一. 爾 佐 神 社





  「出雲の月神」といっても、なんとなくピンとこない人が多いかも知れない。が、例えば『出雲国風土記』にはこんな記事がある。


 千酌(ちくみ)の駅。郡の役所の東北十九里百八十歩にある。伊差奈枳(いざなぎ)の命の御子、都久豆美の命が、この地で生まれなすった。そうだから当然ツクツミというべきであるが、今の人は従来どおり千酌と名付けているのにすぎない。

   ・小学館日本古典文学全集『風土記』p163 植垣節也訳


千酌
 千酌は、島根半島の北岸としては珍しく砂浜があり、ある程度、後背地にも恵まれている。天然の良港であったはずである。
 ここに登場する「都久豆美(つくつみの)命」という神名の、「つく」は月のことで、「つみ」は「わだつみ」とか「やまつみ」と言われる場合の、神霊を表す「つみ」ではなかったかと言われている。ようするに都久津美命は月神なのである。

 都久豆美命が出生したという千酌は、島根県八束郡美保関町にある大字「千酌」のことである。私は風土記の記事に惹かれたので、この月神の郷を訪れてみた。

 千酌は日本海に面した小さな集落である。現在は松江から車で40分くらいだが、道路がなかった時代は大変だったろう。というのも千酌付近の海沿いは急峻な斜面や崖になっている場所が多く、リアス式の海岸で凹凸が多い上、海はよく荒れ、暗礁も多い。したがって、陸路でも海路でも海沿いに千酌まで行くのは困難である。このため、中海沿いの土地から行くには山越えのルートしかなくなるのだが、その場合は北山山系が障壁としてたちはだかっている。

 ところが、こんな不便な場所であったはずの千酌なのに、上に引用した『風土記』の記事には「千酌の駅」とある。古代、ここに駅(うまや)があったのだ。実は当時、隠岐へ渡航する船の港が千酌にあり、このために千酌には駅が設けられていたのである。同じ『出雲国風土記』にはこうある。

 千酌の浜。広さ一里六十歩である。(東に松林があり、南の方に駅家、北の方に民家がある。郡の役所の東方十九里三十歩である。ここはつまり、隠岐の国に渡る港、これなのである。)

   ・小学館日本古典文学全集『風土記』p179 植垣節也訳


 さて、千酌には『延喜式』神名帳に登載のある出雲国島根郡の小社、「爾佐(にさ)神社」が鎮座している。現在の祭神は伊弉諾命・伊弉冊命・都久豆美命であるが、一見して上に引用した『出雲国風土記』の記事をもとに、祭神が決定されたと分かる(例えば、『雲陽誌』『神社覈録』『特選神名牒』はこの三柱を当社の祭神としている。
)。



爾佐神社



 【社 名】 にさ
 【所 在】 島根県八束郡美保関町大字千酌
 【祭 神】 伊邪那岐命・伊邪那美命・都久豆美神
 【例 祭】 4月3日
 創祀年代等の由緒は不明だが、『出雲国風土記』の「尓佐社」、『延喜式神名帳』の「尓佐神社」である。

 当社は神事が多い神社である。
 私が島根半島の北岸を旅した時には、山と海に挟まれた狭いスペースに家々が肩を寄せ合うようにして建っている集落をいくつも見かけたが。そうした集落にはかならず漁港があり、もっぱら漁業で生計をたてているようだった。いっぽう千酌は、ある程度の後背地に恵まれ、そこには田畑が広がっている。この付近には珍しく農協もあるので、いったいでも可耕面積の広い集落らしい(逆に停泊している漁船の姿は見た記憶がない。)。爾佐神社の神事にも、「さねもり祭り」と呼ばれる田の虫追い神事や「御田植え神事」といった農耕儀礼がある(あった)。

 また、4月3日の例大祭では、流鏑馬が奉納され、これは現在でも盛大に執行されている。この神事のことは寛永十三年(1636)の『爾佐神社略社記』にすでに見られ「当社の祭日は四月三日で神事あり。昔より伝え言う。鬼門堅め主は騎馬、相従う者は甲冑を帯び、太刀をはき、鉾ヌを持ち、馬場内を往行す。実に大将が衆兵をひきいて、軍を出すさまの如し。また流鏑馬あり、角力あり」とある。現在、社殿の右手にはこの流鏑馬にちなんだ馬の石像がある。






