第九話
〜日常から一歩〜



 二つの傘が門をくぐる。
 登校してくる学生達が最も多い時間帯──大体一時限目の講義が始まる十分前──と重なる。
 周りには彼らと同じく傘を差した学生たちがそれぞれの講堂を目指して歩いている。
 七号館まであるこの大学は、規模は大きめで学力も中の上、それなりの知名度がある。 文系理系ほとんどの学科を扱っており、外装内装ともに結構綺麗な上、周辺環境にも恵まれている。 それゆえこの土地に関わらず人気がある。
 特に校門(と言えるほど立派なものでは無いが)から出て通りを越えた向かい側にある喫茶店「永遠(とわ)」が地元外から来ている学生たちに人気がある。 内装がお洒落なことに加え、「永遠」特製のブレンドコーヒーが実に美味しい。 テレビ番組で扱われてこともあるぐらいの絶品である。まぁ、それが原因で地元外からの入学志願者が増えたわけなのだが。 ちなみにこの「永遠」という名前の由来はオーナー曰く「この喫茶店が永遠にここにあったらいいなぁ、と思ってね」だそうだ。
 この喫茶店「永遠」は、元々夫婦で経営していたが、二人の間に娘が生まれて十年後に妻がこの世を去ったため、現在は夫とその娘の二人で経営している。 もちろん二人だけで経営することなど出来るわけも無くアルバイトを募集しているのだが、 これまた志願者が殺到していて、アルバイト募集を打ち切った後でも来るぐらいである。
 そんな人気の喫茶店「永遠」のオーナーの一人娘は、名を永森結乃[ながもり ゆいの]という。 結乃は十歳の頃から──結乃の母親が亡くなってから──喫茶店の手伝いをしていた。 当時はテーブルを拭くというようないわゆる掃除に近いことしか出来なかった──出来ていたと言えるのかどうかは怪しい──が、今となってはもう手馴れたものである。 父親とまではいかないが、店自慢のブレンドコーヒーを淹れられるようにまでなっている。 と言っても実際にはお店には出したことは無く、父親はコーヒーを淹れさせたいのだが結乃がそれを拒んでいる。 結乃には自身の淹れたコーヒーを一番初め(父親を除いて)に飲んでもらいたい人がいた。 それは青い傘の持ち主……。

 高校の制服の上からフリルの付いた可愛いエプロンを着ている結乃は、通りに面した窓際のテーブルを拭いている。
(そろそろ来る頃だ)
 テーブルの上に布巾を走らせながら窓の外に目をやる。 店内の窓から見えたのは、二つの傘が校門をくぐるところだった。
(思ったとおり)
 結乃の心が踊り出す。二つの傘のうち、一方を見つめる。
(彼だ)
 結乃には傘の持ち主が誰だかすぐに理解できた。 赤い傘と青い傘が並んで歩く。雨の日にはこの光景を何度見たことか。
 窓に手を当ててその傘の持ち主に見入っていると、そろそろ学校に行かなくていいのか? と父親に促された。 エプロンを脱ぐと、結乃はカウンターの上に置いておいたリュックを手に取った。 結乃の通う高校は鞄に関しては自由指定だった。八割方の女子生徒は中学の頃から使っている手さげ鞄を使っている。 結乃もそれは持ってはいるが、彼と同じ(大きさは小さいが)リュックの方を好んで使っている。
 店の入り口に向かい、足元にある傘立てからお気に入りの彼と同じ青い傘を抜く。 いってきまーす、と元気な返事を返し結乃は店を後にした。






