第2章−サイレント黄金時代(26) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ユーモアとナンセンス 〜片岡千恵蔵の明朗時代劇〜 |
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サイレントの時代劇映画の全盛期、様々な剣戟スターが現れた。まずその筆頭に来るのが、尾上松之助(1875〜1926/「完全無欠のスーパーヒーロー」参照)。そして、1920年代末から1930年代にかけては、「六大剣戟スター」の時代が訪れる。そのうち阪東妻三郎(1901〜53/「美しき反逆者」参照)と嵐寛寿郎(1903〜80/「鞍馬天狗見参」参照)の2人についてはすでに紹介した。残りの4人とは片岡千恵蔵(1903〜83)、大河内伝次郎(1898〜1962)、市川右太衛門(1907〜99)、林長次郎(後の長谷川一夫/1908〜84)。この6人に月形龍之介(1902〜70)を加えて「七剣聖」と呼ぶ場合もある。 その中でも片岡千恵蔵はサイレントから戦前にかけて複雑な人間模様を描いた意欲的な作品を発表していったことで特筆される。 |
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◆剣戟スター片岡千恵蔵の誕生 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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千恵蔵は本名を植木正義という。バンツマ(阪東妻三郎)やアラカン(嵐寛寿郎)同様、歌舞伎界から映画界に入っている。9歳の時、11世・片岡仁左衛門(1857〜1934)が主催する片岡少年劇に入っ た。当時の芸名は片岡十八郎(とっぱちろう)だったが、これはの仁左衛門の18番目の弟子だったことから来ている。その後、千栄蔵と改名し、名題役者となった。 映画に初めて出たのは1923(大正12)年の小笠原映画研究所製作「三色すみれ」。植木進の名で初主演しているが、さほど話題にはならず 、再び歌舞伎界に戻っている。その後、1927(昭和2)年2月に直木三十五(1891〜1934)の紹介でマキノに入社した。そこで片岡千恵蔵と名を改め、「萬花地獄」を皮切りにマキノでは2年間で16本の作品に出演 した。もっともマキノ時代の千恵蔵は、他の剣戟スターに比べると、どうも地味な存在であったようだ。嵐長三郎(のちの嵐寛寿郎)がほぼ同時期にマキノ入りしているのだが、最初の年にアラカンが13本に出演したのと比べ、千恵蔵は8本のみ。さらに、アラカンの場合、牧野省三(1878〜1929)が自ら主演作「百万両秘聞」(1927年マキノ)を監督しているのに対し、千恵蔵作品での牧野監督作はない。給料もアラカンの月800円に対して千恵蔵は500円であったという。彼が頭角を現すのはマキノを独立し、千恵蔵プロダクションを作ってからのことである。 マキノ時代の作品で僕が観たのは、牧野省三最後の大作「実録忠臣蔵」(1928年)。千恵蔵は両国橋引上げの場面で浪士達を引き止める服部市郎右衛門と浪士の一人・大高源吾を演じている。千恵蔵はマキノに入るに当たって、師匠の兄に当たる10世・片岡仁左衛門(1851〜1895)の追善興行だけは参加したいと考えていたが、牧野省三から「ぜひアンタに判官をやってもらわなあかんのや、追善興行出たら撮影に間にあやへんがな、どうせ映画に入ると決心したんやったら、思いきって今からパッと舞台はやめなさい(* 1)」と言われたそうである。判官とは「仮名手本忠臣蔵」の塩谷判官、つまり浅野内匠頭にあたる役。千恵蔵も判官をやるならばと、追善興行を諦めてマキノと契約した。ところが、いざ「実録忠臣蔵」の製作が発表されると、内匠頭役は千恵蔵ではなく諸口十九(1891〜1960)であった。このことを知った千恵蔵が省三夫人の知世子に問い正すと、「あんたには(「仮名手本忠臣蔵」の)判官してもらうとはいうたが、内匠頭とはいってなかったはずやで(* 2)」と答えたそうである。服部市郎右衛門は出番は少ないが、歌舞伎では座頭格の役者が演じる役であったから、牧野省三としては充分千恵蔵を重宝したつもりであった。だが、千恵蔵はこれに納得せず、やがてにマキノを退社。千恵蔵の退社が引き金となり、嵐寛寿郎らのマキノからの大量脱退を誘発してしまう(詳細は「大君降臨」参照)。 マキノを退社した千恵蔵は片岡千恵蔵プロダクション(千恵プロ)を設立。この千恵プロには後に巨匠となる伊丹万作(1900〜46)や稲垣浩(1905〜80)が集結。千恵蔵は彼らの下で意欲的な作品を次々と製作して いった。 *1 片岡千恵蔵「独立プロ、苦難のすべり出し」(「千恵プロ時代」所収)38ページ *2 同上。ただし、桑野桃華「日本映画の父(マキノ省三伝)」やマキノ雅弘「カツドウ屋一代」では、省三の言葉ということになっている。 |