 壱岐島北東部にある男岳山は、近海が豊かな漁場となっているため、操業中の漁船から「アテ山」にされる。この山は、壱岐嶋の式内明神大社、月読神社の旧社地でもあり、月神を祀る古代壱岐最大の聖地であった(詳しくは別稿「石牛と月」参照)。したがって、ここにも月神に、海や航海とのつながりを認められることになる。
 画像は北東から撮影したもの。
 いっぽうで、志賀剛は『式内社の研究』で、爾佐神社の「にさ」は「にし(西)」の誤りで、当社の祭神は千酌から隠岐へ渡航する船にとって重要だった「西風の神」、つまり「航海安全の神」であったと考証している。それが後世に忘却され、復古神道の時代になってから『風土記』の記事にちなんで都久豆美命が祭神とされるようになったというのだ。
 私は、「にさ」が「にし」の誤りであったかどうかはともかく、志賀が当社の祭神を、鎮座地の千酌が、隠岐への船が出る交通の要衝であったことに関係づけて考えた点は鋭かったと思う。しかしその場合、月神の都久豆美命は、志賀の結論とは逆に、むしろ当社のそれにきわめてふさわしい祭神ではなかったろうか。というのも、古来、月神は交通との関わりが深いからである。

 『日本書紀』神代上 第五段の一書六には、「月読尊は、以て蒼海原の潮の八百重を治すべし」とあり、月読尊に海潮を支配する海神の神格があったことがみとめられる。
 古代人は潮の干満が月の引力によって引き起こされることを知っていたとも言われ、月神と海の結びつきは、こうした知識から生じたとされるが、いずれにせよ、海潮を支配する海神の神格から、海洋航海神としてのそれが派生してくるのは自然ななりゆきだったと思う(じっさい、松前健も指摘しているように、式内社で月神を祀る神社は、古代に海人族が活動していた地域に鎮座しているケースが多い。)。したがい隠岐へ渡る船の港があった千酌に、月神を祀る社が鎮座していたとしても不思議ではないのだ。爾佐神社のほんらいの祭神は、やはり都久豆美命ではなかったか(※)。







   



 ここで、爾佐神社のことからはいささか脱線するが、月神と交通についてもう少し書く。

樺井月神社
 月神と交通というと私はまず、京都府城陽市に鎮座する樺井月神社のことを思い出す。この神社は山城国綴喜郡の式内大社で、社名からも分かる通り月神を祀っている(『神社覈録』『大日本史神祇志』『特選神名牒』等の書物は、当社の祭神として「天月神命」や「月読尊」を考証している。いづれも月神だ。)。

 いっぽう、当社はかって木津川の川中にある「豊島」「外島」と呼ばれた洲の中に鎮座し、かってその付近には「樺井の渡し」と呼ばれる渡しがあった。志賀剛によればこの渡しは、樺井月神社の旧社地があった洲から東西に渡したというが、こうしたことから当社の神格には「渡しの神」としてのそれがあった。
 渡しの神としての当社の神格は、たまたま鎮座地近くに渡しがあったことから二次的に派生した感じもするが、いずれにせよ当社にこうした信仰があったということは、月神が交通と関わっていることの一例と言えよう。

 鹿児島の桜島に鎮座する月読神社(「隼人たちの月神信仰」の『2つの月読神社』参照)の境内にあった看板には、祭神の月読尊について「交通安全の神様、縁結の神様」とあった。
 この神社は桜島と鹿児島市を結ぶフェリーの発着所近くに鎮座しており、こうしたことも当社における月神信仰が、交通と関わっていることを感じさせる(もっとも、当社はもとより現在地で祀られていたのではなく、旧社地が桜島の噴火によって被災したため、今の場所へ遷座してきたらしいが。)。



 松前健の『日本神話の新研究』には、月神が乗り物に乗った姿で表象されている事例が紹介されている。例えば『万葉集』の月神(月人荘士)は、しばしば船に乗っている。


秋風の清き夕べに天の川船漕ぎ渡る月人荘士  (2043/2047)
天の海に月の船浮け桂楫かけて漕ぐ見ゆ月人荘士(2227/2223)
大船に真楫しじ貫き海原を漕ぎ出て渡る月人荘士(3633/3611)


 松前はこうした船に乗る月神のイメージを、漁労文化を担う海人族の間で行われた月を祀る信仰によって説明している。

 私は古代の月神信仰の震源地が、海人たちの文化にあったという松前の指摘を鋭いと思う。が、彼らはたんに漁労活動を行うだけではなく、上代における海上交通の主役でもあった。とすれば、船に乗った月神のイメージとは、航海民としての海人族が交通に関わっていたことからも説明がつくのではないか。

