたいところだけど」
「そう?」
ジェニーは平然と講釈を始めた。
「特にこのアメリカ、現代のNYで人肉を食べる方法には以下の五つが考えられるわ」
右手の指を折りながら、
「その一。とりあえず、ただ食べる。つまり殺して、それからばらして食べるのね。あまり芸はないけど、これが一番ポピュラーだと思うわ。実際の猟奇殺人鬼によくあるパターンで、古今東西どこでも起こってるやつね。これは一種の性行為なのよね、元々寝るっていうのは体液の交換をすることじゃない。それを消化して血肉にすることだから、補食行為とセックスはあまりかけ離れたものじゃないわ。妊娠しなくても、とりあえず互いの身体に、ひいては遺伝子に影響を与えあうって意味では」
グリーンヘイズは気分が悪くなってきたようで、カップも小さなフォークもテーブルに置いて黙ってしまった。
ジェニーはまるで歌うように、
「その二。ちょっとひねって、食べたい人のパーツを手術と称して切り取って食べるってパターン。本当の事故や病気で偶然、腕とか足とか臓器とか手に入ったら、あまり重大な犯罪を犯さずに目的を達成することが出来るわね。本人が医者か医者の友人がいれば不可能でない方法よ。その三。想像力を働かせて、別のものを人肉に見えるように加工して、それを食べて満足する。例えばプディングでもいいし、他の動物の肉でもいいから、それらしいものをこしらえてね。これは芸術的なセンスのある手先の器用なコックが知り合いなら簡単に飢えを満たせるわ。悪趣味かもしれないけど、これなら全然犯罪じゃないし。その四……実際寝てみる。性行為と食べることは元々近いから、反対から攻めてみる訳。噛みついてみたら、文字通りご馳走様って気分になるかもしれないし。それから、その五……」
そこでニヤ、と笑って指を全部握り込み、
「は、教えない。私なりに、相手を傷つけないですむ上手な方法が考えてあるんだけどね」
「そう」
グリーンヘイズはやや青ざめた顔で、
「その五はさておいて、ジェニー、カミール・ナイン本人に会ったこと、ある?」
急に話題が変わったのでJL先生はキョトンとして、
「ないわ。手紙ならもらったことあるけど、顔をあわせたことはない。どうして?」
「なんなら今日、紹介してあげましょうか」
「本当?」
グリーンヘイズはなぜかそこで目を伏せた。
「っていうか、さっきから当人後ろに立ってるんだけど」
さすがにジェニーもびっくりして振り返った。
そこには大判のスケッチブックを抱えた小柄な少女が立っていた。
ああ。
本人だ。
自画像とは少し違うのだが、与える全体の印象が同じだった。落ち着いた笑顔。暗い金髪を切り揃えたショート。焦げ茶のセーターとミニスカートのシンプルな組み合せがセンスよく、今風でありながら彼女らしいお洒落になっている。
「ないしょのその五ってのは、身代りを見つけて食べる、ですか? いったん傷をつけたら、二度とそこは食べられなくなっちゃうし、それたら別の人で我慢して、とか」
恐ろしいことをさらりと言う。
JL先生がパニックに陥った。それは今の話を全部聞かれていたせいだった。さすがに真っ赤になって、
「エヴァ、あなたのお膳立てなの、これ?」
硬直して振り返ることも出来ずに呟く。グリーンヘイズはため息をついて、
「違う。そんなつもり、全然なかったわ。だいたい、ベラベラ勝手にしゃべってたのはジェニーじゃない」
「どうしよう」
やっと両手で顔を覆って、
「ごめんなさい、私ったらなんてことを」
するとカミール・ナインは慌てて手を振って、
「立ち聞きしてた私が悪いんです、そんなに恐縮なさらないでください、スティーヴンスさん。面白い話だなって思って、つい口を挟んでしまって……ごめんなさい」