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◆「ちょん髷をつけた現代劇」 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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千恵蔵の映画がいかに意欲的なものであったかは、千恵プロで製作した作品を観れば一目瞭然である。僕がこれまでに観た千恵プロ映画は、千恵プロ作品で現存する最古の作品である「放浪三昧」(1928年千恵プロ)や「諧謔三浪士」(1929年千恵プロ/日活)、「番場の忠太郎/瞼の母」(同)、トーキー(発声映画)の「赤西蠣太」(1936年千恵プロ)など 数本だが、いずれも斬新な手法が取り入れられており、70年以上経った今観ても色あせていない。 これらの作品で千恵蔵が演じた主人公は、アラカン(嵐寛寿郎)のようなただ強いだけの人物ではない。むしろ弱さも併せ持った人物である。例えば、「放浪三昧」(1928年千恵プロ)の伊達主水は、剣豪でありながらも、一人の父親として悩む人物である。また、「番場の忠太郎/瞼の母」(1931年千恵プロ)の主人公・忠太郎も、無頼漢ではあるが、生き別れた母親の俤を瞼に描く純粋な人物である。「赤西蠣太」(1934年千恵プロ)の赤西蠣太に至っては色黒でどんくさ く、風体のあがらぬ男でさえある。 こうした複雑な人物像こそが、千恵蔵映画の最大の特色で、これが彼の作品を単なる娯楽時代劇に終わらせない要因となっている。ただ、残念なことは千恵蔵も戦後になってからはただ格好良いだけの 主人公をも多く演じるようになってしまっていることだろうか。 |
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千恵蔵映画には当時としては革新的だった技巧が数多く取り入られている。例えば、「放浪三昧」では回想や空想を多用しているし、「番場の忠太郎/瞼の母」ではスローモーションや省略が大胆に取り入れ られている。 また、時代劇ではあっても、現代劇や外国映画を十分に意識している。例えば、「諧謔三浪士」(1930年千恵プロ)は、明らかにダグラス・フェアバンクス(1883〜1939) 主演の「三銃士」(1921年米)にヒントを得ており、「皆は一人のために、一人は皆のために」という同じセリフまでもが登場する。また、この作品にはギャグ効果として第八戦社同人がクレジットされている。これは千恵プロの脚本部と監督部における研究団体であるとのこと。こうした専門のギャグマンを使用するというのは、当時からアメリカ映画にはよく見られた。トーキー後の「赤西蠣太」ではオープニングにショパンの「雨だれ」を、エンディングにメンデルスゾーンの「結婚行進曲」を使用し、登場人物達に現代語をしゃべらせている。 これらの作品は、ユーモアとナンセンスを持ち合わせ、時にシニカル。当時から「ちょん髷をつけた現代劇」と言われ、「明朗時代劇」とも称された。 |
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稲垣浩 (「千恵プロ時代」7ページ) |
伊丹万作(昭和12年) (「千恵プロ時代」7ページ) |
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こうした千恵プロの意欲的な作品群を支えたのは稲垣浩と伊丹万作という二人の監督であった。先にあげた作品で言えば、「諧謔三浪士」が稲垣の監督・脚本。「赤西蠣太」が伊丹の監督・脚本。「放浪三昧」が稲垣の監督、伊丹の脚本である。現在では“巨匠”と称される若き日の2人が、千恵蔵と共に意欲的な作品を支えたというのは無視できない要因である。 千恵蔵はプロダクションを起こすに当たって、伊藤大輔(1898〜1981)に声を掛けた。ところが、「僕は今のところ予定が一ぱいでダメだから、いい若い人を推薦しよう」(*3)と言われ、稲垣、伊丹の二人を紹介された。 *3 片岡千恵蔵「独立プロ、苦難のすべり出し」(「千恵プロ時代」所収)38ページ |
