例えば、寝起き直後に、見た夢を正夢だと判断出来る人物がいたとしよう。
 その人物は正夢を見た日に限り、これから起こり得る事象を事前に知ることが出来る。
 見た夢がその人物にとって都合の悪いものなら、その人物は夢で見た事象が発生しないように行動するだろう。 都合の良いものなら発生するように。
 未来は樹形図の様に数多に広がっていると言う。その幾重にも広がる未来の中で、実際に通過することの出来る未来は一つだけである。
 ここで疑問が浮かぶ。その人物が夢で見た未来は、一体どの未来なのか。
 事象が発生しないように行動するのであれば、高い確率でその事象を防ぐことは出来よう。 だが、その事象を発生するように行動した場合、その事象を発生させることが出来るのであろうか。
 簡単な話、悪い都合が交通事故だったとしよう。具体的に自動車に轢かれるとする。その事象を防ぐためには自動車の通れない道を通ればよい。 一日中家の中で過ごすでもいいだろう。常識の範囲内で考えれば、まず交通事故は発生しない。故に防ぐことが出来る。
 打って変わり良い都合の場合。異性に告白されるという内容。……この事象が都合の良いことかどうかは置いておく。
 ケースとしてその人物が学生と想定、学校の教室で告白されるとする。そのことを知っている人物は、告白してくる異性との距離を考えるだろう。 最終的には告白されるから、と考えいつも通りの一日を過ごす場合もあれば、その異性との距離を近づけようと努力する場合もあるだろう。 まずは後者、努力した場合を追う。
 教室で告白されるということから、休み時間にさり気ないアプローチなど出来る限りの努力をし、後は放課後に教室で待つだけ。 しかし、閉校時間になっても異性は現れなかった。仕方なく帰宅するも、告白されるはずの場所は教室。 故に、この時点で夢で見た未来とは違う未来を通ったことになる。
 次にいつも通りの一日を過ごした場合を追う。休み時間は友人たちとバカ話で盛り上がり、放課後は帰宅。 が、校門の所で部活途中の異性に話しかけられる。部活が終わったら話があるから教室で待っていて欲しい、と。 後は流れるままに。
 偏った話、異性に告白される条件として、部活途中の異性と遭う必要が出てくる。前者の場合は放課後にずっと教室にいたため異性とは遭えない。 もしかしたらこの場合でも異性がやってきて告白されるかもしれないが、先の交通事故の例と比べたらあまりにも確率は低い。
 試験的なことだが、良い都合の未来を辿ることは、悪い都合の未来を辿ることより難しいということになる。 何が言いたいのかと言うと、見た夢を正夢だと事前に判断出来たとしても、必ずしもその通りの未来になるとは限らないということである。
 ただ、これはあくまで分かりやすく説明しようとした例であり私見であり。絶対では無い。単なるこじつけである。 結局のところ、『その人物』なる存在でなければ理解出来ないことであり、それこそ夢の様な事と言って過言では無いだろう。






4章という名のストレンジ・ダイアログ




「それで、だ」
 勿論その一言でこの場が、いや智裕と麻衣子の言い争いが収まる訳は無いのだが、それでも何か言葉を口にして気を逸らさなければ、自身がどうにかなってしまいそうな状況だった。
 理由は単純にして明快。生まれてこの方、禎宮悠紀は異性に抱きつかれたことなど無かったからだ。 誰かに抱きつかれるということは、自らが抱きつくのとはまた異なった感情がそこにある。その感情についてはまた別の話になるのだが。
 兎にも角にも、悠紀は少女に抱きつかれているこの状況を何とかしたかった。
「その娘っ子の処遇だったな。禎宮からすれば、そのままでもいいと言う訳ではあるまい。 なに、禎宮自身が今の状況を望むのなら、私は盛大に手助けするがな」
 智裕の行動は早く、麻衣子との言い争いにはもう興味の欠片すら無いように振舞う。 文句を言おうと口を開きかけるも、智裕には何を言っても無駄ということを思い出した麻衣子は溜息交じりに口を閉じた。
