第十話
〜そして始まり〜



 ─────。
 何気ない講義が進む。選択講義ではあるが、この時間の理学は理系選択で入学してきた学生たちに人気がある。 それゆえ受講者数が多く、ある意味選択というより合同講義という表現の方が相応しい。
 周りにはせっせと黒板に羅列されている文字を手元のルーズリーフ、又はレポート用紙、あるいはノートに写している学生が大勢。 そして隣にも周りと同様にノートに写している女性がいる。
 隣からの視線に気付いたのか、穂村あかりは手を止め、黒板に向かっていた意識を横に振る。
「どうしたの? 明彦は書かないの? それとも私の顔に何か付いてる?」
 視線が合う。隠す事無く、素直に思っていたことを口に出す。
「いや……何でもない」
「ふーん……」
「何だよ、そのふーんってのは」
「別にー。ただ『いや』の後の沈黙が気になってね」
 そう言うと視線を黒板に戻し、再び手を動かし始める。

 何だコレは……?

 明彦は思う。いつもと同じ講義のハズなのに何かが違う。
 けどその何か≠ェどう違う≠フか分からない。けれど確実に何かが違う。違和感を感じる。
 不意に手に持ったシャープペンを動かし始める。それは明彦の癖である。考え事に没頭した時に無意識にやってしまう癖。 その癖の意味を知っているために、あかりは動かす手を止め明彦の方へと視線を向けた。
「何がそんなに気になってるの?」
「ん? 別に……何でもないよ」
 気の抜けた、明らかに喋る方には力の入っていない声が返ってくる。
「私が気付かないとでも思ってる? そしたら随分な話ね。関係あることなんじゃないの?」
 あかりの言葉にシャープペンを回す手を止める。
「大したことじゃないんだけどさ……」
「大したことじゃなかったらそんなに没頭しないでしょ」  それもそうだな、と明彦は続け
「何で誰も昨日のことを口に出さねぇーのかなぁと思って」
 視線はどこか虚空を見つめたまま言う。一見人の話を聞いてないようにも見えるが、明彦が考え事をしている時は大概こんなものである。 もちろんそのことも知ってるし、明彦の言いたいことも分かる。決してあかり自身も気付かなかったり、気にならなかったりしなかった訳ではない。 ただ、そのことを口に出したからって何かが変わったりなんてしない。 内容が内容なだけに、逆に口に出したくないのでは? というのがあかりの、自ら翼を持つ者の素直な本音である。
 明彦もあかりと同じ考えを抱かなかったわけではない。口に出したくないというのも、直接やりあった明彦だからこそよく理解している。 それでも、誰も口に出さないというのが信じられないでいる。小学校はともかく、中学校、高校とクラスには大抵「情報通」と呼ばれる人が少なからずいる筈。(個人的偏見だが) それは大学とて同じことだと思う。それに今日は人気のある選択講義。大抵の講義の約二倍近い人数がいる。これだけの人数の中で誰も知らないはずがない。 ドラマが中断して臨時ニュースとして放映されたぐらいの出来事を情報通が知らないワケがない。

「……こ」
(何だ……? 何か、イヤな感じがする……)
「……きひこ」
(何だ? この不快感は。この教室……? いや、違う)
「……明彦」
(何かこう……教室っていう一定範囲じゃなくて、一部分……? ん?)
「ちょっと明彦、聞いてる?」
「お、おぅ……大丈夫だ、聞いてる」
 ハァ、とため息をつきながらもあかりは続ける。
「まぁいいわ。あのね明彦。あくまで……あくまで可能性の一つとして聞いてね」
「一つの可能性……?」
「そう可能性。必ずしもそうなわけじゃないし、そうじゃないという可能性も否定できない。だからあくまで一つの可能性。OK?」
「随分と遠まわしな言い方だな。……それで、その可能性ってのは?」
「この部屋にいる人、全員が天使だった場合」
「……………」
 別段驚く素振りも見せず、何も言わない。明彦もその可能性を多少なりとも考えていたからだ。自分が天使ならば、他に天使が現れたとしてもどうとも思わない。 この考え方は人間より天使の方が単純に強いということから来ている。自分が人間なら天使は怖いが、天使なら人間は怖くないからだろう。 その考え方を元に、この部屋の中にいる人、全員が天使だと考えれば合点がいく。
「あくまで一つの可能性だからね。まぁ私はそれが絶対にあり得ないと思ってるけどね……明彦もそう思ってるみたいだし」
「さすがあかりさん、分かってらっしゃる」
 頭を掻きながら、見抜かれてるなぁといった表情を表に出す。その明彦の表情を見て嬉しそうに「まぁね」と言う。

