3章という名のマグニフィ・コンディション




 沈黙が部屋を支配していた。
 麻衣子が禎宮宅に着いてから約一時間、「信じる信じないは話を全部聞いてから判断するからさぁ、とりあえず何があったか最初から全部話してみて」という麻衣子の言葉から始まり、 悠紀が一方的に喋っていただけだが、既にそれだけの時間が経過していた。
「それで……どう思うよ?」
「んー……」
 難しい表情で考え込んでいた麻衣子は、床で胡座をかいている悠紀とその傍からまったく離れようとしない問題の少女を見比べた。
 玄関で出会ったときから悠紀の腕にしがみついていて、ずっと悠紀の傍を離れず口すらも開かなかった少女。 その少女が昨日拾ってきた猫だと悠紀は言う。高校生にもなって──しかも男が──猫と一緒にベッドに入るのも……まぁ、 その辺りは個人の趣味だし他人が口出し出来ることではないが。とにかく麻衣子にとって確かに興味深いことではあるが、その事実はとてもじゃないが信じられることではなかった。
 普通に考えてあり得ない。科学技術で何でも裏付けを取ろうとする現代社会において、猫がヒトになるなど誰が信じようか。 街行く人に言えば、誰もが笑うだろう。話を聞いた限りでは悠紀も当初はそう信じて疑わなかった。 しかし冷静になって考えれば考えるほどその事実しか出てこなかった、と言う。 常識を逸した出来事に加え性別のこともあり、どうすべきか判断しかね迷った挙句麻衣子を呼んだという話である。
「難しいわね……」
 顎に手を添えたまま麻衣子は言う。猫がヒトになるなんて見たことも無ければ聞いたことも無い。むしろ経験したと言う方がおかしい。 生態系がどーのこーの以前の問題だ。……悠紀の話を信じるのならば。
 話を聞いた当初は信じられなかったが、悠紀の話す態度や雰囲気から本当にそうなのではないか、と信じ始めていた。 何より不可解な点が多い。解らないことが多すぎる。そんな疑問も悠紀の話が本当ならつじつまが合う。ここまで来たら信じてしまった方が話は早い、と。
「難しいけど」再度少女を見ながら
「聞いた限りでは信じるしかないみた……い……?」
 ふと、何かを見つけたかのように麻衣子の言葉が詰まる。
「……どうした?」
「その子……もしかして、寝てる?」
「はっ?」
 素っ頓狂な声を上げながらも、悠紀は自分の腕にしがみついている元猫に目をやる。寝るには快適とは言えない格好だが、少女は気持ちよさそうに寝息を立てていた。
「あはっ、カワイー」
「あはっ、じゃねぇよ」
 至極当然な反応を示した麻衣子を一瞥する。
「どうして? カワイーじゃない。……もしかしてユキちゃん……」
「な、何だよ……」
 麻衣子の表情から不敵な笑みがこぼれる。
「私がこの子のことカワイーって言ったから嫉妬してるのかな?」
「……勝手に妄想してろ」
 ため息を吐きながら肩を下ろす。
「冗談よ、冗談」
 小悪魔チックな麻衣子の表情がすぐに真剣なものに戻る。
「正直……」
少女の方へと向いていた視線を麻衣子へと戻す。
「警察に届け出すわけにもいかないしねぇ」
「あぁ。……こいつが言葉を話せたらまた別なんだけどな」
 隣で眠る少女の頭を軽く撫でながら言う。あまりお目にかからない悠紀なりの優しさを、麻衣子は感じた。
「言葉の壁は大きいからね……。こっちの言うことは理解出来るの?」
「解らないが……多少は通じてると思うぞ」
「多少、ね……」
 手足を伸ばしながら言う。そのままソファから立ち上がり、
「それにしても、こんな意味不明な状況にすぐ馴染めるなんて……。さすがユキちゃん。尊敬しちゃうわ」
 と言いつつ、玄関へと歩を進める。
「単に呆れてるだけだ……って、どこに行くんだよ?」
「その猫ちゃん、ずっとその格好にしておく気? そのままじゃ外にも出られないでしょうに」
 禎宮悠紀は一人暮らしである。その男が一人暮らしの家に女性物の洋服があったら明らかにおかしいだろう。疑いが掛かってもおかしくは無い。 普通は無いものである。当の悠紀の家にも女性物の洋服は無いわけで。
