四. 三 日 月 の 影



 本論、「四.三日月の影」は、同じ「出雲の月神シリーズ」の「はじめに」「一.爾佐神社」「二.賣豆紀神社」「三.月の輪神事など、総括」が、先に読まれていることを前提に執筆してあります。したがって、これらを未読の方は、あらかじめそちらを読まれることを推奨します。m(__)m


  山中鹿介が三日月に向かって「我に七難八苦をあたえ給え」と祈ったエピソードは有名である。だが何故、彼はそんなものに祈る気になったのか。その信仰の動機は何か。ここでは、そのことについて考えてみたい。

 とりあえず、このエピソードにはかなり後世の潤色が入っている、ということを断っておく必要がある。というのも、最初に「七難八苦をあたえ給え」の台詞を編み出したのは、鹿介本人ではなく、幕末の松江藩の儒者、桃節山だと考えられているからである。鹿介が初めてこの台詞を口にしたのは、明治二十五年に補訂された『出雲私史』であり、しかも同書ではまだ「三日月を拝しながら」ということになっていなかった。最終的に、彼が三日月に祈り、この台詞をしゃべった、ということにしたのは、明治初期に島根県知事などを務めた籠手田安定であると言う。そして昭和12年、このエピソードが小学校の国語読本に『三日月の影』のタイトルで採用され、鹿介は戦前の少年達の間でヒーローとなった。

 とはいえ、鹿介がしばしば三日月を拝していたこと自体は本当だった可能性が高い。『陰徳太平記』によれば、16歳の少年鹿介が三日月に向かって「願わくは三十日を限り、英名を博せしめ給え」と祈ったとあり、鹿介が三日月を拝したのはこの時が初めてで、それからは常に三日月を拝するようになり、その信仰は終生変わらなかったという(※1)。
 『陰徳太平記』は江戸期に成立した文献であり、鹿介と同時代のものではないが、全くの作り事で三日月を信仰していたなどという話は出てこないだろう。こういったことから、彼が三日月を拝する信仰をもっていたこと自体は本当だと考えて良いと思う。だが、この信仰はどこから到来したのか。

 いちおう、定説というのか、鹿介は兄から山中家の家督を譲られた際、家宝の甲冑を譲り受け、その兜の脇立てに鹿の角が使われていたため「鹿介」を名乗り、前立てに三日月の飾りが付けてあったので三日月を信仰するようになった、という伝えがある。
 しかし、いくら家督と共に譲られた兜とはいえ、そこに三日月を象った前立てが付いていただけで、月を信仰する気持になれるだろうか。むしろ、その風変わりな月への信仰を解く鍵は、もっと別のところにあると考えるべきではないか。

 山中鹿介幸盛は出雲の人である。天文十四年八月十五日に出雲国富田庄で生まれたとされる(※2)。富田庄は出雲東部を流れる富田川流域の土地で、鹿介の主家、尼子氏の本拠であった。鹿介の頃は能義郡になっていたが、分割される前は意宇郡である。そして先にも触れた通り、意宇郡は海上交通神としての神格をもつ出雲の月神信仰圏であると考えられた。してみると、三日月を拝する彼の信仰も、じつは上代から続くそうした月神信仰の流れをひくものであった可能性を感じるのである。



山中鹿介幸盛



 山中鹿介幸盛は、天文十四年(1545)八月十五日、出雲国富田庄で生まれた。異説もあるが、最も古い鹿介伝を載せる『甫庵太閤記』にはそうある。鹿介は、「鹿之介」と書かれることが多いが、同時代資料には「鹿介」とある。またそもそも鹿介は通称で、名乗りは「幸盛」であった。

 彼の父は山中満幸、母は立原綱重の娘、幼名は甚次郎とされる。父満幸は鹿介が生まれた翌年に死亡しており、彼はもっぱら母の手で育てられた。『陰徳太平記』等には、この母が賢母であったとする記事がある。

 鹿介が生まれたのは、主家の尼子氏が毛利勢に押され、出雲での覇者としての地位を失墜しかけている時期であった。永禄九年(1566)、尼子義久は毛利軍の三面攻撃をうけ、ついに月山富田城を開城、安芸に護送されてしまう。

 鹿介の名が歴史に登場するのは、この月山富田城攻防戦の際で、永禄八年における毛利方の将・品川大膳との一騎打ちは有名な話だ。
 月山富田城開城後の彼は、主家再興をはかり、尼子一族新宮党の遺児・勝久を擁して出雲に入るが、毛利軍に破れる。上洛して織田信長を頼り、羽柴(豊臣)秀吉の中国攻めの際、主従ともども上月城に入城するが、毛利軍の猛攻を受け、勝久は自刃。鹿介は捕らわれ、毛利輝元のもとに護送される途中、殺害された。
 彼が三日月を拝しながら、「我に七難八苦をあたえ給え」と祈ったエピソードは有名であるが、その生涯は苦難に満ちており、尋常とは思えない忍耐強さや不屈の闘志を感じさせるものだ。

 そのいっぽうで、彼がみせた尼子氏への忠誠心や、賞罰において公平であった等のエピソードには、卓越した人格をうかがわせるものがある。頼山陽は「虎狼の世界に麒麟を見る」と述べ、勝海舟は「ここ数百年間の史上に徴するも、真の逆境に臨んで従容として事を処理した者はほとんど皆無だ。まずあるというならば、山中鹿介と大石良雄であろう。」と述べている。

 彼の名は、江戸期から尼子十勇士の筆頭として軍記物などに登場し、人気を博した。また本文で触れたとおり、昭和12年になると、彼のことが小学生の国語読本に採用されたため、戦前の少年達の間で鹿介はヒーローとなった。現在ではこうしたことがかえって徒となり、彼の名をアナクロニズのイメージと結びつけやすくしているが、いずれにしても興味深い人物だ。



 鹿介の生まれた富田庄には、永禄九年まで尼子氏の居城であった富田城がある。この城は富田川中流域の右岸にある月山に築かれた山城であり、「月山富田城」と山名と並べて呼ばれるのが一般的だ。月山北麓の新宮谷には、鹿介の生まれ育った館跡と伝承される場所もあり、鹿介は少年期を富田城下で過ごしたと考えられている。

