モグベエにさようなら−2
翌朝、マーくんはいつもより早起きしました。幼稚園が夏休みになってからはちょっと
朝寝坊になっていたのですが、この日はモグベエのことが気になっていたのです。おじい
ちゃんはいつも早起きで、毎朝庭木や盆栽に水をあげています。マーくんは庭に出ておじ
いちゃんの所へ行きました。
「おや、今日は早起きだね」
おじいちゃんは素早くマーくんの姿を見付け、先に声をかけてきました。
「モグベエのことが気になるのかい?」
おじいちゃんには、マーくんの心の中がすぐに分かりました。朝寝坊したときでも眠そ
うな顔をしているマーくんが、早起きしたと言うのに元気一杯だったからです。
「モグベエ、もう起きてるかなあ」
マーくんは、早くモグベエに会いたくて仕方ないのです。
「それは分からないなあ。何しろ人間とモグラとでは、一日の長さが違うからね」
おじいちゃんは、昔読んだモグラの本のことを思い出したのですが、マーくんにはどう
いうことなのかさっぱり分かりません。
「モグラの一日はね、人間の一日よりずっと短いんだ。だから人闇の生活のリズムとは全
然違うんだよ」
おじいちゃんは自分では分かっているのですが、マーくんにも分かるように説明するの
は、なかなか難しいようです。
「じゃあ、モグベエはまだ寝ているの」
「そうとも限らないけどね。ほら、猫だって昼間寝ていることもあるし、マーくんが眠っ
ている夜に起きていることもあるだろ」
おじいちゃんは何とかマーくんに分からせようと、一所懸命です。
「それにね、もしモグベエが起きていたとしても、多分会うことは出来ないと思うよ」
「えっ、どうしてえ」
マーくんはびっくりしてたずねました。
「今歩いて行ってもね、モグベエにはそれがマーくんだとは分からないと思うんだ」
「じゃあモグベエには会えないの」
マーくんは心配になってきました。
「いや大丈夫。いつもと同じように行けば良いのさ。マーくんの足音や猫車の音を、モグ
ベエは知っているはずだからね」
「ふーん、夕方になれば会えるんだね」
「約束は出来ないけどね。ほら、今日も暑くなりそうだから、水を持って行けばきっとモ
グベエは出てくると思うよ」
マーくんは少しばかり安心しました。たとえ遅くなったとしても、モグベエに会える可
能性はあるのですから。
「朝ご飯出来たわよおー」
お母さんの声です。マーくんは今すぐ畑に行くことはあきらめ、おじいちゃんと一緒に
家の中へ入って行きました。
マーくんは朝ご飯を食べながら、お母さんにモグベエの話をしました。昨日の夕ご飯の
ときも同じ話をしたのですが、お母さんは今日もにこにこしながら聞いています。マーく
んがとってもうれしそうに話すので、お母さんは同じ話を聞かされても楽しいのです。
「ねえねえ、お母さんもモグベエに会えると思うでしょ」
マーくんはお母さんの顔をじっと見ながら言いました。もしモグベエが来なかったらど
うしよう、と思っていたので、お母さんにもはげましてもらいたかったのです。
「そうねえ、きっと会えるわよ。モグベエとお友達になれると良いわねえ」
お母さんは昨日この話を聞いたとき、マーくんがまたモグラに会えるだろうとは思いま
せんでした。でも、あまりにもマーくんが真剣に話すので、もしかしたら会えるかもしれ
ないと思うようになっていたのです。
「さっちゃんたちにも教えようかな」
さっちゃんは幼稚園の友達で、大の仲良しです。
「いや、やめたほうがいいよ」
なぜかおじいちゃんは、マーくんの考えに反対のようです。
「えっ、どうして?」
おじいちゃんの意外な言葉に、マーくんはおどろいて聞き返しました。
「あのね、知らない人が行くと、モグベエは警戒して出て来ないかもしれないよ」
おじいちゃんはマーくんを見ながら、静かに話しました。
「だからね、マーくんがもっとモグベエと仲良しになって、毎日会えるようになることが
事なんだ。そうなれば知らない人が一緒にいても、モグベエは出てきてくれるさ」
おじいちゃんも、モグラについて特別詳しく知っている訳ではありません。でも他の動
