特別企画−ネパール映画事情(5)
悠久の時に思いを馳せて
〜「バサンティ」と歴史映画〜



歴史映画「バサンティ」(2000年)
 

                     
 ネパールは長い歴史を持った国である。伝説によると、ネパールの首都カトマンズがあるカトマンズ盆地は、かつては大きな湖であった。ここにやってきた文殊菩薩(マンジュシュリー)が山を切り開き水を抜いたため、現在のような盆地となったという。現在カトマンズの北西にあるスワヤンブナート寺院は、この時文殊菩薩によって建てられたとされている。近年の地質学の研究によれば、確かにカトマンズは3万年前まで湖であったことがわかっている。もちろん、3万年前にはまだ人類は誕生していなかったわけ だから、スワヤンブナート寺院建設に関しては事実ではないのだろうが、とにかくそれだけネパールは古くからあったということなのだ。
 5世紀から9世紀にかけてネパールにはリッチャヴィ王朝が成立していたが、これが歴史上確実に存在するのがわかっている最古の王朝である。現在カトマンズ盆地で世界遺産に指定されているパシュパティナート寺院やチャングナラヤン寺院、スワヤンブナート寺院はこのリッチャヴィ時代に作られている。 しかし、「バンシャバリ」と呼ばれる王朝王統譜には、それ以前に存在した王朝が記されている。そのうちの一つキラータ(キランティ)王朝は、伝説では紀元前7、8世紀頃から紀元100年頃までが存在したとされており、インドの大叙事詩「マハーバーラタ」にも征服される一族として キラータ族の名が登場している
(*1)。「マハーバーラタ」はバーラタ王朝の一族の争いから、インドを2分する戦争に発展するまでを描いている が、「バンシャバリ」ではキラータ王朝の7代ジテーダスティ王がその戦争に参戦しているそうである(*2)
 また、紀元前6〜5世紀頃には後の釈迦、ゴータマ・シッダールタ(前463?〜前383?)がネパール南部のルンビニで生まれている。彼の一族シャカ族の子孫は現在でもネパールの祭祀で重要な役割を演じており、生き神クマリもシャカ族から選出されている。そして、紀元前3世紀にはインドを統一したアショーカ王(前268?〜前232?)がネパールを訪れ、ルンビニに仏塔を建てたとされている。このアショーカ王はカトマンズにもやって来たと言われ、パタンの東西南北にある4つのストゥーパ(仏塔 ・卒塔婆/写真下)は、彼が建てたと信じられている。

*1 C・ラージャゴーパーラーチャリ/奈良毅・田中嫺玉訳「マハーバーラタ(下)」586ページ
*2 佐伯和彦「ネパール全史」47〜48ページ
    ただし、僕が読んだ上記「マハーバーラタ(上・中・下)」は抄訳のため、ジテーダス王の名前は登場していない。

                       
 



パタンのアショーカストゥーパ(北)
  

 
                              
 1200年頃、カトマンズを占領したのはネワール人のマッラ王朝であった。その後1448年、ヤクシャ・マッラ王の3人の息子が、カトマンズ、パタン、バドガオン(現・バクタプール)にそれぞれ王国を立て、3王朝並立の時代となる。そうして15世紀から18世紀にかけて、ネワール文化が華やかに展開することとなる。現在カトマンズ盆地内では7つの建造物が世界文化遺産として認定されているが、そのほとんどのものがこのマッラ王朝の時代に作られている。中でも、それぞれの王国の王宮がカトマンズ、パタン、バクタプールのダルバール広場として残っており、その時代の俤を今に伝え ている。ベルナルド・ベルトルッチ(1940〜)監督が、「リトル・ブッダ」(1993年英/仏)を撮影するにあたって、シッダールタの生涯を描いた部分のロケ地に選んだのは、バクタプールとパタンのダルバール広場であった。
                         
