最初は何の変哲もない、いつも通りの授業だった。
 ホームルーム前に結乃と軽く話を交わして一時間目の授業。一時間目が終わったら休み時間。 仲の良い友人たちと話して次の授業が始まる。それが四回続いて昼休み。 そして五、六時間目が終わって部活、帰宅と当たり前の一日が過ぎるはずだった。
 授業中に内職している人もいれば寝ている人もいるし、すでにお昼ご飯のことや部活のこと、 さらには帰宅後のことすらも考えている人だっていたに違いない。 (さすがに一時間目の授業中から帰宅した後のことを考えている人はいないと思うが)
 そんな当たり前の一日。誰もが信じて疑わない日常。
 こんな言葉をいつだったか耳にしたことがある。
 『モノを壊すのは簡単だが、生み出すのはとても大変なことである』と。
 今となっては誰が言ったのかも、いつ聞いたのかも覚えていない。けど、一つだけ分かることがある。 その言葉は間違いじゃなかったということ。誰もが信じて疑わない当たり前の日常。この日常を生み出すのは大変なことだと思う。 決して一朝一夕なんかでは生み出せないと思う。そして壊すのは簡単だということも。
 だって、こんなにも簡単に壊れてしまうのだから……。






第十二話
インターセクション




 授業の内容や教壇に立つ教師の話は、正直どうでも良かった。だからと言って、不真面目というわけではないことだけは言っておこう。
 勉強は嫌いじゃないし、何かを学ぶということは私にとって、むしろ「楽しい」という部類に入る。 それなのに今日に限っては授業を聞く気になれなかった。 自信満々にそうだとは言い切れないけど、何となく理由は分かっていた。 ホームルーム前に話した結乃との会話が原因だということは分かっていた。
 でも……でも、何でそれが気になってしょうがないのか、それが分からなかった。 思い出してみても特に変わった内容ではなく、どこででも耳に入ってきそうな話だった。 ただ、結乃の好きな人について話していただけだったのに……。


 黒板に次々と書かれていく文字の集合体を見ているようで見ていなかった。
 視線はどこか虚ろで、手に持ったシャープペンが動いていないことがそれを証明していた。 もちろん開いてある手元のノートには、キレイな横線が定期的に敷かれているだけで、文字らしきものは何も書かれていない。
 ふと顔を上げ、黒板の中央部分の上に掛けられている時計に目をやる。時刻は丁度九時半を指していた。
(授業が始まってからまだ半分かぁ……。いいかげん授業に集中しないと)
 気を入れなおしてノートに向かう。が、手に持ったシャープペンは書くにつれ執筆速度を低下させていき、一行書き終わるか終わらないかというところで止まってしまった。
(ダメ、集中出来ない……。でもそれなら……)
 それなら逆に一息入れればいい、と深呼吸をしたのち窓際の席の特権である外を眺める行為に移った。 が、太陽など見えるはずも無く、ただただそこに広がる薄暗い雲とそこから降りしきる雨粒を見ていると、むしろ考えたくないことの方が頭に浮かんでくる。
(何やってるんだろ、私……)
 はぁ、と軽くため息をつく。ここにきて清香は開き直ることにした。どんなことをして気を紛らわしても、それしか考えられないのなら、それについて徹底的に考えてやる、と。
 まずやったことは今朝の出来事を思い出すこと。そしてその出来事をノートに箇条書きにした。次に結乃との会話の内容。
(これが一番のカギなんだよね)
 さすがに一字一句間違いナシとまではいかなかったが、ほぼ思い出すことが出来たと言えよう。
 全ての情報を書き出したノートを改めて見る。姉の遥と同様、物事に対する論理的な考え方が得意な清香は、 その論理的思考の元で、会話していた時の自分の心境の変化とを照らし合わせ解答を導き出した。 ゆっくりと、そしてキレイに神倉明彦という文字列を丸で囲む。 その丸で囲まれた文字列を眺めながら、手に持ったシャープペンを口元へと持っていき二、三度、顎を突っついた。  どうも納得のいかない様子である。
 キーパーソンは神倉明彦。そんなことは分かっている。今しがた自分で出した答えなのだから。けど納得はいかない。 永森結乃が嬉しそうに神倉明彦の話をすることから、長森結乃が神倉明彦に好意を抱いていることは誰の目から見ても明らかである。 問題なのはその事象に対し私こと、相沢清香が「気になってしょうがない」ということである。 確かに神倉明彦という人物は信頼に値する。それに加え優しくもある。……姉である相沢遥の親友であるということも、少なからず無関係とは言えないが。 だがそれが「気になってしょうがない」という状態になる原因だとは思えない。
(じゃあどうして……?)
(この心が震えているこの感情は何?)
 無数の文字列を展開。各種のキーワードを元に、最も情報に近い言葉を抽出する。
(……嫉妬……?)




