(5)十代目豊竹若大夫をつぐ


 私は英大夫から嶋大夫、呂大夫を経て、昨年(昭和25年)暮の総会に、満場一致で若大夫襲名を認められたのですが、若大夫は竹本義大夫とならぶ家柄で、文楽の最右翼といえましょう。山城少掾も私が襲名のあいさつにまわると非常に喜んで、あんたが若大夫をついでくれたら、この上のことはないと病気の中をわざわざ玄関まで送って出られました。

 ここで文楽の役付のことをちょっと説明しましょう。役付は一番下が平人といい、これを20年くらいつとめます。次が中老で15年、古老で15年、その次に別格というミゾがあって、その上がやっと太夫格になります。ですから太夫格になるのは大変で、いま太夫格は山城少掾、住大夫、大隈大夫と私の4人きりです。

 人形浄るりが文楽といわれるようになったのは明治17年、当時松島にあった小屋が焼け、その座主上村文楽軒が、京町堀の御霊神社社内に小屋を建て御霊文楽と名乗ったのがはじまりでした。そのころの紋下は摂津大掾で、これに先々代津大夫、初代呂大夫がくつわをならべ、そとの芝居では堀江座、明楽座、近松座があり、三代目大隈大夫、二代目春子大夫、土佐大夫などの大ものが立てこもり、それぞれの芸を競い、また人形遣いでは、吉田玉蔵をはじめ、先代桐竹紋十郎、三味線では名人豊沢団平、五代目広助などキラ星のような壮観さ、ことに摂津大掾、津大夫、呂大夫は人形浄るりはじまって以来の名トリオといわれ、この三人そろうての忠臣蔵は長いときは72日ぶっつづけてなお大入り満員というありさまでした。下って関東大震災当時は三代目津大夫が紋下となり、伊賀越の沼津や吃又、義士銘々伝の「弥作鎌腹の段」などもてはやされました。私にとっては現在の紋下山城少掾をふくめ、四代の紋下のもとで修業のできたのは幸福この上もありません。心をすませばこの耳に、いまもって当時の一人一人の名人の声が聞こえてきます。この声のカン詰をしっかりと肚の中にしまっているのが、私のかけがえのない財産でしょう。

 永い修業のあとを振りかえると三十代では、なかなか芸はわかるものではありません。四十代になって少しずつわかってくる。私もやっと十年ほど前から、どうやら不安がなくなって、必要に応じていろいろな声を出す、いわゆる”約束の声”というのがごく最近出来るようになったと思います。現在は自分で言うのもおかしいけれど、腹帯一つしめたら覇気と迫力があふれてくるような気がします。

 芝居でも浄るりでも写実ということが一番尊重されます。しかし写実はある程度修業すればだれにもやれる。しかしほんとの芸術となると、写実だけでは靴の下から足のうらをかくような、物足りなさを感じます。すし屋の権太にしても、下品な、荒々しい言葉を使うただけでは権太らしうなりません。摂津大掾の語り口など見るとそれがよくわかります。語りすぎ、描きすぎは臭い芸で、ほんとの名人となると、いわゆる名人下手に近しで、技巧というものが影をひそめる。その代り1ぺんより2へん、2へんより3べんと聞けば聞く程味の出てくるクセのない芸となります。写実を超越した芸術--その境地にいたらねば本物ではありません。摂津大掾はよく弟子に「そんなに浄るりを語るな」と言われたものです。浄るりは文が語ってくれる。文がもともとよく出来ているのに、あまりコセコセ語ると文を殺す。そして作者に笑われるぞ。ただ文を読め、それだけでよい。というのが師匠のいましめでした。ただ読めと言われても読めるものではありませんが、浄るりを読めるようになったら、大したものです。

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