 歴史建造物が多く残っているということが、歴史映画を撮影されるのに適した条件であるのということは言うまでもない。日本では映画創世記から京都で盛んに時代劇が撮影されてきた (「大君降臨」「完全無欠のスーパーヒーロー」参照)し、1910年代にはイタリア史劇 (「歴史の国の歴史映画」参照)が世界的に大きな影響力を与えている。 
 というわけで、ネパールもまた歴史映画を製作するのに適していると考えたいのだが、どうも思っていた以上に歴史映画は多くないようなのである。それはなぜなのだろうか。
 
 現在のネパール映画の置かれた状況は、あまり良いとはいえない。例えばネパール映画の平均製作費は1997年当時で約300万ルピー(約600万円)。やや豪華な映画でも500〜600万ルピーだという
(*3)。 これは日本だったら自主製作映画の規模である。僕も仲間を何人か募ってネパールの想い出に映画を作ろうかしらと思ってしまう。実際、ネパールの現代劇映画を観ると、俳優が普段着で出演しているような印象を受けるものが多い。衣装や小道具にお金のかかる歴史映画や時代劇はとてもではないが作れそうもない。

 それでも、数は少ないがネパールでは歴史映画は作られており、中にはすぐれた作品もあるので、ここで紹介しようと思う。

*3 野津治仁「それでもやっぱり映画が観たい」(石井溥編「アジア読本/ネパール」所収)261ページ
                            
 
 



ルンビニの釈迦生誕の地
 

 
  ◆シャハ王朝と「シマレカ」  
 



「シマレカ」
 

 
                                
  ネパール中西部の国ゴルカの10代目の王として1742年に即位したプリトゥビ・ナラヤン・シャハ(1723〜75/在位1742〜75)は、マッラ王朝の弱体化につけ込み、カトマンズ盆地への侵略を開始する。ゴルカは1768年にカトマンズ、バドガ オン(バクタプール)、翌1769年にはパタンを占領し、ネパールの統一を果たす。今年2008年5月に実施された制憲選挙の結果、ネパールの王制は廃止されることになったが、シャハ王朝はプリ トゥビ・ナラヤン王からギャネンドラ王
(1947〜/在位2001〜08)でまで12代250年の栄耀を誇ることになる。
               
 さて、プリトゥビ・ナラヤン王のネパール統一の過程を描いた映画にキショル・ラナ監督の「
सीमारेखा(Seemarekha)」がある。この映画はグルン族がゴルカ族によって征服されるまでを描いている。
                 
 
 



ネパール王家発祥の地ゴルカ
 

 
 
 題名の「シマレカ」とは「the Boarder Line」つまり「国境」の意味。ネパール中部の、ゴルカ族の村ラムズン(
लमजुङ)とグルン族の村リグリグ(लिगलिग)が舞台である。2つの村は川を挟んで隣り合っており、川が国境となっている。
 リグリグでは折りしも祭りの最中。若者たちが早さを競いあっている。一等となった若者が村長となる決まりである。競争に破れたために村を去っていく若者もいる。
 一方、ラムズンでは、若き王子プリトゥビ・ナラヤン・シャハが父王の命で、軍隊の訓練を開始した。そのことを知ったグルン側も、ゴルカの侵略に備えて軍備を強化する…。


 映画はグルン族の踊りで幕を開ける。グルン族はチベット系の民族で現在でもネパール中部に多く住んでいる。踊りや祭りなど、グルンの生活や風習がいろいろと描かれているのも興味深い。
 例えば、とあるグルンの娘はすでに夫がある身でありながら、熊に襲われたのをきっかけにもう一人の若者と恋に落ちる。彼女は2人と結婚したということが後のほうでわかるが、当時グルン族では多夫多妻は普通であったようだ。
           
 
 



「シマレカ」
 

 
 
 現在のネパールの国旗は、2つの三角形を重ねた世界でも珍しい形をしている。上の三角には月が、下の三角には太陽がそれぞれ描かれているのだが、映画の前半で出てくる旗では上の月しか描かれていない。それが、ラストで ゴルカ王国が成立した際に、下の太陽も書き込まれる。