「その手助けは全力で遠慮させてもらう。想像しただけでも夢に出てきそうだ」
 それはそれで美味しい経験ではないのか? と嫌な笑みを浮かべる白衣。こっちの気などお構い無しな性格は、どんな時でも健在だ。
「して、禎宮はどうしたいのだ?」
「え……いや……」
 思いがけない質問返しに曖昧な返事をしたのが智裕の予想通りだったのか、より一層嫌味な笑みを浮かべた。
「単刀直入に言おう。その娘っ子は今でこそ人のカタチを取っているが、元は野良猫に過ぎん。 禎宮、お前はその野良猫を家で飼おうと思って拾ったのだろう? まさかそんな気が微塵も無いくせに家に連れて帰るなどはしまい」
「まぁ……そう言われればそうだけど」
 と言う悠紀の言葉を遮るかの様に白衣を翻し、
「ならばその猫……いや、その娘っ子はお前のペットだ。お前にはその娘っ子を育てる義務がある。食事を与え寝床を与えさらには……。 禎宮、お前の好きなように調教し自分色に染めるが良い!」
 背を向け肩越しに語りきった白衣の男を、不覚にも格好良いと思ってしまった。 まともな人間なら、あんな事情を知らない人が聞いたら卒倒しそうな誤解だらけの言葉を堂々と言うことは出来ないだろう。 しかしこの白衣の男はやってのけた。それだけに価値がある。かの白衣の男は何かを超越した存在だと胸を張って言い切ることが出来よう。 ……勿論その何かとは常識なのだが。
 数秒後、白衣の男が音も無く前のめりに倒れた。
「ど、どうした白衣!?」
「どうした白衣、じゃないわよ」
 声のした方に視線を向けると、そこには麻衣子が立っていた。
「智裕の言うことをいちいち真面目に聞いてたら脳細胞がいくつあっても足りないわ」
 と言いながら片足を床に何度か軽く打ち付ける。あぁ、なるほど。足刀ね。
「……随分綺麗に決まったみたいだな」
「まぁ智裕だし? この程度じゃ死なないでしょ」
 麻衣子の視線の先では白衣の男もとい、智裕が良い笑顔でうつ伏せに倒れている。智裕自身、先ほどの台詞は決まったと思ったのだろう。 そんな智裕を背景の一部、又はオブジェクトであるかのように無視して麻衣子は続けた。
「どうして猫が人になったとか、何で喋れないのか、とかはとりあえず置いといて。正直どうするの、ユキちゃん?」
 そう言われ困りがちな表情を浮かべながら、腕に抱きついている少女に視線を落とす。 対する少女は自分に向けられる眼差しにすぐ気付き、満面の笑みを浮かべて視線を返してきた。その笑顔に絶えられず、つい顔を背けてしまう。
「その様子じゃ前途多難ね」
呆れの溜息を吐きながら麻衣子が言う。
「愚兄の言葉を借りるのは癪だけど、ユキちゃんには拾った責任があるんだから。食事や寝床を与えるのは最低限のことだと思うわ」
 それは分かるが、と言いかけようとしたところで、
「まぁ待て」
 鼻の頭を紅に染めた白衣が遮った。
「高崎麻衣子の言っている事は正しい。だがいくつか問題が生じるだろう」
 先刻の様な嫌な笑みは浮かべず、喋り方にも真剣味が帯びていた。
「まずは世間の目。今まで1人暮らしだった学生の家に突如として幼子が沸いたのだ。誰であろうと気になってしまうのは目に見えている。人とはそういう生物だ」
言われて納得している麻衣子には、反論もとい対抗策が浮かばない。それは悠紀とて同じこと。 家から出さなければ良いと思ったりもしたが、自分が留守中に誰か尋ねてきたり、少女自身から外に出てしまう可能性は否定出来ない。
 数分思考を巡らした末、悠紀が行き着いた答えは単純にも提唱者に意見を聞き返すことだった。いや、聞き返すことしか出来なかったという表現の方が相応しい。
「……お前なら、どうするよ?」
「ふむ、私の場合とな」
 そう言うが否や、真剣味を帯びた表情は一瞬の内に嫌な笑みへと舞い戻る。
「私だったら、まずはCTスキャンなりなんなりにかけるだろうな」