富田川対岸から見た月山

 月山は標高183.8mの山で、さほど高くはないが、富田川の対岸から眺めると、周囲の山並みからは完全に独立し、ピラミッドのようなフォルムが印象的だ。さて、この月山という山は、文字通り一個の「月山」ではなかったか、── 紛らわしいのでこれからは、富田城が築かれた山名の月山ガッサン≠ヘそのまま月山と表記するが、私が、海上交通神として月を祀る信仰を持っていた海民たちが、山上から月が昇る山を神体山として祀ったと考えた月山ツキヤマ≠ヘ、「月山」とカッコ付きで表記する。

 「月山」については『多賀神社・月形神社・月の輪神事』のところで考察した。それは出雲の月神信仰で信仰を受けていた神体山であり、例えば松江東郊の嶽山や、千酌の爾佐神社の東正面にある麻仁曽山がその例ではないか、と考えた。

 「月山」は月神を信仰する集団が多く居住する場所から見て、いつも山上から月が昇るような山が選ばれる、 ── このことは「月山」は、そのような場所の東側にあることを意味する。
 『広瀬町史』等によれば、富田庄の月山はかつて勝日山と呼ばれていた。それが月山と呼ばれるようになった経緯について、妹尾豊三郎は『月山富田城跡考』で次のように述べる。

「月山(一名吐月峯)というのは月の出る山という意であり、この山を月山と呼ぶに至ったのは、その西方山麓に集落が出来たことの証左になるのである。人々は山上から月の出るのを見て「ああ月の出る山」と認識し、この山に月山という名を与えたのであろう。よって勝日山が月山と改称せられた頃、即ち月山に富田城が築城された頃を契機に月山西麓には次第に集落が出来、山と人間とがより緊密に結び付いて来たことが想像される。」(妹尾豊三郎編著『月山富田城跡考』p13)

 『広瀬町史』にも同趣旨の記述がみられる。

「かくして勝日山という山名は、勝日神社の移転と供に移り、昔の勝日山はその後、月山と呼ぶようになった。これはその頃から月山の西麓に集落が出来、人々が月山から出て来る満月を仰ぎ見たことを物語っている。」(『広瀬町史p28』)

 こうしてみると、定説と言えるかどうかはともかく、どうやら月山≠ニいう山名は、西麓にある城下街から見て、いつも山上から月が昇ることから付けられたと、考えられているらしい。

 しかし、人が住んでいる場所から見て、いつも山上に月が昇る山などというのは、全国どこを探してもあるはずで、しかも、そのいっぽうで、それらの山がいつでも月との関係をもたされ、あまつさえ月山≠ネどという名で呼ばれている、ということもないだろう。

 にもかかわらず富田庄の月山が、月山≠ニ呼ばれているのは、おそらく単にそこから月が昇るというだけでなく、富田城下の住民の中に、月に対して強い感情を抱く者たちがいた結果なのだと思う。そして、そのような者たちとは、「月山」の信仰をもつ人々、すなわち、月神を祭祀した者たちであったように思われる。

 出雲における月神信仰については、海上交通神としての神格が認められることを、これまで幾度も繰り返し述べてきた。そしてそのことから私は、出雲で月神を信仰していた者たちは航海術に長けた海民たちであると考えた。さらに、月神の都久豆美命を祀る爾佐神社が、隠岐へと渡航する船の港があった千酌に鎮座していることから、そのような月神を信仰していた海民とは、隠岐への舟運にたずさわっていた者たちであり、しかもその舟運は隠岐で途切れるのではなく、隠岐を飛び石に半島へまで通ずる回廊の一部であったと示唆した。
 さて、尼子氏の時代、今、言ったような条件を満たす海民が、月山西麓の城下町に居住していた可能性があるのである。






   





 ここで、若狭小浜から西に続く、本州の日本海沿岸地域を「西日本海地域」と呼ぶことにしたい。この地域は出雲を含む地域であるが、以下、出雲を中心とした西日本海地域の海運史をおおざっぱに述べる。

 まず古代だが、記紀神話に登場する出雲の大国主命は、高志のヌナカワヒメや但馬のヤガミヒメのところへ求婚におもむいている。また、崇神紀六十年にある神宝記事で、大和からの使者が出雲に到着してみると、出雲の首長であるフルネは筑紫に出張していて留守であった。
 このような神話や伝承は、出雲が古くから日本海沿岸の諸地域と活発に交流していたこと示唆しているが、その手段において海運が重要な役割を果たしていたことは間違いない。考古学上の発見もこのことを支持する。縄文期において、隠岐産の黒曜石で製作された石器は、本州はもちろん、サハリンや北海道などからも発見されており、日本海水運の起源とその広がりを考えるメルクマールとなる

 昭和56年7月、松江市の小学校教員11名による「縄文時代の一日を再現する会」(からむし会)が、縄文期に隠岐の島前−島後−島根半島という海上の道があったとの仮説に基づき、丸木船による渡航に挑んで成功した。左画像は航海に使用した「からむし2世号」、右画像はその櫂。現在は隠岐の水若酢神社境内に展示してある。

 からむし2世号は全長8.2m、最大幅0.64m、深さ0.44m、重量約1d、乗員5名(漕ぎ手4名、舵取り1名)、11人の教員が2ヶ月かけてくり抜いたという。製作に当たっては、千葉県内の遺跡から出土した湖川型の丸木船を参考に、海洋型に改良を行った。

 しかしながら、駅の制度が確立される律令時代が到来するとともに、海運は西日本海地域の交通手段として基幹的なものではなくなる。この間の事情は、井上寛司の『中世西日本海地域の水運と交流』(『日本海と出雲世界 海と列島文化2』所収)に詳しい。

 「七世紀における日本古代国家の成立は、こうした伝統的な(※西日本海地域の)海上交通の歴史に、新たな変化と困難をもたらすこととなった。それは、(1)律令国家が新たに山陰道などの、京(奈良県もしくは京都府)と各地方の国衙とを結ぶ陸上交通路(官道)を整備し、これを基幹的な交通手段とする方針を掲げたこと、(2)八世紀中ごろ以後、官物輸送手段としての海上交通の重要性が認識されるようになり、瀬戸内、ついで東日本海等においてこれが実施されたが、西日本海の海上交通については、ついに、この方針が適用されることがなかったこと、などによるものである。(『中世西日本海地域の水運と交流』p366)」

