1章という名のデイリー・イベント




 俺は悩んでいた。
 どれぐらい悩んでいたかと言うと、「北極と南極、必ずどちらかに行かなければならない時、どちらに行くか」ぐらい悩んでいた。
 むぅ……我ながら分かりにくい例えだと思う。
「随分と分かりにくい例えだな。禎宮(よしみや)」
 つっ込まれてるし。
「やっぱりそう思うか」
「うむ。もうすこしマシな例えは無かったのかね?」
「俺の辞書はページ数が少ないんだ」
「ふむ、それならば私のを貸してやろう」
 いや、無理だって。
「冗談だ。まさか本気で信じたりなどしていまいな?」
「当たり前だ。それと高崎(たかさき)。お前が介入してくるとややこしくなるから、あっちに行ってくれないか」
「禎宮……お前はそういう男だったのか! 使うだけ使ってあとはポイなのか!? これは禎宮に対する認識を改めなくてはいけないな」
 そういう誤解を招くような言葉は、でかい声で言わないで欲しい。
「はいはい、勝手に改めてろ。俺は忙しいんだ」
「それでどんな悩みなのだ?」
 高崎 智裕(たかさき ともひろ)は変わっている。人の話を聞かないのはいつものこと。  何だか怪しげな同好会を結成して怪しげな実験をしている。果たしてその怪しい実験とやらがどんなものか、一応聞いてはみたが案の定教えてはくれなかった。  特技としては自ら厄介ごとに頭を突っ込み、ややこしくするだけして去って行くというはた迷惑なのを持っている。  頭のネジが数本と言わず、数百本単位で外れているに違いない。少々変わった口調からなんとなく変だとは思っていたが、ここまで変だと手が付けられない。  恐らく過去に天才と称されていた人々は、高崎みたいなヤツだったに違いない。

「ほら、変人はお呼びじゃないとさ」
 そう言うと、ためらいもせず高崎の後頭部に分厚い国語の教科書で叩く彼女。
「う、ぐぉ……私に一体何の恨みがあるというのだ! 高崎麻衣子!」
「……普通自分の妹の名前を声高らかにフルネームで言う?」
 俺に話を振る。
「いや、言わんだろう、普通は」
 高崎麻衣子(たかさき まいこ)。高崎という苗字から分かるように、高崎智裕の妹である。  妹といっても双子なわけで、一卵性では無かったらしくほとんど似ていない。……まぁ、あの兄に似ろという方が無茶なのだが。
 二人してよく俺のところにちょっかい出しに来るが、この二人の漫才は見てて飽きない。唯一似ているところがあるとすればその辺りなのだろう。
 高崎兄妹と言えば、学校内で有名である。かなり人道を外れた兄が迷惑を掛け、それを戦闘力大な妹が止めに来る。  兄の智裕がいろいろなところに出向くため、学校内で二年の高崎兄妹を知らないヤツはほとんどいない。  その有名な高崎兄妹とよく一緒にいるために、俺もそれなりに有名になってしまっている。迷惑な話である。

「それで、何を悩んでるのかな? ユキちゃん」
 後頭部を抑えて唸っている兄、智裕を尻目に聞いてくる。
「そのユキちゃんってのはやめろと言わなかったか?」
「え〜、いいじゃん。女の子みたいで可愛いよ?」
 だから嫌なんだろうが。
「まぁ、いいや。それで悩み事なぁに? お姉さんに相談して御覧なさい」
「そんなに大それたことじゃない。ただ猫の名前を考えてるだけだ」
「ほぉ? 禎宮は猫なんて飼っていたのか?」
 あのダメージをもう回復させたのか。
「あぁ、昨日拾ったんだよ」
「ホントに? ねぇ今度見に行っていい? 私猫好きなんだよね〜」
「別にそれは構わないが……」
「それでその猫、なんていう名前なの?」
 あぁ、もう一つ付け足しがあった。妹の方も微妙に話を聞かない。
「だからそれを今考えてるんだろうが」
「全く……我が妹ながら情けないぞ」
 その瞬間、智裕の鳩尾に麻衣子のエルボーが炸裂した。
「う、ぐはぁ」
 そして二度目のノックダウン。
「何か候補とか出てるの?」
 何事も無かったように話を続ける辺りが麻衣子の怖いところだと思う。
「いや、それが全く」
「ふははは。甘いぞ、禎宮。この私がもっと壮大かつ頭脳明晰、単純明快でハートフルな名前を考えてしんぜよう!」
 もうあのダメージから回復したのか。というか、壮大かつ頭脳明晰、単純明快でハートフルな名前ってどんな名前だよ……。
 頭のネジが外れているヤツは無視するのが一番だと、日頃から思っている。それは麻衣子の方も同意見らしい。
「う〜ん、私が考えてもいいけど、その猫がどんな猫か分からないから考えようが無いわね」
「そっか。それがなぁ、何とも表現しがたい猫なんだ」
「首が三つあったりとか?」
 キングギ〇ラかよ。
「そんなわけあるか。……色がな、空色みたいなヤツなんだ」
 空色? どんな色だよ。自分で言ってから思う。
「空色? 空みたいな模様ってこと?」
「まぁ、そんなもんだと思っといてくれ。それ以外の表現が無い」
 気付いたんだが、いつの間にか隣で変なことをぬかしていた智裕が居なくなっていた。トイレか何かだろう。
 そこまで話したところで昼休みの終わりを告げる鐘が校内に響いた。今日に限って妙に頭に響く。  じゃあねぇと言いつつ去って行く麻衣子を見届けつつも視界がぼやけていくのを感じた。そこで再び夢のことが脳裏に浮かんだ。