 ペンを持った右手で再度回そうとした時、不意に後ろから肩を叩かれた。
「もしかして、昨日のことで話してる?」
 その言葉に関係なく、二人は振り向いた。
 この部屋、いや……この大学に着いてから、あかり以外で始めて昨日のことが話題に浮かぶ。そのことに対し、明彦は少し驚いた表情になる。 もちろんあかりも明彦に掛けられた言葉に反応し振り返る。……こちらはさほど驚いてはいないが。
 声を掛けて来た女子学生……明彦はこの女性に見覚えが無かった。ただ覚えていないだけで、どこかで会ったことがあるのでは? と振り返ったまま、彼女の顔を見続けたまま思考を巡らす。 明彦(と言っても彼女にとっては知らない男性)がまじまじと見つめてくるので、目を逸らしてはいけない様な気がして彼女も明彦を見続ける。 と、不意に彼女の顔がちょっと照れた様な表情になる。この間、約1秒。 彼女にとっては真剣に見られてることに対し恥ずかしくなっただけなのだが、あかりは何を勘違いしたのか、頬を少し膨らませると明彦の腕(彼女からは見えない方)を抓った。

「!!」

 声は出なかったが(というか声にならなかった)瞬時にあかりに抓られたのだと理解しあかりの方を向く。 それと同時に「そうだよ」とあかりの口から言葉が出てきた。あかりは明彦の方を見ておらず、彼女と会話をし始めている。
「やっぱりね。そうじゃないかなぁと……………」
「まぁ、分かる……………」
 明彦には何故抓られたか分からなかった。あれだけ考えたにも関わらず彼女のことも分からなかった。分からなくて当然である。 前者の答えは明彦自身が鈍感だから。後者の答えは彼女は明彦とは違う学部で初対面だからである。
「でもその話し、あまりしな……………」
「どうし……………」
「まだ噂だから本当かどうかは分から……………」
 明彦の存在は無視されつつ、無情にもあかりと彼女の会話は進んでいく。と、
「ちょっと待った。どうしてしない方がいいんだ?」
 ここで明彦が止めに入る。それに対し、呆れた表情のあかりに
「明彦、人の話しはちゃんと聞くものよ?」
 と、注意される。あかりの表情は呆れつつも、確信犯的な悪魔の表情が見え隠れしている。それに尻込みしながらも続ける。
「……ほっとけ。それで、どうしてさ?」
「うん、私も聞いた話だから本当かどうか分からないんだけどね。昨日起きた天使出現事件ね、5人ぐらい警察に捕まったじゃない?」
 確かに、と頷きながら明彦は昨日出来事を思い出す。一番始めに戦った天使にやられた腕が痛み出す。
「それでね。その捕まった5人の中にこの大学の学生がいるっていう話」
 そういうことか。その気持ちは分からなくも無い。単純に言えばみんな不安、ということか。
「もしそれが本当だとしたら……」
「パニック、とまではいかずとも、みんな不安になるでしょうね。少なくともマスコミ関係は黙ってないわね」とあかりが付け足す。
「そういうこと。それに大学側も何も対応策をしないってことは無いだろうしね」
「なるほど。表に出せば出した分だけ自分も、学校側も不利になるわけだ」と明彦。
「そういうこと。だからあまりと言うかなるべくと言うか、極力口にしない方がいいよ。特に『天使』って言葉は」
 そこまで言うと、やや前に身を乗り出していた体を元に戻し、彼女は再び講義に集中し始めた。それを見届けた後、明彦とは体を前に向けた。 数秒後、一枚のルーズリーフとシャープペンを持ったあかりが体を寄せてきた。
「なぁ、近すぎじゃないか?」
「微妙に近いより、いっそのことくっついちゃった方が怪しまれずに済むと思ってね」

 二人の距離は三十センチも離れていない。はたから見ればただのバカップルに見えなくも無い。 逆にそこまで近い方がおかしいのでは? と思わなくも無いが、この選択講義。 確かに人気はあるが、内職していたり寝ている人もちらほら見かける。そういう人たちは大抵が単位の補完のためにこの選択講義に出ている。 先生は稀に出す宿題であるレポートさえやって来れば単位はやる、と最初に話をした。それ故に他の講義に比べて結構自由なのである。 だから全体から見ればこの二人の近すぎる距離など問題ない。ピンポイントで見ればかなり怪しいと思うが。