 井上によればこの間も「私的なレベルにおける日本海海上交通が発展したことは疑いないところであ」るが、「国家権力による港湾施設の整備、充実がすすめられなかったなどの点で、西日本海地域水運が一定の困難と立ち後れを示すことになったのは、否定しえないところであろう。(同書p367)」と言う。

 だが、ここでちょっと寄り道をして、私なりに1つの例外を指摘しておきたい。それは律令制の時代、いくら官道が整備されたために、海路より陸路が基幹的なものとされたからといって、隠岐へのルートだけは海上交通に頼らざろうえなかった、ということである。

 隠岐は離島だから、これは当たり前のことだ。しかしその結果が重要なのである。すなわちこのことは、古代から西日本海地域の水運を担ってきた海民たちにとって隠岐への舟運は、律令時代になっても制度の枠内で活動ができる例外的なチャンスとして残された、ということを意味するのだ。
 その場合、当時、隠岐へと渡る船の港があった(駅もあった)千酌に、月神の都久豆美命を祀る爾佐神社があったことを想起してほしい。このことは、駅制の時代においても交通手段を海路に依存せざろうえない隠岐の交通事情がタイムカプセルとなり、上古の西日本海地域の海民たちの間では普遍的に行われてきた、海上交通神として月神を祀る信仰が、たまたまここにおいてだけ保存されたことを暗示している。

 逆に言うと、こうした月神信仰は、律令時代より以前、西日本海地域で海上交通にたずさわる者たちの間では、かなり広く行われていたものかもしれない。それが、律令制の施行とともに、制度的な理由から信仰圏を狭められ、隠岐への舟運にたずさわった者たちの間においてだけ、例外的に保持されてきた可能性があるのだ。



隠岐の駅鈴



 律令制の時代、官吏が諸国を往来するのに備え、東海道、北陸道、東山道、山陰道等の官道には、30里(約16q)ごとに駅屋(えきか/うまや)が置かれ、駅には駅馬が(場合によっては船が)配備されていた。これが駅制である。

 駅馬は官吏による公旅に供され、例えば急ぎの使者などは、駅ごとに新しい馬に乗り換えながら先を急いだ(駅伝)。ただし、公用以外の用務で使われることをふせぐため、駅馬を使用する場合には、その資格を示すために駅鈴の提示が必要とされた。

 駅鈴は中央官庁だけでなく、太宰府や国衙等にも備えられていたが、その数は令によって正確に定められており、管理も厳重をきわめた。ちなみに地方国司が、駅鈴を使用することができるのは、国家の一大事を報告する場合と、国司が朝集使として上京する場合に限られていたという。

 画像は隠岐国の駅鈴で、現存する駅鈴としては全国でも唯一のものである。駅鈴は二口あり、八菱形をしていて、背中合わせになっている2つの面にそれぞれ「駅」と「鈴」の字が鋳出されている(右画像は「駅」の字の面。)。

 この駅鈴は玉若酢神社の宮司家である億岐家に伝世していたもので、現在、国の重要文化財に指定されている。宮司の屋敷の横にある展示室で見ることができるが、私が行った時は億岐家の当主の方が直々に説明して下さった。ちなみに億岐家は、隠岐国造家の家柄と言われている。

玉若酢神社


   隠岐国分寺の本堂脇にあった御座船の模型。後醍醐天皇が隠岐へ遠流された際、乗ってきたものを再現したもの。当時、隠岐への舟運に使用された船も、こんな型だったろうか。

美保関

 こういったことについては、後でまたもう一度、触れる。話を西日本海地域の海上交通の歴史に戻す。
 西日本海地域で海上交通が、この地域における基幹的な交通手段としての地位を再び獲得したのは、古代末から中世成立期にかけてのことである。それは荘園制が成立すると共に、西日本海地域からの荘園年貢が、海上交通によって若狭小浜経由で京に運ばれるようになったからで、このことは、律令制の衰退に伴い、駅の制度が衰微したことと表裏の関係にあったと思われる。

 やがて、争乱の時代になると、「鎌倉末、南北朝期以後、西日本海の海上交通は、他の諸地域と同様、従来とは異なる新たな活況を呈するようになった。それは、絶え間のない合戦の連続とその戦乱の広域化にともない、兵糧米や兵力の輸送など、軍事的な要因に基づく水運の需要が著しく拡大したことが、ひとつの契機となっていた。(前掲書p383)」
 「こうした傾向が室町から戦国期にかけて、いっそう飛躍的に拡大することとなったのは、あらためて指摘するまでもない。(同)」と言う。

 いっぽう、こうした軍事的な要因以外にも、商品流通経済の発展が、西日本海地域において海上交通を、基幹的な交通手段の地位に押し上げた。すなわち、荘園制の確立と共に、出雲では美保関、安来、馬潟・長田、平田、宍道、宇龍・杵築、神西等の港津が発展したが、これらの港は最初、主に荘園年貢を船載して、若狭小浜へ出すだけのものであった。しかし商品流通経済が発展する鎌倉期末から中世以降になると、こうした港津は地域間交流の拠点として栄えるようになる。
 さらに、室町末から戦国期に入ると、出雲鉄に代表される地域特産品の交換を主たる目的とした隔地間交易が盛んになる。これに伴い、出雲では前述の港のほか、さらにいくつかの港湾都市が誕生したが(白潟・末次、大津など)、これらは内陸部にある市と海運をつなげる結節点としての役割を果たした。西日本海沿岸の各地に勢力をかまえた戦国大名は、軍資金を得るためにこうした隔地間交易を強力に推し進めたのであるが、ここにおいて、日本海水運はこうした経済と流通の枠組みの中で、基幹的なものとしての地位を完全なものとする。


 鹿介が生まれた頃の西日本海地域の海運とは、このようなものであった。
 そして彼が仕えた尼子氏は、こうした海運を、軍事・商事の両面から牛耳ることで強大な勢力を得ていたのである。
 