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ところで、千恵蔵は「剣戟王」の一人とされているのだが、作品の中には、チャンバラシーンがまったくなかったり、あっても重要な見せ場となっていないようなものが多い。 その理由として、千恵プロ時代に多くの作品で監督や脚本を務めた伊丹万作が、時代劇を「殺人映画」とみなし嫌っていたことがあげられる。伊丹は「殺人映画などは、一日もはやくF・O(フェイド・アウト)してしまえばいい(*4)」とまで言っている。 そればかりか、千恵蔵自身がチャンバラを苦手としていたようなのだ。稲垣浩、作家・五味康祐(1921〜80)、詩人・田村隆一(1923〜98)の3人が1975年に選んだ「チャンバラ・スター番付」では、千恵蔵は東西の横綱である阪東妻三郎、大河内伝次郎に次いで東の大関に選出されている(*5)。時代劇スターとしての格を考えれば、順当なもの。ところが、映画評論家の島野功緒(1922〜2014)と深沢哲也(1921〜92)が純粋に立ち回りだけで評価した剣戟スター番付になると、番付は張り出し関脇にまで下が る(*6)。しかも、選者の島野は関脇にランク付けることをかなり渋っている 。 それだからだろうか、現存最古の千恵プロ作品「放浪三昧」の最初のほうで、「一度に何十人も倒すような天下の剣豪は果たして実現するだろうか?」という賭けをした千蔵演じる伊達主税が、それを実践するために、道場の仲間たち10数名と果し合いをする 場面で、果し合いの様子は直接描かれない。賭けに勝った主税がそのことを父に対してご飯を食べながら箸をふりまわして熱弁する場面として語られるだけである。 もっとも、「放浪三昧」も、クライマックスシーンでは激しく迫力のあるチャンバラが登場している。また、「ごろん棒人生」(1931年千恵プロ)の剣戟シーンも見ごたえがある。当時「剣戟なしの好時代劇(*7)」と称された「瞼の母/番場の忠太郎」でさえも、最初と最後にはチャンバラが登場している。後に千恵プロを解散して日活に移ってからの作品にも、迫力があり見ごたえのあるチャンバラは多く、晩年には重厚さまでも加えている。千恵蔵がチャンバラが苦手だというのは、あくまで比較の問題なのであろう。 *4 伊丹万作「彼とカツドー」(「千恵プロ時代」所収)34ページ *5 「チャンバラ・スター番付」(1975年7月「週刊読売」) なお、番付は次の通り
*7 「千恵プロ時代」80ページ |
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◆股旅物「番場の忠太郎/瞼の母」 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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千恵プロで製作された作品は全部で93本ある。残念ながら、そのうち僕が実際に観ることができたのは10本に満たない。しかもそのうち現在完全な状態の作品は極めて少ない。そんな中から僕は、「番場の忠太郎/瞼の母」(1931年千恵プロ)を代表作として推薦したいと思う。長谷川伸(1884〜1963)原作による股旅物の傑作である。 股旅とは、世の中からはみ出したやくざ者が旅をして歩くことで、語源は「旅また旅」ということらしい。そもそもは長谷川伸が1929(昭和4)年に発表した「股旅草鞋」で生み出した造語であるそうだ。映画にも盛んに取り入れられており、「国定忠治」や「次郎長三国志」は何度も映画化されている。長谷川の戯曲を原作とする作品にも大河内伝次郎主演の「沓掛時次郎」(1929年日活/「青年は荒野をめざす」参照)や阪妻主演「鯉名の銀平/雪の渡り鳥」(1931年阪妻プロ/新興キネマ/「美しき叛逆者」参照)などがある。