 相沢清香という人物はやや特殊である。
 どう特殊なのか? 超能力者、エスパーといった類ではなく考え方が、と言う意味で。
 人は人という一つの生物に分類されながら、現存する人数だけの種類がある。人はどこで差が生じるのか。 趣味、言動、服装といったいわゆる性格と、個人の考え方である。 例えば……誰でもいい。誰かと自分と、二人で会話をするという場面。普通なら自分を主としてその二人の会話という事象を認識する。 もちろん自分を主としているため、自分の感覚、自分の思考で相手の言いたいこと、伝えたいこと、主張──いわゆる言葉や感情──を受けとめる。 だが極稀にその反対が存在する。自分という媒体を持ちながら相手を主として事象を認識する。 先の場合もそうだが、ここで言う「認識」という言葉の意味は、本来のそれとは違うものを意味する。 事象を認識するまでの過程及び、認識した後の事象の捉え方、考え方だと思ってもらいたい。
 ──話を戻そう。相手を主とするということは、自分の考え方を優先順位第二位に置き、相手の考え方を第一位に置くことである。 つまり「誰かと自分の二人で話をする場面」という例を持ち上げて、難しく言えば誰かの思考を自分のそれと置換し誰か側から自分を、そして事象を認識するということ。 簡単に言えば誰かの気持ちになって話す。適確な表現とまではいかないが、ほぼ同じ様な意味である。
 ふむ……。この場合──相手を主として事象を認識する場合も十二分に特別だと言えよう。 しかし、当の清香はそのどちらにも属さない、第三種の認識を持っている。それは「自分」を第三者として自身と誰かの会話を主観ではなく、客観的に捉える認識。 相沢清香という人物が誰かと話している。それを遠巻きに見ている自分がいる。構図で考えるとこうなる。
 事象に関わる人数が三人になる。しかし自分自身はその事象に参加していない。不思議と言えば不思議。 矛盾しているとも言える。自身が会話をしているにもかかわらず、そこに自分はいない。 その上で自身と誰かの会話を認識する。これを特別と言わずして何と言うのだろうか。
 この特別な、自分を第三者に置き、事象を客観的な方向から見る認識を、彼女、相沢清香は他人とは違う考え方、普通とはちょっと違う考え方だということを理解していた。 だからこそ、今まで他人との衝突がなかったのかもしれない。清香とて、最初からこの認識を持っていたわけではない。 小さい頃に神倉明彦と出会ってしまったのが直接的な原因であり、もう少し大人……せめて中学生になってから出会っていればこんなことにはならなかったかもしれない。
 と、まぁこの辺りはまた別のお話。




 真面目に考え、今までの経験から導き出した答えといえど、それが必ずしも正解だとは限らない。 それは清香も十分に承知しているわけで。結局最後に信じることが出来るのは客観的認識でもなく相手を主とした認識でもなく、自分を主とした認識だと清香は考えていた。
(私が清香に嫉妬してる……?)
 頭の中の辞書を引っ張り出し、嫉妬という言葉の意味を再度確認する。それを元に考えてみても、清香には自分が結乃に対し嫉妬する原因は解らなかった。


(私は明彦さんのことをどう思ってるんだろう……)
 結乃の話を聞いてから何かおかしい。 今まで感じたことなくて、言葉じゃ表せられなくて……。 なんかこう……奥の方からゆっくりと熱く、ううん、温かくなっていく気持ち。
(これが好きっていう気持ち? これが誰かを好きになる感情?)
 左手を胸元まで持っていき添える。
 ……感じるのは心臓が血液を全身に送り出している鼓動。それとは別に、もう一つの鼓動を感じる。 心臓のような物理的な鼓動じゃなくて、全身で覆うように感じる精神的な鼓動。 その気持ちをもっと感じようと目をゆっくりと瞑る。が、ここで重要なことに気付く。
(私は……明彦さんのことが好きなの?)
 その問いかけには誰も答えない。誰も答えられない。その答えを知っているのは一人しかいないのだから。






