第一話
〜行間/主人公登場〜



 ……朝。
柔らかい日差しがカーテン越しに窓から差し込んでいる。ベッドの上では私服姿の男性が寝息を立てていた。 外見から十八、九といった所だろう。彼の頭上では、起きろと言わんばかりに目覚ましが鳴っていた。時刻は八時十分を指している。 目覚まし時計は五分ほど前から鳴っていたが、一向に彼が起きる気配はない。
 と、ふいにドアの開く音がした。玄関からだ。
「明彦〜!」
 音だけでなく、同時に声も聞こえてきた。甲高い声からして女性であることが窺える。
「これだけ目覚ましが鳴っても起きないなんて、どういう神経してるんだか」
 玄関から無断で入ってきた女性が文句を言っている。愚痴を溢しながらもあるひとつの部屋へ向かい、その部屋のドアの前に立った。 ドアには可愛らしい文字で『明彦のお部屋♪』と書かれたプレートが掛かっていた。明らかに男性が書いた字ではない。
 そのドアの先から目覚ましの音が聞こえてくる。 彼女はため息をつきながらそのドアを開けた。それとほぼ同時に目覚ましの音が消えた。どうやら起きたようだ。
「……悪いな、あかり。ちょっと寝過ごした」
「また二度寝? 一体夜何時に寝てるのよ。いい加減言い訳も出来なくなってきたんじゃない?」
 表情は呆れている。まぁ当然である。また、という言葉からも分かるように、明彦の二度寝は今に始まったことではないからだ。 だからといって、決して夜遅くに寝るというわけでもない。寝るのが好きだといえばあながち外れてはいない。 ボーッとしていると気付いたら眠っていたという感じが多い。
 顔を洗い終えた明彦が洗面所から戻ってきた。
「別に言い訳なんてしてないだろう? これでも悪いと思ってるんだからさ。それにまだ遅刻するような時間じゃないだろ」
「まぁ……そうだけどね」
 あかりが納得したところを見ると、明彦は簡単な準備を始めた。

 明彦が二度寝をし始めた頃からこの二人の間のやりとりは日課になっていた。 明彦は『別に起こしに来なくてもいい』と言っているが、あかりが『ほっとくと昼頃まで寝ていそうで怖い』と主張して毎朝様子を見に来ていた。 実際どちらかというと明彦の方が正しく、あかりが来ない日でも遅刻の類は一切していなかった。

 準備を終えた所で、二人は明彦の家を出た。
「……ところで、遥さんは一緒じゃないのか?」
 エレベーターに差し掛かった所で明彦が話を切り出した。
「朝練があるから先に行くって」
「そっか。遥さんも大変だな」
「最近朝練ばっかりだしね。でもいいんじゃない? 好きでサークル入ってるんだから」
「それもそうだな。そういや、何であかりはサークルは入らなかったんだ? 剣道やってたんだろ? 中学の頃から」
「うん、そうなんだけどね。何か高校の辺りから飽きちゃったかなぁ、なんて」
 二人はエレベーターを出てエントランスを通った。
 郵便受けの中のものは、大体あかりが明彦の家に来るときに持ってきてくれるので、明彦はチェックをする必要がなかった。 あかりは何気に細かいところまで良く見ている。別段、明彦が頼んだわけではなく、あかりが自分で勝手にやっていた。 もしここで明彦が『別にそんなとこまで気を使わなくていいぞ』なんて言った日にはあかりに逆切れされてしまう。 『私が好きでやってるんだから関係無いでしょ?』と。実際明彦のことなんだからあかりがやる必要はないのだが。 そんなあかりの性格を知ってか、明彦は何も言わなかった。






