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ゴンドールの跡継ぎとローハンの若き軍団長は、しっかり手をつないで美しい石の都を歩き回った。
「王の家」の見事な建築や「真珠と銀の大釘のように煌きわたる」エクセリオンの塔に目を奪われながらも、しかしエオメルにとってかたわらのボロミアに勝る意匠はなかった。
ボロミアが語る声に聞き惚れ、向けられる笑顔にときめき、握られた掌から温かいぬくもりを感じる。
エオメルはうっとりと白の総大将を見つめながら、幸せな白日夢にひたるのだった。
「ボロミアが我が国を訪問した際に「執政の書」の写しを持ってきてくれたが、あれはきみが作ってくれたそうだね。ありがとう」
従弟と執政の長子が連れ立って出ていくと、セオドレドはファラミアに礼を言って椅子に腰掛けた。
「お役に立ちましたか」
「勿論。執政の書は門外不出の品のはずなのに、すまないな」
「ああいうものに興味を持つ者も、もうあまりいませんから・・・」
言葉を交わしながら、ローハンの王子とゴンドールの公子は眼前に広がるペレンノールの平野を眺めた。
爽やかな風が二人の頬をかすめていく。
給仕がかれらのために、新しく茶器を運んできた。
一通りお茶の用意をすませると給仕は一礼して下がっていった。陽光の注ぐバルコニーに二人きりになる。
「いい天気だ」
「ええ。−−あなたの従弟殿も、今日の太陽のように曇りのないお人柄の方ですね」
陽射しを受けながらファラミアが言い、セオドレドはカップを手に取った。
「あいつは単純なのがとりえだから」
弟君は王子に微笑んで言った。
「エオメル殿はあの明朗さで、ローハンを照らしているのですね。それにこのゴンドールで兄だけでなく父の心も捕らえたようです。もっとも父にはかれが人ではなく愛らしい子馬か何かに見えたようですが」
熱いお茶をゆっくりすすると、セオドレドは吐息をついた。
「でも、きみはかれが気に入らないようだ」
王子の言葉に弟君が笑顔のまま答える。
「わたしは率直すぎる人間が苦手です」
「・・・嫌うのはいいが、あまりエオメルにかまわないでやって欲しいな。きみが従弟をへこませるのは簡単だろうから」
するとファラミアは卓上に置かれた王子の手を握ってきた。セオドレドが視線を上げて相手を見る。
青い瞳が澄んだ眼差しで見返していた。
「あなたは、従弟殿とのあいだにわたしの知らない世界を持っておられる。わたしはそのことを悲しんでいるのです」
「・・・」
王子が次の科白を言いかねているうちに、ファラミアは立ち上がった。
そして「文書蔵にご案内しましょう」と言って戸口に向かうのだった。
「ファラミア」
かれは微妙な声音でその背中に呼びかけた。
「−−あの部屋なら誰も来ませんから」と弟君が言い、セオドレドもその後を追っていった。
塔の地下に続く階段を二人は降りた。石の壁にはさまれ、ひんやりした空気が足元から昇ってくる。
古びた紙と埃の匂いがいつ来ても変わらない、とセオドレドは思った。
ゴンドールには膨大な数量の古文書が保管され、各国から人々が学びに訪れている。
セオドレドが好んで読むのは、エオル一族がカレナルゾンの地に定着した後の両国の外交の記録である。
それらの文書はあまり関心を持たれていないのか、地下の奥まった小部屋にまとめて置かれていた。
王子はミナス・ティリス訪問のたびにファラミアとこの部屋に引きこもって、二人だけの時間を過すのを習慣にしていたのだが・・・。
小部屋の扉を閉じるとかれは言った。
「意味深なことを言うから、気になるじゃないか」
ファラミアが書架にもたれて王子を見る。
「王子殿下と、この部屋で過すのがわたしの喜びでした。あなたが執政家の事跡に深い興味を持ってくださっていることが嬉しかったし、ドル・グルドゥアの闇の影をキリオンとエオルが打ち滅ぼす様子を語り合うのは素晴らしいことでした。それにローハンについて教えていただくのも楽しかった。でも、あなたは従弟殿の話を一度もしてくださいませんでした−−わたしは自分で思っていたほどには、あなたのことを知らないようだ」
「別に、エオメルのことなんてとりたてて話すようなことじゃないからね。ついこの間まで子供だったし」
セオドレドは相手の心を計りかねた。
「あなたがエオメル殿を見つめる視線が、わたしの心をかき乱します」