物の習性から、モグラも知らない人間は警戒するに違い無いと思ったのです。マーくんは
最初はがっかりしましたが、おじいちゃんの説明を聞いて気を取り直しました。
「その方が良いわね。さっちゃんを呼んでおいてモグベエが出て来なかったら、マーくん
はうそつきになっちゃうものね」
お母さんも、おじいちゃんの意見に賛成のようです。マーくんも、やっぱりおじいちゃ
んの言う通りだなあ、と思いました。
「さあ、ご飯食べちゃってね」
マーくんのお父さんは、マーくんが生まれて間もなく交通事故で死んでしまいました。
そしてそのときから、お母さんは町の工場で働くようになりました。お母さんは朝ご飯の
後片付けをしてから工場へ行くので、あまりのんびりも出来ないのです。
マーくんは近所にはお友達がいないため、たいていは本を読んでいます。おじいちゃん
は庭木と盆栽の手入れをして、それが終わるとパソコンの前に座るのが毎日の日課です。
パソコンなら自分一人で出来るし、老化防止にもなると考えて始めたのですが、今では自
分でプログラムを組めるようにもなりました。
もちろんゲームソフトを買ってきて、マーくんと一緒に遊ぶこともあります。農作業で
きたえたおじいちゃんの体は丈夫なようですが、やはり年と共に少しずつおとろえている
ようでした。それでもクーラーはきらいだからと言って、どんなに暑い夏でも扇風機だけ
で過ごします。マーくんはクーラーが欲しかったのですが、今日は自分のことよりモグベ
エのことが心配でした。
「モグベエのおうちも暑いのかなあ」
おじいちゃんはちらっとマーくんを見て、安心させるように答えました。
「心配することは無いさ。土の中ではそれほど温度が変化しないからね」
「涼しいの?」
「ああ、深い穴の中は涼しいのさ。昔は井戸の中でスイカを冷やしてたんだよ」
「ふーん」
マーくんは安心したので、また本の続きを読み始めました。
じりじりと照りつけていた太陽も西に傾き、待ちに待った畑へ行く時間になりました。
おじいちゃんはいつものようにポリタンクに水を入れていますが、マーくんはおじいちゃ
んを待ち切れずに、自分のじょうろを持って先に畑に向かいました。
畑に着くと、マーくんはじょうろを持ったまま、モグベエと別れた所へ行きました。畑
の土はいつものようにからからに乾いており、トンネルの出口は見えません。
「モグベエ、来ないのかなあ」
マーくんは不安になりました。
「すぐには出て来ないさ。だって、まだ一度会っただけだからね」
後から来たおじいちゃんはそう言いながら、ポリタンクを猫車から降ろし、じょうろに
水を入れ始めました。
「さあ、モグベエが出やすいように、水をまいておこう」
おじいちゃんは昨日と同じように、モグベエが出てくると思われる所に水をまき始めま
した。そして最後に一枚の皿を置き、残った水をその中に入れました。モグベエが出てき
たとき、水を飲みやすくするためです。
「これで良しっと。後はモグベエが出てくるのを待つだけだ」
「出てくると思う?」
マーくんはまだ心配なようです。
「ああ、大丈夫さ。いつもと同じようにやっていれば絶対出てくるさ」
本当のことを言えば、おじいちゃんにもモグベエが出てくる確信はありませんでした。
でも、今日も暑い一日だったので、モグベエは絶対に水を欲しがっているに違いない、と
思って水をまいておいたのです。
二人は猫車の所へ戻り、じょうろに水を入れて野菜に水をあげ始めました。マーくんは
いつものようにスイカから始めましたが、モグベエが出てこないか気にしながらやってい
るので、一向にはかどりません。おじいちゃんはどんどん仕事を進め、三個のポリタンク
はたちまち空っぽになりました。
おじいちゃんがポリタンクを空っぽにしたとき、マーくんはまだトマトに水をあげてい
ました。いつもならトマトを終えてキュウリに移っているのですが、今日は野菜よりもモ
グベエの方が大事なのです。
「モグベエ、どうしたのかなあ」
マーくんは心配で仕方ありません。おじいちゃんもモグベエがなかなか出てこないので、
だんだん心配になってきました。
「そうやって見てばかりいると、モグベエも恥ずかしいのかもしれないぞ」