 高殿式タタラ(島根県飯石郡吉田村の管谷たたら山内)。

※ただし、高殿式のタタラは鹿介の頃、まだ始まっていない。


 富田庄は、後背地にあたる中国山地が、タタラ製鉄に欠かせない山砂鉄と樹木(木炭の原料)に恵まれているため、上代から国内有数の鉄の産地として知られていた。ちなみに、荘園時代の富田庄は、年貢のほとんどを鉄で納めていた(他の中国山地沿いの荘園と比較しても、富田庄の鉄負担は多量だった。)。

 鹿介が仕えた尼子氏は、石見銀山の銀と共にこうした富田庄の鉄を主力商品にして、日本海水運を用いる前述の隔地間交易を行っていた。そして当時の富田城下は、富田川をさかのぼって中海からの舟運が通じており、後背地のタタラ製鉄地帯からもたらされる鉄と、美保関や安来津などの諸港津を結びつける交通の要衝であったのである。

 富田川河床遺跡からの出土品は、こうした尼子氏により富田城下で行われた交易活動の活況を実感させる。

 昭和35年頃、月山富田城の麓を流れる富田川の河床から、尼子氏の時代から江戸初期にかけて栄えた城下街の遺構が発見された。寛文六年に起きた大洪水と流路の変更で埋没していた中世都市が、ダム建設に伴う水位低下によって浮上してきたのである。

 遺跡は「富田川河床遺跡」と名付けられ、昭和40年代後半から発掘調査が進められた。遺物は豊富であったが、中でも際だっていたのは、染付・白磁・青磁などの中国製の磁器類である。これらは、中国から直接、もたらされたものではなく、博多などの、北九州の港で陸揚げされたものがら富田城下にもたらされたと考えられているが、いずれにせよ、北九州から出雲までの行程においては、日本海水運が重要な役割を果たしていたと考えられる。ちなみに、出土した陶器の中には国産の唐津焼などもあったが、これらも同様の手段でもたらされたのだろう。
 総じて、こうした磁器類は、日本海沿岸地域にある中世遺跡から出土する遺物としては標準的なものだが、それらの遺跡を線で結んでいくと、しだいに日本海に沿った太いパイプとなる。そこには、明らかに凡日本海的な水運の存在が暗示されているのだ。富田川の舟運により鉄を輸出していた中世期の富田城下の遺跡から、こうした磁器類が多量に出土するということは、この街が特産品交易の舞台であるとともに、日本海水運と直結されていたことを示唆するものである。

 こうしてみると、かつての富田城下は舟運でにぎわっていたことが感じられるが、その場合、そうした舟運にたずさわる者たちの中には、隠岐へのそれにたずさわる者たちもいたに違いない。というのも、尼子氏は隠岐の支配者であり、領国経営を行う上で、とうぜんにこうした者たちとの間に、強いつながりを生じていたと考えられるからである。

 この尼子氏による隠岐支配というのは、なかなかに伝統深い。
 律令崩壊以降、隠岐の支配者は、佐々木氏 → 京極氏 → 山名氏 → 尼子氏という変遷をたどるが、このうち、京極氏は近江源氏出身の佐々木定綱流で、この家系にはバサラ大名として有名な京極高氏がいる。彼の孫の高久が佐々木源氏の本拠地、近江国の尼子郷の名を取って尼子氏を名乗り、高久の子の持久が出雲守護として下向して、出雲尼子氏の初代となった。したがって、尼子氏による隠岐経営というのは、先祖の佐々木氏が鎌倉期に隠岐守護を務めていた頃から続くものなのである。
 ちなみに、鹿介の先祖は尼子幸久という人物で、彼は持久の子であったから、山中氏と尼子氏は同祖関係にあった。

 それはともかく、尼子氏の時代に隠岐への舟運にたずさわっていた海民たちの中には、風土記のころ、隠岐への船が出る港のあった千酌で、舟運にたずさわっていた海民たちを先祖とする者たちも多かったに違いない。この海民たちは、千酌に鎮座する爾佐神社で、月神の都久豆美命を祭祀していた者たちと考えられた。となると、尼子氏の時代に隠岐への舟運にたずさわった海民たちもまた、同じ月神を祀る信仰を先祖たちから受け継いでいたかもしれない。その場合、富田城下から見て、いつも山上から月が昇る月山を「月山」として信仰したのも彼らだったのではないか。

 月山についてもう少し触れる。

 「月山」はただの山ではなく、しばしば古代から神体山として祀られているようなそれが選ばれた。あえてそのような山が選ばれたのか、あるいは、そのような山が里からよく眺められ、形姿も優れている場合が多いので、おのずと「月山」に選ばれる結果となったのかはよく分からない。いずれにせよ、富田庄の月山も、城が築かれる前から神体山として祀られていたものであった。
 すでに言った通り、この山はかって勝日山と呼ばれていたが、『延喜式神名帳』出雲国意宇郡に登載のある「勝日神社」と「勝日高守神社」の神体山なのである(※勝日神社と勝日高守神社については、このページの一番下のコラム参照。)。



 勝日神社は富田八幡宮とともに、当初は月山中腹の山中御殿と呼ばれる場所に鎮座していたと言われる。画像は山中御殿跡。


 月山(旧名:勝日山)山頂に鎮座する勝日高守神社。
 当社の鎮座する月山々頂は、かっての富田城本丸で、尼子氏の時代の富田城下を描いた古い絵図などには、そこに五層の天守閣がみえるものもある。
 勝日神社はかつて勝日山の中腹に鎮座していたが、富田城築城の際、対岸の八幡山へ遷された。いっぽう、勝日高守神社は勝日山の山頂部に鎮座し、城内鎮守として代々の富田城主から祭祀を受けている。おそらく当社と勝日神社は、勝日山を神体として祀る山宮と里宮の関係にあったのであろう(※3)。

 それはともかく、当社は大己貴幸魂神を祀る神社であるが、奇妙なことに、「月夜見神」が配祀されている(※4)。そしてこれこそが勝日山が「月山」であった痕跡なのである。大己貴幸魂神は勝日高守神社のほんらいの祭神であろう。ところが富田城下の発展と共に、そこに住みついた月神を信仰する海民たちにより、いつも山上から月が昇る勝日山が、「月山」として信仰を受けるようになり、その結果、山名が月山≠ノなるとともに、大己貴幸魂神を祀っていた当社の祭祀に、月神が習合されたのである。
 その場合、この祭神が現在、記紀神話に登場する祭神の名をとって、月夜見神(月読尊)と表記されていることに惑わされてはならないだろう。というのも、これは単に月神であることを示すために身にまとった、あくまでも仮の名にすぎないからである。勝日高守神社に配祀されたこの月神は、千酌の爾佐神社で祀られている海上交通月神、都久豆美命に他ならないのだ。






