第二幕 彼女が紡ぐ物語。




 何の連絡も無しに届いた一枚の紙切れ。
 そこには大きなはっきりとした字で『同窓会のお知らせ』と書かれていた。とはいっても結局はパソコンによるフォントなのは言うまでも無いが。
 ふと、車の通り抜ける音がした。
 遠ざかって行く排気音につられるように外を見る。車はとっくに通り過ぎていってしまっていた。 特に変わっていたわけでもない、どこでも耳にするような排気音だった。ゆえに深雪は気に止めなかった。 そしてその排気音が後で重要な位置づけに関わってきたりなんて、全く持ってしない。
 既に役割を終えた車に固執する理由はなく、再度一枚の紙に視線を落とす。
「同窓会のお知らせ……」
 見たままの文脈を無意識に音読していた。
 そこへ手に皮製の黒い手提げカバンを持った女子高生がやってきた。 いや、やってきたという表現は正しくない。深雪のいる場所がただ単にマンションの入り口で、 そこを通らなければマンションの中に入れないからだ。
 近くまでやってきた女子高生は、深雪を視界に収めると、軽く会釈をした。 それに釣られて深雪も会釈を返す。見た事が無い……わけではない女子高生。 しかし名前は分からない。高校卒業とともにマンションで一人暮らしを始めた深雪に、 マンションに住んでいる住民の全員の名前を覚えろと言うのは酷である。 ……普通は住民全員の名前を覚えている人などいないだろうが。
 通りすがりの女子高生は、彼女の家族が住んでいるであろうと思われる部屋番の書かれたアルミ製のポストを覗き二、三通の手紙や葉書を取り出すと、 それこそ通りすがりですよと言わんばかりの軽快さで深雪の元――マンションの入り口――からエレベーターホールの方へと離れていった。
それを見送ると女子高生が向かった方向とは逆の、長い長い階段が聳える方へと歩いていった。 とはいっても上るのは一階分だけ。深雪の住む部屋は二階にある。
 マンションと豪語はしているものの、七、八階まであるようなよく目にする典型的なマンションではなく、 五階までしかない、どちらかというと高級なアパートという表現が似合っていた。 ……マンションとアパートの境界がどこにあるか分からないが。
 階段を上り終え、『朝樺』と書かれたネームプレートがドアの横に張ってある部屋の前に立つ。
「はぁ……」
 間を置かずに軽いため息が彼女の口からこぼれる。ため息を吐く度に幸せが逃げると聞くが、本当に幸せが逃げてるんじゃないかなと思う。 別に疲れている訳じゃない。良くないことがあった訳でもない。ただなんとなく……そう、 なんとなく無意識にため息が出てしまう。その度に幸せが逃げていると考えたら、ちょっと切なくなる。
(これと言った理由も無く、ただなんとなく吐いているため息で幸せが逃げて行くなんて)
「はぁ……」
 そう思うとまたため息が出る。またこれで幸せが逃げてしまった。これじゃあいくら幸せがあっても足りないなぁ、 などと考えながら羽織るコートのポケットからドアの鍵を取り出してノブに差し込む。 手首を右に捻るとカチンという甲高い音と共にロックが外れた。
 鍵をノブから外しポケットに戻すと同時にドアを開け玄関へ。内装は一般的なマンションにあるような3LDKの間取りでは無い。 お世辞にも立派とは言えない小さめなキッチンに大きめな部屋が一つ。バスとトイレは別々で完備されている。 いわゆるワンルームマンションというやつだ。ただ、唯一の部屋が大きめであるという点を考えれば良い物件である。
 部屋の中央に静かにある小さなテーブルに小さめの肩掛けカバンを置き、
「同窓会、ねぇ……」
 コートを着たままベッドにうつ伏せに倒れこむ。
「う〜ん、う〜ん」
 枕に顔を埋めた状態で両足をバタつかせる。それから一分程度経ったか経たないかぐらいでふと、 バタついていた足が両方とも上を向いたまま止まる。と、ぽふっといい音をたてベッドに同時に落ちた。 首を横に向け左手に持っていた紙切れに視線を移す。
(同窓会、同窓会かぁ……)
 うつ伏せから仰向けになり両手で紙の端を持つ。そのまま紙を胸の前に持ってきてその上に両手を重ね、瞳を閉じる。
(彼は……来るのかなぁ……)
「はっ!?」
 私は何を言ってるんだろう、と思う。
(べっ、別に彼が同窓会に来ようが来まいが私には全然関係無いことじゃない!)
 ベッドの上でまるで駄々っ子の様に両手足をジタバタさせる。その行為はとても可愛らしいと言えなくも無いが、 あと数ヶ月足らずで成人になる者がする行為としては適していない。 傍から見れば何をしているんだこの人は、と思わせるアクションである。
 しかし、朝樺深雪という人物がこのアクションを行った場合に限りその解釈は当てはまらない。
 なぜなら深雪の顔立ちがとても幼く見えるからである。巷で言うところの童顔、一部限定地域で言うところのロリータ。 深雪のことを全く知らない人に中学生ですと言えば誰もが納得してしまうような、それほど幼い顔立ちをしているのである。
 ある程度ジタバタもがいて疲れたのか、仰向けのままで手に持つ紙の詳細の欄に目を通す。
「日時は……二十五日? もう一週間も無いじゃない……」
 ベッドの対面に位置する壁に掛かっているカレンダーが示す今日の日付は十二月二十日。
「普通こういう通知は一週間以上前に届くものだと思うんだけどなぁ……」
 全く持って正論なのだが、深雪の元に通知が届くのが遅くなったのは深雪自身に原因がある。 深雪は大学が決まり卒業と同時に一人暮らしをするために引っ越したのだが、 新しい住所をほとんどの人に教えていなかったのだ。その結果、通知は実家に届いてしまったわけで、 同窓会実行委員だか役員だかその辺りの人々が深雪の新住所を探し当てるのに時間が掛かったのだ。 ちなみに実家に届いたのは丁度一週間前だったとか。