千恵蔵は「番場の忠太郎/瞼の母」以外にも「一本刀土俵入り」(1931年千恵プロ)で長谷川作品に主演しているが、こちらのほうは僕は観ていない。 股旅物の主人公は流れ者のやくざ者。行く先々でその土地の親分から一宿一飯の恩義に預かり、その義理のために時には個人的には何の恨みもない相手を斬らなくてはならない。しかしながら、彼らはその一方で、弱きものに心を寄せる。斬った相手の妻や子供らへ思いをかけるというのも、股旅物のパターンの一つである。 現存最古の千恵プロ作品「放浪三昧」(1928年千恵プロ)は正確には股旅物ではないかもしれないが、そのストーリー展開、主人公のストイックな生き方、子供への情愛など、股旅物と合い通じるものがある。時は幕末、主人公の伊達主水(片岡千恵蔵)は、めっぽう腕の立つ剣豪である。だが、彼が江戸詰の最中、かつての恋敵に妻を陵辱され、その妻は自害して果てる。怒った主水は、その仇を殺すと、幼い息子と共に脱藩し放浪の旅に出る。主水はその腕を見込まれ、勤皇派、佐幕派双方から同志に誘われるが、それらの誘いを断り、相変わらず当ての無い旅を続ける…。 股旅物が実はアメリカの西部劇の影響を受けているのではないかということは、以前「青年は荒野をめざす」で指摘した通りだが、そもそもこうした題材は極めて日本人好みのものなのである。 |
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さて、「番場の忠太郎/瞼の母」の主人公・忠太郎(片岡千恵蔵)は三十路を過ぎたやくざ者である。江州阪田の郡番場の宿(現在の滋賀県坂田郡米原町)に生まれるが、母親とは5歳の時に別れた切り。まだ見ぬ母を瞼の裏に浮かべつつ、忠太郎は母を探して江戸へやって来る。 やがて、母おはま(常盤操子)が高級料亭「水熊」の女将となっていることを知った忠太郎は会いに行く。妹お登世(山田五十鈴)の幸せを願う母は、やくざ者の忠太郎を邪険にあしらう。悲嘆に暮れてその場を去った忠太郎だった…。 やくざ者ながら純粋な、忠太郎の悲哀を描きあげた人情味あふれる作品で、まさしく名作と言うにふさわしい。千恵蔵の忠太郎もみごとなアンチ・ヒーローとなっているし、母親おはまを演じた常盤操子(1897〜1959)の複雑な母親心もとても印象に残る。常盤は1935年に千恵蔵自身がトーキー(発声映画)で再映画化した「瞼の母」で同じおはま役を演じているそうだが、まさしく一世一代のはまり役といった感じ。ところでこの常盤操子、最初のおはま役を演じた当時、34歳という年齢であった。息子役の千恵蔵よりわずか4歳年上なだけなのだが、見事に年増女性を演じ切っている。 そして、忠太郎の妹お登世役の山田五十鈴(1917〜2012)の可憐さも印象的だが、彼女はなんと当時14歳! いやはや当時の女性は早熟だった。 「瞼の母」は長谷川伸の実体験が元になっている。 長谷川は4歳の時に、両親が離婚。父に引き取られた長谷川は、それ以来母と会うことはなかった。やがて、文筆家として成功した長谷川は、1933(昭和8)年2月12日、47年ぶりに母との劇的な再会を果した。「瞼の母」の初演は1930(昭和5)年であったが、「上下の瞼を合せ、じいッと考えてりゃ、逢わねえ昔のおっかさんの俤が出てくるんだ(*8)」という忠太郎の思いは、長谷川自身の思いでもあったのだ。 「瞼の母」は長谷川にとっての代表作になったばかりか、日本の大衆演劇を代表する演目ともなっている。1982年頃の調査だが、大衆演劇58劇団に聞いたところ、「瞼の母」を代表演目にあげているのは5劇団で、「忠臣蔵」と並び、「国定忠治」の6劇団に次ぐ多さだった(*9)。それだけ、「瞼の母」は日本人の琴線に触れる作品だったのだろう。 この千恵蔵作品以降も「瞼の母」は何度も映画化された。1935年の千恵蔵による再映画化版「瞼の母」は、千恵蔵・常盤操子の他、素盲の金五郎役の瀬川路三郎(1894〜1968)が、前作に続いて同じ役を演じているそうだが、僕は観ていない。 その後も、何度となく映画化されたが、それらの作品は、原作にないシーンを追加したりと、いろいろ工夫が見られる。長谷川一夫が忠太郎を演じた「瞼の母」(1938年東宝)は、長谷川らしく甘い二枚目の忠太郎が見られる。ここでの忠太郎は決して強くは無く、母親を前にして男泣きに涙する。下宿先の娘お露(椿澄枝)と思いを通わすが、「お袋とめぐり合うまでは嫁を貰わないと決めているんだ」と恋を諦める。