 講堂の入り口で青い傘から水滴を落とす。 大概雨の日は、湿気の多さと傘に着いた水滴を落とすのを怠る人の多さで床が滑りやすくなっている。 さらにジメジメしていて、より一層不快感を感じさせる。 わざわざ靴の裏の水滴を取るためのマットが敷いてあるのだが、大半の人がそのような手間を面倒くさがる。 中には傘の水滴も落とさずにいるためこのような事態を招くわけなのだが、個人的にそういうことを嫌う明彦はしっかりと傘から水滴を掃っている。 もちろん靴の裏の水滴を取るのも忘れていない。 明彦の律儀というか、他人にあまり迷惑をかけるのを極力避けようとするこの性格が、あかりが明彦を好きになった理由の一つでもある。
 大学よりも、通りを越えた向かい側にある喫茶店の方が人気があるのでは? とまで思わせるこの大学に明彦が入学した理由はたった一つ。 近いから、だとか。
 多少なりとも勉強をすればもっと上の大学に入れたものの、自宅から徒歩で通えることが出来るこの距離に惹かれたそうだ。 元々学力の高低に興味が無かった明彦には丁度良かったのだろう。
 そんな明彦の隣で同じように赤い傘から水滴を落としている女性、穂村あかりがこの大学に入学した理由は 明彦がこの大学に行くから、だそうな。
 高校時代から付き合っている明彦とあかりだが、彼が行くから私も行く。彼と一緒にいたい。そう思う気持ちはなんと純真なものだったろうか。 当時はそれほど一途だったということがよく分かる。まぁ、今でもそうに違いないのだが。 それ以外にも家から近いのも理由の一つだとか……。

「そういえば遥は?」
 傘をたたみながら朝は大概一緒にいるのに、今日に限っていない人物の名前を口に出す。
「ん、朝練……じゃ無いか。月曜は休みだしな確か。ん〜分からん」
 明彦も同じように青い傘をたたみながら答える。少し間をおくと、疑問に思い振り返りながら話す。
「……そういや何であかりがここにいるんだ?」
「何でって……月曜の午前は選択で同じ部屋じゃない」
 素直に答えはしたが、あかりの目からは呆れの表情が読み取れた。
「あぁ……そうだったなぁ。先日のごたごたですっかり忘れてた」
「明彦にしてはらしくないミスね」
 全くだ、と言わんばかりに首を垂れた。 いつもと変わらないはずの日常会話に、何か違和感を感じる。 あかりの言動に関しては深く考えないことにした今、明彦を悩ますものは無いはず。 それでも何かが引っかかる。何か……そう、何か重要なことを忘れてる気がしてならない。 別に相沢遥がいないことに関してはさほど気にはならない。朝出会わなかったことだって多々ある。 それ以前の……何か根本的なところで引っかかる。 そう考えてるうちに、無意識に頭をクリアにしようと横に振り出す。
「明彦、もしかして疲れてる?」
 そんな光景を見たあかりが不安な表情は浮かべず、しかし心配そうに尋ねてくる。
「あぁ、大丈夫。軽い頭痛みたいなもんだ。それに頭痛なら最近ちょくちょくあるし」
「頭痛がちょくちょくある方がやばい気がするのは私だけ?」
「いや、俺もそう思う」
 二人して苦笑いを浮かべた後、講義室へと向かう。
 二人を知ってる者が挨拶をしてくる。それに対し挨拶を返す。途中、立ち止まっては短いながらも世間話を交わす。 昨日テレビ見た? だの、レポートやって来た? だの。 まさしく日常会話と呼べるものを自然と口から紡ぎ出す。
 講義開始五分前の予鈴が講堂に響くと、会話をしていた学生たちが散るように去っていく。 傍にいるあかりも目の前にいる学生に別れを告げると、講義室のトドアに手をかける。 明彦もそれに続いて講義室へと入る──瞬間、ふと思う。 講義室に至るまで数人の学生と会話をした。どれも内容はどこにでもありふれたものだった。 だからこそ思う。 そしてそれは疑問に変わる。

 ──何故誰も昨日の出来事、選ばれしもの、いや天使について話さないのか……。

 あれだけ大掛かりな事件を知らないはずが無い。それなのに何故誰も口に出さないのか。 そんな疑問を抱えながら、明彦は講義室へと足を踏み入れた。






 女性には似合わないであろう青い傘を差し、リュックをしょっている女子生徒が自分の数メートル先を歩いている。 清香にはその女子生徒が誰だかすぐに分かった。青い傘にリュックをしょってる女子生徒は、友人の多い清香でも彼女ぐらいしかいない。 小走りで近寄ると元気に声をかける。
「おはよっ 結乃」
「あっ、清香、おはよー」

