(5)十代目豊竹若大夫をつぐ(つづき)


 浄るりの文はほんとによくできています。こんな話があります。文楽であまり古いものばかりやっていてもしょうがないから、新作を頼んでみたらというので、菊池ェ先生がまだ御存命中に、先生にお願いしたことがあります。そしたら先生は言下に断られて、文楽に笑われるようなものは書きたくないよと言われました。

 浄るりは、どこまでも教えで、習うものではない。やる人が自分で、役を身につけねばいかんでしょう。私の体験でおもしろいことがあります。私がどうしてもうまく語れんところがある。どのように苦心しても語れん、というような場合、苦しむんですな。ところがそれが眠っていると案外すらすらと語れる。びっくりしてとび起きて、眠っているとき語ったとおりを語ってみる。そるするとうまく行くんです。それこそ夢のお告げというんでしょうが、私にはたびたびそんなことがあって、むずかしいところをこなしてゆきました。

 私にとって文楽はもちろん私の生命であります。太平洋戦争がきびしくなり、連日空襲がありましたが、私はついぞ文楽座を休みませんでした。死場所は高座でとひそかに念じていたのです。警報でお客さんがみんな待避しても、私はグッと見台を握って空襲の終るまで舞台を降りませんでした。この文楽座も終戦の年3月13日の空襲で灰になりました。けれども私は文楽復興の悲願に燃えています。阿波の浄るりどころに生まれたことからしても、再び文楽復興ののろしをあげるのを見て死にたいと思います。

 昔は文楽から阿波へ修業にきたものです。”修業は阿波で”というのが文楽の合言葉でありました。それほど阿波の浄るりは素人でも芸が確かで、聞く耳をもった人が多いわけです。こんどは久しぶりになつかしいふるさとの皆さんに、私の芸を聞いてもらえると思うと、少年時代の英大夫にかえったように、胸がわくわくしてきます。

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