つまりカミールは喫茶室に来て、客が自分の絵にどう反応するかを見ていたのだ。するとその片隅に、以前一緒に仕事をしたエヴァハード・グリーンヘイズがいる。そしてその向いで自分の絵を誉めている女性の横顔は、ある本の著者近影で見た記憶がある。
わあ、本物だ、話している内容からしても間違いなくJ・L・スティーヴンスだ、とうっとり見つめていたのだが、誘惑に負けて近づいてしまったのだった。
「全然変な話じゃないと思います。例えば、作家とか画家とかの熱烈なファンって、新しい作品も欲しいけど、それが凄くレベルダウンしてたら、そんなものを見せられるぐらいなら、製作者にいっそ死んで欲しいって思ったりするじゃないですか。そういう時、殺したい、とか、食べてやる、って考えても、そんなにおかしくないと思うんです。人肉嗜好の種族の人って、相手の才能が欲しくて食べたりするんですよね」
ジェニーは手紙そのものの少女の口調に、すぐに警戒心をとかれてしまったらしい。ごく自然にうなずいて、
「ええ、そういう人達もいるらしいわ。古代にはよくあったことみたい」
「儀式としてはわかりやすいですし」
うわあ、変な子、とグリーンヘイズは顔をしかめた。こんなことをすらすらしゃべりだすような娘だとは思わなかった、私の前では今まで猫をかぶっていたに違いない。こういう性格ではジェニーと話があっても仕方があるまい。
いつの間にかカミールはさりげなくジェニーの脇に座り込んでいた。上品に膝を揃えて、
「この間のお手紙にあった、コリン・ウィルソンの『暗殺者の世界』を読んでみたんです。そしたら、サド侯爵の著作って、ポルノグラフィーというよりはむしろ、当時の乱れたフランスの世相を風刺したものだって書いてあって、すごく面白かったんです。刺激の強い残虐な行為は、興奮でなく怒りを表現してるって。いかに世の中が不公平で間違っているかを逆説的に表現したんだって書いてあって」
ジェニーも引き込まれたようにうなずいて、
「マルキ・ド・サドの場合は長い間投獄されてたから、彼本人は実際の場面ではあまりたいしたサディズムを発揮してないの。小説の方もね、シチュエイションが派手なだけで、実際の行為はあまり具体的に描写されてないのね。ただ《した》しか書いてなかったりするの。仏文学にはそういうのが多いんだけれど、《そして二人はした》みたいな簡潔な文章で興奮させようとするみたい。確かにその方が面白かったりするんだけど。逆説的なポルノ哲学っていうのは、仏文学の流れとして一つあるんじゃないかしら。ほら、映画で有名になった『マダム・エマヌエル』って官能小説があるじゃない、馬鹿馬鹿しいぐらい単純な話だけれど、サドを読んだ後で読むとそれなりになるほど、と思うのね」
話題はそれこそあちらこちらに飛んで、グリーンヘイズはすっかりついていけなくなり、完全に黙り込んでしまった。ジェニーがそのスケッチブックの中身を見せてもらってもいいかしら、と頬を染めているのをぼんやり眺めながら、新しいコーヒーを注文した。おかげさまで、あらゆる意味で胃が痛くなりそうだった。勘弁してよ、と小さく呟きながら、最初のコーヒーの残りをあおった。

「ジェニーがあんなロリータ趣味とは知らなかったわ」
カミールが帰り、二人になってモーゼス社を後にしてから、ようやくグリーンヘイズはそれだけぼそりと呟いた。
「若い子、嫌い?」
ジェニーはびっくりしたような顔をして、
「十九歳って、素敵な年齢だと思わない? 話してるだけでちょっと元気がもらえる感じがしない? 私は息をふきかえしたみたいな気持ちになるわ。若い女の子っていいなって思う。音楽にしろファッションにしろ最新の情報を知ってるし、教えてくれるし。年上の話も馬鹿にしないで素直に吸収していくし。もちろん彼女の言うことを全部若者と同じ感覚では受け取れないけど、目が醒めるようなことを沢山学べるわ。ましてカミールは才能あるひとだもの、とてもいい刺激を受けられるの」
グリーンヘイズは低く籠った声で、
