正夢は予知夢の一種である。


 予知夢、それはこれから起こるであろう未来の出来事を事前に認識する「夢」である。
 そう、いくら未来の出来事を知ることが出来たとしてもあくまで夢なのであって、故に誰にでも予知夢──つまり未来──を見ることの出来る機会が存在する。
 しかしここでふと思う。夢を見ている中で「これは予知夢だ! これからこんなことが起こるんだ!」と、見ている夢が予知夢だと認識できる人がいるのだろうか?
 大体の人は実際にその出来事に直面してから「あ! この場面、どこかで見たことある!」などと思い、あの夢は正夢、予知夢だったんだ、と過去の事象として認識する。  それはまたの名をデジャヴとも言う。ここで重要なのが、正夢、予知夢として未来の出来事を見たとしても、それを認識するのはその出来事が過ぎてから、ということである。  簡潔に言えば、未来の出来事を予知していたとしても、予知していないのと変わらない。  正夢が例え世界で一番早くニュースを入手出来る最速の通信手段だとしても、眠りながらにして、今見ている夢は正夢で今度この出来事が起こるんだ、という確証が持てなければそれもまた夢の話である。
 最後に一言。これはあくまで個人の私見である。






2章という名のインポッシブル・リアライズ




 夢を見ている。
 はたしてその夢は正夢なのか、それとも何の変哲も無いただの夢なのか。それは誰にも分からない。  実際に夢を見ている本人でさえも分からない。もし目が覚めて夢で見た出来事を実際に体験することになるのならば、それは正夢なのだろう。  しかし結局はその時──夢で見た出来事を体験する時──にならなければ正夢かどうかは分からない。しかし人はどうしたものか。  その夢が正夢かどうかなどということより、その夢の内容が気になってしまう。

 眠っている。ベッドの中で眠っている。そう、彼は夢の中で寝ている。寝ながらにして夢の中でさらに寝る。  得をしているような損をしているような、何とも言い難い。
 窓越しにカーテンの隙間から日差しが顔を覗かせる。枕元にある時計は六時四十分を指していた。掛け布団がわずかに動く。  朝というのは、一日の中で一番布団の中にいるには気持ちのいい時間帯だと思う。  そのことに関しては、今現在布団の中で眠っている彼も同じ考えのようである。しかし何か腑に落ちない。  布団の中で人が眠っているのだから、ふくらみが出来るのはごく自然なことであるのだが……とてもじゃないが、そのふくらみが大人一人分として計算しても明らかに大きすぎる。  彼は決して太ってはいない。それは布団の上から出ている顔からも窺える。
 あからさまにおかしい布団の中で、天井に向いている顔が左側に垂れ始めた。  寝返りをする……する……? 寝返りが出来ない! 彼の根底に眠っていた意識が目覚め始める。
 ……寝返りが出来ない?
 脳が活動を始める。
 ……腕に……左腕に重みを感じる。
 視覚が開放されていく。
 ……そうか、これが寝返りの出来ない原因だったのか……っ!?
 目蓋が開くと同時に口も開き、彼が固まった。
 彼の隣には、一人の少女が寝息を立てていた。驚きのあまり開いた目と口が塞がらない。もちろん声が出ようはずも無い。  そんな彼など眼中に無いかのように気持ちよさそうに眠る少女。思わず見惚れてしまいそうなほどの綺麗さ、というより可愛さを秘めている。
 案の定見惚れてしまった彼も我に返る。が、いきなり冷静になれるはずも無く、わずかに残っていた理性を振り絞り首を少女の方から背ける。  背けつつもついつい横目で見てしまうぐらいの少女の魅力に、彼のリミッターはとっくに振り切れていた。  それでも彼が自我を保っていられるのは、この状況を全く飲み込めていないという証拠でもある。
 ひとまずは起きよう、という結果を導き出し布団をめくる。  ここにきて何故寝返りが出来なかったのか、何故左腕が重かったのか、その理由が明らかになった。  少女の両腕が彼の左腕に絡まるもとい、抱きついていた。まるで抱き枕を抱くかのように。  そしてその少女が彼の腕に抱きついていることなど問題にならないぐらいの衝撃的事実が彼を凍らせた。  (しつこいようだが)彼の腕に抱きついている少女は何一つ身に着けていない。そう、裸だったのである。  左腕に感じていた、重みとは異なる何かやわらかい感触の正体は少女の胸。心臓の鼓動が一気に十六ビートに跳ね上がる。  一度は背けたはずの視線も再び少女に釘付けになる。そんな彼の心中をよそに、より一層深く腕に抱きついてくる少女。  その動作に言葉に出来ない焦りを感じ、少女の両腕から抜け出そうとした。が、この両腕から逃げようとする行為が仇となった。
 少女の動きが大きくなる。それは覚醒へと向かっている証拠。彼がやばいと思ったときはもう遅かった。  少女の目蓋がゆっくりと持ち上がった。少女が目の前で冷や汗を掻いている青年に向けたのは、満面の笑み。