 夢から覚めた悠紀を待っていたのは悠紀が見た夢と同じ状況で、全裸の少女と二人でベッドの中にいた。 その後、決してやましいことがあったわけではない。日頃あまり異性に興味を示さない悠紀と言えど、 自分と同じ空間に裸の少女がいれば目のやり所にも困るというものである。何か着せようと思ったが、 家にある服は全部悠紀用のもので少女が普通に着られるようなものは無かった。数分タンスをあさって出てきたものが、 今少女が着ている明らかにサイズが大きすぎるワイシャツなのだが……実は悠紀にも大きすぎる代物なのである。 店の方のミスでスリーサイズも大きなサイズのものが送られてきたときには、さすがに悠紀も呆れた。 再度郵送を頼んだ時に、間違ったお詫びにとそのままビックサイズのワイシャツを置いていったのだ。 もちろん着られるはずもなく、ここ数年タンスの奥深くに封印されていた。このサイズならズボン無しでも大丈夫なのでは?  と思い着せてみたところ、悠紀の予想通りワイシャツ一枚で大事な部分を完全にガードすることに成功した。 他の服を着せたところで不相応なのは分かりきっていたので、そのままワイシャツだけを着せておいたのだ。


「まぁ……確かに……そうだな」
 悠紀の納得した返事を貰うと、麻衣子は踵を返し玄関へと歩き始めた。
 事はその時に起こった。
「待ちたまえ!」
 窓の開く音と共に、聞き覚えのある男の声が屋内に響いた。その声に反応し悠紀が顔を上げ麻衣子が振り返る。 二人の視線が、靴も脱がずにベランダから部屋の中に入ろうとしている、両手に紙袋を持った白衣の男を捉えた。
「その必要は無いぞ!」
 と言いながらその行為が当たり前かのように、床に腰を下ろした。玄関から早足で戻ってくる麻衣子に合わせて
「……靴を脱げ」
「ふむ、これは失敬」
 悠紀の指摘に、徐に立ち上がり靴を脱ぐ。脱いだ靴は自分の傍らに。靴の裏が床と接地しているため、結局脱いでも脱がなくても変わらない。
「……………」
 言った自分が愚かだったと言わんばかりに悠紀は頭を抱えた。
 殺伐とした空気の流れを変えたのは麻衣子の一声だった。
「ちょっと……何で智裕がココにいるのよ!?」
 それもそのはず。麻衣子は朝に家を出る智裕を見たからだ。
「それに何でベランダから? ここ二階じゃなかった? そもそも何で白衣なんか着てるのよ?」
 朝早くに家を出て禎宮宅のベランダで待機。頃合を見て登場する。智裕ならやりかねないと思った。 予想を遥かに超えた智裕の登場の仕方に全く動じない悠紀の態度もうなずける。 しかしそうなると、朝の時点で智裕は麻衣子が禎宮宅に行くことを知っていなければこの行動は成立しない。現実的に考えて、まず不可能。 予知夢を見たとしても、ただ見ただけではその時点で事象が起きるかどうかなど分からない。 ならば何故智裕は今、禎宮宅にいるのか? などと勝手に深く考えて悩む麻衣子。
「一度にいくつもの質問をするのは、あまり推奨しないぞ? いくら私と言えど、かの太子のように十人の会話を同時に聞き取ることなど出来んのだからな」
「……それは関係ないだろ」
 呆れ顔の悠紀が言う。
「全く持って同感だ。そして私がここにいる理由もそれと同じくらい関係の無いことなのだ。それに人が何を着ようとその人の勝手だ。違うか、高崎麻衣子?」
智裕は何故か白衣を好んでよく着ている。最初の頃は登校時や授業中にも着用していたが、教師陣と麻衣子の挟み撃ちに、着られる機会が激減してしまった。 最近では部活時以外で着用している姿を見ることが出来るのは珍しいぐらいである。


 智裕の支離滅裂の言葉が麻衣子を空想世界から現実世界へと引き戻す。 しかしこの程度の会話ですらも日常茶飯事となってしまっている麻衣子──悠紀もそうだが──には、どうということはない。 ……人としてどうか、と言われると多少の問題はあるが。
「はいはい、分かりました。それじゃあ質問を変えるわ」
 ため息を吐きながら智裕の前に移動してきた。
「よかろう、許可しよう」