「あんたね、彼女のこと、ヴィダになんて言うの」
キッとジェニーをにらみつけ、
「知ってる? 食べたいっていうのは支配欲の極端な形なんだってこと。相手を完全に自分のものにしたいってことなんだから、本当はセックスよりも強い感情なのよ。それをあんな赤裸々に……恋人のある人が言うことなの?」
ジェニーは平然と応えた。
「いいつけたければ、すれば?」
グリーンヘイズは皮肉顔で、
「余裕ね。さすがいいパートナーを持った人は違うわ、本人がやりたい仕事をやめさせて自分のマネージャーをやらせてるだけのことはあるわ。あげく、あきらめさせた絵の仕事をしてる女を外でひっかけて遊んでるなんて、結構大した神経の持ち主だったのね、あなたって」
ジェニーは突然叩きつけるように、
「ええそうよ。私は図々しいわよ。ヴィは立派よ。だから、負い目なんかとっくに感じてるわ!」
「え」
「だから、何ヵ月も黙って留守にされても、私が何にも言えないんじゃない!」
今まで我慢していたものが堰を切って溢れ出した。道の真ん中だというのに目の前が曇る。全身が熱くなって、喉の奥から悲鳴に似た声が洩れる。
「そうよ、ヴィが、悪く、ないから……」

ヴィダが家にいても、カミールの絵が好きになったかもしれない。しかし羽目を外すこともなかったろうし最初から外そうともしなかったろう。誰だって、恋人が他の人間に露骨に夢中になっていたら厭な気がする筈だ。ヴィはナイーヴな人だ、きっと傷つけてしまうだろう。カミールがある程度売れている画家であることも彼女の神経に触ったかもしれない。いくら作風が少し似ているといっても、いや似ているからこそ気分を害するかもしれない。
しかし。
ジェニーは寂しくてたまらなかったのだ。
だって、彼女がずっといなかったのだから。

八月の半ば、つまり四ヶ月ほど前のこと、ヴィダの母が故郷のテキサスで亡くなった。普段元気な人だったが血圧が高く、脳の血管が切れて倒れ、そのままはかなくなってしまったのだった。ヴィダは、葬式のために一度実家に帰った。
そこまでは何の問題もなかった。当たり前の話でもある。
しかし、一度実家に戻ると、ヴィは今のNYの二人の家に全然連絡を入れなくなった。
私はついていくべきだったのだろうか、とジェニーは悩んだ。ただ、ヴィの田舎は割と閉鎖的なところだと聞いていたので、女の恋人として一緒に行くのは余計な波風をたてそうではばかられた。後から行くのは更に抵抗があった。
だが、ジェニーの不安はどんどん高まった。
ある程度小説依頼が減っているのもあって、マネージャーの仕事については、以前からのつきあいの版権代理人にある程度のことを頼めば事足りた。つまり問題は向こうで一体何が起こっているのか、ということだった。どうして電話をくれないのか。あまりしない方がいいと言われたが、こういう時もこちらからかけては駄目なのか、とひたすらに心乱れた。
二週間待ってついに我慢しきれなくなったジェニーは、教わっていた電話番号を回してしまった。
「ヴィ、どうして連絡くれないの? 何があったの?」
「ごめん、全然する暇がなかったの」
受話器の向こうからは、へとへとに疲れきった声が返ってきた。悲しみにやつれる暇もないのよ、と太いため息をついて彼女は話を始めた。
ヴィダ・スプリングウェルの母親は、遺言で彼女に、小さな油井の権利を残していたのだった。たいして質のいい石油が出る井戸ではないが、それを掘り当てたのが母本人だったのもあって、ヴィは記念にその権利を受け取ろうとした。
その途端、親族一同から猛反発をくらった。うちの牧場の土地が荒れたのはあの腐れた油井のせいだ、絶対潰してしまえ、大した財産でもないんだ、金ならやるからとっとと出ていけ、と。