 ここで視界が白くなった。そう、夢の終わり。
 夢の世界から現実の世界に戻ってきた禎宮悠紀を出迎えたのは、夢で見た出来事と全く同じ内容だった。






 ポケットにしまってある携帯電話を取り出し、ディスプレイに目をやる。
 画面の上部には「5/20(THU) 8:50」と日時と時刻が表示されていた。普段なら学校で一時間目の授業が始まる時間である。  本来ならとっくに自分の席に腰を下ろしているハズなのだが、今日に限って未だ外を歩いている。  おかげで今まで保ってきた無遅刻無欠席の記録が泡となって消えた。かといって皆勤賞を狙っていたわけでもない。  結論から言えばどうでもいいこと、ということだ。
 朝の風が髪を軽く靡かせ、優しく頬を撫でていく。暑くも無く寒くも無い。  春眠暁を覚えず、とはよく言ったものね、春の朝は本当に気持ちいいわ。などと考えながら歩を進める。  向かう先は学校ではなく何故か禎宮悠紀宅。その事を頭の隅に浮かべた途端、足取りがやや重くなった。そしてついには止まる。  不意に軽く息を吸い、ため息を吐いた。
「はぁ、何やってるんだか。私……」
 怪訝そうな表情を浮かべながら、高崎麻衣子は再び歩き始めた。






 高崎宅から学校までは徒歩で約十分程度。そして学校の予鈴が鳴るのは八時三十五分。  麻衣子はそのことを考慮に入れて、余裕を持って家を出れるような時間に起床している。  ちなみに兄の智裕は、麻衣子が起床する時間に家を出て行く。  部活動で朝練に行く人が学校へと向かうような時間に、どの部活にも所属していない智裕が学校に赴く理由は誰も知らない。  本人曰く「早朝は研究がはかどる」そうだ。恐らく智裕の性格から察するに、ろくでもない研究なのだろう。  もし仮に世紀の大発見に成り得るような研究をしていたとしても興味は無い。
 いつも通りの朝を迎える。部屋の扉を開け、階段を下りる。丁度一階まで下りきったところで聞きなれた声が耳に入った。
「む、麻衣子か。それでは私は行ってくるとしよう」
 そう言って玄関の扉から出て行く智裕。それに対し、麻衣子が何も言わないのはいつものこと。
 何も言わない、というのはあくまで智裕からしてのイメージであって、麻衣子からしてみれば言わないのではなく言えないのだ。  恥ずかしいという感情からではなく、単に朝に弱くて喋れないだけ。起きてすぐ一階に移動してはイスに腰掛け頑張って目を覚まそうとしているのは言うまでも無い。
 寝ぼけ眼で兄が出て行くのを見送ると、リビングへと入る。テーブルの上にはラップの掛かった料理が数点。  これも見慣れた光景だった。両親が共働きをしており、麻衣子が起きる時間には高崎宅にはもう麻衣子しかいない。  普通の家庭なら家族和気藹々と朝食を摂るものなのだろうが、朝に弱い麻衣子からすれば一人の方が楽らしい。
 冷蔵庫から飲み物を出してコップに注ぐ。それを一気に飲み干して脳を覚醒させる。  ある程度目が覚めたところでテレビのリモコンを手に取り電源のボタンを押す。毎朝欠かさず見ているニュース番組を見ながら朝食を摂るのが習慣だった。  それから歯磨き、トイレ、洗顔。髪の毛はブラシで軽く梳かすだけで特に時間を掛けてセットしたりはしない。  朝一でトイレ、洗顔といかないのは麻衣子独特のサイクルだと言ってもいいだろう。  学校の支度は昨夜のうちのやってあるので、部屋からカバンを取ってくるだけ。それまではニュース番組を見て時間を潰すのが麻衣子の朝。