   





 鹿介による月神信仰は何だったのであろうか。

 隠岐の西郷港近くに鎮座する水祖神社は、隠岐為清に援軍を求めて来島した鹿介が、尼子氏再興を祈願するために参詣したとの伝承がある。

 鎮座地は八尾川河口部で、社前にはイカ釣り漁船がたくさん停泊している。隠岐為清の居城であった国府尾城にも近い。
 彼の生涯を振り返ると、とりわけ出雲国内での活動では、隠岐との関わりが強く認められる。

 永禄九年の富田城開城後、当主だった尼子義久は毛利に捕らわれ、鹿介は野に下る。しかしやがて永禄十二年、毛利勢が大友宗麟との戦線で膠着状態に陥り、山陰方面での兵力が手薄になった機に乗じ、鹿介は京都で禅僧となっていた尼子勝久を推戴して兵を挙げる。

 勝久・鹿介主従はまず、但馬から隠岐に渡り、尼子の遺臣や隠岐守護の隠岐為清の兵を集めた。さらに千酌に上陸後、忠山城を落として、そこから四方に檄を飛ばす。この際、隠岐為清も三百騎を率いて隠岐から漕ぎ着けている。

 隠岐守護であった隠岐為清は隠岐氏である。彼ら一族は、京極氏が隠岐守護であった時代に守護代となり、尼子氏が隠岐を支配した頃には、被官関係を結んで隠岐の実質的な統治権を手にしていた。毛利氏が出雲に進出し、しだいにその勢力を拡大するとともに内部で動揺をきたし、富田城が開城するより前に毛利方についていたが、勝久らが隠岐に到着し、尼子氏復興戦がはじまると再び尼子方となっている。
 ちなみに、彼らの出自は尼子氏と同じく佐々木信綱流で、隠岐の支配者が京極氏であった時代に「隠岐氏」を名乗るようになった。つまり、尼子氏や山中氏と同祖関係にある一族なのだ。


 もっとも隠岐為清は、小田助右衛門を討ち取った鹿介が、伯耆に向かおうとした時、美保関で謀反を企てている。鹿介はこの報せを聞いた時、米子付近にいたが、ただちに船を調達して対岸の美保関へ漕ぎ寄せ、これを制圧した。この戦で鹿介は、隠岐勢の中畑忠兵衛の長槍によって、あわや命を失いかけたが、戦が終わると長槍を持っていた男の兜の特徴などから生け捕りにされていた忠兵衛を探し当て、太刀・刀・冑など返し与えて、「このたびの働き抜群である。」と感服まで与えて隠岐へ帰してやっている、── 講談か何かに登場しそうなエピソードだ。

 この謀反の原因はどうやら、為清による個人的な怨恨の線が強かったらしいのだが、このため、戦が終わると彼には切腹が申し渡された。そのいっぽうで、大根島に捕らわれていた約400人の隠岐勢は許されて隠岐へ帰され、結局、隠岐は為清の弟である清実に与えられる。

 こうしてみると勝久・鹿介主従は、この謀反に対し、ずいぶんと温情ある終戦処理を行っている。ここから感じられるのだが、おそらく、彼らは戦略上、どうしても隠岐を味方につけておきたかったのではあるまいか。
 尼子氏復興戦に際し、勝久・鹿介主従は、まず但馬から隠岐に渡り、尼子氏の旧臣や為清の兵を集め、それから出雲に上陸している。最も近い本土からも50q以上離れた洋上に浮かび、毛利勢も容易には手が出せない隠岐が安全地帯となって、尼子氏の勢力が温存されていたことがうかがえよう。また、隠岐を味方につけることには、朝鮮から軍需品を輸入するルートの確保という意味合いもあったかもしれない。

 いずれにせよ、こうしてみると鹿介らにとって隠岐は、どうしても離反させる訳にはいかない土地だった。そして、そのためには、謀反の首謀者以外の兵卒たちには寛容な処置を行い、無用な遺恨を残さないよう配慮する必要があったと思う。
 中畑忠兵衛との逸話も、あまりにも出来すぎた話なので実話ではない感じもするが、自分に対してあやうく落命しかねないような攻撃を加えた男に対し、あえて温情ある処置をしてみせることで、隠岐勢を味方に誘おうとの意図があったと考えることができる。とにかく、こうした配慮が功を奏したのか、隠岐はこの戦いの後で、再び勝久・鹿介主従に忠誠を誓うようになった。

 だが、隠岐を配下に収める場合、その経営のため、そこへの舟運を確保することが絶対必要条件となる。戦略的に隠岐を重視する政策をとった勝久・鹿介主従にとって、その必要性はさらに高かったろう。こうしたことから鹿介は生前、こうした隠岐への舟運にたずさわっていた海民たちとのつながりを、大事にしていたことが想像される。

 また、鹿介は富田庄に生まれとされる。異説もあるようだが、少なくとも少年期以降の鹿介が、富田城下で暮らしていた可能性は高い。彼の頃の富田城下に隠岐への舟運にかかわる海民たちがいたのではないか、という話はすでにしておいた。となると、こうした隠岐への舟運にたずさわる海民たちというのは、すでに少年の頃から鹿介にとって、わりと身近な存在だったかもしれない。

 さらに、鹿介とこうした隠岐への舟運にかかわる海民とのつながりは、そもそも山中氏の職掌とも関係があった可能性がある。というのも、私は山中氏がもともと尼子氏のもとで交易の管理等にたずさわっており、とくに朝鮮半島とのそれに関係のある家柄ではなかったか、と考えているからである。


「山中鹿介幸盛屋敷跡」の碑
 地元の伝承によれば鹿介は、月山北麓の新宮谷にあった山中家の屋敷で生まれたという。現在、そこには「山中鹿介幸盛屋敷跡」の碑が建っているが(画像)、以前の発掘調査で朝鮮系の平小皿が5〜6枚、まとまって出土している。この場所が鹿介の屋敷跡であるという伝承が史実かどうかはともかく、朝鮮からもたらされた陶器類が出るということは、かってのここには、朝鮮との交易にたずさわった者たちが生活していたことを感じさせる。そして、そのような場所が鹿介の屋敷跡として伝承されているのも、山中氏がこうした半島との交易にたずさわっていた記憶の反映かもしれない。

