第二話
〜異変/不可視の夢〜



<午後1時半>
 それはとあるマンションの一室で起きた。
 リビングとは違ういわゆる個人の部屋で、部屋の中央に置いてある小さなテーブルに向かっている女性がいる。 見た目、そう年はいっていない。二十代前半といったところだろう。 ノートパソコンと睨めっこしながら文句を言う。
「はぁ、期限が明日までなんて……無茶言ってくれるわね」
 少し不機嫌になりつつも、キーボードを叩く指は絶えず動いている。 手元を見ずにキーボードを叩いていく。ブラインドタッチというやつだ。 彼女はノートパソコンに夢中になっている。故に気付かない。 彼女の背後にはどこから入ってきたのか、それとも始めからそこに居たのか、別の女性が立っていた。
 彼女はキーボードを叩く指を止め、う〜ん、と伸びをした。
「ふぅ、あとちょっとか……このぶんなら間に合いそう……?」
 彼女はふと思った。ノートパソコンのモニターに影が落ちている。 影の大きさから見て、座っている自分のものでは無いと気付く。
「え?」
 彼女はゆっくりと振り返る。それと同時に背後から声が聞こえた。その声はとても優しかった。
「悪いけど、あなたには狼煙になってもらうわ……」






<午後1時32分>
 悲鳴が聞こえる。
 長くは続かず一瞬でかき消されたソレは、彼が行動を起こすのに十分な理由になった。 瞬間的にしか聞こえなかったが、声の大きさ、聞こえた方向から言って自分の部屋の上に違いない。 喚起のため窓を開けといたのが功をなした。 彼はなりふり構わず部屋を飛び出した。 彼には聞こえた。一瞬でかき消された悲鳴以外の言葉が。

 ──明彦、おいで……、と。

 その声はとても優しく、そして聞き覚えのある声だった……。






<午後1時34分>
 部屋の扉を開けた途端、明彦は叫ばずにはいられなかった。
 部屋の中央にはあかりが立っていた。そして隣には見知らぬ女性が血まみれで倒れている。
「何やってんだ、あかり! 答えろ! 何やったんだ!」
「……ごめんね、明彦。我慢出来なかったの」
 明彦は即座に状況を理解してしまった。血まみれで倒れている女性、そしてその部屋にいるあかり。 倒れている女性は微動だにしない。恐らくもう息をしていないだろう。さらに言うなら先のあかりの言葉。 そんな状況から導き出された答えは一つしかない。

 ──あかりがこの家(部屋)に入り、女性を殺した。

「何わけの分かんねえこと言ってんだよ!」
「フフッ、大丈夫よ、慌てなくても。ちゃんと明彦も食べてあげるから」
 すでに会話として成り立っていなかった。
「どうしちまったんだよ、あかり!」
「どうしちまった? 別にどこも変わってないわよ。私は正真正銘、穂村あかりよ?」
 明らかにあかりらしからぬ言動である。あかりは明彦の方を向いたまま後ろへ下がった。 一瞬微笑んだかと思うと、あかりはそのままベランダから飛び降りた。
「なっ!? ここは五階だぞ!」
 驚きの声を上げ、明彦はベランダに駆け寄った。常人ならまず助からない。
 だが、明彦の目に映ったのは空に浮いているあかりの姿だった。 あかりの背中には翼が生えていた。真っ白な翼が。 明彦は、驚愕の表情であかりを見ていた。人間に翼が生えるなど有り得ない。 だが今、目の前にいる恋人には翼が生えている。そしてその恋人が口を開いた。
「安心して、明彦」
 その口から出た言葉は意外なものだった。しかし、それも一瞬にして終わった。
「明彦を殺していいのは私だけだから。アハッ! アハハッ、アハハハハッ!」
 不敵な笑みを浮かべ、あかりは踵を返し空の彼方へと消えていった。
 明彦の頭の中は混乱していた。 部屋の中にはあかりがいた。血まみれの女性もいた。倒れていたが。そしてあかりの言動。さらに背中には純白の翼が生えていた。