 事は丁度麻衣子が家を出ようとした時に起きた。普段ならまず有り得ない電話のコール音。  こんな朝早くから珍しい……というより迷惑ね、一体誰から? などと思いつつ、片方だけ履いた靴を脱ぎ受話器へと向かう。  コール音が鳴っているのに出ないわけにもいかない。
「もしもし、高崎ですけど」
 電話を掛けてきた人物は
『よぅ、その声は麻衣子か』
 麻衣子にとって意外な人物だった。
「ユキちゃん!?」
 それは禎宮悠紀であった。
『朝早く悪いな』
 受話器から聞こえてきた声はあまり悪いとは思っていない感じだった。
「こんな時間にどうしたの?」
 あまりにも意外な人物からの電話に文句を言うのも忘れ普通に対応した。
『率直に言う。何も言わずに今すぐ俺ん家に来てくれ』
「……えっ?」
『なるべく早く頼む』
「ちょっ、ちょっと! いきなりそんなこと言われて……」
『用件はそれだけ……っておい! ちょっと待て! 電話中だから……ちっ!』
 何が起きているのかは分からないが、少なくとも一人暮らしの禎宮悠紀が受話器の前に一人でいるわけではないことが窺えた。
『悪い。切るわ。なるべく早く来てくれ』
「ちょっと待って……」
 麻衣子が声を返した時には既に遅く、電話は切られた後だった。やや呆れ顔で受話器を戻す。  受話器越しの禎宮悠紀の態度から、何かあったには違いない。しかし朝っぱらから面倒事には関わりたくない、というのが麻衣子の本音。  それでも電話に出た時点で関わってしまっているという事実は曲げられない。
 寝起きの時の様に極端に生気が消えた表情をしつつも放っておくわけにもいかずに、こうして学校をサボってまで禎宮悠紀宅へと赴いているわけだが……。  麻衣子はつくづく思う。電話に出なければ良かった、と。






 はぁ、とため息を吐きながら顔を上げる。視線の先には3階建ての綺麗な外装のアパートが建っている。  このアパートは一昨年に建てられたもので、高校の入学時に禎宮悠紀が引っ越してきた建物である。  麻衣子は一度だけ入れてもらったことがある。中は意外と広く、どこぞのマンションと比べても見劣りしなかった。
 階段を上り二階へと足を運ぶ。目指す場所は二〇三号室。足を止めてドアに付いているプレートに目をやる。  ……二〇三、間違いない。もう一度ため息を吐くと、呼び鈴を勢い良く押した。






 呼び鈴が鳴った。来たか、と言わんばかりの表情が自然と顔に浮かぶ。
「時間的に麻衣子で間違いないだろう」
 玄関へと向かいドアを開ける。ドアの前に立っていたのはしかめっ面を除けば予想通りの麻衣子だった。  見るからにご機嫌ナナメな表情。それも仕方ないか、と心の中で納得する。
「悪いな。こんな時間に呼び出したりして」
「別に構わないわよ」
 いや、それは嘘だと思う。表情がそれを物語っている。下らない用事だったら○○○わよ? と言わんばかり。  ○にはいる文字はとてもじゃないが言葉で表せない。
「それで……用件は?」
 ばつが悪そうに頭を掻きながら左手を後ろに回す。その直後、麻衣子の表情が不機嫌から驚きに変わった。  悠紀が後ろに手を回したら、そこから見慣れぬ少女が顔を出したからだ。
「その子……誰?」
「それはこれから説明する」
「まさか……また誘拐してきたとか?」
「してねぇよ。それに『また』って何だ『また』って。一度もしてねぇって」
「冗談よ」
 そう言うと物珍しそうに少女の顔をのぞく。何度か頷くと
「……私にこの子をどうしろと?」
 悠紀の表情がややほころぶ。
「話が早くて助かる。まぁなんだ。ここだと何かとマズイから上がってくれ」
「それじゃあ遠慮なく上がらせてもらうわ」
 本当に遠慮なく上がってくる。これだけ気兼ねなく話せる友人がいるのは良いし、今日は麻衣子を呼んで正解だった、と悠紀は思った。

 居間に移動し、既に何度も来たことがあるかのように自然な動作でソファに腰を掛ける麻衣子。  悠紀はキッチンから持ってきた紅茶をテーブルの上に置くと、テーブルを挟んだ向かい側に腰を落とした。  少女も悠紀と同じように隣に座った。いつもの学校での会話時とは違った雰囲気。智裕がいないというのも原因の一つかもしれないが。
 テーブルに載った紅茶のカップを取り、一口だけ飲む。ゆっくりとカップを戻すと悠紀は口を開いた。
「まずはどこから説明すればいいかな……」
 悠紀にとってはいつも以上に疲れる一日。
 少女にとってはとても楽しい一日。
 そして、麻衣子にとっては楽しくも苦しい一日が始まった……。



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