しかしヴィが一番こたえたのは、父親の言葉だった。それは、私はおまえが可愛いんだ、牧場その他は全部おまえに譲るつもりでいるのだから、あの油井は潰しなさい、という甘い囁きだった。
だが、彼女は牧場を継ぐ気はなかった。もし父から受け取れるものがあるのなら、やはり独立している姉と半分ずつもらいたかった。しかし父親は姉のことなど頭になかった。いくら彼にさからってクラブの歌手になったとはいえ、今は夫も子もある立派な家庭を築いているのに。親孝行という意味では、姉の方がよほど素晴らしいというのに。
それだけではない、その他、どうして故郷に戻ってこない、仕事はどうしているんだ、結婚はどうする等々、ありがちではあるが様々なプレッシャーがかかるため、一刻も気が休まらないのだという。
ヴィの悩みをきかされたジェニーは、なんだ、とほっと安心して、
「ヴィはその権利が欲しいんでしょ? なら、すぐに手続きをとって自分の名義にしちゃえばいいじゃない。親戚なんていったって、そんな連中は結局他人じゃないの。お父さんの話はちょっと困り物だけど、手続きさえすませておけば勝手に処分することはできなくなるし、終わったらこっちに戻ってくれば、そんな雑音もきかなくてすむようになるでしょ。それで全部解決よ、あまり悩まないで」
するとヴィは烈火のごとく怒り出した。
「私が疲れてるのはそんな理由じゃないわ!」
「え、どういうこと?」
「そりゃあ、親戚連中は私だってどうでもいいわ。でも、父さんは私の父さんなのよ。母さんも好きだけど、私は父さんが好きなの。だからわかってもらいたいの。手続きだけすませてそれですむことなら、ここまで神経をすり減らすこともなかったわよ!」
ジェニーは、自分がどうして怒鳴られているのか本当にわからなかった。
そんなのは男親の我が儘なんだから無視すればいいとしか思えなかった。愛する母の形見を受け取りたい気持ちはわからないでもないが、父に解ってもらいたい、そのために神経をすり減らしている、というヴィダの言葉は全然ピンとこなかった。
というのは、ジェニーの育ったスティーヴンスの家は、一見穏やかで道徳的な家庭だったが、実は成員同士の絆の弱いものだったからだ。都会の中流家庭にありがちな話ではあるが、表向き大きな波風が立たなかっただけで、特に目下の者に冷笑的な父親と彼女の関係はよそよそしく、たとえばジェニーが潔癖、かつ気に入らない相手にぱっと喧嘩を売ってしまったりするのは、この家庭で育ったからだ。彼女の根本に情緒不安定な部分があるのは、幼い頃から家の中で、自分が正義でなければ誰を信じていいのかわからない状況に置かれたため、胸に秘めたナイフをいつも独りで研ぎ澄ませていなければならなかったためなのだ。
そういう人間に、田舎町で緊密で暑苦しいほどの家族関係をすりこまれてきた者の気持ちを理解しろ、といってもすぐには無理だ。
しかし、ヴィダは疲れていた。自分のことで手一杯だった。だから、ジェニーの言葉は思いやりに欠けた、ひどく冷たいものにしか聞こえなかった。
「わかった。あなたの助けなんていらない。もう二度とかけてこないで。かけてきても出ないから。私もかけないから。もちろんここへも来ないでね!」
そう言ってガチャッと乱暴に電話を切った。
ジェニーは驚いた。
そして、本当にそれから彼女が二度と電話に出てくれなくなったことで、どれだけ自分が深く相手を傷つけたかを知った。謝罪の手紙を何通も書いて送ったが、ついに返事は来なかった。

「私、ひどいことを言ったんだから、ヴィともう終わりかもしれないってことは覚悟してる。でも、気を紛らわせるためにカミールと仲良くぐらいしたっていいじゃない。これって浮気? しては駄目なこと? エヴァにまで責められなきゃならないこと?」
泣いているジェニーを、グリーンヘイズは道の端に連れていった。
「ごめんね、全然知らなかったから」
「知らなくて当り前よ。言わなかったもの。言えないもの、こんなこと」