 やがて、ゴルカ側の攻撃が始まった。だが、罠をしかけるなど準備万端のグルンは、一度はそれを退けることに成功する。
 そこでゴルカは、グルンに間諜を忍び込ませると嘘の情報を流し、村の実力者
ジャクリ(जाँक्री/司祭 ・巫者)の殺害に成功する。冒頭で競争に破れたグルンの若者もゴルカに協力する。

 
ジャクリが死んだため、若き村長がその後を継いだ。そして新たに村長を選ぶ祭りが催されることになった時、再びゴルカが攻撃をしかけてきた。
 激戦の末、ゴルカが勝利を収める。やがて、プリトゥビ・ナラヤンはゴルカ王国を建国。後のネパール統一への礎を築くことになる。
    
 
 
 「シマレカ」はいろいろと興味深い内容のある映画であったが、必ずしも質的に高いとは言いがたい。
 例えば、中盤で、ヒロインが熊に襲われる場面がある。この時出てくる熊は着ぐるみそのものであったりする。
 さらに、クライマックスのゴルカとグルンの決戦に至っては、あまりのスケールの小ささにびっくりさせられる。なにしろ、攻めて来るゴルカも、それを迎え撃つグルンも10数人 ずつしかいないのである。そしてグルン側の主人公が戦死することで戦争が終わってしまう。いくらグルンが小国だろうと、ゴルカ側もなめ切ったものである。もちろん、単に予算的な理由なのだろうが、ハリウッドや日本の歴史スペクタクルを見慣れていると、白けてしまう。
            
 
  ◆ラナ家の台頭と「バサンティ」  
 



「バサンティ」(2000年)
カリスマ・マナンダール(左)とラジェス・ハマール
 

 
    
 プリトゥビ・ナラヤン王によって立てられたシャハ王朝が成立して70年ほど経った頃の話。シャハ王朝5代目ラジェンドラ・ビクラム・シャハ王(1813〜81/在位1816〜47)は統治力に乏しかったため、廷臣のタパ家とパンデ家の間で権力闘争が激化し政局が悪化する。そんな中、1846年9月14日、宮廷内のコート(軍事会議場)で戦闘が発生し、廷臣たち30人が殺される「コート・パルパ(コートの大虐殺)」が起きる。この戦いで勝ち残った軍務大臣のジャンガ・バハドゥル・クンワール(1816〜77)が翌日首相に就任。その一族を政府の要職につけたばかりか、ラジェンドラ王を廃すと、その子シュレンドラ・ビクラム・シャハ(1829〜81/在位1847〜81)を擁立 し、実権を握るようになる。ジャンガ・バハドゥールは、その後自らの姓をラナと改称し、国王に準ずる大王を号するようになる。こうして、1951年まで100年以上続くラナ家専制時代が始まった。
 
 歴史映画「
बसन्ती(Basantee)」は、そのジャンガ・バハドゥールが実権を握るようになった時代の物語である。
 原作はネパールを代表する作家の一人、ダイヤモンド・シャムシェール・ラナ(1919〜)。彼はラナ家の末裔に当たり、その代表作「白い虎」は日本でも翻訳されている。監督のニール・シャハは、「キャラバン」
(2000年フランス/ネパール/スイス/イギリス/「From Top of the world」参照)でネパール側の共同プロデューサーを勤めるなど、ネパールを代表する映画監督である。俳優としても「バリダーン」(1997年/「笑いの抵抗運動」参照)や「プレーム・ピンダ」(1995年)などで印象的な役を演じている。
  
 
   
 「バサンティ」の主人公はネパール王家に仕えるガガン・シン(ラジェス・ハマール)である。パティ(
पाटी/街中に設けられた雨よけ)で雨宿りをしていた彼が、美しい娘バサンティ(カリスマ・マナンダール)と出会う場面から物語が始まる。ガガン・シンを演じるラジェス・ハマールと、バサンティを演じるカリスマ・マナンダールはネパールのトップ男優と トップ女優である。つまり、この映画はネパール最高の美男美女によって演じられるラブストーリーであるわけだ。

