思うこと 第239話 2007年7月30日 記
平家落人・奄美統治の跡を訪ねて−その4−
平家落人・奄美統治の跡を訪ねては、すでに『232話−その1−』、『233話−その2−』、さらに『238話−その3−』と、シリーズで述べてきたが、今回も、昇 曙夢氏著の『大奄美史』と文(かざり)英吉著の『奄美大島物語』の2つの著書を通して、『平家没落由来書』の内容を引き続き紹介する。『平家没落由来書』は平家渡来当時平家側(多分行盛勢)の手になった記録と考えられているだけあって(『238話−その3−』参照)、その記述は実に詳細かつ具体的である。
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建仁二年(1202年)4月硫黄島から奄美大島を指して南下した資盛は手兵2百人と共に、先ず喜界島に上陸し、まもなく居城を構えて七城と称した。今日平家の森と呼ばれているものはその跡とのこと。此処に3年ほど滞在しているうちに、計らずも20年前屋島において別れた有盛・行盛の二将が遥々彼の跡を追って来たのに逢った。喜界島のこれら三将は、近くに横たわる大島の攻略を計画、小船5艘の偵察隊を大島に遣した。『238話−その3−』では、ここまで述べたので、今回はこの後の部分を紹介する。由来書の文面を直接紹介すると、『−−−−喜界滞留中小船5艘遣わし、人居の有無又は一島の主の有無を見届けさせ候処、三ヶ月にして帰島致候。一島の主無之島にて、−−−−−』のごとくになっているが、以下、現代の言葉に直したものを、解説も加えながら紹介する。
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小船5艘を遣わして、人居の有無や島の主の有無を偵察させたところ、三ヵ月後に帰島した。報告によれば、一島の主はないようで、人家は多く山陰にある、理由を問えば海岸に居を構えると海賊来たって財を奪うからとのこと、島民には武器があるようではなく、木を以って斧のようなものものを作り、その先に少々鉄を入れてある様子で、その先を人に見せないように保護している−云々とのことであった。
以上のような偵察の結果だったので、資盛、有盛、行盛の三大将はいよいよ奄美本島攻略を決定し、喜界島には主頭白尾大善太夫外主従40名を止め、残余の兵を三手に分けて各々その一を指揮し、三方から大島に攻め入った。すなわち資盛手の船七艘は島の西表へ、、有盛手の五艘は東表から北表へ、行盛手の五艘は南表に乗りつけ、六旬を出でずして(二ヵ月足らずで)全島を攻め取った。(由来書では、資盛勢、有盛勢の戦争の模様は、その箇所が虫食いのため不明であるが、行盛勢については以下の様に詳しい記載が残されている。)
左馬頭行盛、附役大将二俣大善太夫、友野十郎光成、坂脇太夫、福利太夫頼秋、同姓別頭盛秋、外百五十余人、瀬名港(現在の戸口)に上陸、案内知った二人を遣わして調べさせたところ、海岸近き小屋に60歳位の女が一人居合わせた、手真似を交して訊いた。
「その方の男は何処へ行ったか」
「山に仕事に出かけた」
「何時頃木屋に帰るか」
「夜に戻り来る」
と、云うことだったので、夜に入ってから三十人程は近くに隠して、二人だけ木屋を訪れた。すると三十人余りの屈強な島民が集まって木屋を取り巻いたので、隠しておいた味方勢が躍り出て忽ち二十人程を討ち果たし二人を生け捕りにした。その二人に案内させて更に山のほうに進んだところ、多くの島民が木や竹をとぎらかしたもので散々突きかけ、また、石など投げかけるので、矢を以って射殺し、四十人程を生け捕りにした。それらを案内させて数百人が船4艘に打乗り、手分けして古方から須垂、住用と攻略して五十日を費やして全部を平定した。由来書では、さらに詳しく細部にわたる記録が延々となされているので、ここでは、昇 曙夢氏著の『大奄美史』にある総括・解説を紹介する。『由来書に依って観れば、武器を持たない島民が、戦争には百錬の強敵を迎えて、或いは山嶮に拠り、或いは谷間に隠れて、木槍、竹槍又は木斧を以って勇敢に抵抗した様子がありありと窺われる。口碑によれば土民は最初海賊の襲来と思って抵抗したというが或いはそうであったかも知れない。兎に角土民のこの頑強な抵抗には流石の平家勢も大いに手こずったらしく、捕虜にした土民を使って、脅したりすかしたり、あらゆる手段をつくして、討伐五十余日に亘って漸く手馴付けることが出来た。戸口の酋長思太郎・真三郎を初め、有屋の按司某等が如何に平家勢を悩ましたかは口碑にも残っている。この頃は奄美大島も乱世時代のこととて戦争には幾分慣れていたから、酋長・按司の輩はもとより一般島民も勇猛精悍であったようだ。』 さて、昇 曙夢氏著の『大奄美史』では、同じく『平家没落由来書』と口碑などにより、『平家の支配と一族の最後』と題して、次のように述べている。
昇 曙夢氏著の『大奄美史』、102頁から105頁
平家の支配と一族の最後
【全島を3分して治む】大島に攻め入ってから六旬を出ずして全島を平定した三大将は、島内を三分して各々その一を領した。即ち資盛は島の西南部東間切・西間切・屋喜内間切を領有し、諸鈍(下の図の大屯神社のある場所)に居城を構えて全軍を総管し、
有盛は島の北部名瀬間切・笠利間切を領して、浦上に居城を構え、北部を警備し、行盛は島の東部古見間切・住用間切を領して、戸口に牙城を築き東南を警戒した。そして、管内の各地にはそれぞれ兵を駐めて守備にあたらしめた。由来書に『瀬名方村々主頭無之候て成間敷、奥間村へ坂脇太夫、中勝村へ福利太夫頼秋、大勝村、古里村へ同姓別頭盛秋、戸口村には二俣大善太夫・友野十郎光成、何れもこの節の戦功に依り如斯宛行い候。』とあるは行盛管内のことであるが、他の二将の管内も同様であったと思われる。
【平家の統治と島民の帰服】全島の平定後は、その時まで横暴を極めた酋長等の跋扈も漸く薄らぎ、平家方でも島民を撫育したので、島民は喜んでその徳化に服した。同時に硫黄島へのご奉公をも承って、米穀は主として大島から奉納したというから当時の島民が主上の硫黄島在世中幾十年間に亘って忠誠を励んだことが解る。島民が平家の統治に満足して、三卿の徳に服していたということは、三卿の死後各城跡にその墳瑩を営み、神社を建立してその霊を祀り、今に至るまで祭祀を怠らない事実に徴しても知られる。
と、ここまで、タイプを打ったところで飛行機は北京空港への着陸態勢には入ったので、この後は次回『その5』以降にゆずる。