彼女はガタガタ震えながら、
「わかってるわ。これが逃げだってことぐらい。もう駄目かもしれない、だから、苦しいから諦めてしまおうって思ったの。確かに、他の人を好きになればなんとかなるかもって下心があったのよ。ええ、凄く卑怯よね、あなたに責められて当然なのよ」
「ジェニー」
「でもね、好きって気持ちからは逃げられなかったの。私、やっぱりヴィが好きなの。彼女と他の人は取り替えられない。たとえ彼女に捨てられても、今は彼女以外の人となんて考えられない。私は自分に嘘をつこうとしてたの。苦しくて……苦しくて」
グリーンヘイズは友人の肩を抱いた。
「ヴィダは戻ってくるわよ」
「厭なの。期待するのは厭なの。だって、こんな事初めてなんだもの。きっととっても怒ってるんだわ。自分が大変なだけだったら、何ヵ月も私を放っておいたりしないもの。おかげで私、今まで自分がどんなにヴィに甘えてたかよくわかった。どんなに彼女を必要としてたか思い知ったの。いくら気を紛らわせようとしても、楽しい気分が長く続かないんだもの。彼女がいないだけで、毎晩真っ暗な気持ちになって涙が出るの。だから、甘い期待なんて抱けない。そんなものにすがったりしたら、戻ってきてくれなかった時、死んじゃうわ」
「ごめん、ジェニー。許して」
「エヴァは悪くないわ。許すも許さないもない。私が許せないのは、何にもできないで無駄な時間を過ごしてる自分よ」
「ヴィダは許してくれるわよ。真剣に謝ったんでしょう、どんなに傷ついていたとしても、ある程度時間がたてば、あなたの気持ちをわかってくれるわよ。だってヴィダだもの、彼女なら大丈夫よ」
「気休め、ありがとう」
ジェニーは口唇を歪めて無理矢理微笑もうとした。グリーンヘイズは低く囁くように、
「気休めでごめんなさい。厭だった?」
「ううん」
「良かった」
グリーンヘイズはタクシーを止めた。
「アパートまで送っていくわね」
「ありがとう」
「ううん。それより、許してね」
ジェニーはうなずき、タクシーの中でようやく涙をぬぐい始めた。
「こっちこそ、取り乱したりしてごめんなさい。でも、話したら少し楽になった気がする」
「ならいいけど」
「私、あなたが友達で良かったわ、エヴァ」
「話してくれて嬉しかったわ、ジェニー」
こういう時は頼っていいのよ、とグリーンヘイズは彼女の肩を抱いた。ええ、とジェニーは呟いて、アパートに戻るまでじっと身体をもたせかけていた。その顔色は少しずつ良くなっていって、タクシーから降りる頃には、腫れぼったい顔ながら、涙は完全に止まっていた。
グリーンヘイズは部屋までジェニーを送りながら、
「寒いから、ただ部屋を温めるだけじゃなくて乾燥しないように湿気の調節をするのよ。泣いた後って風邪をひきやすくなるから、家の中でも喉の回りにスカーフか薄いタオルか、とにかく何か一枚巻いておいた方がいいわ。いい? 元気でヴィダを待つのよ」
ジェニーは今度はちゃんと笑った。
「なんだかお節介おばさんみたい、エヴァ」
「子供の頃から世話焼きババアって呼ばれてます、性分なの」
グリーンヘイズは胸を張った。
「だから今更おばさんよばわりされてもどうってことないの」
「あら、別にそういう意味で言ったんじゃないわ」
「だって、あなたって若い子が好みなんでしょ?」
ジェニーは驚いた顔をしたが、すぐに妖しく目を細めて、
「いい、エヴァ、私を口説いたり寝たりすると大変な目に遭うわよ。なにしろ私はサド侯爵の末裔なんだから」
「やめてえ。ジェニーが言うと洒落にならない感じがする」
「洒落じゃないもの」
「だからやめてよ」
二人はひとしきり笑いあって、それから別れた。
この時点でもまだ、事件を予感するものは誰もいなかった。だが、思い返せばこの時のジェニーの台詞は不吉の前ぶれだったのだ。そう、誰にとっても。

3.

