第2章−サイレント黄金時代(1) |
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歴史の国の歴史映画 〜イタリア史劇「カビリア」〜 |
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去年(2001年)は、「日本におけるイタリア年」であった。そういう訳で、イタリアに関する展覧会などといったものもずいぶんと多く開催されていた。映画関連でも、京橋にある国立近代美術館フィルムセンター(NFC)で去年から今年にかけて「イタリア映画大回顧」と銘打っての企画上映が行われていた。 イタリアは歴史の国である。伝説の上では紀元前753年にロムルスとレムスの兄弟によってローマが建国されたことに端を発すると言われているが、それは置いておいても、エルトリアの支配から独立してローマが共和制を開始したのが紀元前509年だというから、相当に古い。当時の日本なんてまだ縄文時代で、とても文明などと呼べるようなものは持っていなかったのである。ローマはやがて、カルタゴ、マケドニア、エジプトなどといった周辺国を次々と征服し、強大なローマ帝国として世界に君臨するようになる。 現在でも、イタリアの街には数多くの歴史的遺物が残っており、観光地としてもかなりメジャーな存在である。僕もいつかは行ってみたいものである。 さて、この「映画史探訪」もいよいよ「サイレント黄金時代」(1913〜1927)に入る。この時期には世界各地で数多くの名作・傑作が生まれ、映画は単なる娯楽から、芸術の一分野としての地位を築きあげるようになった。そして1910年代初頭は、イタリア映画の時代であった。 この時期に世界に名を轟かしたイタリア映画の大半が歴史映画であったというのも歴史の国イタリアらしい。「トロイ陥落」(1910年伊)、「クオ・ヴァヂス」(1912年伊)、「ポンペイ最後の日」(1913年伊)、「スパルタカス」(1913年伊)、などと言った作品が相次いで製作された。例えば「ポンペイ最後の日」ではベスピオ火山の噴火の場面に1908年のエトナ山噴火の実写を用いており、大変迫力があったようである。残念ながらこれらの作品はNFCの「イタリア映画大回顧」にも登場しなかったので、僕も断片的に観ているだけでしかない。しかし、多くの題材は戦後にアメリカで再映画化されているので、それで観た人も多いかと思う。 イタリアで歴史映画が数多く製作された理由とは、街に歴史的建造物が数多く残っており、実際にそれらを撮影に使用できたからであったのだろう。神社・仏閣が多く、時代劇が盛んに作られた京都の場合と良く似ている。 そうしたイタリア史劇の中で、現在唯一ビデオで鑑賞することができるのが、1913年に製作された「カビリア」である。監督は、すでに「トロイ陥落」で成功を治めていたジョヴァンニ・パストローネ(別名ピエロ・フォスコ/1883〜1959)。原作は「死の勝利」(1894年)等で知られる文豪ガブリエレ・ダンヌンツィオ(1863〜1938)とされているが、実際に書いたのはパストローネ自身であった。ダンヌンツィオは、「火のロマンス」とあったタイトルを、“火から生まれた”を意味する「カビリア」に改め、字幕を荘重なものに変えただけである。 以下、ビデオを観ながら「カビリア」について色々と見ていきたい。 |
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「カビリア」の時代背景は、ローマと北アフリカのカルタゴが地中海の覇権を競っていた第2次ポエニ戦争(前218〜前201)の頃である。物語は、イタリア半島の南に位置するシチリア島で幕を明ける。 主人公カビリアは島の富豪バトゥの幼い娘である。カビリアは、エトナ火山の噴火によって家族と生き別れ、乳母と共にフェニキア人の海賊に捕らえられてしまう。 奴隷としてカルタゴに売られたカビリアは、モロク神の祭殿に生け贄として捧げられることになる。彼女の乳母は、スパイとしてカルタゴに潜んでいたローマ貴族フルヴィオ・アキシラ(ウンベルト・モッツァーニ)とその従者の大男マチステ(バルトロメオ・パガーノ)に助けを求めた。