 ちなみに、こうした「乗り物に乗る月神」のイメージは、『万葉集』に限らず各地の伝承等にも残されている。


 伊勢内宮の別宮となっている月読宮の祭神は月読尊だが、『皇太神宮儀式帳』によれば「御形は馬に乗る男の形にして、紫の御衣を着し、金作の太刀これを佩びる」という、 ── 妙に具体的な描写なので、どうやらかっての当社にはそのような神像があったのかもしれない。とにかく月読宮の月読尊は乗馬姿であったのだ。

 長野県北佐久郡望月町望月に鎮座する大伴神社には、祭神の月読尊が「竜馬」に乗って海から千曲川を遡り鎮座したという古縁起がある。望月は有名な勅使牧である「望月の牧」があった場所で、上代に渡来系の技術者による馬の飼育が行われていた。この伝承も、こうしたことと関係がありそうだが、ここでは月神は単に乗り物に乗っていたというだけではなく、それに乗って川をさかのぼっている。

 これの類話が京都府にある。亀岡市大井町に鎮座する大井神社の伝承によれば、大宝二年に当社の祭神の月読尊と市杵嶋姫命が、亀の背に乗って大堰川を遡ってきたが、途中、流れがきつくなってきたので、鯉に乗り換えて鎮座したという。この伝承は、京都盆地の桂川流域にいた秦氏が、大堰川を遡って口丹波へと進出した事績とかんけいしているのかもしれないが、いずれにせよ、こうしてみると乗り物に乗った月神は、河川を遡上して内陸部を目指す習性があったらしい。月神を祀る神社には川辺に鎮座している例が多いが、これもこの習性と関係しているのか。

 いずれにせよ、こうしてみると月神には昔から何故か、乗り物に乗った姿で表象される傾向があった。これまた月神が交通と関わっていることを感じさせることがらの一つである。
月読宮



大伴神社
大井神社
 『延喜式神名帳』信濃国佐久郡に登載のある小社。祭神:月読尊・天忍日命。 『延喜式神名帳』丹波国桑田郡に登載のある小社。祭神:月読尊・市杵島姫命・木股命

 そういえば、昔、観た旅股ものの時代劇か何かで、夜明け前に宿を出立した旅人が、峠にさしかかると見事な月がまだ残っていたので、思わず足を留め、道中の安全を月に祈る場面があったような気がする。 ──

 実は私は、この他にも複数のテレビか映画で、道中の安全を月に祈るシーンを見た気がしてならないのだ。
 例えば、やはり時代劇だが、まだ中学生くらいの姉と弟が2人で旅をしていて、姉が月に向かって何かを祈っていると、横から弟がからかうというシーンは確かに見た覚えがあるのだが、今になって思うと、彼女が月に祈っていたのは、目的地に無事にたどり着けることではなかったか。こうした「昔、観たテレビや映画の記憶」はあてにならないものだが、それにしても時代劇で「道中の安全を月に祈るシーン」があったという記憶だけはやけにリアルなのである。

 八代集等に目を通すと、古来、月を詠った古歌は、なぜか近くに古代の駅があるとか(信州更級の姨捨山、遠州の小夜の中山など)、関があるとか(逢坂の関)、橋があるとか(瀬田の唐橋)、あるいは峠であるとかの場所で詠まれているケースが多い。これがたんなる気のせいではないとすれば、わが国では月が旅をテーマとした文学と密接に関わっていることになる。その場合、こうした関わりが生じたのも、上代に駅や関のような交通の結節点となる場所で、何か交通と関わるような月神信仰が行われていた名残であったかもしれない。 ── そうなってくると、時代劇に、「道中の安全を月に祈る場面が出てきた」という私の記憶も、たとえ記憶違いだったとしても、それなりの必然性があったことになる。

 「旅の文学と月」というキーワードが出たついでに言っておく。個人的な経験から言っても、月というものは普段、生活している場所で眺めるよりも、旅空の下で眺めた時の方が、一層、親密な気持ちを抱かせるところがある。旅の詩人であった西行や山頭火に、かなり多くの月を詠った歌があることなども、こうした印象を支持する。
 思うに、長く旅していると、絶えず未知の環境で過ごさなければならないため、孤独感や不安感が強くなるときがある。そしてそう言う時に月を観ると、月だけは故郷の空に昇っていたものと同じなので、つい懐かしさから心情をもらしてしまうようなことがあるのではないか。転勤があった時、新しい職場に知人がいると心強く感じられ、以前以上に親しくつきあうようになるのと同じ心理である。唐にいた阿倍仲麻呂が、「三笠の山に出でし月かも」と詠ったのもこれなのだ。