ラストでは、自分を探す母おはま(五月信子)と妹お登世(霧立のぼる)の後を追いかけ…その後の幸せな生活が暗示させらる。 戦後の映画化作品では、若山富三郎(1929〜92)が忠太郎を演じた「番場の忠太郎」(1955年新東宝)と中村錦之助(後の萬屋錦之介/1932〜97)が忠太郎を演じた「瞼の母」(1962年東映)を観ることができたが、共に激しい剣戟シーンが見せ場となっている。 若山富三郎版「番場の忠太郎」 では、何といっても1931年の最初の千恵蔵版で妹お登世を演じた山田五十鈴が、今度は母親おはまを演じているのが特徴であろう。また、忠太郎を追う関八州の御用役人・青木一作(森繁久弥)のエピソードが追加されているなど、原作をだいぶ離れたストーリーとなっている。忠太郎の弟分のやくざ者半次(三井弘次)は、他の作品にも登場してくるが、その妹・おぬい(桂木洋子)と忠太郎の恋が描かれているのはこの作品だけ。ラストでの忠太郎は、彼の名を呼ぶ母や、彼を待つおぬいを避けるように、再びやくざの道に入っていく。 中村錦之助版「瞼の母」 では、千恵蔵版で素盲の金五郎を演じた瀬川路三郎が、やくざの親分の飯岡助五郎を演じている。千恵蔵版のラストで忠太郎に切られる瀬川が、この作品では冒頭で忠太郎に斬られるというのは、千恵蔵版を継承しているという意気込みが込められているのだろうか…。この作品でも、忠太郎は母や妹の声を背に、旅に出ていく…。 その他、堀雄二(1922〜79)が忠太郎を演じた「瞼の母」(1952年大映)、歌手の橋幸夫(1943〜)主演の「瞼の母より/月夜の渡り鳥」(1963年東宝) という作品もあるが、僕は観ていない。 「瞼の母」を始めとするこうした股旅物は、映画以外にも浪曲となり、歌謡曲となり、日本人の琴線を刺戟し続けてきた。昭和の始め頃から、映画の公開に併せて同じタイトルの歌謡曲を発売する、今日でいうところの「タイアップ」が見られるようになるが、その最初のものは、西条八十(1892〜1970)作詞、中山晋平(1887〜1952)作曲、佐藤千夜子(1897〜1968)歌の「東京行進曲」(1929年)であった。同じ年には大河内伝次郎主演の股旅映画「沓掛時次郎」とのタイアップで主題歌「沓掛小唄」が発表されているが、1934年には東海林太郎(1898〜1972)が歌う「浅太郎赤城の唄」の主題歌「赤城の子守唄」が大ヒットしたことにより、「股旅小唄」がブームとなる。股旅小唄は戦後に至っても「股旅演歌」として連綿と歌い継がれてきたが、その中には「沓掛時次郎」を始め、「瞼の母」や「一本刀土俵入り」といった長谷川伸の戯曲に基づくものも数多くある。 例えば、共に浪曲師出身の三波春夫(1923〜2001)や二葉百合子(1931〜)が「瞼の母」という曲を歌っている。最近でも中村美律子(1950〜)が「瞼の母」を発表しているが、その熱唱と語りは感動的で、早くも彼女の代表曲と目されている。 しかしながら、2000年に股旅演歌「箱根八里の半次郎」でデビューした氷川きよし(1977〜)は衝撃的であった。洋服姿に茶髪、アイドルを思わせるルックスで、本格的な演歌を歌い、瞬く間に「演歌界の貴公子」の名を獲得した。これまで演歌とは縁の薄かった若い女性にまで演歌を注目させることとなり、文字通り演歌界の「救世主」となった。彼の活躍は皆様ご周知の通り。2008年には「きよしのズンドコ節」で紅白歌合戦の大トリも務めている。 彼のデビュー曲「箱根八里の半次郎」は股旅演歌に分類される作品で、「♪やだねったら、やだね〜」のフレーズが印象に残る。続く第2段シングル「大井追っかけ音次郎」(2001年)もやはり股旅演歌。その彼が2004年に発表したのが「番場の忠太郎」。タイトルからもわかるように、「瞼の母」に題材を取った股旅演歌である。この歌で初めて「瞼の母」の世界を知った若者も多かったに違いない。 こうして「瞼の母」は世代を超えて受け継がれている。股旅物が西部劇の影響下にあったのだとしても、すでに日本人の血となり肉となっているのだ。 *8 長谷川伸「瞼の母・沓掛時次郎」64ページ *9 橋本正樹「大衆の味方でござんす」(長谷川伸「瞼の母・沓掛時次郎」解説)407ページ |