 ガガン・シンとバサンティはすぐに恋に落ちる。バサンティには幼い頃からの許婚ダンマル・バハドゥールがいたが、ガガン・シンは彼女を王宮に連れて帰る。そして、 郊外のバサンタバーグにある家に住まわせる。
     
 
 
 ガガン・シンは王妃カンチャ・バル・マハラニの愛人であった。そのため、彼がバサンティと結婚したと聞いて王妃は激怒。バサンティを憎むようになる。一方、バサンティをガガン・シンに奪われたダンマル・バハドゥールも、王妃にそのことを訴える。ガガン・シンの腹心のサランギは、ガガン・シンの不運の元凶はバサンティだと考え、彼女を亡き者にしようと企む。からくも彼の手を辛くも逃れたバサンティだったが、王妃によって気が狂っているのだと非難され牢に入れられてしまう。


 ガガン・シンとバサンティの物語と並行して、ジャンガ・バハドゥールの野心が描かれる。彼はガガン・シンに忠実に仕えながらも虎視眈々と野心をめぐらせる。
 やがて、ガガン・シンが何者かに暗殺される。ジャンガ・バハドゥールは、これをきっかけに次々と廷臣たちを暗殺。いわゆる「コートの虐殺」を起こし、権力を手中に収めるのであった。
 
 ラスト・シーンはガガン・シンの遺体と共に焼かれるバサンティを描いている。かつてヒンズー教では、火葬される夫の亡骸と共に妻が後追い自殺をするサティという風習があった。これは、夫と一緒に焼かれることで、 未亡人が来世においても再び結ばれると信じられていたためであり、また、再婚が認められないなど、社会的地位の低い女性の救済の方法と考えられていた。「80日間世界一周」(1956年米)にも、インドへやってきたフィリアス・フォグ(デビッド・ニブン)が、サティによって今にも夫の遺骸と焼かれようとするアウダ姫(シャーリー・マクレーン)を助ける場面が出てくるが、19世紀になってからもこの習慣は残っていた。ネパールにおいてサティの風習が完全に禁止されるのは1898年のことである。
    
 
 



「バサンティ」(2000年)
 

 
 
 歴史映画だけに、「バサンティ」は、ネパールの歴史を知らないとストーリーを理解できないところがある。例えば、ガガン・シンの死から唐突に宮廷での大虐殺(コートの虐殺)のシーンが始まり、それについてはまったく説明されない。実を言うと、僕もこの映画を最初まったく予備知識なしで観たので、この部分がまったく意味がわからなかった。その後、多少なりともネパールの歴史を知ってからこの映画を観直し、やっと意味を理解することができた。
 世界遺産であるカトマンズのダルバール広場(旧王宮)や、ヒンズー教の聖地パシュパティナート寺院にてロケが行われ、リアリティを生み出している。さすがは歴史の国の映画である。ジャンガ・バハドゥールをはじめとする廷臣たちの争いや駆け引き、この時代の女性の苦しみなど、見所も多い。
 
 また、ネパール映画であるから、ミュージカル・シーンも充実している。特に前半の終わりにガガン・シンがバサンティに歌う主題歌「
मेरी बसन्ती(Meri Basanti/私のバサンティ)」が美しい。「मेरी बसन्ती , प्यारी बसन्ती (Meri Basanti , pyari Basanti/私のバサンティ、愛らしいバサンティ)…」。 ついつい口ずさんでしまう。
 また、この映画にはガガン・シンとバサンティによる大胆なベッド・シーンが登場する。大胆、というのはネパール映画にしては、という意味である。アメリカ映画や日本映画を観慣れた僕らにしてみると、地味すぎるぐらいではあるが…。

 ともかく、この作品はネパールの歴史と文化に触れることができる映画として、ぜひともお勧めしたい一本である。
  
 
  ◆ラナ家専制時代と「プレームピンダ」  
 



「プレーム・ピンダ」(1995年)
サニー・ローニヤール(左上)、ニール・シャハ(左下)
 

 
 
