思うこと 第240話 2007年7月31日 記
平家落人・奄美統治の跡を訪ねて−その5−
平家落人・奄美統治の跡を訪ねては、すでに『232話−その1−』、『233話−その2−』、『238話−その3−』、さらに『239話−その4−』とシリーズで述べてきたが、今回は、昇 曙夢氏著の『大奄美史』を通して、『平家没落由来書』の内容を引き続き紹介する。
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【平家の居城】
居城の模様に就いては、由来書には行盛の牙城たる戸口城のことしか書いてないが、それによれば行盛の居城は前衛として殊の外堅固であった。(下に示す図は由来書には無く、後世に書かれた物であるが、
理解しやすくするためここに添付した。)
もと戸口の酋長の居城であった池野の山に地をトし、大手には壕を掘り、これを繞らすに更に海水を引き入れて海地を作り、本丸を険阻六十余間の高所に構え、北から東南にかけて六十余間の人道を拓き、搦め手は直接山を以て備えた上に六十余間四方の溜池を配し、二の丸、三の丸を合わせて長さ二百余間、広さ百余間の地域を占め、北の城かきに八軒、南の方玉城に十軒の人家を営み、各々見張り番を置き、田袋を擁して、敵を喰い止めるようにし、その上本城を繞らすに、東の方川向こうの丘の上に松当城(能居城ともいう)を築いて山野大善太夫を配し、西の方屋々勝に二俣大善太夫・友野十郎光成両名の居城を築き、この両城の中間大美田山に古見城構へえて、大勝村・古里村主頭福利別頭盛秋を配し、奥間村主頭坂脇太夫、中勝村主頭福利太夫頼秋両人は中勝村を本拠に定めて、敵勢一人だに踏み込ましめぬやうに固めに固めた。それでも万一敵が吉見城を破って攻め入る時は松当・屋々勝二城の兵を以ってその後方を扼し、本城と力を合わせて田袋挟み撃つ備えであった。
この外遠見番として、竜郷湾(笠利湾ともいふ)の入り口を挟んで相対する2つの崎の内、左手の安木屋場崎には今井権太夫を、右手の屋仁崎には蒲生左衛門を配して近海を監視せしめ、敵の来襲に備えて7日目毎に海上の様子を進駐せしめた。そして源氏の旗印と見まがうことを怖れ、漁船その他島内一切の船には白帆を用ふることが禁じられた。かくて用意周到水も漏らさぬ厳重な警戒は素より島民の反抗に備えたのではなく、いつ来るとも計られない源氏方の追手を怖れたからである。
【平家文化の厭世的影響】
上古以来頻繁であった大和朝廷との往来が酋長の内肛や倭寇の跋扈のために、一旦途絶して、自然の運命に放棄されてから、文化的にはむしろ後退したと見られる大島が、酋長時代の末に至り平家一族の渡来によって、その指導啓発の下に再び文化の道に進められたことは、何と言っても島の文化史上に一新時期を劃したものと言わねばならない。と同時に、敗残者としての平家の文化が我等の祖先の性格・思想・感情、特にその情緒生活の上に及ぼした厭世的影響も亦否み難い事実である。
【平家渡来の史実性】
平家の統治がせめて一,二世紀も続いたら、その影響も従って深く、大島の文化ももっと見違へるようになってゐたであろうが、不幸にして彼らの運命は南島においてもはかないものであった。元久二年(1205年)の渡島以来僅か三,四十年にして、彼らの支配は終わりを告げ、大島は再び酋長の支配に帰して、遂に琉球の配下に投ずるに至った。と言って、平家の治績が全然跡を断った訳ではない。たとえ統治年数は短くとも、その間に酋長等の闘争を鎮定して、彼らの圧迫から島民を救ったばかりでなく、民俗を改め、風教を興し、文化の発達に寄与するところの多かったことは、平家の功績としてこれを記憶しなければならぬ。と、同時にその統治が積極性を欠いていたことも忘れてはならぬ。彼らの支配は短日月であった上に、元来が気力を失った敗残者のこととて、無闇に源氏の来襲を怖れ、身の安全を計るに汲々として、統治に心を専らにすることが出来なかったのは止むを得なかったが、そのために治績を充分に挙げ得なかったことも事実として認めなければならぬ。従って酋長の闘争もこれを完全に鎮定するまでに至らなかったので、この情勢はその後大島が琉球の支配時代に移ってからも猶数十年間打ち続いて害毒を流している。
以上述ぶるが如く、平家の大島支配は史実としては極めて貧弱であるが、豊富なる口碑・伝説の外に頑として存する遺跡・民謡・古記録及びその影響等に徴して明白な事実であり、今更疑問を挟む余地はないやうに思われる。然るに従来の史家が此の事実に耳を仮そうとしないばかりか、故意にっその研究を避けんとする傾きのあるのは、国史への遠慮か、それとも熱意の足らないためか、何れにしても我が国史上貴重の史実を有耶無耶に葬り去るが如きは事実に目を掩ふもので、われわれの大いに遺憾とするところである。
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以上、昇 曙夢氏著の『大奄美史』を通しての『平家没落由来書』の内容の紹介と、昇 曙夢氏の平家奄美統治の史実に関する考え方を紹介した。次回『その6』では、文(かざり)英吉著の『奄美大島物語』の内容を中心に述べたい。