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◆「赤西蠣太」 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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千恵プロについて語る時、トーキー(発声映画)ではあるが、「赤西蠣太」(1936年千恵プロ)を欠かすわけにはいかない。それは千恵プロの代表作であるばかりか、日本映画を代表する一篇でさえあるのだ。 原作は言わずと知れた“小説の神様”志賀直哉(1883〜1971)の短編小説「赤西蠣太」(1917年発表)。僕はこの小説を確か高校の授業で読んだかと思う。この作品が映画化されているということも知っていたのだが、それにしては何とも地味な話であろうかと正直思った。その後、大学生になってから映画を観たが、確かに派手ではないものの、淡々とした展開こそが魅力の作品であると感じたものである。 |
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「赤西蠣太」の背景には伊達騒動がある。「伊達騒動」は江戸時代初期に仙台藩伊達家を舞台に繰り広げられたお家騒動で、歌舞伎「伽羅先代萩」の題材となったりしている。山本周五郎(1903〜67)の小説「樅の木は残った」(1954〜55年)も伊達騒動に取材している。おそらく、「赤西蠣太」が公開された昭和初期であれば、子供たちであっても知っていた物語であったに違いない。 簡単に事件のあらましを記すと…。1658(万治元)年、仙台藩の3代藩主・伊達綱宗(1640〜1711)が乱行を理由に隠居を命じられると、その後継としてわずか2歳の亀千代(後の伊達綱村/1659〜1719)が家徳を継いだ。綱宗の叔父で一関藩主の伊達兵部宗勝(1621〜79)が亀千代の後見となり、仙台藩 家老・原田甲斐宗輔(1619〜71)と手を結んで実権を得る。その伊達兵部・原田に、伊達氏の一門・伊達安芸宗重(1615〜71)が対立。伊達家を2分する抗争に発展したのである。 蠣太はうだつがあがらないように見えるが、その実は伊達安芸(葛木香一)の間者である。蠣太は、原田甲斐の屋敷に勤める同じく安芸方の患者・青鮫鱒次郎(原健作)と共に密書を集めている。やがて、密書 が集った蠣太は、それを奥州の伊達安芸の元へ届けなければならない。だが、だまって逃げ出したのでは怪しまれてしまう。そこで、美しい腰元の小波(さざなみ/毛利峯子)に恋文(ラブレター)を渡し、振られたのを恥じて逃げ出すことに決める。ところが、意に反して小波からは好意的な返事が届いてしまう…。 原作では蠣太と小波(原作では小江)の恋の行方は「昔の事で今は調べられない。それはわからず了(じま)いである。(*10)」とあるだけで、描かれないのだが、映画では最後に「結婚行進曲」が流れることで、成就したことを案じさせる終わり方になっている。 また、伊達騒動の結末として、原田甲斐による刃傷場面が登場する。史実によればこれは1671(寛文11)年3月27日のことで、江戸幕府大老・酒井忠清(1624〜81)邸に召喚された原田が、同じく召喚されていた伊達安芸を斬り、仙台藩家臣士・柴田外記朝意(1609〜71)に斬られる。このシーンは、この映画で唯一のチャンバラ・シーンで 、剣戟スターとしての千恵蔵が本領を発揮 している場面である。もっとも、あまりに唐突な感じがしなくもなく、蠣太と甲斐を同じ千恵蔵が演じていることを知らない、例えば外国人などが、この映画を観たとしたら、なぜこの場面があるのか、ちょっと理解に苦しむのではないだろうか。 *10 志賀直哉「赤西蠣太」(「志賀直哉集/新潮日本文学8」所収)415ページ |
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監督の伊丹万作の手になる脚本は脇役の一人ひとりに至るまで、実に個性的に描かれている。例えば、按摩師・安甲に扮するのは戦前にハリウッドで悪役として活躍した上山草人(1884〜1954)。また、若き日の志村喬 (1905〜82)が蠣太の同僚の役で出演している。この他、亀千代の伊達家上屋敷の松前鐵之助(杉山昌三九)の長屋に住む足軽・鱶平(ふかへい/林誠之助)もなかなかユーモラスである。上屋敷に刺客が向かったという蠣太からの手紙を受け取った鐵之助が、「おい、鱶平!」と鱶平を呼びつけ、何度も雪の中を門番の元へ人の出入りを確かめに行かせる。