日本一周第1回「いい日旅立ち」 |
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6日目「みちのくひとり旅〜岩手県・ 青森県〜」 | |||
2006年7月1日(土) |
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◆五百羅漢・卯子酉様 | |||
宿の近くに五百羅漢があるというので、まず最初にそこへ出かけた。
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愛宕神社の境内からわき道にそれ、山道を登る。朝露に濡れた草を踏み、蜘蛛の巣をかきわけ、登ること5分。五百羅漢にたどり着いた。 |
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説明書きによると、江戸時代は今より平均気温が3度も低く、この地もしばしば凶作に見舞われたという。1755,6(宝暦5,6)年、1765(明和2)年などの大飢饉では、遠野でも数千人もの死者を出した。大慈寺十九代の義山和尚は、被害者の追悼のために、1765年から数年がかりで天然の花崗岩に羅漢像を刻みつけた という。 |
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五百羅漢の入り口には山門仁王像が立つ。苔むしてはいるが、何とか像らしきものが掘ってあることがわかる。仁王様が口を開けて笑っているようにも見える。 |
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しかし、肝心の羅漢像が見あたらない。「五百」とあるのだから、さぞかし見ごたえのある壮観なものを期待していたのだが、どこにあるのやら。そう思って荷物を置いた石に、窪みのあることに気づいた。どうやら、その辺にあるなんてことのないような石が実は羅漢像であったようなのだ。もともと天然の花崗岩に彫ったものである上に、250年もの 間の風化と苔とで、見分けるのが困難になっている。下手をすると、ここに来るまでにいくつか羅漢様を足蹴にしてしまったかもしれない。 よく探すと、はっきりとわかるものもいくつかあった。 |
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五百羅漢の一つ かろうじて像らしきものが見えないだろうか?
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次に愛宕神社のほうにも行ってみた。愛宕神社の祭神は伊邪那美命(イザナミノミコト)と迦具土命(カグツチノミコト)。迦具土命は火の神で、伊邪那美命の子であるが、母は彼を産んだがためにホト(女陰)を焼かれて死んでしまう。というわけで、迦具土命は防火の神様として、遠野の町を鎮護している。 「遠野物語拾遺」64話によると、ある時火事があった際に、大徳院の和尚が、手桶の水を小さな柄杓で汲んでかけ、火を消し止めたということがあった。しかし、翌日人々が大徳院にお礼を言いに行くと、誰一人そのことを知らない。そこで、愛宕様が和尚の姿になって火を消し止めたのが分かったそうである。
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愛宕神社本殿 |
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愛宕神社のすぐ脇には卯子酉様(うねどりさま)がある。 江戸時代に遠野の商人・港屋平兵衛が、普代村鳥居の卯子酉明神を勧請して創建したと伝えられる縁結びの神である。 |
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「遠野物語拾遺」35話によると、かつてここは大きな淵で、その淵の主に願をかけると男女の縁が結ばれたのだそうだ。見るとそこいらじゅうに赤い布が結びつけられているではないか。何でも赤い布を左手だけで木に結びつけられば、願いがかなうとのこと。 もちろん僕自身でもやってみた。願い事はヒミツだけどね。 |
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これらの近くには「法華題目の碑」があった。1846(弘化3)年に日蓮宗総本山久遠寺64代日伸上人の筆で建てられたもの。 |
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◆伝承園 | |||
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遠野の観光地は、それこそ町中に散らばっている。そこで、遠野駅前のレンタサイクルを利用して回ることにした。それでもいくつかは回ることができなかった。また来る時の楽しみと思って取っておけばいいだろう。 |
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駅前からチャリで20分。伝承園へやってきた。さすがは河童の町。建物の前には「安全太郎」という交通安全の守り神が飾ってあったが、これもやっぱり巨大な河童であった。 |
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伝承園は昔の農家を再現したもの。もともとは菊池家の住宅で、現在は重要文化財に指定されている。 どうして民話が何百年にも渡って語り継がれて来たのか、その理由を考えてみた。それは、家族の団らんというものがあったからではないか。今みたいにテレビが無かった時代、年寄りから子供までが囲炉裏を囲んで話をする…。それが大切だったの だろう。そんな光景の絶えてしまった現代、年寄りから昔話を聞くこともなくなった。将来、民話が伝わらなくなったとしても、しかたがないのかもしれない。 |