「は……っ」
血の味は錆の味に似ている。鉄分のせいかもしれない。大量ならば生臭味や暖かさを強く感じて気付かないが、後味には近いものがある。まして鋭利な剃刀の刃に浮かぶ血は−−舌が感じているのが冷たい刃物の味なのか自分の血の味なのか、どちらかわからなくなる筈だ。
「動かないのは賢いことよ、舌が切れてしまうもの。あなたの舌を削ぎたいとは思ってないし」
彼女は浅い息を繰り返し、身体を硬く緊張させていた。
これは相当怖い筈だ。裸で四肢をベッドにくくりつけるところまでは前回もやったが、目隠しをされた上に刃物をつきつけられているのだから。
私は剃刀の刃を静かに彼女の舌から離し、すうっと左の胸の上を滑らせた。
思わず彼女は身動きし、横にすうっと赤い筋が走った。
「動かないで。深く切れてしまうわ。でも、このぐらいの浅い傷なら、今夜の儀式にはふさわしいかもしれない」
私は縦に浅くすうっともう一本切れ目を入れて、淡く血のにじむ十字架を弾む乳房の上につくり出した。
「こういうのって陳腐だと思うけれど、綺麗だわ。神様も悪魔も信じてないのに、見ていると不思議な気持ちになる」
ぺろ、と嘗めるとやはり錆の味がする。まるで彼女のイミテーションを傷つけているようだ。血の流れる機械人形をもてあそんでいる心持ち。自分の中の残虐性を奇妙に煽る感覚。
「どうして声を出さないの? 冷たいでしょう? 痛くないの、それとも痒いぐらいの感じなの? やめてって言っていいのよ、怖くない? あなたの気持ちを試してるんじゃないのよ、本当に殺そうとしてるんだから怖くて当り前なのよ」
もっと深く刻んだら、めくれたそこから果実のように彼女の中身が熱く溢れ出してくる気がした。その甘い誘惑。
「怖くありません」
彼女はけなげにもそう言いきった。声は少し震えていたが。
「殺されるのなんて、裏切られることに比べたら怖くなんかないです。だってスティーヴンスさんは、もう何度も警告してくださってたんですから、たとえ殺されても、その前に逃げなかった私が悪いんです。それに、私……厭じゃ、なくて」
ああ、これは大変だ。これでは彼女の悲鳴がストッパーになってくれない。行き過ぎそうになった時、止めてくれそうにない。
「それはあなたが、マゾヒストの要素を持ってるってこと?」
「たぶん」
それはおそらく違うだろう。例えば全米では多くの妻が家庭内で虐待を受けているが、彼女達はなかなか家から逃げ出そうとしない。それは夫の愛を、かつて幸せだった日々を忘れられないからだ。ひどい乱暴をした後、我に帰った夫がそれをつぐなうように必死に優しくするからだ。もう二度としない、という言葉を信じてしまうからだ。いや、それを信じたいからだ。
今のこの子もそういう気持ちでいるに違いない。私のこの悪趣味な儀式が終われば、優しく抱きしめてもらえると思って我慢しているのだ。
「いけない子ね」
私は少女の短い金髪を撫でた。
「そういう誘い文句は、相手を選んで言うものよ」
「いいえ、どうせ死ぬのならあなたの腕の中で死にたい……最後まで抱きしめていてもらえるなら、きっと幸せです」
どうしよう。
この子の声は本気だ。
「じゃあ、もう一度だけあなたを試しましょうか」
「試す……んですか?」
口唇がキスを求めるように薄く開く。私はその端に口づけて、
「ええ。昔、戦争中にあった人体実験の話にこんなのがあったの。捕虜の手とか足に傷をつくってね、なかなか血が止まらないようにしておくの。もしくは、血液がなかなか固まらない薬剤を入れた水に、その怪我をちょっと浸しておくの。それを見せて説明をしたあと目隠しをしてね、それからその捕虜に、ポタン、ポタンと血の滴が落ちる音を聞かせるの。はっきり言って、命にかかわるような大怪我をさせなければ、血友病でもない限り、その捕虜の血は何時間もたたないうちに絶対にとまるわ。だから、聞かせるのは偽の音なの。それなのに、人の血が全部流れきるぐらいの時間その音をきかせていると、その捕虜は死んでしまうの。ショックで心臓が止まるらしいわ。人間の想像力の恐ろしさを示す話なの」
「その実験を、私に?」
少女は迷っていた。迷って当然だ。私は畳みかけるように、