 ──あれは誰だ? どこかで俺が誰かと話している。ここは俺の部屋? 何を喋っているんだろう。  ……分からない。聞き取れない。 ん? うっすらとだけど、相手の姿が見えてきた。……スカート?  ということは……女の子!? 俺が家に上げたのか!? ……というか、誰? 俺は見たこと無いぞ、あんな女の子。  顔が良く見えない……。気になってしょうがないぞ、畜生! む、アイツ……いや、俺か。俺は今何を言った? もう一度言うんだ、俺!……──。


 そこで俺の思考がシャットアウトした。気がつくとそこは教室。黒板の前には地理の教師が字を連ねつつ説明している。俺は机に突っ伏していた。
 そうか、俺は寝てたのか。今は……地理か。ということはまだ五時間目だな。
 時計に目をやる。昼休みの終了時刻から二十分ほど経過していた。






 結局俺は、あの後授業に集中できるハズもなく、そしてまた夢を見ることもなくバイト先に足を運んだ。
 素直に言って、昨日同様行く気にはなれなかったが休むわけにもいかず、一度顔を思いっきり叩いて気を取り直してから向かった。……少し痛かった。

 そこは喫茶店。ログハウス風な外観に惹かれてやって来る客も少なくない。彼もそんな客の一人だった。
 キッカケは単純。ここで働いている後輩に「ここでアルバイトしませんか?」と薦められたからである。
 彼からしてみればそれは朗報だった。以前からアルバイトをしようと情報誌を買っては目を付けたところに行ってみたが、どこも面接が厳しかった。  ほとんどが有名な店だったため、バイト志望の人が多いのだろう。それゆえ面接もシビアになってくる。
 面接の落選結果を知り、少し落ち込みつつあった時のその一言は彼にとって救いの手に等しかった。
 その喫茶店入ったのは偶然で、それ以前に存在すら彼は知らなかった。この喫茶店のある場所は彼の家から結構離れていて、学校を挟んで反対側にあったからである。  この街の主だった店は、学校から見て彼の家の方向にあったため、特別な用事が無い限りまず足を運ばない。  その時の面接を受けに行った場所が学校から見て喫茶店側だったのが不幸中の幸いだった。  内装も綺麗で、デートで行く店ベスト5に入っている。デートなんて言葉とは無縁のため知らなかったというのも理由の一つである。
 ドアを開けると、その後輩が元気な声で出迎えてくれた。
「いらっしゃいませ。何名様でしょうか……って、禎宮先輩じゃないですか」
「よっ、志賀」
 噂の後輩、志賀 鳴海(しが なるみ)。彼が志賀鳴海と出会ったのは偶然だった。