 また鹿介の外舅に、尼子氏の重臣である亀井氏があった。鹿介は後に、尼子氏の旧臣、湯氏の出であった亀井茲矩に娘(あるいは妻の妹)を嫁がせ、彼に亀井氏の名跡を継がせる等、その縁戚関係は亀井氏とのそれが顕著である。

 現在、富田城ふきんの富田川左岸に「亀井ヶ成」という地名が残され、亀井氏の館跡に比定されている。そしてその背後に「唐人谷」という地名が残り、かつてそこでは朝鮮系の人たちが生活していたと考えられている。『広瀬町史』によれば、唐人谷は富田城で使うための瓦を朝鮮系の工人に焼かせたり、軍需品の貿易を行わせたりした場所という。

 亀井ヶ成と唐人谷が近接していることは、尼子氏のもとで、亀井氏が朝鮮との交易にたずさわっていた可能性を示唆するものだが、鹿介の屋敷跡と伝承される場所から朝鮮系の遺物が出土していることや、鹿介と亀井氏との縁戚関係が顕著なことを考え合わせると、山中氏もこうした朝鮮との交易活動に関係していたことが感じられる。

 ちなみに、尼子氏の頃の富田城下は、朝鮮とのつながりが深かった。富田城下で尼子氏が居住していたとされる地区、通称、「里御殿」のある菅谷地区からは高麗瓦(李朝系古瓦)が出土している。
 高麗瓦は、文禄の役を経た後のものは、熊本城・姫路城をはじめ各地で検出されているが、富田城下で発掘されたような十六世紀半ばに遡るものは、対馬の金石城から出土したものも合わせ、全国で2例だけという。この瓦は朝鮮から輸入されたか、あるいは朝鮮から来日した工人によって製作されたものと考えられているが、いずれにせよ中世の富田城下が、朝鮮とのつながりが深かったことをうかがわすものである(※5)。


 それはともかく、尼子氏の家臣団の中で、山中氏は職掌上、半島とのつながりがあったとする。が、十六世紀も半ばを過ぎた頃の尼子氏は全盛も過ぎ、石見が毛利の領国となるとともに、出雲から北九州に向かうルートもこの宿敵にはばまれて、なかなか思うようにならなかったのではあるまいか。となると、鹿介の頃、こうした朝鮮との交流は、先祖の佐々木氏や京極氏の時代から尼子氏とつながり深い、隠岐を飛び石に半島へ渡るルートで行われたのではなかったか。そうしてその場合、山中氏が尼子氏のもとでこうした交易活動にたずさわっていたとすれば、これらの事情により、鹿介は家業によっても隠岐への舟運と関係深かった可能性が高いのだ。

 こうしてみると、鹿介の周囲には、隠岐及びそこへの舟運にたずさわった海民たちとのつながりが二重、三重に感じられる。
 すでに説明した通り、律令時代(文献では確認できないが、たぶんそれ以前から)、隠岐への海運にたずさわっていた者たちには、海上交通神として月神の都久豆美命を祀る信仰をもっていた。そして鹿介の頃においても、とうがい舟運にたずさわる海民たちの間には、先祖から引き継いだこの信仰がまだ生きていたのではなかったか。その場合、鹿介による月神信仰とは、こうした海民たちによる古い信仰を取り入れたものであった可能性を感じる。

 彼による月神信仰が、海民たちのそれにルーツをもつものだとした場合、色々なことに思い当たる。

 彼が例の、三日月に向かって祈ったという伝承の概略は次のようだ。

 富田庄の三笠山。
 鹿介が「我に七難八苦を与え給え」と祈願したのは、この山にかかる三日月であったという。
「月山富田城から、その城下町と富田川とを中に隔てて西方を眺めると、京羅木山のやや南よりの方に、三笠山という山が聳えている。この山は山全体の形が丁度陣笠を伏せたように見えるが、子細に見ると、上、中、下三段にに更に陣笠形の山が重なって見えるので、昔から或は三重山ともいい、或は三笠山ともいってきた。富田八幡宮の鎮座されている勝日山の後方が「宮尾の台地」で、それは直ちに三笠山の麓に続く地形になっている。この三笠山にかかるのが上弦の月で、その代表的な月が三日月なのである。
 少年の鹿介はこの三日月を拝し、
「願わくは三十日を限り、英名を博せしめ給え」
と祈った。まもなく義久に従って伯耆に入り、尾高城を攻めて山名氏の驍将菊池音八を討ち取ったが、この時鹿介は年わずか十六歳であった。(妹尾豊三郎『山中鹿介幸盛』p3〜4)」

 ここで彼が祈った月は三日月で、月山対岸の三笠山の上に出たものだとされている。私は、鹿介が本当に祈ったのは「月山」である月山に昇った月であり、それが対岸にある三笠山ということになったのは、『万葉集』などに、大和の三笠山に昇った月を詠ったものが多いことから連想された附会ではなかったか、という感じがている。しかしいずれにせよ、ここに見られる山上の月を拝する鹿介の所作は、在りし日の海民たちが「月山」を信仰した姿を彷彿させる。
 また、彼が祈ったのは三日月であった。すでに私は、海民が海上交通月神として祀った月の形は、満月ではなく、船のフォルムと酷似した三日月ではなかったか、ということを述べてある。


 とにかくそんなようなことも、鹿介による月神信仰は、都久豆美命を祀った爾佐神社のそれをはじめ、上代の出雲で活動していた古い海民の信仰を引き継いだものである可能性を感じさせるのだ。





   





 だがなぜ鹿介は、こうした海民たちによる月神信仰を自からのそれとして取り入れたのだろうか。それには、様々な解釈を提出できると思う。

 その1つが、これまで言ってきたとおり、彼が古い海民の信仰世界に囲まれて育つという環境的要因にあったことは間違いない。この信仰は特に、隠岐への舟運にたずさわる者たちと関係があり、鹿介には彼らとの関係がみとめられた。