 悠紀の聞き返すという返答に仕方ないか、と思っていた麻衣子の目が見開いた。
「……CTスキャン?」
「この場合はレンドゲンでは意味が無い。最近ではそっちの技術が無駄に良いからな」
「誰もそんなことは聞いてないわよ。私が言ってるのは何でCTスキャンにかけるのかってこと」
 頭上にハテナマークを掲げた麻衣子が突っかかる。もちろん実際に見えたりはしない。
「そんなもの、この娘っ子を調べるために決まっておろう……と思ったのだが」
 智裕には珍しい渋った表情が少しずつ場の空気を引きずり込んでいく。〜だが、という形で途切れさせては理由が聞きたくなってしまうのが悲しいかな、人の性。
「……だが?」
「この娘っ子の場合、人間の病院と動物病院、どちらに連れて行けばよいものか。これが第二の問題でもある」
 智裕を渋らせた理由を聞いて『あぁ』と納得する。今でこそ人の姿をしてはいるが、元は猫である少女。 普通なら人間の病院でもいいが、もしかしたらという展開が絶対に無いとは言い切れない。そんな状況になった時に本当のことを説明して納得してくれるはずも無い。
「そんなの人の病院に決まってるでしょ。何で調べる必要があるのよ?」
 麻衣子は少女を猫ではなく少女と思っているがために、智裕と悠紀の迷いに納得がいかない。しかしこの質問が智裕の精神に火を点けてしまった。
「何故調べる必要があるのか、か。ふむ、おかしな質問だ」
 渋った表情の変わりに出てきたのは、いかにも何か企んでいそうな笑み。
「何でおかしいのよ……」
「おかしいも何も。歴史上、人外の耳を持つ人に酷似した生物の確認はされていない。UMAというやつだな。 それが目の前にいて何をするかと聞かれれば調べるに決まっておろう。それとも麻衣子には探求心というものが無いのか?  この人では無い耳を持つ娘っ子が何なのか知りたくないのか? さきほど人の病院と言ったが、本当に体の構造が人間と同じだと言い切れるのか?」
「うっ……それは……」
「私は是非とも知りたいな。人と同じなのか。もし違うならどう違うのか、何故耳が猫のものなのか。本当にこのような生物が存在するのか」
 一呼吸加え、さらに続ける。
「人という生物は世の中に対し莫大な量の疑問を持っている。そしてその疑問を解こうとする精神を我々は探求心と呼ぶ。 人はその探求心という名の欲望で出来ていると私は考えている。以上の点から探求心は欲望とイコールで繋がるな? そしてその欲望を叶えようとするのは自分の意思だ。 具体的にはバイキング料理などを想像すれば比較的分かり易いだろう。あのエビフライを食べたいと思うのが欲望で、そのエビフライを取るという行為が意思だ。 つまり探求心=欲望=意思という等式がここに成り立つ。当たり前のようなことだが、この等式を自認している者が少ない。自分が何をしたいのか分からない者などがそれにあたるわけだ」
 確かに、言われて見れば智裕の言っている事は正しいのかもしれない。だが今はそんな等式のことなどはどうでもいい。 レポートにでも纏めて長期休暇の時の課題として生物教師にでも提出すればいい。もしかしたら成績が上がるかもしれない。 ……まぁ、逆に流される可能性も否定は出来ないが。
 そんな智裕の話を止めるには少々時が遅かったようで。ここまで来てしまったら後は智裕が自分から話を止めるのを待つしかない。 止めに入っても『ここが重要な所だ』や『最後まで聞けば分かる』と言われるのが目に見えている。だから悠紀は口を出さない。 麻衣子にもそれは分かっているようで、片手で額を押さえ、表情には諦めの色が滲み出ていた。
 白衣は2人の無言の訴えをスルーしつつ話を続ける。
「さて、人は探求心の塊と言ったが果たして欲望を持つ生物は人だけなのか? 答えはノーだ。この地球という惑星に生存する生物と呼べる存在は必ず欲望を持っている。 単細胞生物は脳が無いため思考があるか無いか分からないが今は置いておく。細胞分裂したり食事したりすることから無いとは一概に言えないが、恐らくはあるのだろう。 それだと細胞自体が脳になってしまうが……まぁいい。兎にも角にも、地球上に存在する生物は生きようと思っているだろう。そしてそれは――」