「それは何?」
 人差し指を勢いよく紙袋に向けた。
「これか?」
 左手に持った紙袋を高々と上げた。紙袋の表面には有名な大手のデパートの名前と、いくつもの折線の跡があった。
「そう」
「フッ、自分で確かめるがいい」
 何故か勝ち誇った笑みを浮かべながら目を閉じた。
 そんなことは気にも留めず、麻衣子は智裕の左手から紙袋を奪い取った。そのまま中身を確認──直後、麻衣子は動かなくなった。
「……何が入ってるんだ?」
 腕にしがみついている少女のせいで──しかも眠っているので──動くことの出来ない悠紀が、電池の切れたロボットのように固まった麻衣子に恐る恐る声を掛けた。
「麻衣子?」
「……………」
 麻衣子は何も答えない。
「高崎?」
「……………」
 智裕は相変わらず不敵な笑みを浮かべたまま、こちらも答えない。
 悠紀は智裕のことを苗字である高崎と呼ぶ。妹の方を下の名で呼ぶのだから兄の方も下の名で呼ぶべきなのだろうが、智裕がそれを断った。 どうでもいいことではあったが、何となく気になって、いつだったか麻衣子に聞いたことがあった。 話し始めた直後に、どこから来たのか智裕が加わり、結局智裕自身の口から聞くことになった。
「名前というのは、そのものの存在がそこにある、又はいるということを示している。 では名前が無い、もしくは偽りだったとした場合、そのものの存在もまた無いということになる。 だがそんなのは机上の弁論に過ぎない。例え名前が無かったとしても、そのものは確かにそこに存在しているのだからな。 だからと言う訳ではないが、名前など所詮飾りに過ぎない。私に名前など不要なのだ。何故なら私がここにいるからだ。 今ここで断言しよう。世界は私を中心に回っている。こんなことを言ったら誰もが私を変な目で見るだろう。 いやなに、かの有名なコペルニクスが提唱した地動説を否定しているわけではない。事実はそうなのだからな。だがそれでも世界は──」
 と、言っていた。本来の用件は最初の五分程度で済んだのだが、世界の中心についての話が異様に長くなり、結局三十分近く話を聞かされていた。 今となっても智裕が何を言いたかったのかは、悠紀はいまいち理解していない。そして麻衣子も。 この時の会話で教えられたことは、智裕は何を考えているか分からない、結構危ない人なのかもしれない、という事実だけだった。 このことを本人に言ったら言ったで、また話が拗れていくのは二人の目には見えていた。 ある意味、知らぬが仏だったのかもしれない。




 沈黙を保ったまま、数十秒が経過した。ふと、麻衣子は手に持っていた紙袋を床に置き
「──そっちの紙袋も……中身一緒?」
 やや俯き気味に訊ねた。
「もちろんだとも!」
 自信ありげに答える智裕。この智裕の言葉が麻衣子を爆発させた。
 ゆっくりと智裕の眼前へと歩み寄り、そのまま……
「甘いな! たかさ──グハッ」
 智裕が仰向けに倒れた。悠紀の位置からでは、丁度麻衣子が壁になってしまい何が起きたか分からない。
「……高崎?」
 聞きなれた呻き声よりも並々ならぬ麻衣子の覇気に、いつもとは違うものを感じ智裕の安否……というより生死の確認をする。
「……大丈夫だ、禎宮。安心したまえ。不肖ながらこの高崎智裕、シスターの二段蹴り程度ではやられ──ブッ!」
 どうやら再度蹴られたようだ。
 なるほど、二段蹴り。智裕のこの言葉で何となく状況を理解できた。最初の中段蹴りをうまく防ぎ、甘いなと言った直後に二発目の上段蹴りが顔面に入ったと言うわけだ。
「何でアンタが私の洋服……いや、下着を持ってるのよ!?」
 耳まで真っ赤にさせた麻衣子の悲鳴にも近い怒声がリビングに響いた。
「何でもくそもない」
 先程の蹴りが鼻に直撃したのか、鼻の頭を抑えながら智裕は続けた。