 しかしこれについては補足しておきたいことがある。
 私はこれまで、隠岐への舟運と月神のつながりをかなり強調してきた。それは鹿介の月神信仰を解明する手だてとして、隠岐への舟運にたずさわる海民たちを介して説明する方途を選んだためである。
 しかし、ここに一抹の疑いがある。すなわち、こうした海民たちによる海上交通神としての月神信仰というのは、律令以前の古代においては、隠岐への舟運にたずさわる者たちの間だけではなく、もっと広く行われたものではなかったか、という疑いである。

 というのも、私がこうした月神信仰と隠岐への舟運を結びつけて考えたのは、主として律令時代に隠岐へと渡る船の港があった千酌に、月神の都久豆美命を祀る爾佐神社が鎮座していたからである。が、先にちょっと触れた通り、これは駅制が布かれていた律令期においても、隠岐への交通だけは海運に頼らざろうえなかった事情があったせいで、古代から続いていた月神の信仰が、ここにおいてのみ、例外的に保持せられた結果とも考えられるのである。その場合、律令以前の古代においては、隠岐への舟運にたずさわった海民たちだけがこうした海上交通月神を信仰していたのではなく、日本海水運にたずさわる者たち全般の間でもっと広く、普遍的にそれが行われていたことが考えられる。

 鹿介の戦歴で特筆されるのは、海賊とのつながりである。「西日本海地域における海賊の活動は、とくに因幡から但馬、丹後にかけて活発で、なかでも丹後の海賊衆の活動はとりわけ活発であった。」(『前掲書』p386)
「この丹波の海賊衆を代表する人物として有名なのが奈佐日本之介である。彼は永禄十二年(1569)の尼子復興戦に尼子勝久軍の主戦力として活躍するとともに、尼子氏滅亡後は、毛利軍の海上軍事力として、その重要な一角を構成した。天正九年(1581)の鳥取城開城にさいし、羽柴(豊臣)秀吉が「奈佐日本之助は海賊の魁首として、年々往来の舟共を切取り、万人を悩乱せし悪逆無道の族」だとして、その首をはねるよう求めたと言われている(『陰徳太平記』)。」(同)

 永禄十二年に但馬から隠岐まで勝久や鹿介を乗せた舟も、日本之助のものであった。また、元亀二年(1571)、幽閉されていた尾高城から脱出した鹿介は、出雲各地でゲリラ戦を展開した一時期があったが、これも丹後や但馬の海賊衆の力を借りて行われたという。

 だとした場合、鹿介に協力した海賊衆たちも、古代において日本海水運にたずさわってきた海民たちの末裔が混じっていて、彼らの中には先祖たちによる月神信仰を受け継いでいる者がいたかもしれない。

 海賊たちからの協力が、毛利氏にゲリラ戦をいどむ勝久・鹿介主従にとってどれだけ重要であったかは想像に難くない。
 尼子氏は近江佐々木源氏の血を引いているが、鹿介じしんもその庶流にして尼子氏の有力家臣の家柄という名門の出である。そんな彼が、あえて月を拝し、自分たちと同じ信仰をもつことをアピールすれば、こうした海民たちの心をつかむのが容易になる、── 彼による月神信仰には、もしかするとこうした人心懐柔の計算が混入していたかもしれない。

 だが、鹿介が激烈な生涯で見せた、あの異常な忍耐強さや不屈の闘志には、どこか人間離れした、 ── あえて言ってしまえば獣めいたものがある。

 月を眺めた時、心の面がざわざわと波だつような感じがして、落ち着かない気持ちになったことはないか。月の光はしばしば、意識の古層に眠っていた野生を呼び戻す、不思議な覚醒の効果を感じさす。

 その場合、鹿介が他の神仏ではなく、こうした古いアミニズムに根ざす月へのそれを、自らの信仰として選んだことには、あるいは彼の中にあるプリミティブな資質が関係していた感じもする。







※1  ちょっと気になるのは、昭和46年に初版が発行された妹尾豊三郎の『山中鹿介幸盛』には、この三日月を拝したエピソードについて「武者物語や尼子十勇士伝等には見えているが、雲陽軍実記、陰徳太平記、恩故私記には載っていない。」とあることである。

 しかしながら、平成18年発行の『ビジュアル日本の合戦 山中鹿介と月山富田城・上月城の戦い』には、この伝承が乗っている文献として『陰徳太平記』の名が挙げられている。本文では発刊年代の新しい後者の記述に従っている。

※2  鰐淵寺の麓で生まれたという異説もあるが、鹿介伝を載せた文献としてもっとも古い『甫庵太閤記』には「天文十四年・富田庄」とあり、このため、鹿介について書かれた諸書もおおむねこれに従っている。

 なお、誕生日が8月15日になっているのは、彼が月を拝したという伝承から生じた附会かもしれない。゜

※3  「○○神社」・「○○高守神社」が、出雲にはもう1対ある。佐為神社と佐為高守神社がそれで、それぞれ『延喜式神名帳』出雲国造家意宇郡に登載のある同名の小社である。一般的に「高守」は、「高森」あるいは「高杜と解釈されているようだ。

※4  『神国島根』や『式内社調査報告』等に、当社の配祀神として「月夜見神」が挙げられている。

※5  『海と列島文化』の「月報5」に収録された、網野全彦らとの鼎談で考古学者の森浩一は、この瓦について、「外交・貿易に来る人のための施設、ゲストハウスのようなものの屋根瓦に、使っていたのではないかと思います。」と述べた上で、「尼子氏というと、文献学では負ける運命をたどるだけの大名ですが、ある時期、大内氏に劣らない積極外交をしていたのではないでしょうか。」と発言している。

H18.08.04

          






勝日神社と富田八幡宮


富田八幡宮

 【社 名】 勝日神社(かつひ/かちひ)
 【所 在】 島根県広瀬町字勝日山85
 【祭 神】 大己貴命

 【社 名】 富田八幡宮
 【所 在】 同上
 【祭 神】 主祭神:応神天皇    配祀神:天照大御神、神功皇后、仁徳天皇
 勝日神社は『出雲国風土記』に「賀豆比乃社」とあり、意宇郡条の記載順序では、48社中4番目である。『延喜式神名帳』では、出雲国意宇郡に登載のある小社、「勝日神社」となっている。