「してみる? それとも、もっと神秘めかした儀式の生け贄になりたい?」
残虐な行為は本当は苦手だ。この実験ならば彼女を怖がらせるだけですむだろう。無事にこの夜は終わるだろう。
すると少女はこくんとうなずいた。
「実験、してください」
「いいのね?」
「はい」
柔らかな口唇から、吐息のようにこぼれる返事。
私の可愛い子。
この紅い部分から食べてしまいたい。
「わかったわ。それならずっと抱いていてあげるから。悪いけど足は縛ったままにしておくわね。目隠しもそのままにしておく。でも、あなたが怖くなったらやめるから、すぐに言うのよ。駄目だと思ったら我慢しないで。いい?」
「大丈夫です。試してください」
「じゃあ、たらいをもってくるわ。水の中の方が手首を切りやすいし、血を受けるものが必要だから。滴の音は加湿機か何か使えばいいし。……準備するからちょっと待っていて」
静脈をちょっと切るぐらいなら素人の私でも出来る。少し気持ちが悪くなるかもしれないが、想像の中ではもっと忌まわしいことを平気でしてきたし、目隠しをしている彼女には私の表情を気付かれずにすむだろう。
その後は静かに抱きしめていよう。
心が落ち着くまで。
食べたい、などと思わなくてすむようになるまで。

一昼夜、私達は裸で抱き合っていた。
彼女はよく辛抱した。
もう駄目です、おかしくなってしまう、と悲鳴をあげてもよかったのに。怖い、やめて下さい、と私を殴りつけても良かったのに、最後まで我慢してしまったのだ。
そう。
その命の終わりまで。

「どうして?」
最初は眠りこんでしまったのだと思っていた。彼女は何度も浅い眠りに落ちたし、顔も苦痛に歪んではいなかった。だからおそらく死は、蝋燭の火が消えるように自然にやってきたのだろう。その燃え尽きる命を吹き消した風に、私が気付かなかっただけなのだ。
ああ。
私はなんということをしてしまったのか。どれだけこの子が想像力豊かな、言い替えればどんなに繊細な神経の持ち主かよく知っていた筈なのに。
そう、私が殺してしまったのだ。

死体の処理はどうしたらいいだろう。
考えたのは、とりあえず水で冷やすことだった。埋めるにしろ運ぶにしろバラバラにした方がいい。風呂場でもなんでもいいから流れる水につけておくのだ。氷は後から食堂用の大きなものでも注文して、塩と混ぜ合わせてどんどん冷やしてしまおう。少しでも凍れば腕も足も切り取りやすくなる筈だ。防音設備の完全さを信じるなら、電気鋸を持ち込んでもいいのだし。
それにしても、なんて可哀相な、冷たい骸。
でも、この子は私のもの。
他に帰る処はないのだ。
私は肉切り包丁を用意していた。それを床に置いた、彼女の左手の上に当てた。
「こんなことに使うとは思ってなかったのよ」
体重をかけると、ゴトリ、と音がして小指が落ちた。
私は真っ直なそれを口に含んだ。
小さく、冷たく、硬い。
これが私の食べたかったものなのか。
しゃぶっていれば柔らかくなるかもしれないが、それはもう死んだものの肉だった。あまたある他の獣の生肉と変わりはしない、つまらないもの。
私は自分の本当の欲望を理解した。
私は、この少女の生きた肉体が欲しかったのだと。死なないで、傷つかないでくれるなら、それなら食べたかったのだと。そうでなければ睦みあえるだけでよかったのだと。
「寂しいからこれは持ち歩くわね。待っていて、あなたにふさわしい棺桶を探すから。それまでこの部屋でゆっくり眠っていて」
それに、ここの地下室で死んだのはあなたが初めてじゃないから、きっとさみしくなんか、ないわよね。
涙がこぼれそうになる。
「ごめんなさい……こんなつもりじゃ、なかったのよ」
駄目だ。しばらく泣いていよう。
この死を本当に悼むことが出来るのは私だけなんだから。
悲しんであげよう。
この子の短かかった生を惜しみ祈ろう。
これは私の贖罪。
神も悪魔もこの世の誰にも許されなくていいのだけれど。
これが私の供物なのだ。惨たらしくも安らかな死の道への。

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