 ポケットから携帯電話を取り出して、時間を確認する。
「あと20分ってところか……」
 ディスプレイに現れたデジタル時計は八時二十分を表示していた。周辺を見回すも、誰一人として視界には映らない。 この時間帯の図書館はただでさえ人が少ない上に、さらにその裏ときたもんだ。人がいないのも頷ける。 壁を背によっかかりながら軽く空を仰ぐ。手に持つ傘の端から見えてくるのは薄暗い雲と雨粒のみ。
「神沼さん」
 そこへ聞き覚えのある声が辺りに響き、神沼燈夜は手にした携帯電話をポケットに収めた。
「来たね。準備は……って準備もくそもないか」
 場違いだと思えるような白い傘を差してやってきた少女に向き直る。
「はいよ。これが穂村あかりと相沢清香、及び永森結乃とその周辺人物の資料」
 そう言いながら、雨粒に濡れるのもお構い無しに何枚かのレポート用紙を少女に手渡した。
「まぁ理由は訊かないけどね。こんな時間ぎりぎりじゃその資料、意味無くないか?」
 足元に置いてあるリュックを手に取り、背負う。いくら傘を差しているとはいえ、地面に置いてあったこのリッュクが濡れていないのには誰もが不思議がるだろう。 しかし、この2人にはそれ──濡れていないこと──が当たり前かのように話を続ける。
「いえ。元々意味の無いことですから」
 やわらかい声で少女が答えた。
「そうか。それじゃあ俺は行くわ。同じ講義室に入れないと意味がないからさ」
「はい……」
 少女の横を通り過ぎ、数メートル進んだ時点で燈夜は足を止めた。
「……不満そうだね」
「そ、そんなことないです」
 表情はほとんど変わらなかったが、口ぶりから慌てていることが窺えた。
「結局のところどっちが行っても変わらないんだけどさ。さすがに女子校生二人に対し野郎が出迎えってのはどうかな、と思ってさ。 それに資料によればその二人は同じクラスみたいだし。一番難しい年頃だけに異性より同姓の方がいいだろ。……君にとっても」
 肩越しに首だけ振り返りながら燈夜は言う。
「でも、それなら神沼さんにも同じことが言えるのではないでしょうか?」
「まったくもってその通りなんだが……穂村あかりの周辺人物の資料、見てみな」
 少女は手に持っていた何枚かのレポートから、見出しに『穂村あかり』と書いてある紙を一番上に持ってきた。
「一番上の奴。『神倉明彦』っての」
 言われたとおりに神倉明彦の項目に目を移す。リストに載っている人では無いにもかかわらず、事細かに情報が書き記されていた。
「……ランク、A……」
 少女の反応を見て、燈夜は笑みを浮かべた。
「そう、総合評価ランクAだ。しかも翼が無いにもかかわらず、だ。ターゲットの穂村あかりがBプラス。これがどういうことだか解るか?」
「……つまり、神倉明彦さんには穂村あかりさん以上の能力がある、ということですか?」
「穂村あかりの能力が判明していないため一概にそうだとは言い切れないが、ほぼ正解だと思って間違い無いだろう。 まぁ穂村あかりの能力次第ではBプラスがダブルAに化けたりする可能性もあるがな」
「だけど、それは翼があってのお話……」
「その通り。神倉明彦は翼を持っていないでAだ。昨日の大通りの天使を倒したのも神倉明彦だということが判明している。個人的にはターゲット本人よりも興味がある」
 首をかしげ、少し思案したのち少女が口を開いた。
「それが神沼さんがこちらを選んだ理由ですか?」
 その言葉を聞いた燈夜の顔から笑みが消えた。
「……痛いところをついてくるな」
「冗談です。それで、神倉さんも説得するつもりなんですか?」
「一応するだけしてみるが、無駄だろうな。恐らく戦いは避けられない」
 立ち並ぶ講堂の方へと一瞬だけ視線を向けると、少女の方に向き直った。
「そこでだ。ちょっと提案があるんだよ」