「ファラミア・・・」
相手の巻き毛にそっと触れながら王子が囁く。
「ボロミアを愛しているきみが、妙なことを言う」
「わたしとあなたのあいだには、兄上も知らない心の交流があるでしょう」
「それはそうだが・・・」
顔を間近に寄せて、セオドレドとファラミアは見つめ合った。
「こんなところで、わたしの相手をしていていいのか。エオメルとボロミアのことは気にならないのかな」
「わたしの関心はあなたです」
弟君が吐息のかかるほど唇を寄せる。
「きみが誘惑してくるとは思わなかった・・・まあ、悪い気はしないな」
二人は互いの背中に腕を回しあった。
「あなたもわたしに興味がおありですか、王子殿下・・・?」
相手の問いに、かれは「勿論」と答えた。
「きみは素敵だよ」
「あなたもとても魅力的な方だ−−ずっと以前からそう思っていました」
「光栄だね」
セオドレドはそういってファラミアの背中を撫で下ろした。
そして指を尻の合わせ目の辺りに這わせる。
「わたしを、セオドレドさまのお望みのままに扱ってください」
熱い息とともにファラミアが囁き、王子は無言で相手の下衣を引き下ろそうとした。
だがその手は、弟君に押さえられたのだった。
「そのかわり、わたしの望みも聞いて頂きます」
「そうか。駆け引きという訳か」
セオドレドは乾いた声音でそう言い、身体を離した。
相手はすました顔でかれを見ている。
「刺激的で得難い緊張だった。・・・にしてももう少し、恋愛遊戯を楽しんでもいいじゃないか」
「続きはご随意に。わたしもあなたとの仲を深めたいですから」
「よく言う」
「本心です、王子殿下」
決して内面を覗かせない白い顔を、メッと睨んで王子が尋ねた。
「で、何を望んでおられるというのか、綺麗な顔の策士殿は?」
澄んだ水のような風情で、ファラミアは言った。
「ロスロリアンの森の奥に住まう者の情報を」
「ああ」と言ってセオドレドは肩をすくめた。
「またその話か。デネソール候もエオメルに何か囁いていたが、知らないよ。あの森にはエルフがいるだけだし近づきたくない場所だ」
「わが国にとっては重要なことです。あの森に北方王国の末裔、イシルドゥアの血を継ぐ人間がいるとか」
「わたしが生まれる前の話だろう」
「森で育てられた者の話を少しでも知っているなら教えて下さい、殿下。その人間は今は住んでいないにしても何度も森を訪れているはずです。そして、ロリエンとゴンドールの間にはあなたの国がある。かれがローハンに現れることもあるでしょう」
「さあね」
「年老いた者たちの話では、かつて父が若い頃にその者がこの国にいたという話です。でも、詳しいことはわからない」
ファラミアが王子に近づいて尋ねる。
「教えて下さい、お願いですセオドレド」
真剣な眼差しである。するとセオドレドは瞳を細めて、ごく低い声で囁いた。
「−−ファラミア。デネソール候が、どこかで見ているぞ」
弟君がハッと身をすくませ、思わずあたりを見回した。
「あなたの仰ることはわかります・・・ですが、今日は父は北イシリアンの状況を視察に出かけました。我々の会話を知ることはないでしょう」
「きみの父上は世界を見通す眼を持っている気がする。だから迂闊なことは言いたくない」
ファラミアは相手に頷いてみせた。
「大丈夫です」
「わかったよ」そう呟いてセオドレドが折れた。
「きみの言う人間のことは、確かに知っている。だがロリエンの森にいないのは確かだ。かれはエルフの養い子でかれらの守護を得ているようだが。北のドゥネダインたちと共にローハンに立ち寄りもする・・・わたしのヘルム峡谷を宿に提供したこともあるよ。あくまで、一介の旅人としてだが。かつてはセンゲル王の宮廷に仕えていたという話も聞いている」
さらに声を潜めてセオドレドは告げた。
「わたしは努めて、その者と親しくならぬようにしているので、詳しい人となりは知らない。だが、かれは背が高く、髪が鋼色で不思議にきみの父上に似ているようだ。風体は質素で、瞳は思慮深い。そして、これはあくまでわたしの私見だが−−その額に、確かに王の徴が見える気がする」
そこまで言ってかれは息を吐いた。
「断っておくがローハンはゴンドールのお家騒動に関与したくない。わが父王も彼の者の出自は知っているはずだが、関心がないようだ。かつて祖父のもとにいたという話もよくわからない。我々は事跡を文書に残す習慣がないし、忘れっぽいのでね」
