<STAGE6>「ファミリーコンピューター」の衝撃
過去の「画面の告白」は↓からどうぞ
<STAGE1>「まだ『画面』が無かった頃」
<STAGE2>「ゲームウォッチ」との遭遇
<STAGE3>「テレビゲーム」登場
<STAGE4>「カセットビジョン」への複雑な愛情
<STAGE5>憧れのマシン、その名は、「ぴゅう太」
「ファミコン」ことファミリーコンピューターが発売されたのは、83年7月。定価は1万4800円でした。最初にファミコンの画面を見たときには、そりゃあもう、ビックリしたものです。「これって、ゲームセンターにある『ドンキーコング』と同じじゃないか!」と。当時は、<STAGE5>で挙げた「ぴゅう太」の『スクランブル』のようなごく一部の例外を除いては、「ゲームセンターのゲーム」と、家でできる「テレビゲーム」には、ものすごい格差があって当然だったのです。「カセットビジョン」なんて、「これは人だ、そうだよな!」と自分に言い聞かせながらやっていましたし(まあ、動いていればそんなに気にならなかったんですけどね、実際は)。
「ゲームセンターと同じゲームを家で遊ぶ」というのは、まさに「見果てぬ夢」だったんですよね。しかも、「ぴゅう太」の5万円とかじゃなくて、ちょっとは手の届きそうな本体価格だったし。しかしながら、あの「ファミコン」でさえ、発売当時はまだ、怖くて買えないものでした。なんといっても「任天堂」っていうのは、「ドンキーコング」や「マリオブラザース」はあったものの、ゲームメーカーとしてはナムコやタイトーに比べたら細々としたものでしたし、いくらハードが凄くても、ゲームが出なきゃねえ…というのが僕たちの実感でした。しかしながら、オモチャ屋の店先にあった「試遊台」はいつも大人気で、みんなで順番を争って「マリオブラザース」をやっていたものです。順番争いで中学生に脅されたりもしたよなあ、あの頃は。ものすごく欲しかったけど、これを買ってくれというのはちょっと分をわきまえない行為なのではないかとか、いろいろ考えてみたり。あのコントローラーの十字キーも、最初は「なんだこれ?」という感じだったのですけど、慣れてみれば、スティック型より壊れる心配も少なかったし、操作もしやすかったんですよね。
当時は「1万円以上もするオモチャ」というのは高嶺の花ですから、僕たちはみんなファミコンの凄さを認めつつも、「カセットビジョンの二の舞になるのでは…」という不安を抱いていたのも事実です。そもそも、ファミコンが成功するまで、家庭用テレビゲームで、ファミコンのように「どんなゲームでも遊べる標準機」となって、大成功を収めた例は無かったわけですから。所詮、「本体メーカーのゲーム+αしか遊べない」のが常識だったのです。
そんな中、「弟に親に買ってもらうように仕向ける作戦」で、うちにもファミコンがやってきました。最初にやって来たのは、『ベースボール』と『テニス』『スーパーマリオブラザース』本当に当時の任天堂のファミコンゲームは、『ポパイの英語遊び』とかを除けばほとんどが傑作揃いで、『テニス』なんて、最初は「人間にはこんなの打ち返せるはずがない!」と思ったようなレベル5ですら、修練の末にこなせるようになっていきました。『ベースボール』なんて、のちの裏ワザ「ハエボール」でカセットがぶっ壊れるまでやってましたし。それまでのカセットビジョンの「コンピューターのバッターが、いきなりバットをグルングルン振り回している」という野球ゲームに比べたら、本当に隔世の感がありました。
そして、『マリオブラザース』は、今でも2人プレイ用アクションゲームの金字塔だと思っています。あのマリオの動きと、叩いて、蹴っ飛ばすというわかりやすくて爽快感のあるアクションとか、協力プレイも潰しあいもできる2人同時プレイとか。店頭で『マリオブラザース』をやって、ファミコンを買おうと思った人は、けっして少なくないはずです。
しかし、ファミコンは確かに、他の家庭用ゲーム機よりは売れていたのですが、正直、まだみんな半信半疑のところはありました。この素晴らしいグラフィックとサウンド性能を持ったゲーム機も、結局のところは、「任天堂のゲームしか遊べない」のではないか?と。
そんななか、「サードパーティ」の参入が発表され、ファミコンは大きな転機を迎えるのです。1984年に、まずはハドソン、そして、大御所ナムコが参入してきたのです。
<STAGE7>「サードパーティ」事始に続きます。