 よいしょという軽い掛け声と共に上半身を起こし、場所と会費の項目に目を通す。……別に何も問題は無い。 場所はこれといって遠いわけではないし、会費もまぁまぁ。断る理由はどこにも無い。 高校時代の友人たちと会えるというメリットがあり、デメリットは何も無いのだから行ったほうが得だと思う。でも……
「でも……私のこと、覚えてるかなぁ……みんな……」
 幼い作りの顔には不釣合いな不安が深雪の表情を覆う。
 高校時代─―さらに遡り小学生の頃──からそうだったのだが、深雪は内気で自分から人に話しかけに行くということをほとんどしなかった。 話しかけて断られたり怒られたりしないということは分かっていたのだが、どうしても自分から話しかけに行く事が出来なかった。 絶対に否定されないという結果が分かっていても自発的な行動をするには勇気が足らなかった。
 だからといって友人と呼べる人が誰一人としていなかったというわけでもない。単に深雪が気付いていなかっただけで、 深雪のことを友人だと思っている人はそれなりにいたのだが、消極的という性格が相まってか深雪自身は友人がほとんどいないと思い込んでいたのだ。 そしてそれが今でも続いているわけで。
「こういうのって、やっぱり参加したほうがいいんだよね……?」
 誰に聞くわけでもなく自分の心の確認の意を込めてつぶやく。再びベッドに倒れこむとそのまま目を閉じた。 特に意識して思い出そうとしたわけではないが、自然と脳裏には高校時代のことが思い浮かんできた……。






 キーンコーンと授業の終わりを告げるチャイムが教室内に響く。自然と周囲が騒がしくなっていく。 授業という退屈なイベントから抜け出した学生たちが思い思いの場所に赴き話しを始める。 中には学校に隠れてアルバイトをしていて、その疲れを取る為に休み時間の全てを睡眠に使い再び来る放課後のアルバイトに備える生徒や、 今となってはひどく珍しい復習予習をしている生徒もいる。どこにでもある普通の休み時間の風景である。
 深雪は小さい頃から本を読むのが好きだった。小学生低学年の頃に将来の夢は、と聞かれて本を書く人と答えたぐらいだ。 小学生時代の深雪の言う本とは何か怪しいが、とりあえず本を読むのが好きだった。
 そんな深雪が休み時間を費やしてしている行為は言わずもがな読書である。 中学に上がると同時に買い始めた小説はかなりの量になっていた。深雪が毎月親から貰っていたお小遣いのほとんどが小説となっていた。 一度読み終えた小説でも最低は3回読むことにしていたのだが、これでもかと言わんばかりのハイペースで小説は増えていった。 一時期は授業中に読んでいた時もあったが、授業中の内職に対する教師たちの注意が激しくなった為、 授業中に読むことは控えていた。それでも負けじと最後まで抵抗していた内職――とは言うものの大半が携帯ゲーム機――組もいたが
「今後授業中に隠れて内職しているのを見つけたら、発見次第内職物をこの私が直々に特別補習をして進ぜよう」
 という、どの学校にも最低一人はいそうな肉体派熱血教師の一言で折れた。 以前学校にやってきた不良グループを一人で無傷で笑いながら薙ぎ倒したという噂を持つ教師には逆らわない方がいいと判断したのだろう。