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伝承園の農家は「南部曲り家」形式で建てられたもの。曲り家とは、厩(うまや)と民家が同居した形式のもので、この当時の東北地方によく見られたスタイルである。 |
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家の中にはもちろん囲炉裏もあり、古い調度品が展示してある。かつてはここで、昔話が語られたのであろう。今でも、予約をすれば語り部を囲んで昔話を聞くことができるそうである。 |
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ちなみに厩のほうには現在馬はおらず、代わりに蚕が飼ってあった。工芸館では、機織りの実演も行われているそうだ。
曲り家と廊下でつながられた小さな小屋は「御蚕神堂(おしらどう)」といい、「おしら様」という神様を祀っている。部屋の真ん中に大きな柱が立っているが、これがご神体。そして、約1尺(30センチ)の棒に衣を着せたものが「おしら様」で部屋の中には千体近く飾られている。 |
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さて、遠野の町を有名にした「遠野物語」。これは、民俗学者の柳田国男(1875〜1962)が、遠野出身の佐々木喜善(佐々木鏡石/1886〜1933)の語る昔話を収録したものである。伝承園には、佐々木の生涯を紹介した記念館もある。 |
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佐々木喜善之碑 |
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◆カッパ淵 | |||
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遠野のシンボルは河童。「遠野物語」にも、河童をめぐるエピソードが数々収められており、いかにこの町の人と河童のつながりが深かったがわかる。それどころか、昭和に入ってからさえ河童の目撃談があるという。すでに、いくつか写真を紹介した通り、町のあちらこちらに河童像が立っている。 郵便ポストの上にもいたし、河童のキャラクター・カリンちゃんなんてものもいるらしい。 |
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河童のいる郵便ポスト |
河童のカリンちゃん |
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この常堅寺の境内にある狛犬。「カッパこま犬」という変わった形のもの。頭のところに雨水がたまるようになっている。説明書きによると、馬を川に引き込もうとして失敗した河童が、おわびをして許され守り神になったものだとか。「遠野物語」58話にも同様の話が載っている。後に常堅寺が火事の際には頭の皿から水を噴出して火を消し止めた そうである。 |
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河童の住処を訪ねよう。常堅寺のほとりの池が「カッパ淵」。澄んだ水で趣きのある場所。確かにここなら河童が住んでいた、いや今も住んでいるとしても不思議ではない。 |
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出てこないかな、としばらく眺めていたが、あいにく今日はお留守のようで会えなかった。残念。 |
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◆とおの昔話村・遠野市立博物館・遠野城下町博物館 | |||
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遠野には博物館もいろいろある。その一つ「とおの昔話村」を訪ねた。 メインの建物は、旧高善旅館を移築した「柳翁宿(りゅうおうじゅく)」。明治から昭和にかけての遠野を代表する旅籠屋として知られ、柳田国男が泊まったという客間も残されている。この旅館には柳田の他にも、折口信夫(1887〜1953)や金田一京助(1882〜1971)、ニコライ・ネフスキー(1892〜1937)といった民俗学者や言語学者も宿泊しているそうだ。 |
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柳翁宿が移築される以前は、ここには作り酒屋があったそうで、現在でも蔵が残っている。そこは「物語蔵」という展示室になっている。そうとうに大きな蔵である。いろいろな昔話を切り絵やイラストでヴィジュアル的に楽しむことができる。 |
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さらに、「柳田国男隠居所」という建物もあった。柳田国男が晩年を過ごした東京・成城の家を移築したもの。 |
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柳田の書斎も残されている。晩年の家と言うことは、「遠野物語」が書かれた部屋ではないのだろう…。 |
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「とおの昔話村」の前には柳田国男の像が建っていた。 やはりこの遠野にしてみれば、柳田の存在は大きいのだろう。遠野を訪ねる人の多くは「遠野物語」を読んでいるのだろうし、だからこそ僕もここにやってきたのだから。 |