「俺を……殺していいのは……あかり……だけ? どういう……ことだよ。わけわかんねえよ。あ…かり……あかりーーー!!」

 明彦の声はあかりには届かず、ただ空に虚しく響いた。






<午後1時37分>
 呆然と立ち尽くし、極度の混乱に陥っていた明彦を現実に戻したのは酷い頭痛だった。
「な…んで、こんな……とき…に……」
 それはいつもとは桁違いの破壊力を持っていた。堪らず明彦は頭を抱え、その場に屈した。
「くっ…そ。何て痛さ……だよ。かっ、はぁ。ぐぅ……ハァハァ」
 呼吸が荒くなる。しだいに心臓の音が耳に響き始めた。
「ハァ、ハァ。体が……熱…い? 何が…ハァハァ…どうなって…ハァハァ…いるんだ」
 全身が熱く、火照るような、胸焼けのような感覚に襲われる。呼吸がさらに荒くなり、鼓動が響く。
「うっ……急に眩暈が。ちく…しょう……、あ…か……り……」






 ……………。

 夢を見ていた。
 それはとても不思議な夢……。
 それはとても不可解な夢……。
 そこは全ての始まりの場所……。
 そして終わりでもある場所……。

「どうしたの? そんな不思議そうな顔して」
 一人の少女が話しかける。
「ん? いや、別に」
 一人の青年が答える。
「もしかして私と一緒じゃ嫌、とか?」
 少女の顔が不安げな表情になる。
「そうじゃなくてさ、珍しいなと思ってよ」
 少し困った顔で青年は答えた。
「珍しい?」
 青年の返答に対し、不思議そうな表情で少女が青年の顔を覗き込む。
「瀬奈が俺を誘うなんてよ」
「そうかな? 私は良くアキヒコとお話してると思うけど……」
「そういうことじゃ……まぁいいか。それよか俺と一緒に居ていいのか?」
「どうして?」
 少女が再び不思議そうな表情をする。
「だってよ、俺は……」
「ストップ! それ以上は無し、だよ」
 青年が言いかけた言葉を少女は制した。
「けどさ……」
「周りは関係無いよ。私がどう思っているか、だよ」
「……そうだったな」
 青年が頭を掻きながらそう答えると、少女が満面の笑みを浮かべた。

 教会らしき建物、中は綺麗に舗装されていて壁の約6割えを占めているステンドグラスが美しい。 その教会の庭、青年と少女が大きな樹によっかかりながら話を交わしている。

「私も『力』が欲しかったな」
 不意に暗い表情になる。
「『力』? 俺みたいな、か?」
「うん」
「お前だって持ってるじゃないか。立派な『力』を」
 青年がそう言うと、少女はその『力』を解放した。少女の背中に純白の翼が現れた。
「そうだね。……でも、この『翼の力』じゃ誰も救えない……」
 少女の表情が一段と暗くなる。
「いずれその『翼』が必要になるときがくる。まっ、来ない方がいいけどな」
「……うん」
「お前が俺の『力』を持ってないように、俺はお前の『力』を持ってない。だから互いに助け合うために一緒にいるんだろ?」
「うん!」
 少女の表情が元の笑顔に戻った。

 ……………。

 それはとても不思議な夢……。
 夢に出てきた青年と少女は、何だか他人でない気がして……。
 それはとても不可解な夢……。

 ……………。






「うっ……くっ…」
 明彦は目を覚ました。いや、気絶から直ったという表現の方が正しい。
「ここは……? ! そうだ、あかりが……翼を生やして……翼?」
 不意に足元に一枚の真っ赤な羽が落ちている事に気付いた。
「これは……この間、大学で拾ったやつか? あかりの翼は確か白だった……」
 明彦は真っ赤な羽を拾い上げた。そして何も考えずにポケットにしまった。
「あかりを追わないと……」
 明彦は傍で倒れている女性に押入れにあったシーツを優しく被せ、急ぎ足でその部屋を出た。



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