 たかが十分、されど十分。
 深雪は学校にいる合間に小説を読む事が出来る休み時間が好きだった。その深雪の読書好きは休み時間だけでなく放課後にも影響を与え、 部活動には入っていないものの図書委員に属していた。
 読書が好きだから、という単純明快な理由で図書委員会に入った深雪はカウンターの受付を主にやっていたが、 カウンターの内側で座っている間は絶えず小説を読んでいた。小説に読み耽り過ぎて、 貸し出し本の返却に来た学生に声を掛けられたにもかかわらず気付かないことなどしばしばあった。
 そんな真面目とは言いがたい委員会活動の最中で、深雪のこれからの人生を変えるような、そんなイベントが起こった。


 委員会は基本的に各クラスから二名を選出するもので、基本的には性別は関係なく友人同士で決定することが多い。 体育委員や保健委員など性別が関わってくる委員会が男女でなければならないのは納得するとして、 図書委員が男女でなければならないのは永遠の謎である。
 図書委員はこれといって人気のある委員会ではない。毎日と言って良いほど活動があるのに加え、 下校時刻後の図書室、司書室の戸締り。朝は早めに来て両室の錠を外さなくてはいけない、 と何気に忙しかったりする。男子生徒が好きそうなコミックスやマンガ雑誌が置いてあるわけでもなくゲーム雑誌も同様である。
 そんな悪条件の揃った図書委員は、大体いつも最後まで残ってしまっている。 必ずしも委員会に属さなければならないわけではないからだ。最終的にはくじ引きなどで無理やり決めさせられてしまう。
 深雪は委員会選出のとき、いつも男子たちのそんな情景を見ていた。女子の図書委員は深雪が立候補するから、 くじ引きなどをさせられないで済むがために。今回も同じ様な情景を見ることになるんだろうなと思っていたが、 違った。黒板には相変わらず図書委員という文字だけが書かれていたことまでは同じ。 その後に担任の先生が「じゃあくじ引きだな」というセリフを言う。 だけど、今回に限ってそのセリフを聞くことは無かった。
「あー俺、図書委員やるわ」
 その一言が教室内に響いた。
 男子が図書委員に立候補するなど、毎回図書委員をしている深雪の記憶の中にも存在しなかった。
 周りで胸を撫で下ろしている男子生徒たちの向こう側に彼はいた。 しかし、立候補した男子生徒の顔を見ても深雪には誰だか分からなかった。 三年になって初めて同じクラスになった人だったからである。
 たったこれだけの、ほんの些細な出来事が深雪を変えたのだ。


 ……………。


 最初の委員会で最初に口を開いたのは彼の方からだった。
「確か朝樺……さんだっけ? いつも図書室にいるっしょ」
 男子とほとんど話したことの無かった私にとって、その言葉はあまりにも意外だった。 そして名前を知られていることに対しても。逆に私は彼の名前を知らなかった。 今ここで名前は何ですかと聞くのも凄い失礼な気がして、 あの……としどろもどろにしか声を出せなかった私のことを彼は咎めなかった。
「俺は緋河って言うんだけど、別に覚えてくれなくていいよ」
 そう言って読みかけの雑誌に目を戻した。
 いきなり自分の名前を覚えなくて良いと言う彼の意思が私には理解出来なかった。 どうしてと訊ねようとしたが、彼はその時間を与えてはくれなかった。
「俺、自分の名前嫌いだから。どうせ呼ぶなら苗字にしてくれ」
 その一言が凄く心に響いたのを覚えている。親に貰った世界でたった一つの自分の名前なのに、目も前の彼はそれを嫌いだと言ったのだから。
 反論しようとは思ったが「ん?」という言葉と共に振り向いた彼の顔を見たら、 何故か顔が真っ赤に上気していくような気がして、小声で「何でもない」と答えてその場から去ったことも覚えている。
 当時、私が彼と交わした言葉はこれだけだった。たったこれだけしか言わなかったからこそ、 私の中で彼の印象が強く残ったのかもしれない。でも自分から話しかけに行くことは出来なかった。 口を開くことが出来ない代わりに、自然と私の目は彼を追っていた。 時折目が合いそうになると心臓の鼓動が大きく鳴る。それが何を示しているものなのか分からなかったけど、 この時から図書委員会の活動が始まる放課後が少しだけ楽しみになっていた。


 私が見る限りでは、彼は決して不真面目ではなかった。
 彼が大概一緒にいる男子生徒たちは、掃除をサボったり授業をサボったり、だからといって勉強や運動が凄く出来るわけでもなく……そんな人たちだった。 それを不真面目というわけではないが、真面目とは言い難い。 だから、そんな人たちと一緒にいる彼に対しちょっと近づき難い、軽い不良っぽいイメージがあった。
 でもそれは私の考えすぎな妄想に過ぎなかった。
 一概に真面目とは言えないが、彼は至って普通の生徒だった。授業はちゃんと出るし掃除もする。バカな話もする時はする。 それが普通なのだと分かっていても、私はそんな『普通のことが普通に出来る』彼のことが少し羨ましかった。 後になって聞いた話だけど、毎朝の司書室の鍵開けは彼がやっていたとか。夜遅くまで本を読んでいて自然と夜更かしをしてしまい、 朝なんかは登校時間ぎりぎりまで寝ている私には到底出来ない事だった。