おじいちゃんはそう言ってマーくんを畑の端に呼び寄せ、水を入れるために家に帰りま
した。マーくんのいる所はモグベエの出口から遠くなりましたが、それでもモグベエが出
てくれば簡単に見つけられる場所です。
『どうしたのかなあ』
もう心配でたまらないマーくんは、心の中で念じました。
『出てこい、出てこい・・・モグベエ出てこい』
マーくんがいくら念じても、モグベエが出てくる気配はありません。それでもあきらめ
ずに、マーくんは更に強く念じました。どうしてもモグベエに会いたいのです。
『出てこい、出てこい・・・早く出てこい』
何も変化はありません。それでもマーくんはあきらめません。
『出てこい、出てこい・・・』
マーくんはもう泣き出しそうな顔になっていました。でもそのときです。水の入った皿
の向こうの地面がもこもこっと盛り上がり、土の中から何かが出てきました。
『モグベエだ!』
それがモグラかどうかは確認出来ませんが、マーくんの頭にはモグベエのことしかあり
ません。夢中で走って行こうとすると、後ろからおじいちゃんの声が聞こえました。
「こらこら、静かに近付かないと逃げてしまうぞ」
マーくんはモグベエに神経を集中していたので、おじいちゃんには全然気が付きません
でした。マーくんはおじいちゃんの声におどろいて、後ろを振り向いて言いました。
「あっ、うん。でも、絶対あれはモグベエだよね」
「ああ、モグベエに間違いないよ。やっぱり水が欲しかったんだな」
おじいちゃんが言うように、地上に出てきたモグベエは水を入れた皿の所へ行き、水を
飲み始めたのです。
「近くに行っても大丈夫?」
マーくんは念のため、おじいちゃんに確認しました。
「ああ、静かに行けば大丈夫だよ」
マーくんは空っぽになったじょうろをもったまま、静かに歩き姶めました。モグベエに
夢中になっているマーくんは、野菜に水をあげることはすっかり忘れていました。でもお
じいちゃんは全然気にする様子もなく、一人で仕事を始めました。
マーくんがモグベエの所まで行くと、モグベエは鼻をマーくんの方に向け、あいさつで
もするかのようにピクピクさせました。
「モグベエ、元気だったかい」
マーくんは昨日と同じようにモグベエを手の平に乗せ、目の高さまで持ち上げて話しか
けました。モグベエは暴れることも無く、マーくんに何か話しかけるかのように鼻を動か
しています。
「ねえおじいちゃん、モグベエは何て言ってるのかなあ」
マーくんはモグベエの言葉が分からないので、おじいちゃんにたずねました。
「うーん、わしにも分からんなあ」
おじいちゃんは仕事の手を休め、マーくんを見ながら答えました。いくら物知りでも、
モグラの言葉までは分かりません。
「でもね」
おじいちゃんはちょっと首をひねり、また話しだしました。
「モグベエはね、マーくんにお礼を言っているのだと思うよ」
にっこり笑ったマーくんは、モグベエの頭をなでながら言いました。
「お礼なんかいいんだよ、だってぼくたちは友達なんだから」
それでもモグベエは鼻を動かしています。マーくんと会えたことが、よほどうれしかっ
たのに違いありません。
「仕事はおじいちゃんが一人でやるから、マーくんはモグベエと遊んでていいよ」
「うん、ありがとう」
マーくんのうれしそうな顔を見て、おじいちゃんはほっとしました。もしモグベエが出
てこなかったらどうしようかと、おじいちゃんはマーくん以上に心配していたのです。
やがておじいちゃんの仕事も終わり、モグベエと遊んでいたマーくんは、モグベエを出
て来た穴の近くに降ろしました。
「さあお帰り、また明日ね」
モグベエは『マーくん、さようなら』とでも言うかのように鼻を動かし、出て来た穴の
中へ入って行きました。マーくんとおじいちゃんは、モグベエが無事に帰ったことを見届
けてから、猫車を押して家に向かいました。
マーくんは帰りながら、早く夕ご飯にならないかなあ、と患っていました。今日は週に
一度の『カレーの日』だったこともありますが、モグベエに会えたことを早くお母さんに
話したくて仕方なかったのです。