と、言い掛けたのを禎宮が制した。
「つまり、こいつにも何かしらの目的がある、とでも言うのか?」
「人の見せ場を横取りするのは少々頂けないが、そこはさすが禎宮と言っておこう。どこぞの高崎麻衣子より話が早、ぶっ」
麻衣子が投げた智裕の靴が見事に鼻に当たった。表情を見るに『何その人を小馬鹿にした様な扱いは』と言いたいのを無理やり心に押し止めているのが窺える。
「フッ、なかなか良いコントロールだ。だが私の私物では私は倒せないぞ?」
勝ち誇ってはいるが、鼻の頭はさらに紅くなっていた。靴を顔面にぶつけられて私は倒せない、などと訳の分からないことを言えるのは智裕だけだと思う。 しかし、鼻の頭を擦っている辺り、多少は痛かったに違いない。
「続きだ。私はその娘っ子は意図的に禎宮に拾われた、と考えている。ここで疑問が生じるな? 何故禎宮なのか。禎宮で無くとも良かったのでは無いだろうか。 いくつか考えられるが、有力なのは『その娘っ子は誰かに拾われることが目的であり、たまたまそこに禎宮がいた』『禎宮に拾われることが目的だった』ぐらいだろう。 他にもあるが如何せん信憑性が低い。だが私は最も答えから遠いであろうと思われる解答を考えている。それは『目的のために禎宮に拾われる』ということだ」
ここまで話したところで禎宮が口を開いた。
「ちょっと待て。お前が言わんとしていることは何となくだが分かる。だけどよ、お前が言ってることは根本的に間違ってないか?」
禎宮の問いに対し、うむ、と頷き、
「全く持ってその通りだ。前提が間違っているからな」
ここで痺れを切らした麻衣子が参戦した。
「つまりどういうことなのよ? 前々から言おうと思ってたんだけど、ユキちゃんと智裕の話ってすぐややこしくなるのよね。もっと分かりやすく説明して欲しいんだけど」
 ここまで言って理解出来ぬとは、と言いたげな溜息を吐き、
「もっと柔軟に考えることは出来ないのか、高崎麻衣子? 栄養分が脳に届いていないのかもしれないな」
 一瞬だけタメを作り、栄養を摂取して無いのはアンタでしょ! と智裕の顔面めがけて右ストレートを放つ。腰の入ってない完璧な手打ち。 威力には欠けるがスピードは申し分無い。こいつは当たる、と思った瞬間、
「私とてそうやられているだけではない」
 白衣から伸びる左手が顔の前で麻衣子の右拳を掴んでいた。
「えっ……?」
 当然の様に麻衣子が驚く。今まで智裕を華麗に葬ってきた拳が止められたのだ。今まで幾度となく愚兄の暴走を止めてきた拳。 半分は蹴りでさらにその半分は辞書等の凶器を使用していたことは触れないでおく。つまり実質の拳の使用率は25%なわけだが。それでも何度も智裕を沈めてきた拳に変わりない。 威力は低くともそのスピードはまるで閃光、は言いすぎだが、それを苦も無く止めたのだ。高崎兄妹を知る者が見たのなら誰でも驚く光景である。
 しかし、2人のことを最も良く知っているであろう人物の悠紀は、特に驚いた様子を見せなかった。
「落ち着けって。いいか? 今の高崎の話にはおかしな点が2つある。まずこいつには明確な目的があると決め付けていること」
腕に抱きついている少女を示し、
「もう1点は俺に限らず誰かが猫を拾うということを前提にしている。現に拾った訳だが、もしかしたら俺は拾わなかったかもしれない。他の誰かも拾わないかもしれない。 誰にも拾われないという可能性がある限り高崎の主張は弱くなる。そうだろう?」
「頭がこんがらがりそうだわ。……ちょっと待って。えーと、智裕の言い分は条件が揃っている時のみに適用されて、条件を満たさない限り無効になる、でしょ?  それでその条件が満たされていないから仮定の話になるわけだ。……それじゃあ智裕の言い分は間違ってるってことになるわけ? 意味が無いじゃない」