「いくら他人に聞かれないようにするためだからって……ちょっとおかしくないか?」
「そんなことないわよ。それに今は考えることが違うでしょ? キーワードは『天使』よ?」

 必死の明彦の抵抗もなんなく制圧される。異性との距離が短いことに関して、明彦は恥ずかしがったりはしない。 見知らぬ異性とでも普通に話せてしまう明彦がいつになくギクシャクしている理由は、接近戦の相手があかりだからである。 昨日戦った(?)清香との戦跡は無言というプレッシャーに堪えられなかったわけであって、いつも通りの会話を交わすなら何の問題も無く普通に喋れる。
 しかし、相手があかりだとその普通の会話すらままならなくなってしまう。あかりの嬉しそうな顔を真っ直ぐ見ることが出来ない。 それはあかりが明彦にとって特別な人である、という証拠でもある。好きな人の前になるとうまく喋れなかったりする人がよくいる。明彦もそれに似た人種なのである。意外な弱点があったものだ。
 明彦のすぐ隣には嬉しそうな表情をして紙にいろいろ書きながら話している。そんなあかりを見て明彦は思う。
「やっぱりあかりはあかりなんだな」
 思わず口に出してしまう。
「ふぇ? 何か言った?」
「いや、何でもない」
 聞かれそうになった。内心明彦はホッとしていた。今のを聞かれていたら対あかりのマイナスファクターを増やしていたところだ。 でも心の隅っこでは聞かれても良かったかなと思うところがあったり。
 一方であかりは明彦のそんなところも知っていたりする訳で、たまにではあるが、わざと明彦を困らせるようなことをしたりもする。 その時の明彦の焦ったり照れたりするのを見るのが好きだったりする。だから自然と嬉しくなる。そうすると明彦がまた別の反応を示し、それに対しあかりがまた笑う。 ある意味、無限永久連鎖平衡機関になっている。分かりやすく言うと無限ループというヤツだ。でも、だからこそ二人はうまくいっているのかもしれない。







 遠巻きから見れば仲の良いカップルに見える。彼は選択講義そっちのけでその二人を見ていた。 二人の居るところから見れば、彼の居る場所は左斜め後ろで窓際の席だった。講義の先生からは見えにくい位置だが、こちらからは良く見える。 一番後ろという訳ではないが、部屋の中を広く見渡せる。でも彼の眼中には、まるで寄り添ってるかのような二人の男女の姿しかなかった。
「神倉明彦……母親はおらず、マンションで一人暮らし。自己流だが、小さい頃から剣術と格闘術を学んでいて戦闘力は中の上。運動神経、反射神経も悪くない。 頭の方も成績は良く、判断力、行動力共にあり。それは過去の地上4階からの落下に対し軽症で済ませたことが物語っている。 性格は冷静沈着で責任感がある、か……。ふむ……これだけステータスが揃っているヤツはそう滅多にいないだろうな」
 手元にある資料を見ながら感想を漏らす。
「フン。彼女が好きになるのも分からなくはないな。だが……だが納得がいかない」
 持っていた資料を雑に鞄の中へとしまう。閉まった手で鞄の中からあるものを取り出した。
 それは拳銃……。名前を『コルトダブルイーグル』という。彼はマガジンを出し、弾が入っていないことを確認した。そう……入っていないことを。
「肉弾戦じゃあ敵わないだろうなぁ。……でも俺にはそれを可能にする『力』がある。 神倉明彦……ヤツ自身に恨みは無い、とは言い切れないが邪魔なのは間違いない。欲しいものは力ずくで手に入れろ、か……。そうだな。そのための『力』なんだ……!」
彼は弾の入っていない拳銃『コルトダブルイーグル』を握り締めた。弾が入っていない。そう、この拳銃に弾はいらない。そういう風に彼がした。これが彼の望み……。
「穂村あかり、か……」
 口元を歪ませながら彼はそう呟くと、ゆっくりと拳銃を……拳銃を持った左腕を真上に上げると、何のためらいも無くトリガーを引いた。



目次に戻る第九話へ第十一話へ

Copyright 黒翼 All Rights Reserved.