 「バサンティ」で描かれたように、ジャンガ・バハドゥール・ラナが1846年に首相の地位につくと、それ以降100年に渡るラナ家の専制時代が始まる。
 ジャンガ・バハドゥールが1877年に60歳で死ぬとその弟のラノディップ・シンハ・バハドゥール・ラナ(1825〜85)が後を継いで首相となるが、1885年甥のビール・シャムシェール・ジャンガ・バハドゥール・ラナ(1852〜1901)がクーデターを起こしてラノディップを殺すなど、その後ラナ家の間で骨肉の争いが繰り広げられるようになる。
 そんな時代のラナ家の様子を、一人の少女の目を通して描いた映画に「
प्रेमपिण्ड(Prem Pinda)」(1995年)がある。監督・脚本・音楽はヤダブ・カレル。
 
 
 



物語の舞台となるシンハ・ダルバール(獅子宮殿)の入り口
左に建つ銅像は初代プリトゥビ・ナラヤン王
 

 
 
 冒頭で、宮廷(ダルバール)の現在の様子が映し出される。「プレーム・ピンダ」はラナ家がネパールを支配していた18世紀末〜19世紀頭を時代背景としている。舞台となる宮廷は、シンハ・ダルバール(宮廷)と呼ばれているが、現在ではネパールの中央官庁の建物となっている。それ以外にもラナ家の往時をしのぶ建物は、現在でもカトマンズ市内に数多く見られ、その多くはホテルやレストランとして利用されている。
 映画は、主人公の少女(サニー・ローニヤール)が、田舎から上京し、宮廷に仕えるようになるところで幕を開ける。少女はサビタと名づけられる。宮廷で働く青年ナクル(サロズ・カナール)は、ある日サビタを見て一目惚れ、やがて二人は思いを交わすようになる…。
   
 
 



現在は孤児院として使われている旧ラナ家の邸宅
 



同じく旧ラナ家邸宅の教育スポーツ省庁舎

 
 
 宮廷で踊りを仕込まれたサビタは、ある日宰相の前で踊る機会に恵まれる。宰相もまたサビタに惹かれ始める。だが、宰相の嫉妬によって、ナクルとサビタは引き裂かれ、会うことができなくなってしまう。ナクルは宮廷から地方へ追放され、サビタは宮廷内に閉じ込められる。

 ラナ家の宰相を「バサンティ」(2000年)の監督で、「プレーム・ピンダ」でもプロデューサーを務めるニール・シャハが貫禄たっぷりに演じている。その豪奢でデカダンな暮らしぶりは、いささか悪意を持って描かれている。例えば、最初に登場した宰相は、馬車を降りると室内まで、従者の背中に負われてやってくる。ナクルの夢の中でとはいうものの、狩猟スタイルで拷問を眺め楽しむというサディスティックな側面も見せる。
 だが、彼のサビタへの思いは通じず、最後にはサビタが宮殿を出ることをしぶしぶ認める。宰相の孤独な権力者としての一面を描き出し、憎しみよりも哀れみを誘い出す。大御所シャハの名演ぶりである。
  
 
 



「プレーム・ピンダ」
サロズ・カナール(右下)とサニー・ローニヤール
 

 
 
 愛し合いながらも許されない様子を、サビタは友人に「ロミオとジュリエット」みたいだと語る。この「プレーム・ピンダ」は、まさしくネパール版の「ロミオとジュリエット」を思わせる作品と言える。
 
 宮廷を出たサビタは、ナクルのもとへ向かう。だがその頃ナクルは、崖から落ちて瀕死の重傷を負っていた。死の床でサビタの名を呟くナクル。そこにサビタが到着する。

 ナクルの葬式の日。サビタは自分の体を彼の体に結びつける。そして、崖から川に飛び込んだ。永遠に結ばれるために…。

 「バサンティ」と同じく、「プレーム・ピンダ」もまた、悲劇的な恋を描いている。だが、ただ運命に身を任せたバサンティと違い、サビタは自らの意志で運命を切り開こうとしていく行動的な女性として描かれている。二人のヒロインのこうした違いは、「バサンティ」から「プレーム・ピンダ」にかけての約50年の時代の違いを反映しているの だろうか。
   