 ようやく頭が回転し始めた麻衣子の意見に満足そうにうむ、と1つ頷き、
「確かに麻衣子の言うとおりで前提も間違っているが、一概に誤りとは言えない。会話の内容が意味するところは正しいのだからな。 『必ずしも禎宮が拾うとは限らない』と言うが、すでに『禎宮が拾った』後なのだ。拾わなかった時のことを話す必要性が無い。……猫の目的に関しては私個人の推論だがな。だがそれに関しては否定出来まい?」
それにだ、とさらに続ける。
「間違った会話と言えど、視点を変えればそれは間違いではなくなる。加え、人は意味の無い会話を交わさないと思うか? 絶対に人々の会話には重大な意味が込められていると思うか?」
「うっ……それは……じゃあどうしてよ?」
「無駄話ほど長くなるものは無いと思うがな。もっとも、対抗出来そうなのは集会の時のシマウマの話ぐらいか」
別に対抗策は出さなくていいだろう、と思いながら二人を見やる。ちなみにシマウマとは禎宮たちが通う学校の校長のあだ名である。 頭部が薄く、髪の毛の黒い線と肌の白い部分が交互に見えるからシマウマ。一昔前ではバーコードと呼ばれていたとか、そんなお話。


 戦闘力では麻衣子に軍配が上がるが、やはり語彙力というか話術というか。そちらの方では智裕に軍配が上がるようだ。だからと言って麻衣子の頭が悪いのかと言うと、そうでもない。 学力テストでは全教科平均点以上をキープしている中々の兵である。
 では何故智裕に喋り負けてしまうのか。
 会話に必要な能力は一般にコミュニケーション能力、いわゆる思考力・判断力・適応力などだが、麻衣子はどれも欠けてはいない。
 結論から言えば、話す内容が常識の斜め上をいっているからである。普通じゃない。発想、考え方が一般的なものに比べ斜め上をいっているのだ。平たく言えば変人とか、そういった類なのだ。
 変人に対抗するには変人を、とまではいかないが、それなりにぶっ飛んだ発想の持ち主でなければ智裕の相手は勤まらない。まだ一般人の領域を出ておらず、且つやや真面目な傾向がある麻衣子には勝ち目が無いのだ。


「とりあえずだ。現在の優先すべき問題はこいつの謎より俺はどうすればいいんだ、ってことなんだが。 そのために呼んだんだ。……1人お呼びじゃないヤツもいるけどな」
「失敬な。私はその……空と言ったか。禎宮の家には女物など無いだろうからな。だから彼女のためにこうして身の回りの品の支給をだな」
「全部私のでしょうが!」
怒鳴る麻衣子の右拳は相変わらず突き出されたまま。
「そうとも言う」
 笑みを浮かべる白衣の左手は麻衣子の右拳を掴んだまま。
「そうとしか言わないわ!」
 と、思い切り腕を振り智裕の左手を振り払った。
「だが禎宮の心許無い財力から服一式と替えを揃えるのは、酷と言うものだろう」
「それは……分かってるけど」
「なら何も異論はあるまい。麻衣子よ、早速だがその娘っ子の着替えを手伝ってやりたまえ。部屋ならどこでも適当に使って構わん」
それだけ言うと、もう興味が無くなったのか白衣のポケットから携帯を取り出し操作を始めた。
「……あんなこと言ってるけど、いいの?」
「あいつのあーゆーところはどうしようも無いからな。もう諦めてる。それとそっちの和室は物置同然だから、まともに使えるのは俺の部屋ぐらいしか無いぞ」
 リビングに唯一ある襖を指差しながら言う。
 文字通り、その和室は物置になっている。どこぞのマンションより広いとは言え、アパートなことに変わりは無く収納スペースが少ない。 悠紀が使っている部屋にクローゼットが1つ、リビングに1つの計2つ。1人暮らしのため元々生活品は少ないのだが、引越しの時に意味も無く本棚やタンスを持って行かされ、それらが和室に放置してあるというのが現状である。 粗大ゴミに出すか出さないかで迷うぐらいの年季が入っている物で、恐らくは粗大ゴミとして出すとお金を取られるから自分に持たせたのではないか、と悠紀は考えている。