 とある雨の日、鳴海は昇降口で雨雲に覆われた空を見上げていた。その日の午前中は晴れていたため、傘を持ってきていなかったのだ。  こういう日に限って天気予報を見忘れる自分は、なんとも滑稽だなと彼女は思った。
 どれぐらい経ったのだろうか。実際には数分程度しか経っていなかったが、鳴海には既に何十分か経ったかのように感じられた。  空を見上げて呆然としていた鳴海に声が掛かったのは、彼女が昇降口で足止めをくらってから二十分ほど経った後だった。
「えっ?」
 突然の出来事に鳴海はまっとうな返事を返せず、反射的に振り返った。
「いや……だからさ、傘使う?」
 目の前には彼自身のだと思われる傘を鳴海に突き出している男子生徒が立っていた。
「でも……」
 鳴海が口ごもっていると、何故口ごもっているかの理由を理解したように彼が話し始めた。
「あ〜大丈夫大丈夫。俺折り畳み持ってるからさ」
 と、高校指定の手さげ鞄から折り畳み傘を取り出した。
「だからまぁ、気にするな」
 そう言うと、傘を開きながら走り始めた。「あの!」という鳴海の言葉も「じゃあな!」という彼の言葉と水しぶきに遮られた。  結局この時、鳴海は彼の名前を知ることが出来なかった。  まぁ、その傘を貸してくれた人物こそが禎宮 悠紀(よしみや ゆき)なわけで、鳴海がその真実を知ったのは三日後だった。
 乾いた傘を手に、持ち主に返そうと教室を出たまでは良かったが、名前も知らない生徒を捜すことはとても困難なわけで。  唯一の手がかりはおぼろげながらも頭の中に浮かんでくる顔だけだった。幸運なことにその顔には見覚えがあった。  かの有名な高崎兄妹とよく一緒に学校を徘徊している男子生徒の顔と一致したからである。ある意味名前よりも有益な情報である。  二年の教室へと向かうと、すぐに見つかった。無事傘を返すことが出来て教室を去った後、禎宮が周囲にいた生徒に質問攻めにあったのは言うまでも無い。






 アルバイトが終わっての夜道、自転車を手で押しながら悠紀は思った。店に入って最初に会ったのが志賀でよかった、と。
「ふぅ」と一息吐いてから「あぁ!」と少し大きな声を上げると、サドルに跨り全力で自転車のペダルを漕ぎ始めた。
「やべぇ、家にはアイツがいたんだ。すっかり忘れてた」
 朝家を出たのが午前八時。授業が終わり学校を出たのが午後四時でアルバイトが終わったのが午後十時。  朝食を食べさせて以来何も食べていないと考えると、約十四時間ほったらかしにしていたことになる。  家には悠紀しか住んでいない。
「空腹でぶっ倒れてるかもしれない」
 自分で言った言葉を頭の中で想像する。
「……………」
 喉を鳴らすと、より一層早くペダルを漕いだ。

 家に着き、大急ぎで財布から鍵を取り出し差し込む。悪い事を考えないようにしてドアノブを回し開ける。すると
「にゃぁ〜」
 と、まるで「お帰り」とでも言うように昨夜と同じ鳴き声で鳴いた。
「良かった……無事だったか、じゃねぇよ!」
 悠紀は空色の猫を優しく抱き上げ
「ごめんな。お前のこと忘れてて……昼も夜も食べてないんだよな……」
「にゃ〜」
 平気だよ、大丈夫だよ、と言わんばかりの元気な鳴き声を上げる。その鳴き声を聞き、安心して体からゆっくりと離したところであることに気付く。
「お前……メスだったのか。人の昼飯奪うくらいだからてっきりオスだと思ってたんだが」
「にゃ〜!」
 悠紀に言われたことを否定するかのように爪を立て掻き毟る。
「おわっ! イテ! やめろ……イテ! 悪かった! 俺が悪かったって!」
 思わず手を離しそうになる。しかし、悠紀が謝ると空色の猫は暴れるのを止めた。  静かになったのを確認すると、空色の猫を床に立たせた。そのまま居間へと向かう。猫もしっかりとした足取りで後をついてきた。
「そうだ。俺さ、今日学校でお前の名前考えたんだよ」
 止まらず振り向かず話し続ける。
「だけどね、俺お前のことオスだと思ってたから男らしいのを考えちゃったんだよね」
 猫は首を悠紀の方に向けながら聞いている。
「そんでさ、ついさっき女らしい名前思いついたんだけど、何か急すぎてしっかりしてないけど、それでもいいか?」
 ここまで言い終えたところで振り向いた。別に構わないよ、と言っているかのように猫が鳴く。
「そっか、サンキュ。……よし! お前の名前は『空(そら)』 今日から『空』だ」
 空色の猫を抱き上げる。誰が聞いても体の色からとった名前だと分かるような安直な名前だったが、当人の猫が「にゃぁ〜」と気に入っているようなので悠紀は少し安心した。  猫が言った「にゃぁ〜」という言葉が気に入ったという意味かどうかは、その言葉を言った猫自身にしか分からないが。






 少し長く感じた一日が終わる。ベッドの中には禎宮悠紀と、つい先程命名された猫『空』が一緒にいる。空はとうに眠りについていた。  悠紀の方は、明日からは空の昼飯と晩飯のこともちゃんと考えてやらなくちゃな、と反省しつつ今後どうやってご飯を与えようか考えていた。  横目で空を見てから布団を掛けなおす。
 翌朝、自分自身の人生を根底から覆すような出来事が待ち受けていることを、悠紀が知るはずも無い……。



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