 むろん、太陽だって故郷の空と同じものが昇っているのだから、太陽に対しても旅人が同じ気持ちを抱いておかしくないが、実際には、旅空の下で懐かしく親密な気持ちを抱かせるのは月であって、太陽ではないと思う。これには、月にある庇護者的で母性的なイメージが関係しているのだろうか。

 とにかくこういった雑多なことがらも、月に交通神という神格を与える一契機になっているのかもしれない。



   



 話を爾佐神社に戻す。爾佐神社は、市町村合併に伴いもうすぐ廃校になると言う小学校のすぐ隣に鎮座していた。比較的最近、遷宮があったそうで、拝殿に使用されていた木材はまだ新しかった。境内は大きな樹木が少なく、ガランとした印象だが、『式内社調査報告』にある写真では、社殿の背後に立派な松の木が何本も写っている。これらは全てマツクイムシにやられたらしい。

 爾佐神社の社頭に立つと、千酌浦を挟んでほぼ正面に麻仁曽山が見える。
 社地はかなり海辺に近い場所にあり、今のように海岸と神社の間に道路や建物が無かった頃は、神社の周りに砂浜がひろがっていたろう。

 当社は東面しているので、千酌の月は爾佐神社の正面に昇ることになる。社殿を背にして東の方を眺めると、海の向こうの正面に、三角形のフォルムをした山が見えた。麻仁曽(まにそ)山である。境内の掃除をしていた方から聞いたところ、季節によって異なるものの、神社の境内から眺める月はだいたいこの山のある辺りから昇るそうだ。

 麻仁曽山は見事な円錐形をした山で、その秀麗なフォルムは島根半島の海沿いで随一だという。この山の麓には伊奈阿気神社という神社が鎮座している。式内社ではないが、『出雲国風土記』に名前が見られるため、相当な古社である。伊奈阿気神社は通称、「麻仁曽明神」とも呼ばれ、立地等からみて麻仁曽山は伊奈阿気神社の神体山と思われる。当社は海上守護の神社として、現在でも近海の漁師たちから厚い崇敬を受けている。



伊奈阿気神社
麻仁曽山
伊奈阿気神社(背後に麻仁曽山)

 【社 名】 いなあげ
 【所 在】 島根県八束郡美保関町大字稲積
 【祭 神】 天御中主尊・事代主命
 【例 祭】 10月18日
 創祀年代等の由緒は不明だが、『出雲国風土記』の「伊奈阿気社」である。

 かっては麻仁曽山の山上に祠があり、終戦までは漁民の間で、この山上にご神火を奉納して大漁を祈念する信仰が行われたという。海上守護の神社で、漁民からの崇敬が厚い。



伊奈頭美神社
【社 名】いなずみ
【所 在】
 島根県八束郡美保関町大字北浦稲倉山
【祭 神】
 宇加之魂命
【例 祭】 10月18日
【由 緒】
 『出雲国風土記』の伊奈須美社


 伊奈阿加神社と爾佐神社の間には伊奈津美神社という神社があり、これまた『出雲国風土記』に名前のある古社である。東から、伊奈阿加神社→伊奈津美神社→爾佐神社は、厳密にではないが、だいたい東西軸上に並び、しかも伊奈津美神社と爾佐神社は東面している。さらにこの軸を爾佐神社から西方に延長するとその背後にある山の山頂を通過することになる。この山の麓には十一面観音を本尊とする蓮花寺という臨済宗の寺院があるのだが、この寺院もだいたいこの軸線上に載ってきそうだ。奈良盆地のそれと同じく、出雲の神社も東西方向の祭祀軸を感じさせることがあるが、この場合は月の運行と関係があるのではないか、などと考えてしまう。

 境内で清掃をしていた人に、「月に関係するようなしきたりや、信仰がのこっていませんか。」と聞いてみたが、それは全くないとのことだった。







2006.04.23







 『延喜式』神名帳に爾佐神社は「一座」とあるので、当社の本来の祭神は都久豆美命一柱のみだったろう。現在、一緒に祀られている伊弉諾命と伊邪冊命は本来の祭神ではないと思う



主な参考文献

『出雲国風土記』 小学館日本古典文学全集 植垣節也校注・訳

 
『神国島根』 島根県神社庁編

『美保関町誌』

『式内社調査報告』第二十巻から
 「爾佐神社」の項
原宏 皇學館大學出版部

『式内社の研究』4から
 「爾佐神社」の項
志賀剛 雄山閣

『月と水』 松前健
 
『日本書紀』 坂本太郎・家永三郎・
井上光貞・大野晋校注
岩波文庫










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