鱶平を演じる林誠之助(1907〜88)の個性とあいまって何とも言えないおかしな場面となっている。林は創立時からの千恵プロの専属俳優で、千恵プロ作品では「瞼の母」では悪役・鳥羽田要助を演じている。人の良い善人役から、悪人役まで幅広くこなし、その個性的な顔は一度見たら忘れられない印象を残す。千恵プロ解散後は日活でも活躍。戦時中に実業家に転進した。 さて、「赤西蠣太」は今日、ほぼ完全な形で現存している。とは言うものの、詩人の北川冬彦(1900〜90)は次のように語っている。「戦後、『赤西蠣太』を二度見たが、二度目に見たとき気付いたことは、はじめの方でフィルムが一巻ほど飛んで、ないことである。赤西が胃がわるいくせに甘党で、武家屋敷に菓子屋が箱づめにして出向いてくるのをアレコレと品定めするが、白猫がひょういと蠣太の方にとび乗るところがある。実にいい。(*11)」 「赤西蠣太」は幸いにしてシナリオが現存しており、それは「伊丹万作全集」にも収録されている。それを読むと上記のシーンの他、後半に蠣太が恋文(ラブレター)を書く相手を小波と決めるシーンが欠落していることがわかる。さらに細かい部分で も欠落した個所があり、LD版ではその部分を字幕で補っている。それにしても、北川が指摘した欠落部分は、その後の蠣太が腸捻転を自ら腹を切って治すエピソードの伏線になっている重要な場面である。つまり、今日現存する「赤西蠣太」だけで作品を評価をするというのは、なかなかに難しいことなのだ。 しかしながら、現存の部分だけでも「赤西蠣太」は実にすばらしい作品である。ぜひとも多くの人に観て欲しい。過去にVHSとLDで発売されているが、現在は廃盤。DVDの発売が待たれる。 大人気シリーズ「釣りバカ日誌」(1988〜2009年松竹)の番外編「花のお江戸の釣りバカ日誌」(1998年松竹)は、しがない下級武士(西田敏行)が、美人腰元(黒木瞳)の愛を射止めるというストーリーで、「赤西蠣太」へのオマージュが感じられる作品であった。腰元の名前も同じ「小波」。ただし、読みは「さざなみ」ではなく、「こなみ」となっている。また、1999年には市川崑(1915〜2008)が映画の脚本そのままにテレビドラマとして製作している。北大路欣也(1943〜)が赤西蠣太と原田甲斐の2役に扮しているが、あいにく僕は観ていない。 また、「赤西蠣太」からの影響として、国民的アニメ「サザエさん」(1969年〜放送中 フジテレビ)を忘れてはいけない。「赤西蠣太」の登場人物は蠣太を始め、鱒次郎、安甲と、いずれも海産物から名前が取られているが、「サザエさん」のほうも、カツオ、ワカメ、タラオと同様。ヒロイン・小波は、原作では「小江(さざえ)」で、まさしく「サザエさん」の主人公磯野(フグ田)サザエに通じる。実際、「サザエさん」の作者・長谷川町子(1920〜92)の妹・長谷川洋子(1925〜)によると、「愛読していた志賀直哉氏『赤西牡蠣』に登場する御殿女中が、小江という名前であったことと、私達の住まいが海岸の側にあったことから、姉は主人公の名前を『サザエさん』と決め、家族の名前も、すべて海にちなんだものから選んだ(*12)」とのことである。もっともこれは原作小説からの影響で、長谷川町子が映画のほうを観ているどうかはわからないのだが。 *11 北川冬彦「映画の人伊丹万作」(「伊丹万作全集V」所収)455ページ *12 長谷川洋子「サザエさんの東京物語」62ページ |
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◆明朗時代劇と鳴滝組 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1920年代には片岡千恵蔵プロダクション(1926〜37年)の他にも、阪東妻三郎プロダクション(1925〜35年)、市川右太衛門プロダクション(1927〜36年)、嵐寛寿郎プロダクション(1928〜37年)など時代劇スターによる独立プロダクションの設立が相次いだ。その結果、各スターが大会社のしがらみにとらわれぬ個性的な作品が次々と誕生するに至ったのである。 しかしながら、こうした独立プロダクションの経営も1930年代になると次第に行き詰まり、各プロダクションは次々と解散。各スターは日活などの大会社に入社することになる。