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この後、遠野の町をぶらぶらしていたら、「高善旅館跡」の碑を見つけた。柳翁宿の前身である旧高善旅館がもともとあった場所らしい。 |
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続いて、遠野市立博物館へ。 この博物館はテーマが「遠野物語の世界」「遠野の自然とくらし」「遠野の民俗学」ということで、やはり「遠野物語」が大きなウェイトをしめている。 |
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「遠野物語」の原稿を展示してある他、「物語蔵」同様に、「遠野物語」の世界を再現したジオラマが展示してある。 |
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最後に「遠野城下町資料館」へ行った。 「とおの昔話村」「遠野市立博物館」とチケットは共通で一般520円、高校生310円、小中学生210円になっている。
遠野は「遠野物語」ばかりがクローズアップされているようにも感じるのだが、江戸時代には南部氏治める盛岡藩の要衝の地として栄えている。この城下町資料館はその城下町の遠野にまつわる展示物をおさめたこじんまりとした資料館である。 |
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◆鍋倉公園 | |||
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その盛岡藩時代、遠野は藩主南部氏の一族で盛岡藩筆頭家老のいわゆる遠野南部氏が支配していた。その遠野南部氏の居城・鍋倉城址が鍋倉公園にあり、城下町時代の面影を今に伝えている。 |
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その鍋倉公園のふもとにあるのが南部神社(鍋倉神社)。南部氏の一族が神として祀られている。 |
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そろそろお腹もすいてきたし、頃合もいいので、次の目的地へ移ろう。自転車を返し、駅前の観光案内で郷土料理の店を聞いた。 「一力」という店に入る。 まずはにごり酒「どべっこ」を飲む。 |
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遠野の名物料理は「ひっつみ」とのことである。これはようするに“すいとん”。 |
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デザートには「けいらん」を。これは饅頭にお湯をかけたもので、お汁粉みたいな味わいだった。 |
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〈青森〉 |
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遠野からさらに東北を北上した。新幹線「こまち」と「はやて」に乗り継いだばかりか、特急スーパー白鳥にまで乗る。ぜいたくな気もするが、何しろ先を急ぐ。時間にはかえられない。 途中盛岡で地ビールを購入。そうしているうちにいよいよ本州最北端の青森県へ到着した。 |
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◆八甲田丸 | |||
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宿に入る前に、青森港に係留されている旧青函連絡船「八甲田丸」に乗ってきた。 青函連絡船は現在船の科学館に展示されている羊蹄丸(ようていまる)にも乗ったことがあるが、やはり風情があったように思う。僕も明日、北海道に渡る予定だが、今は電車で渡れてしまう。 風情も何もあったもんじゃない。 |
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八甲田丸の中は、かつての青函連絡船の様子が人形によって再現されていたりしてなかなか興味深い。
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操舵室から北海道のほうを眺めてみた。霞んでいてはっきりは見えない。だが明日、生まれて初めて北海道の地を踏むのだ。 |
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ホテルにチェックインを済まし、夕食を食べに出た。ホテルで勧めてくれた「すみれ組」という店に入った。 |
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青森といえば酒処。というわけで、清酒「田酒」でまず喉を潤す。 そして、ここまで来たら海産物を食べるっきゃない。店の名物と言う帆立直火焼きを注文した。活き帆立を貝の上に置いて焼く。 |
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そしてホヤ酢。東京でもホヤは食べたことがあったが、ここで食べたホヤは臭みがまったくない。新鮮だとこうも違うのか。酢で食べるのがむしろもったいなく思えるくらい。 |
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ほや酢 |
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(参考資料) 柳田国男「新版 遠野物語 付・遠野物語拾遺」1955年10月 角川文庫 |
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函館の女〜青森県・北海道〜 | |||