 目的の高校から比較的近いビルの屋上で、少女は数十分前のことを思い出していた。


「提案、ですか?」
「そうだ。恐らく真っ正直に向かってっても説得出来ない上に返り討ちにあうだけだと思うんだよ。周りに人がいたら能力は極力控えなくちゃいけないわけだし」
 燈夜はさらに続ける。
「提案ってのはここからでさ。……ターゲットを連れたまま一度合流しないか?」
「合流?」
「あぁ。見た感じから悪役っぽいじゃん? 俺って。だから俺が説得するより君が説得した方が有利なんじゃないかなと思ってさ。 とにかくどんな方法でもいいから連れ出す。説得するのはそれからだ」
「……私は別に構いませんけど、場所はどこにします?」
「ふむ、なるべく人目に付かない所が望ましいな。とりあえず時間が無いから俺は行く。連絡は後でするから」
「解りました。……気をつけて下さいね」
「そっちもな」
 ……………。


 回想を終え軽くため息をつきながら、少女は携帯電話のディスプレイに目を落とした。
「9時30分……」
 本当なら登校中のところで声を掛けることが出来れば最高だったのだが、惜しくもその時間帯はここまでの移動時間に使ってしまった。 仕掛ける時間は廊下や教室に他クラスの生徒が流出しない授業中がベターと判断した。 そこまで考えていても、実際に行動を起こすことにためらいを感じていた。
 少女の名は祈。皆瀬祈[みなせ いのり]という。ゆるやかに腰付近までなびくふんわりした長髪、 瞳は穏やかな光を浮かべている焦茶色、整った顔立ちに形のいい耳。 どこぞの学校の制服を着せれば、学校紹介のパンフレットにモデルとして載せたくなるような雰囲気を放っている。
 最近では主流になっている折りたたみ式の携帯電話を、静かにたたみスカートのポケットへと持っていく。 それと同時に、今朝燈夜から受け取ったレポート──彼女自身が折ったと一目で判る様なキレイに折りたたまれている──を逆側のポケットから取り出した。 ゆっくりと広げていくレポート用紙に書いてあるのは『相沢清香』と『永森結乃』の二人の情報。 粗末ながらも顔写真が貼られており、本人かどうかを確認するだけなら十分なレベルのシロモノだ。 他に、フルネーム、年齢、大よその身長、家族構成、簡単な過去経歴が書いてある。 プライバシーの侵害を恐れてか、現住所だけは書かれていない。 ここまで調べておいて今更プライバシーなんて矛盾しています、と祈は思っていた。
 顔写真を良く見た後、備考欄の最後に目をやる。総合評価……『相沢清香』Cプラス、『永森結乃』Cマイナス。 どちらも翼が具現していないので、妥当と言えば妥当な評価なのだろう。
 祈は数あるレポートの中から一枚のレポートを一番上に持ってきた。氏名欄には神倉明彦を書かれている。 穂村あかり、相沢清香、永森結乃の三人とは比較にならないほど事細かに経歴が調べてある。 しかしどれも信憑性は薄く、ほとんどが調査者の推測のような感じで文尾が閉じられていた。ということはつまり、
(誰かが意図的に記録を抹消していたということですか?)
 誰に聞くわけでもなく、自分の心に問いかける。もちろん答えなど出たりしないが。
 本来なら気にも留めないのだが、翼の具現が未発生のうえでランクがA、それに加え……いや、 それ以上に何より神倉明彦の顔写真を以前どこかで見たことがあるという記憶が祈の思考を停止させなかった。
 過去経歴をいくらか読み返したところでポケットの中から携帯電話を取り出し時刻を確認する。ディスプレイが映し出した時間は9時45分。
(そろそろ行かないと……)
 最後にもう一度だけ、相沢清香と永森結乃の顔写真を確認してから、最初と同じ様にキレイに折ってポケットに入れた。 逆側のポケットには携帯電話を。そして差していた白い傘を閉じた。 未だ空は雲が覆っており、雨も降っている。雨を遮断するものが無いのに……それなのに、祈は濡れなかった。 雨粒が祈に触れる直前に、何かが雨粒を弾いた。まるで彼女を護っているかのように……。
 目を瞑り深く深呼吸。深呼吸を終えたと同時に、祈の背中には彼女と同じくらいキレイな、そして真っ白な翼が展開されていた。 閉じていた目蓋をゆっくりと開く。開ききったところで、静かにビルの屋上から近くの高校に向けて飛び立った。




 祈がビルの屋上から飛び立ったのが午前9時47分。
 この時刻は、神沼燈夜が大学の講義室内において天井に向けて拳銃を放った時刻と一致する。
 そして、本格的に翼を囲む世界が動き出した時刻でもある。



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