 
  ◆ネパール王室のその後  
 
 「プレーム・ピンダ」の中で悪意を持って描かれているラナ家だが、実際、20世紀に入ると、ラナ家打倒の動きが活発化してくる。
 1911年に即位したトリブヴァン・ビール・ビクラム・シャハ王(1906〜55/在位1911〜55)は、1950年インドの後押しでラナ家から政治の実権を取り戻すことに成功。王政復古を実現させ、100年に渡ったラナ家支配を終わらせる。 トリブヴァン王はネパールの明治天皇とでも言うべき、近代化の父で、現在トリブヴァン国際空港や国立トリブヴァン大学などに名前を残している。
 トリブヴァン王の後を継いだマヘンドラ王(1920〜72/在位1955〜72)は1962年政党活動を禁止し、パンチャーヤット制
(*4)を導入。王権の強化に努める。次のビレンドラ王(1945〜2001/在位1972〜2001)は1990年11月、民主化運動の盛り上がりを受けて、政党政治を認める新憲法を公布、ネパールは立憲君主制となる。当時の民主化運動は、「笑いの抵抗運動」で紹介した「バリダーン」(1997年)でも描かれている。
 2001年6月1日 、王宮内でビレンドラ王を始めとする王族9人が虐殺されるという事件が発生。ビレンドラ王の息子ディペンドラ王太子(1971〜2001)が銃を乱射し、自殺を計ったとされる。 ディペンドラ王太子は意識不明のまま11代国王に就任するも3日後に死亡。ビレンドラ王の弟ギャネンドラ(在位2001〜08)が11代目の国王となった。この事件の真相は今もって藪の中に包まれているが、一部では中国びいきのビレンドラ王に対しインドの後押しでギャネンドラがクーデターを図ったのではないかとも囁かれている。
 ギャネンドラ王は、翌2002年、再び政党政治を禁止し、直接統治に乗り出す。だが、それに対して国民は反発。ネパール共産党毛沢東主義派(マオイスト)が反政府闘争を開始する。2006年4月5日、ネパールの7政党とマオイストが手を握り、大掛かりな抗議行動 が発生、ゼネラル・ストライキに突入した。4月21日、ギャネンドラ王は、ついに政権を返上することを発表した。
 2008年4月10日、ネパールでは制憲議会選挙が実施され、マオイストが最大勢力となる。5月29日、ネパール制憲議会は、王制の廃止を決議。約250年の歴史に終止符を打つこととなった。

*4 ネパール独自の政治制度。村・町パンチャーヤット議員を有権者が直接選挙で選び、村・町議員が郡パンチャーヤット議員を選び、郡議員が国会議員にあたる国家パンチャーヤット議員を選ぶというシステム。 
 
 
 



ネパールの旧王宮
現在は博物館となっている
 

 
 
 僕がネパールに来てからあっという間に2年が過ぎた。その間に、250年のネパールの王制が終わる瞬間に立ち会うことができた。もっとも、ネパールでの生活は王制が終わる前と終わった後で何ひとつ変わったようには思えない。今はわからないけれど、きっと長い年月が経ってから、歴史的な瞬間であったのだと感じられる日が来るに違いない。こうした歴史もいつの日か映画となって後世に伝えられるのであろうか。
    
 
 

(2009年2月5日)
 

 

(参考資料)
西澤憲一郎「ネパールの歴史―対インド関係を中心に―」1985年6月 勁草書房
石井溥編「もっと知りたいネパール」1986年11月 弘文堂
石井溥編「アジア読本/ネパール」1997年3月 河出書房新社
佐伯和彦「ネパール全史」2003年9月 明石書店
「ネパール/ロンリープラネットの自由旅行ガイド」2004年4月 メディアファクトリー

C・ラージャゴーパーラーチャリ/奈良毅・田中嫺玉訳「マハーバーラタ(上・中・下)」1983年7月〜9月 第三文明社
 
 
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