「そこの娘っ子の洋服に困っているのであろう? ならば何も問題無いではないか。 ──それにしても禎宮。 裸に大きめのサイズのワイシャツ一枚だけとは……いい趣味をしている。 いや! 言わずもがな良い意味で、だ。 うむ、実に良い……。要点を的確に押さえていると言ってもいいだろう。その娘っ子の姿で一体何人の男が落ちるか興味深い。 ……いやいや。この場合は堕ちる、か。これは禎宮に一本取られ──ブッ」
「御託はいいから」
 足で頭を床に押さえつけられた。見ている方が惨めに思えてくるほど、実に痛々しい光景である。
 麻衣子が二つの紙袋を自分の手元に持ってくる。もちろん片足は智裕の頭の上だ。
「まったく……。一体どこから沸いてくるのよ……」
「それは愚問というものだ」
 智裕が、押さえつけている足などものともせず勢いよく立ち上がった。
「キャッ……痛た……」
 足を持っていかれバランスを崩し尻餅をつく麻衣子。しかし両手に持った紙袋は放さない。
「……それで、高崎は何しに来た?」
 いつの間にか少女の呪縛から逃れた悠紀が麻衣子に手を貸しながら訊ねた。
「……さっきの娘っ子はどうした?」
 人の話を聞かず質問を質問で返す。付き合い始めて一年も経てば当たり前のように感じてしまう。
「あいつならあそこだよ」
 言いながら首を後ろに回す。それに釣られて智裕と麻衣子も視線を向けた。 視線の先にはイスの足にしがみ付いて気持ちよさそうに寝息を立てているワイシャツ一枚の少女がいた。 恐らく少女はイスの足が悠紀の腕だと思っているのだろう。
「……あんなものにしがみ付かせて酷いと思わないの、ユキちゃん?」
「結構頑張ってみたんだが、どうしても抜け出せなくてな」
 いい加減起こすか、と少女の方へ近づく。腰を屈めて両肩を揺らしてみたが一向に起きる気配は無かった。 少し思案したのち、イスを少女の腕の中から取り上げてみたら支えを失ったのか、そのまま横に倒れた。床にぶつかる痛そうな音と共に。
「……………」
 その衝撃が功をなしたか、ゆっくりと上半身を起こしうっすらと目を開けた。 口が半開きになっていて少し上下していることから何かを言っているのだろうが、悠紀には何も聞こえなかった。
 両手で目を擦る。ただそれだけの行為が酷く新鮮に思えた。成熟していない少女だからこそ生まれる可愛さがそこにあった。 目の焦点が合った途端、眼前の悠紀の姿を捉えると笑みを浮かべながらそのまま悠紀に抱きついた。予想していなかった少女の行動に抵抗できず、苦笑する悠紀。
「……これ、何とかならないか?」
「いいじゃない。異性に抱きつかれるなんて、ユキちゃんにとっては未体験ゾーンでしょ? 今のうちにたくさん抱きつかれとけば?」
 この状況を面白がるように麻衣子は言う。
「ほら、離れろって。く……ぉ……」
 しっかりと自分の体を掴んで離さない少女の腕から逃れようと腕を掴むが、なかなか外れない。
「──禎宮」
 不意に、いつもの半分笑いの籠った口調とは違う真面目さを帯びた智裕の声が悠紀の耳に入った。
「くっ、何だ、高崎?」
 なかなか離れようとしない少女を無理やり剥がしながら──それでも離れなかったが──悠紀は珍しく智裕の方を見ずに言った。 まるで智裕の言うことがさほど重要では無いことを周りに暗に訴えるかのように。 しかしそれは、この場においては悠紀と智裕の二人のみ知る暗黙の了解。麻衣子にことの重要性を知られたく無いがための処理行動。
「……その娘っ子の声は聞こえたか?」
「……いや、聞こえないが」
 悠紀がゆっくり、しっかりと答えた。
「何言ってるの? あの子喋れないんだから聞こえるも何も無いでしょう」
「ふむ、そうだったな。いや失敬!」
 智裕の口調がいつもの調子に戻る。麻衣子は気付いていない。今の会話にどんな意味が含まれていたのかを。 そのままいつものペースで意味のあること無いことを話し始める智裕。それに対応するかのようにつっこむ麻衣子。 そこから少し離れた位置で自分に抱きついている少女のことも忘れ、話が繋がっていない会話をしている二人を、何かを考えている表情で悠紀が見ていた。



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