「貴重なお話を有難うございます」
ローハン王子の言葉を反芻しながらファラミアは礼を述べた。
「その者は、昔ミナス・ティリスにいた頃はソロンギル、星の鷲と言われていたそうです」
「エルフはかれをエステルと呼んでいる。意味は「望み」だという」
「名は体を表すのでしょう、どちらも良い名だ。いまのお話からあなたが実はその人間に好意を抱いていることがわかりました」
弟君は微笑んで見せた。
「いや。わたしは別に・・・」
「わたしも、イシルドゥアの末裔の噂をいくつか耳にしながら、嫌いになれません。不思議に懐かしく慕わしさすら感じます。いつか、その方がこの国を救ってくれるかもしれないと思うことも−−でも、父はそのようなことを望んでいません。その方が優れたお人柄であるほど、執政の脅威になるでしょう・・・父は民の心を完全に掴んでいるわけではありませんから。そしてわたしは父の心に添う道をとるつもりです」
「色々考えすぎじゃないのか。かれに何らかの野心があるなら、とうにゴンドールに乗り込んでいるだろう」
懐疑的な口調でセオドレドが言う。
「そうですね。そういうお人柄の方ではないと思います。ですが、万が一にも、その者が王座を要求するようなことがあったなら、父は決してそれを許さないでしょう。そして兄も、父の影響を受けてゴンドールの栄誉を担うのは自分だという自負心があります。もしも、失われた王と、執政が対立するような事態に至ったなら、その時こそローハンにエオルの誓いを思い出して頂かなくては」
そう言われた王子は秀麗な貌をしかめた。
「我々の考える「大候の危急の際」は、ゴンドール国内のいざこざは含まれないと思うが」
「あなたがたの助力が必要です」
「とんでもないことを言い出すな。内乱に巻き込もうと言うのか?王位継承には関知しない、勝手にやってくれ」
「王子殿下、お願いです」
セオドレドは掌を相手に向けて、さえぎった。
「きみらしくない・・・変だな。それは、権力の地位をデネソール候が守りたいのはわかるよ。そして、出来れば執政でなく王位を、自身は不可能でも息子に継がせたいと望むのも。だが、きみにはわかっているだろう。お父上が夢見ているのは茨の王冠だ。ボロミアにかぶせても、鋭い棘がかれを傷だらけにするだけだ」
「父も兄も怪我など厭わないでしょう」
表情の読めない相手の顔を見つめながらセオドレドは続けた。
「たしかに、エオルの誓いは生きている。われらが始祖が忠誠を捧げた相手は、王ではなく執政だ。そのことは忘れない。だが、王位を簒奪するような執政なら、誓いを果たすのを躊躇うね。きみは何故そんなに危うい要求をするんだ?そういう事態が起こる予兆があるのか」
ファラミアは、いつもの白い笑みを口元に刻んで王子を見た。
「いいえ・・・これはあくまで仮定の話ですし、わたしは権力も王位もどうでもいいのですよ。ただ、兄が健やかに人生をまっとうして下さること。それだけが願いです」
「賢く忠実な弟君がそばについていれば、ボロミアはいつまでもゴンドールを照らす太陽でいるだろう」
セオドレドの言葉にゴンドーリアンが整ったおもてを翳らせた。
「残念ながら、そういう訳にはいかなくなりました」
「わたしは数日中に南方のウンバールに行かなくてはなりません」
「ウンバール。大港がある場所だな」
それは古来より、ゴンドールがハラドと領有権を争う海運の要地である。
「その地に良質の鉱山が見つかったのです」
「そうなのか」
「鉄器はゴンドール軍の防衛の支柱ですから。何としても鉱山と港を確保せよ、と父に命じられました」
ロヒアリムは大地に根づく種族なので、セオドレドも海上の覇権についての詳しい知識はない。だが、ウンバールの港がハラドリムの国に隣接していることは知っていた。
ハラドはゴンドールに属することを良しとせず、過去何度も戦を行なってきた南方の強国である。オークを追いかけて遠征したときに、王子は遠くかれらの姿を見かけたことがあった。
その人々は肌の色が濃く、驚くべき巨獣をあやつっていた。
そしてかれらはヌメノールの子孫に憎しみを燃やしていると聞く。
ことにゴンドールの国力が衰えつつある近頃では、ハラドとその周辺国の軍事力はあなどれないものになっているはずだった。
「危険だ」
王子は鋭く言った。
「たいへん重要な任務を頂いたと思っています」
「執政家の息子が請け負うには、厳しすぎる使命だ」
