【廃墟マニヤ File073】
T守之櫓/日本M資料館(茨城県)
(その3)
外観だけのつもりだったのですが、うまく周囲の人影が途切れたのを見計らって、スルッとお邪魔してみることにしました。
薮に潜り込んですぐこの施設の名前を彫った石柱を発見。
右手にあった建物の扉が全開だったので覗いてみると、いきなり玄関から「日本の名城」です!
……ただ、その他はごく普通の生活空間のようでした。基本的にあまりプライベートな部分には立ち入らないことにしているので(説得力がないですか!?)内部の画像はありません。なぜここが廃墟になってしまったのかが想像できる、ちょっと悲しい痕跡が残っていたとだけ書いておきます。
気を取り直して薮をかきわけていくと、石垣の上に登る金属製の階段が出現。
天守の中に入った者がまず目にするのはこんな眺めです。外観から想像できる通り、かなり狭い空間でした。
左のアンテナ用の屋根馬は、はじめマイクスタンドかと思ったのですが、下に落ちている紙が営業(?)時にはぶらさげられていて、館長がそれをめくりながらいろいろ説明してくれた……というのが正解ではないでしょうか。
部屋の隅には、定番ともいえる甲冑と日本刀を置く台(名前はあるのでしょうが、なんというのか知りません)が。城マニアには欠かせないアイテムだったのでしょう。ちなみに刀は持ち去られてしまったのか行方不明に……。
周囲には、おそらく館長が訪問して撮影したと思われる城の写真がぐるりと飾られていました。
館長が訪れた日本全国の城が書き込まれた地図。
せっかく作られた城のプラモデル(たぶん)もいっしょに落城です。
館長がこの建物を造った理由が書かれていました。読むのが面倒くさい人のために簡単に意訳すると、前半は「30年にわたって極めたオレの自慢の城コレクションをマナコを開いてしかと見やがれ!」という内容ですが、後半はぐっと重くなって、大東亜戦争で戦死した戦友の慰霊の為と書かれています。
よく考えるとこのふたつが合体していることがおかしいのですが、とりあえずこの「T守之櫓」を建てたO氏は、大東亜戦争当時満州の戦車隊に入っていて多くの戦友を失ったという話です。
(続く)
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