 清香と結乃は高校に入って以来の友人だった。 一年の時同じクラスだった二人は、運良く二年になった時のクラス替えでも同じクラスになった。 相沢と永森では席は必然と遠くなる。ならばどうやって二人は知り合ったのか。その答えは部活動である。
 清香は姉の遥と同様、勉強だけでなく大抵のスポーツも難なくこなす。(姉妹揃って恐ろしいと思う) その中でも一番得意だったのがバスケットボールだった。そんなことから女子バスケ部に入部したのである。 恒例である自己紹介をしていくうちに、自分と同じクラスの女子がいるのに気づいた。それが結乃である。
 清香の結乃に対する第一印象はおとなしい子、だったのだが、話をしてみたところ、これまたよく喋るではないですか。 結乃はおとなしそうな見た目とは裏腹に、清香と似たタイプだった。 バスケットも中学の頃からやっていて、清香といい勝負だった(ちなみに清香も中学の頃はバスケット部)。 それ以来意気投合してよく一緒にいる。

「相変わらず青い傘使ってるんだね」
 結乃差している青い傘をまじまじと見ながら率直な意見を述べる。
「うん。いい色だと思わない?」
 満面の笑みを浮かべて返事を返してくる。なんだか今日の結乃はやけに機嫌がいい。
「ねぇ、何かいいことでもあったの?」
「うーん、どうだろうねぇ」
 今度は焦らす様に、不敵な笑みを浮かべながら答えてくる結乃。
「ちょっと詳しく教えてもらいましょうか?」
「ふふっ、秘密!」
「あっ、コラ! 待ちなさいよー!」
 二人は元気よく校門をくぐった。






 廊下を抜けて教室に入る。結乃は自分の席に座り、しょっていたリュックを机の上に置く。 リュックの中からは今日の授業で使うであろうと思われる教科書が出てくる。 それを机の中に入れてると、清香がやって来た。
「ねぇ、結乃。もしかしてあの人に会った、とか?」
「え? 何が?」
「さっきの話。何で結乃の機嫌がいいのか? って」
「あぁ、うん。ストレートに言えばそうだね」
「でもさ、結乃はその人の名前すら知らないんでしょ?」
「……うん」
「それでその人も結乃こと知らないんだよね?」
「……多分」
 はぁ、と清香は大きなため息をついた。
「よくそんな素性も知らない人を好きになれるよね、結乃は」
「そう? でも一目惚れっていうのはそんなものじゃない?」
 結乃が『その人』について知っていることは、

 リュックをしょっていること。
 自分の家のすぐ近くにある大学に通っていること。
 雨の日には青い傘をさしていること。

 青い傘と聞いたとき、清香の頭の中に一瞬神倉明彦のことが思い浮かんだ。が
(まさか、ね……)
 そんな偶然あるわけが無い、とすぐさま神倉明彦の姿は消え去った。
(確かに明彦さんは結乃言う条件に全部当てはまっているけど……そんな偶然……)
 と、清香は神倉明彦のことを考えてはいなかった。いや、厳密に言うと考えたくなかった、という表現の方が正しいのかもしれない。

「そうなのかなぁ……」
「そうだよ、うん。そうに違いないって」
 登校時から笑顔の絶えない結乃が言う。笑う結乃の顔は、同姓の清香から見ても可愛いと思わせるほどだった。
「ん? どうしたの? 清香」
 突然ボーッとしだした清香を、結乃は不思議に思い声をかける。
「えっ? あっ、ううん! 何でも無いよ!」
 素直に結乃の笑顔に見とれてた、なんて言えるはずも無く、急に声がかかれば自然と焦ってしまう。
「ほらっ、あと一分で授業始まるから私戻るね」
 黒板の隣に掛かっている時計を指差すと、清香は自分の席に戻った。 その姿を後ろから見ていた結乃の頭にはハテナマークが浮かんでいた。

 なんとかごまかせたかな? と思いながら自分がついさっき見とれていたものを思い出す。
(結乃ってあんな顔するんだ……)
 そんなことを考えると、自分の顔が再び紅潮するのを感じ、うつむきがちに急ぎ足で自分の席へと戻った。 清香がイスに腰を下ろしたと同時に、一時間目の授業の開始を告げる鐘が教室内に響いた。



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