 足の踏み場も無いのか、と問われればそうでもなかったりする。今にも壊れそうな家具を取り払えば立派な4畳半の和室に戻るのだ。ちなみに悠紀が使用している洋室は6畳である。
 そんな4畳半の物置を覗いた麻衣子が、
「……ユキちゃんの部屋借りるわ」
「素直にそうしておけ」
「ベッドの下に本とか隠してないわよね?」
 そう言う麻衣子の表情には何処かで見たことのある笑みが浮かんでいる。
「……何故そんなことを聞く?」
「禎宮の場合は参考書や漫画のカバーを被せ、そこら辺の本棚に何食わぬ顔して置いているに違いない」
 そう言う智裕の笑みが、先程の麻衣子のと被る。
 ──あぁ、どうりで見たことのある嫌な笑みなわけだ……。
「そんなことしねーよ。さっさと行ってきてくれ」
「はいはい」
 それじゃあ行こっか、と悠紀の腕にしがみ付いている少女に手を伸ばす。拒むかと思っていたが、意外にもすんなりと麻衣子の手を取り立ち上がった。
 しかしもう片方の手は禎宮の服の裾を掴んだまま離そうとしなかった。
 拮抗状態が数秒、その時の中で悠紀と麻衣子のアイコンタクトが激しく火花を散らしていた。
(ちょっとユキちゃん、何とかしなさいよ!)
(出来たらとっくにしてる! そっちこそ何か手は無いのかよ!)
(無いから言ってるんでしょう!)
 互いが互いを牽制、ではなく全力投球。他者には見えない高速のキャッチボール。先にボールを取り損ねたのは悠紀の方だった。
 軽く溜息を吐くと、少女に「大丈夫だ、安心しろぃ」と囁いた。視線を悠紀の方に向けるも、表情は不安全開きだったのでポンと軽く頭を撫でた。 その意図が通じたのかは分からないが、服の裾から手を離しゆっくりと立ち上がった。
 少女が振り返ったので、悠紀は軽く笑みを作った。それに満足したのか、少女の表情が緩むと素直に麻衣子の後をついて行った。




 2人がリビングを出たのを見届けた後、携帯をしまいながら智裕がキッチンへと足を進めた。
「中々の演技だな、禎宮。……しかしあの娘っ子、本当にどうする気だ? お前はその処遇を決めるために麻衣子を呼んだのだろうが、どうしようも出来ないだろう。 それに猫が人になったと言っても誰も信じはしまい。今更親戚だと公言しても数日で足がつくだろう」
「余計なのもついて来たが、その意見には同感。親戚程度で誤魔化せるならそもそも呼んでないしな。 ……本当のことを言っても信じるのは、お前を含めて連中ぐらいだろ」
 冷蔵庫の扉を開け中を覗きながら、
「お前の口からその言葉が出るのを待っていた。察しの通り、一週間程前に波を探知してな。一応場所も特定出来たのだが対象がどうしても発見出来なくてな」
「それがあいつだって言うのか? それと何故冷蔵庫を漁っている……」
「まぁ聞け。冷蔵庫に関しても察しの通りだ」
 話を続けながら冷蔵庫から取り出したペットボトルのコーラを、直ぐ傍にあったコップに注いでいく。
「それ以来キャッチ出来なかったのだが、つい一昨日再び反応があったのだ。そう、一昨日に、だ」
 一昨日という単語を強調する智裕の顔には少しだけ笑みが浮かんでいる。いつもとは違う良い意味の笑み。
 一昨日と言えば猫を拾った日。
 悠紀は何も言わない。
「だがそれも接触にまでは行き着けなかった。さすがにもう近辺にはいないだろうという決になったのだが、昨夜会長が特殊な波を感じたというのだ。 波系には疎い私でも感じることが出来たのだから、かなりの波紋が揺らいだに違いない」
 昨夜と言えば、拾った猫が人の姿になった日。
 悠紀の表情が少し重くなり、
「あくまで私個人の推論だが、私が感じた波形では恐らくあの娘っ子は――」




 その頃、リビングの時とは打って変わって言うことを聞いてくれない少女に麻衣子が大苦戦していることなど、2人は知らない。



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