(1)師匠がほめた親の道楽聞き覚え

 
 私はいまでこそこんなに肥っていますが、これでもスポーツが好きでしてね、48、9歳のころには文楽野球チームのキャッチャーもやったもんですよ。ところがある日、球を受け損じて怪我をした。どうもおかしい、てんで球が見えなかったが・・・・というので医者に見てもらうと、目が悪かったんですね。鳥目・・つまり先天的夜盲症だと医者はいうのです。その前後からずっと目は不自由になって、いまでは家内についてもらわねば外出もままになりませんが、若いころ精根を打ちこんで芸を覚えたおかげで、本を見なくても1時間や2時間かかる大物を一言も間違いなく語ることが出来ます。もっとも語っているうちに、ちょっとでも気がゆるんだらあきまへん。
 
 スポーツの話のついでに私はマラソンの村社さんに、えらい勉強をさしてもらいました。村社さんの走ってなさるところを、甲子園で拝見しましたが、村社さんは初めの一周を全力で走りなさる。そうすると心臓が思いきり苦しくなるわけですな、ところがその心臓が苦しいという峠をこえると、あとは楽に走ることができるようです。それが村社さんの本にもそんなことを書いていられました。そうして、ほかの選手がゴールでヘトヘトになっているのに、村社さんはゆうゆうとしていられる。立派ですな。あの姿を見て私は感心しましたね。そして考えました。村社流を浄るりに生かす道はないかと、そして思いついたのが、浄るりで初めの3分の1を精一杯に語るということです。そうするとあとの3分の2はひとりでに語れる理くつです。そこでやってみましたが、非常によろしい。あとの3分の2は実になめらかに、楽に語れるのです。私はいまでもこの方法でやっています。
 
 芸道修業の話・・・・・弱りましたな、私は口が下手なもんで・・・・・まあ適当に聞いてもろうてご参考になれば結構ですが、私の生まれたのは出来島で、父は林友太、母はしげといいます。7人兄妹で私は4男坊、父は私が21のとき64歳で亡くなりましたが、この父が非常な義太夫好きで、青柳という名で浄るりをやり、また素人相撲もとるという変わった人でした。私が8ツの時でした。父が雇うて離れに住まわせていた三味線ひきのお師匠さんが、「ボン、あんた義太夫を語ってみなはらんか」というのです。子供のことで遠慮もないから、さっそくやろうというのでおもしろいことに、小さいもんやから、こたつの上へ上って語りました。毎晩父の習う浄るりを、子供心におぼえていたらしゅうおまんな。忘れもせぬ金比羅利生記の増補物の百度平(ずんどべえ)でこの里に晴ぐもり、という語り出しです。ところが聞いていた師匠がびっくりしました。おもしろい、ボン、義太夫語りになんなはれ、というてそれから毎日教えてくれる。9ツのとき家で会が開かれ、私は彦山権現の毛谷村六助の段をやりました。それがまたよくできたというので、みんなからほめられるうれしさに、夢中でけいこをしました。
                                          
             

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