二人は、今まさに生け贄にされそうとしていたカビリアを助け出すことに成功するのであった。 先にイタリア映画は、実際の歴史的建造物を背景に映画を撮影することが出来たと言った。「カビリア」でも、例えば乳母とフルヴィオが出会う海岸の城壁などに本物の遺跡が用いられ、リアリティが生み出されている。そういった訳であるから、当時のイタリア映画はロケーション撮影を効果的に用いることを特色としていた。 映画はここで突然、ハンニバル(エミリオ・ヴァルダンネス)のアルプス越えのエピソードを描き出す。ハンニバル(前247頃〜前183)は当時カルタゴのイベリア半島における拠点を支配していた英雄である。ローマを背後より攻撃せんと、6万の軍勢と象37頭を引き連れてアルプスの雪山を超えていく。アルプスの大雪原を象を引き連れた大軍勢が越えていくこの場面は短いけれど強烈な印象を残す。 映画の書物などを見ると、このアルプス越えの場面がクライマックスの一つであるかのように書かれていることがあるが、実際の映画ではほんの短いシーンでしかない。現在の「カビリア」は1時間半弱だが、オリジナルは4時間を越えていたというから、あるいはこのシーンも本来はもっと長かったのかもしれない。 いずれにせよ北からという意表をついた作戦によりハンニバル率いるカルタゴ軍はローマに大勝利を治め、その後10年以上に渡り南イタリアを占領することになる。 さて、幼いカビリアを救い出したフルヴィオとマチステはカルタゴ兵に追われることになった。フルヴィオは追っ手から逃れ城壁から海へと飛び込む。一方のマチステは、カルタゴ王の娘であるソフォニスバ姫(イタリア・アルミランテ・マンツィーニ)にカビリアを託した後、カルタゴ兵によって捕らえられる。 |
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それから10年後。ローマの海軍は、カルタゴと同盟を結ぶシチリアのシラクーサを攻略していた。ローマの軍艦にはフルヴィオの姿もあった。だが、物理学者アルキメデス(エンリコ・ジェッメリ)の発明した大反射鏡による熱戦の反撃を受け、ローマ艦隊は次々に炎上し、大敗を喫す。命からがら逃げ出したフルヴィオはローマの名将スキピオ(ルイジ・ケッリーニ)によって助けられる。 スキピオの命によって再びカルタゴに潜入したフルヴィオは、粉ひき場の石臼に鎖で繋がれていたマチステと再会する。フルヴィオの励ましによってマチステは力を振り絞り鎖を引きちぎる。その気になりさえすれば自分で鎖をちぎれるのに、なぜマチステは何年間もそうしなかったのだろうか? 一方、美しく成長したカビリア(リディア・クアランタ)は、ソフォニスバ姫の侍女エリッサとして寵愛を受けていた。 「カビリア」の特色はロケーション効果ばかりではない。舞台装置・美術・衣装なども見所の一つとなっている。カビリアが生け贄にされそうになるカルタゴのモロク神の祭殿はまるで角と牙を持ち、三つ目の巨大な獣のような不気味な形をしており(写真下参照)、その中で繰り広げられる宗教儀式も「インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説」(1984年米)に勝るとも劣らないほどのおどろおどろしさである。また、ソフォニスバ姫の宮殿は、彫像や絵画に彩られ、その豪華絢爛さには目を見張らされる。今年(2002年)に入ってNFCの「イタリア映画大回顧」でパストローネ監督の現代劇「王家の虎」(1916年伊)を観ることができたが、そこでもセットの豪華さは際立っていた。どうやらリアリティあふれるセット撮影はパストローネのお得意芸のようである。 ソフォニスバ姫は、カルタゴと同盟を結ぶキルタの王シファーチェ(アレクサンドル・ベルナール)の妻となっていた。キルタ軍に捕らえられたフルヴィオとマチステは、そうとは知らずカビリアに再会する。ある日、カルタゴの最高神官カルターロ(ダンテ・テスタ)は、カビリアがかつて生け贄として捧げられようとしていた少女であることを知る。彼は神の怒りを鎮めるためにカビリアを再び生け贄にしようと企むのであった。 |
