(2)師匠に叱られれば嬉し涙


 私が正式に義太夫で身を立てようと決心したのは13歳のときでした。明治33年、五代野沢吉兵衛の門人で野澤吉之助という人が、事情あって文楽をひき、徳島へ来たので、この人にけいこをしてもらいました。当時、私と一緒にけいこをしていた人に本屋の黒崎の御主人静寿さん、貴族院議員になられた川真田市兵衛氏、中川夏月氏、先代井内太平氏などがありました。15歳のとき2代目呂大夫が地方巡業で徳島へ来たので吉之助の紹介で入門し、私の名前の頭文字をとって英大夫を名のり、呂大夫につれられて淡路やその他へ巡業に回りました。当時徳島には素玄を合わせて因会というのがあり、人格者の梅原楳司さんが会長で、豊沢団市さんの父町造氏や花沢市左衛門というような三味線の師匠があり、女義に豊竹三咲などがあって、立派な語り口を見せ、阿波浄るりの花らんまんというありさまでした。
 
 いま思い出してもおかしいのは当時会があると私がいちばん幼いものだから真っ先に語らせられる。私は吉之助に習った楠昔噺三段目のどんぶり子を得意で語ったものですが、それがとても評判で、金平糖屋の子の英大夫がおもしろい”じいばあ”をやるというのでヤンヤという騒ぎ、私のあとから出るはずの黒崎の御主人が、英大夫のあとをやるのはいやだといいだし、その次の人も英大夫のあとはごめんだとすねるようなことになりました。
 
 いまでこそ阿波浄るりは年寄りの聞きものになってしまいましたが、もう一度そのころのように盛んにならぬものでもありますまい。最近大阪ではだんだん義太夫が復興し、若い女義太夫がトップをきるようになり、師匠も15、6人います。東京では義太夫学校が昨年開かれ、女学校出で会社につとめているお嬢さん方が会社がひけてからどんどんけいこに来ているし、徳島でももっと若い人が趣味としてやるようになってほしいと思います。

 話がわき道へそれましたが、呂大夫について3年間地方巡業をしたのち、18歳のとき正式に呂大夫の内弟子となり、芸道修業の本格的な一歩をふみ出しました。そのころの大阪はなつかしい。雁治郎の芝居が朝9時に始まる。文楽はそれより早く5時開幕です。お客様は宵からべんとうをつくって、徹夜で芝居見物にゆくというのですからのんきな時世でした。

 ところがこちらはそれどころではない。5時には雨が降ろうと風が吹こうと小屋へ着いていなければなりません。そしてミス中に2人3人とならんで一口語りで交替するのです。ミス中というのはミスの中にいてお客様に顔を見せず一口ずつ語るのです。いま徳島でうなぎ屋をしている荒木さんが、めばゑ大夫と名のって、やはりこの仲間にいました。器用な語り口の人でしたが、身体が弱くてやめられたのは悔しかった。

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