千恵プロも1937(昭和12)年4月に千恵プロ100本記念作品「浅野内匠頭」と続く「松五郎流れ星」を発表したのを最後に解散。プロダクションごと日活に吸収される。 日活入社後も千恵蔵は意欲的な作品を次々と発表していった。その後も大映→東映と戦後に至るまで時代劇の大スターとして君臨していく。ちなみに千恵蔵は晩年、加藤剛(1938〜2018)主演のテレビドラマ「お岡越前」(1970〜99年TBS)に大岡越前(加藤剛)の父親・忠高役として特別出演していた。あまりの好演ぶりに、千恵蔵が1983年に8 0歳で亡くなった時は、ドラマの中でも死んだということになったほどである。 一方、千恵プロが生み出した明朗時代劇の流れは、鳴滝組の映画に受け継がれていった。鳴滝組は1934年に結成された脚本グループで、メンバーは脚本家の八尋不二(1904〜86)、三村伸太郎(1897〜70)、藤井滋司(1908〜70)、監督の滝沢英輔(1902〜65)、稲垣浩、山中貞雄(1909〜38)、鈴木桃作(1901〜41)、助監督の萩原遼(1910〜76)の8人からなる。「梶原金八」の共同ペンネームで、様々な明るくユーモアのある作品を生み出していった。鳴滝組の代表的な作品としては、山中が監督・構成、三村が脚本を担当した「丹下左膳余話/百万両の壺」(1935年日活) が有名である(次項参照)。大河内伝次郎が主人公の丹下左膳を演じている。最近、豊川悦司(1962〜)が左膳を演じた「丹下左膳/百万両の壺」(2004年製作委員会)としてリメイクされている。 さらに、日活で千恵蔵が製作した作品にも明朗時代劇の流れを汲む作品がある。それがマキノ雅弘(当時・マキノ正博/1908〜93)が監督したオペレッタ映画「鴛鴦歌合戦」(1939年日活)である。時代劇にもかかわらず、全編ジャズに合わせてのミュージカル・シーンで構成される。もっとも千恵蔵は急病のため、わずか2時間で登場シーンの撮影を終了してしまい、登場シーンは少ないのであるが…。人気歌手のディック・ミネ(1908〜91)や宝塚出身の服部富子(1917〜81)らが自慢の喉を披露している。 考えてみると、時代劇と言うのは、江戸時代を舞台にしてはいても、台詞は現代語に近いものであったり、考証的に見ればかなりおかしい。だからと言って、それを見る僕たちは何の疑問も感じない。言ってみれば、時代劇にはかなりのお約束事が存在するということである。先にも紹介した「花のお江戸の釣りバカ日誌」(1998年松竹)以外にも、「オペレッタ狸御殿」(2005年松竹、他)など、明らかに明朗時代劇の流れを受け継いだ時代劇も数多く製作され続けている。 こうした時代劇の流れというのは、千恵蔵たちまでたどることができるのである。 |
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(参考資料) 長谷川伸「長谷川伸全集 第一巻・第十巻」1971年7・8月 朝日新聞社 佐藤忠男「長谷川伸論」1975年4月 中央公論社 島野功緒「時代劇博物館(パビリオン)」1988年5月 毎日新聞社 田山力哉「千恵蔵一代」1992年6月 社会思想社現代教養文庫 盛内政志「映画俳優事典[戦前日本篇]」1994年8月 未来社 佐藤忠男「日本映画の巨匠たちT」1996年10月 学陽書房 「時代劇六大スター[戦前篇]」1997年1月 ワイズ出版 冨田美香編「映画読本 千恵プロ時代/片岡千恵蔵・稲垣浩・伊丹万作 洒脱にエンターテインメント」1997年7月 フィルムアート社 筒井清忠「時代劇映画の思想/ノスタルジーのゆくえ」2000年11月 PHP新書 六人のチャンバリスト「時代劇(チャンバラ)への招待」2004年1月 PHPエル新書 佐藤忠男「増補版 日本映画史1」2006年10月 岩波書店 林家木久扇「木久扇のチャンバラスターうんちく塾」2007年10月 小池書院 長谷川洋子「サザエさんの東京物語」2008年3月 朝日出版社 古茂田信男、島田芳文、矢沢寛、横沢千秋「新版 日本流行歌史 上=1868〜1937」1994年9月 社会思想社 山田野理夫「伊達騒動」1970年4月 新人物往来社 長谷川伸「瞼の母・沓掛時次郎」1994年10月 ちくま文庫 志賀直哉「志賀直哉集/新潮日本文学8」1969年6月 新潮社 |
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