 そんなこんなで一ヶ月ほどたってからクラスの名簿、或いは連絡網を見れば彼の名前が一発で分かることに遅くながらも気が付いた。 連絡網を見て他人の名前を知ることなど、特に変わったことでもないし変なことでもない。 しかし、連絡網に見入っている姿を他人から見られるのが恥ずかしくて、 放課後の図書室の受付カウンターの裏でこっそりと見ることにした。その時は彼の名前を知ることで頭が一杯で、 後者の行為の方がよほど変だということに後になってから気付いたのは内緒である。
「……しんとう? って読むのかな、これ」
 と、首を傾げている私に、隣で受付をしていた別のクラスの女子生徒が
「それ、緋河君の名前でしょ? 音読みじゃなくて訓読みよ。でも彼、何でかその名前、嫌いみたいだから声に出さない方がいいよ」
 と親切に教えてくれた。
 ただ、その時の彼女の言葉に何故か胸の奥がチクッとした。






 二年たった今でも、胸に手を置けばその時のチクッとした痛みが蘇ってくる。 この痛みが嫉妬だということを知ったのは、あれからすぐだったなと、目を覚まし上体を起こす。
「ふふっ、懐かしいな……」
 と思い出に浸っていたのも束の間、
「って、うそ? もう夜中の一時!?」
 枕元の時計に目をやるや否や、つやつやとした綺麗な肌色をした顔が一瞬で蒼白へと変わる。
「明日の講義……休んじゃおうかな……」
 もう一度ベッドに仰向けに倒れこんだところで、帰ってきたときのままの格好であることに気付いた。 着替えようと思いベッドから身を起こし、クローゼットに手を掛けたところで電話の着信音が室内に響いた。 こんな時間に? と怪訝に思いながらもクローゼットから受話器へと手を持っていく。受話器を耳へと当て……、
「はい、あさ──」
『深雪ちゃん?』
 相手の第一声に遮られた。
「え、えっと……」
 あまりの突発性に何と応答すればいいのか戸惑い、
『あー、私が誰かはそんなに重要じゃないから気にしなくていいよ?』
 普通は気になるってば……。
『えーと、そうだ。ちょっと時間押してるから本題だけスパッと言っちゃうね』
 電話の相手はさらに続けた。
『深雪ちゃん、住所変わったの教えてくれないからさ、探すのに手間取っちゃってね。でも届いてるでしょ? 同窓会のお・知・ら・せ』
「え……うん」
 ベッドの上に置かれた一枚の紙に目をやる。
『それでさ、せっかく皆に会えるっていうのに人が全然来なかったら寂しいじゃない? だから電話で来るように直接交渉してるのよ』
「もしかしてクラス委員だった夜音宮(やねみや)さん?」
『ピンポーン! もしかしなくても夜音宮さんよ。というかそんな堅苦しく呼ばないで、いつもみたいに『眞那(まな)ちゃん』て呼んでくれていいのに〜』
 一度も『眞那ちゃん』なんて呼んだことないです。
 さらに言えば一度も『眞那ちゃん』と呼ばれているところを見たことがないです。
『ん、何か言った?』
「え、気のせいだと思うよ?」
 そういえば、こんな勘のいい人だった……。
『まぁそれより。深雪ちゃん、も・ち・ろ・ん同窓会来るよね?』
(交渉と言っていたけど、これは交渉というより脅迫の一種の様な気がする)
 心の中で思ってはいても声には出さない。むしろ出せない。
『それでどう? どうしても外せない用事があるっていうなら無理強いはしないけど』
「えっと……」
『そっかそっか』
 一呼吸置いてから
『しっかし当日はクリスマスだっていうのに用事が無くて彼氏もいなくて、余った選択肢が同窓会とはお互い寂しい身分だよね〜』
「は、はは……」
 苦笑いしか出来ない。それ以前に私は何も答えてないよ……。
『とゆーわけで、当日に会いましょうか。ばいば〜い』
 言い終えるや否や、返事を返す暇も無く電話は切れてしまった。
 少し強引なところもあるけど、そんな大雑把で明るい性格が人気の元だったのかもしれない。 などと考えながら受話器を戻し、開きかけのクローゼットの扉に手をやる。
 無理やり参加に決定させられた気がしなくもないが、もとよりクリスマスの日に予定は入っていない。 それなら行っても悪くはない。それに、もしかしたら彼も来るかもしれない。
 でももし来たら……



 いくら想っていても、言わなきゃ……ちゃんと言わなきゃ伝わらないよね?



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