「ええ。ですから、息子のうち失っても惜しくない方に与えられたのでしょう」
「ファラミア・・・」
静かな口調でそう答える弟君に、セオドレドは声を失った。
中つ国の一の権力を持つ父は、息子に死地に赴けと命じ、息子は黙ってそれに従うというのである。
かける言葉が見つからず、王子は相手の手を取った。
それを強く握り返してファラミアが言う。
「王子殿下、だからお願いしたいのです。どうかボロミアをお守りください。執政家にエオル王家の守護を与えてください。それがかなうならわたしは持てる全てをあなたに差し上げます」
苦境を前にして、なお自分自身より兄を想う弟の姿にセオドレドは胸をつかれた。
相手の肩を抱いて抱き寄せると、ファラミアが素直に王子の肩に顔を埋める。
「なにもいらない」とセオドレドは言った。
「わたしはローハン王子である前に、きみの友人だ。友のために力を尽くすだろう」
「セオドレドさま」
ファラミアは青い瞳に涙を浮かべてかれを見た。
「感謝します」
どこか寂しい顔立ちなのに、強靭な精神に支えられている弟君は、今まで泣き顔を見せたことがない。
眼を潤ませたかれをはじめて見る、とセオドレドは思った。
「同情しない」
冷たいくらいの口調で王子が告げる。
「ボロミアを守ろうとするのも、デネソール候に従うのもきみが選んだことだ」
「ええ」
ファラミアはそっと頷いた。
「そう言ってくださるあなたを信頼しています」
「わたしもきみを信じている」
(だが、この学問と音楽を愛する瀟洒な青年は、もっと誰よりも愛され大切にされるべきなのに・・・)
セオドレドの胸に悲しみが湧き上がる。しかしそれ以上は踏み込むまい、とかれは決めた。
ファラミアは自分よりボロミアを愛しているのである。そして、自らの命を危険に晒しても、父親に認められることを望んでいるのだろう。
「死ぬなどと、つまらないことを言うな。きみに何かあったらわたしの胸が潰れてしまう。きみがわたしにとってどれくらい慰めになってくれたかわからない」
「わたしが殿下のお慰めに」
「そうだ。少年の頃からずっと、きみはわたしの心の大切な場所に住み続けている」
「セオドレド」
頼りない少年のような声で呟いて、ファラミアがぎゅっとしがみついてきた。
ロヒアリムは感情に従って相手の顔を軽く仰向かせた。湖水のさざ波のような瞳がかれを見つめる。
互いの唇を触れ合わせようとしたとき、
「あっ・・・」
とかすれた声がして、二人は戸口の方を振り向いた。
半ば開いた扉の間から、エオメルが呆然とこちらを見ていたのである。
その少し前のことだった。
歴代の王と執政が眠る廟所に案内されたエオメルは、ボロミアとともに厳かな気持ちで祈りを捧げていた。
かれはゴンドールの血を引いているので、死者たちはかれの祖先でもある。
そこに近衛の兵がやってきて、ボロミアに急用を告げたのだ。
視察に出かけたデネソールが、長子に迎えに来るよう命じているというのがその用向きだった。
ボロミアはすまながり、これから父を迎えに行かなくてはなりません、とエオメルに言った。
ロヒアリムは少し残念な思いがしたが、「どうぞわたしのことはかまわずに」と相手を促した。
「夕刻までに帰ります。晩餐はご一緒できると思うのだが」
そう言って白の総大将はその場を去っていった。
ひとりになったエオメルはあてもなくあたりを歩き回っていたが、やがて従兄をさがそうと思い立ったのである。
確か殿下は書庫においでになるはず、とかれはエクセリオンの塔に足を向けた。
白い塔の地下には広い文書蔵が広がっていた。
蝋燭の灯りの元で数多くの人々が書類をめくったり、書き物をしたりている。
物珍しく見回していると司書らしき人物を見つけたので、エオメルはその者にセオドレドの所在を尋ねた。
そしてローハン王子は奥の小部屋にいるはずだと教えられたのだった。
そっと扉を開けた時、エオメルの視界には、蝋燭の揺らぎの向こうに長身の従兄と巻き毛の公子のシルエットが重なり合うのが見えたのである。
かれは思わず声を洩らした。
このお話のテーマのひとつがファラミアを素敵に書く、だったりします。他のフィクではアレなのでオホンオホン。
なんだこの展開!
とお怒りにならず、ささ、続きも読んでおくんなまし〜。
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