勝日神社
 当社はそもそも、月山中腹の山中御殿という場所に鎮座していたが、富田城が築城される際、対岸の現社地に遷された。この遷座の際、同じく月山に鎮座していた富田八幡宮も一緒に遷されている。

 月山は、旧名を「勝日山」といい、山頂にはやはり式内社である勝日高守神社が鎮座している。対称形の秀麗なフォルムをした勝日山を神体に、山頂に山宮として勝日高守神社、山麓に里宮として勝日神社を祀ったのが、当社の祭祀のえん源なのである。

 富田八幡宮は『神国島根』によると、欽明天皇三十一年創建とある。ちょっと古すぎる感じもするが、いずれにしても古い神社であったのだろう。

 現在の勝日神社は富田八幡宮の境内社となっており、八幡宮の本殿右手後方に、ひっそりと小ぶりな社殿が建っているだけである。いっぽう、富田八幡宮の方は立派な社殿の他に、壮大な石段や長い石畳の参道等が整備されていて、その規模は単なる地域の名社レベルをはるかに越えている(旧県社)。これは近江佐々木源氏の流れをひく尼子氏が富田城主となるとともに、源氏と縁の深い八幡宮が、領内の大氏神に祭り上げられためで、代々の城主から神領の寄進、社殿の造営、境内の整備等々を受けてきた結果なのである。




勝日高守神社

勝日高守神社


 【社 名】 勝日高守神社(かつひたかもり/かちひのたかもり)
 【所 在】 島根県広瀬町度782番地
 【祭 神】 主祭神:大己貴幸魂神    配祀神:月夜見命
 勝日山(現在の月山)山頂に鎮座する古社で、『出雲国風土記』には「加豆比高社」とあり、意宇郡条の記載順序では、48社中6番目である。『延喜式神名帳』では、出雲国意宇郡に登載のある小社、「勝日高守神社」となっている。

 そもそも勝日山には二つの式内社が鎮座していた。麓には勝日神社、山頂には当社である。おそらく、当社と勝日神社は、勝日山を神体として祀る山宮と里宮の関係にあり、ほんらい一対のものとして祀られていたのであろう。ところが、富田城築城に際し、勝日神社は対岸の八幡山に遷され、勝日高守神社だけが城内鎮守としてそのまま残された、──「勝つ日」や「高く守る」といった社名が、城郭の守護神としてふさわしかったからではないか、と私は思う。いずれにせよ、毛利勢の城ぜめに抗して富田城に立て籠もった尼子義久や山中鹿介、あるいは、富田城奪還をくわだてる鹿介に対し、これを死守した天野隆重等は、籠城中に幾度となくこの神社の前で手を合わせたことだろう。当社を参拝する際は、風土記の時代の勝日高守神社より、むしろ中世期における、富田城鎮守としてのそれを意識してしまう。

 西側から見た当社には、神さびたふんいきがある。
 伝承によると当社の祭祀のえん源は、大己貴命がこの地へ巡幸の際、勝日山に光り輝く石があったので「鏡石」と名付け、この石を神体として祀ったことによるという。

 当社にはもう一つ、伝承がある。

 「大己貴命が国造りの途中でスクナヒコナノ命に去られ、途方に暮れながら出雲を巡幸していた際、海上を照らしながら寄り付く神がある。誰何すると、「私はあなたの幸魂・奇魂である。」と答え、大和国の三輪山に住みたいというので、宮を造ってそこに祀った。」

 この伝承は、記紀にある著名な大和の大神神社の縁起であるが、勝日高守神社の伝承によればこの邂逅の舞台となったのが、勝日山であったという。現在の当社の祭神が大己貴幸魂神であるのも、この伝承によるのだろう。

 この伝承は記紀神話からの附会と思われるが、もしかすると、「海上から来訪する神」という観念は、上代における当社の祭祀を暗示するものかもしれない。

 勝日山は現在、内陸部に位置しているが、口碑によればかっては麓まで入海になっていたというから、海上から何らかの神格が近寄ってきたとしても、地理的には問題なかった。
 また、当社の社殿は南西方向(220゜)を向いている。いっぽう、これに対して勝日山の尾根はだいたい西向きである。このため、当社は社殿の向きと神体山の尾根の向きが直交していることになるのだが、こういうケースは神体山の山宮としてはかなり特異である(他に全く例がないわけではなく、例えば三河の石巻神社も神体山の尾根軸と社殿の軸が直交している。)。しかし、この社殿の向きは、ちょうど中海を背にする格好になるので、あたかも海上から寄り付く何らかの神格の来訪を意識しているようかのようにもみえる。

 勝日山々頂から眺めた中海方面。
 遠くかすかに見える山並みは島根半島で、手前の陸部との間に中海が挟まっている。

 勝日高守神社の社殿は、この画像を撮影した向きとだいたい平行に建っており、中海を背に南西面している。
 当社の社殿周辺は樹木が多いため、視界が開けていないが、もしも樹木がなければ、その背後に立って中海方向を眺めると、これとほぼ同じ景色が見渡せるはずである。それはあたかも、海上から来訪するなんらかの神格を意識しているかのようだ。

 出雲地方には、神在月に海岸に打ち上げられるセグロウミヘビを、竜宮からの遣いとして信仰する「龍蛇さま」等、海から来訪する神々の信仰がみられる。これと同じく、勝日山の神も洋上から勝日山に来訪していた時代があったとすれば、そうした古代の記憶が呼び水となって、当社の伝承に記紀にある大神神社の縁起談が附会されたのかもしれない。




2006.08.04



主な参考文献

『中世西日本海地域の水運と交流』 井上寛司 小学館『日本海と出雲世界 海と列島文化2』所収

『山中鹿介幸盛』  妹尾豊三郎 ハーベスト出版
『月山富田城跡』   〃   〃
週刊・日本の合戦シリーズ
『山中鹿介と月山富田城・上月城の戦い』
小和田哲男監修 講談社
『広瀬町史』

『島根県の地名』 平凡社日本歴史地名大系

『式内社調査報告』第二十巻から
 「勝日神社」「勝日高守神社」の項
松岡英雄 皇學館大學出版部

『神国島根』 島根県神社庁編

『隠岐国 駅鈴 倉印の由来』 億岐豊伸 玉若酢神社発行?










Copyright (C) kokoro