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モロク神殿のセット |
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ここまで読んできて気づかれたかと思うが、主人公であるにも関わらず、カビリアは実に影が薄い。また、「カビリア」の軸となるストーリーも、その後のローマ史劇の典型となるような内容でしかない。「カビリア」の面白さは、何と言ってもそのスペクタクル性にある。シラクーサの海戦や、キルタとローマの戦いの場面は、そうした迫力に満ちている。舞台装置・美術も単に豪華絢爛であるだけではなく、移動撮影が駆使され、奥行きのある映像となっている。こうした車による移動撮影を生み出したのはまさにパストローネであったと言われている。 いずれにせよ「カビリア」は世界中で大ヒットした。それはわが国日本でもそうであった。中でもアメリカの巨匠D・W・グリフィス(1875〜1948)に与えた影響は大きかった。グリフィスに関しては次項で述べたいと思う。 |
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さて、ローマとカルタゴの争いは、「カビリア」の物語の後も長く続いた。そして第3次ポエニ戦争(前149〜前146)の末、ついにカルタゴはローマに破れ、文字通り完膚なきまでに叩き潰されてしまう。生存者は奴隷として売られ、町は17日間に渡って徹底的に燃やされた。そのため、今日ではカルタゴの遺跡すらほとんど残っていない。今日残っているカルタゴに関する記録というのも、敵側ローマによって書かれたものだけであり、どこまで信頼していいのかわからない。 例えば「カビリア」の中にもモロク神の祭殿における生け贄の儀式が描かれている。カルタゴの幼児生け贄の風習というものは同時代のローマのカルタゴに対する反感から生まれた風聞であるかと思われる。「乳幼児死亡率の高い時代だから、死亡した子供をまとめて埋葬する習慣があっただけだと考えることもできる(*1)」という説も見られ、実際のところは良くわかっていない。いずれにせよ、こうしたカルタゴの残酷な面ばかりがクローズ・アップされるのは、この「カビリア」を撮影したのがかつての宿敵ローマの末裔たるイタリア人であったから当然であろう。 カルタゴの立場からポエニ戦争を描いたものとしては、ビクター・マチュア(1915〜99)がハンニバルを演じた「ハンニバル」(1959年米/伊)がある。こちらではより人間的なカルタゴの英雄の姿が描かれているのが特色である。なお、人食い博士ハンニバル・レクターを主人公とした「ハンニバル」(2001年米)は、同じタイトルでも内容にはまったく関連がないので、念のため。 *1 桜井万里子・本村凌二「世界の歴史5/ギリシアとローマ」1997年10月中央公論社 |
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1910年代の前半は「カビリア」を頂点とした史劇によってイタリア映画が世界の映画界をリードしていた。だが、その後間もなくして勃発した第1次世界大戦によりヨーロッパは戦場となる。イタリアはもちろん、ヨーロッパの映画界は大きな痛手を負い、映画の中心はこの後アメリカのハリウッドに移るのである。 |
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(参考資料) 小松弘「イタリア映画の父ジョヴァンニ・パストローネ」1986年7月「現代思想14(7)」 村川堅太郎編「世界の歴史2/ギリシアとローマ」1968年3月中央公論社 桜井万里子・本村凌二「世界の歴史5/ギリシアとローマ」1997年10月中央公論社 ベルナール・コンベ=ファルヌー/石川勝二訳「ポエニ戦争」1999年2月白水社文庫クセジュ ビデオ「シネマ・クラシクスVol.1」より「スペクタクルの英雄」「不滅の史劇」 |
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