 さて遅くなったが自己紹介。
 神倉明彦(かぐら あきひこ)と穂村あかり(ほむら あかり)は、現在同じ大学に通っている。 高校の時に知り合い、ここでは省略させてもらうが何だかんだで付き合い始めた。いつも冷静な明彦とは対称なあかりの大雑把な性格が合ったのだろう。 明彦は冷静と言いつつもたまに熱くなったりする。正義感が強いというわけではないが、責任感は人並み以上ではあった。 あかりも大雑把と言いつつも妙な所で細かかったり、意外と世話好きな一面も持っていた。人の性格は一概に一言では表せないということだ。
 遥さんというのは明彦の幼馴染で、本名は相沢遥(あいざわ はるか)。大学一年の明彦やあかりより二歳年上である。 年上といっても、あかりはため口をきいている。遥もそっちの方が気が楽になると言っていた。三人とも高校は一緒だった。
 明彦は現在マンションで一人暮らしをしている。 実家は別にあるのだが、昔ある事件をキッカケに母親と二人で今住んでいるマンションに引っ越してきたのだ。 その母親も明彦が中学の時に他界した。 その事実(昔あった事件)は明彦は誰にも教えていない。彼女であるあかりにさえも。 ただ他人に知られたくないということもさながら、余計な心配を掛けたくないという気持ちの方が大きかった。 それが神倉明彦という人物なのである。






 大学に着いた明彦とあかりを出迎えたのは遥だった。
「おはよう、明彦にあかり。今日は随分ゆっくりね」
「おはよ。明彦が時間いっぱいまで寝てるからさぁ」
「相変わらずね。時間にルーズな人は嫌われやすいわよ?」
「忠告、ありがたく受け取っておきますよ」
 三人は同時に笑った。
「遥はこっちでいいの? 六号館じゃなかったっけ?」
「えっ、あっ! 通り過ぎちゃった。それじゃあ二人ともまたね」
「またね」
「それじゃ」
 明彦とあかりの二人が、今来た道を戻る遥を見送った。
「さて、そろそろ二号館も見えてくるかな」
「……………」
「どうせなら明彦と同じ学部にすればよかったなぁ。そう思わない?」
 振り向いた先で明彦が、頭痛らしく頭を抱えていた。
「明彦、大丈夫!?」
「……あ、あぁ。平気だ。心配すんな」
 抱えていた手を元に戻す。ついでにあかりが顔を覗いてくる。
「本当?」
「あぁ、最近ってか小さい頃からたまになるんだけど……。まぁ一時的なものだし、軽い貧血かなんかだろう」
「そう、それならいいんだけど」
 などと話しているうちに二号館の案内板が見えてきた。
「私、こっちだから。またね、明彦」
「ああ」
 陽気に手を振ってあかりが二号館へと向かっていった。
 明彦が向かっているのは一号館。この大学は基本的に専攻している学科で授業を受ける館が異なっていた。
理系が一号館から四号館までで残り七号館までが文系である。 さらに言うと、一号館は工学と情報学、二号館は理学と農学、三号館は医学と薬学、四号館は教育学と教養学の理系。 五号館は文学、六号館は経済学、七号館は法学の文系といった感じに分かれている。 大学院もあるところから、それなりに偏差値が高い大学であることが伺える。 ちなみに明彦の家から徒歩で二十分程度の所に位置している。






 七月の照りつける様な陽光に背中を押され、明彦は一人講堂内へと入っていった。
 知人たちがいつものように声をかけてくる。
 いつもと変わらない日常。どこにでも居るようなただの学生たち。
 誰もが『いつも通り』だということを信じて疑わない。
 日常なんてものはささいなことから一気に崩れていくものである。
 ずっと続くと思っていた日常。
 いつも通りの朝、昼、そして夜。
 一つでも何かが変われば、それはもう『いつも通り』ではない。
 いや、すでに『いつも通り』ではないのかもしれない。
 ただ、誰もがそのことに気付いていないだけで。

 ふと、一枚の真っ赤な羽が足元に落ちた……。
「何だ? これ」
 明彦はかがんで羽を拾い上げる。
「赤い羽根……共同募金? そんなわけないか。折角だし、貰っておくか」
 赤い羽をズボンのポケットにしまう。
 ポケットにしまった羽が、淡い光を放っていることに明彦は気付かなかった。



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